第1話 境界線

エピソード文字数 1,940文字

 ツツジの隣に紫陽花が咲いていた。なんとなく湿気を含んだ空気に、ああ梅雨がやってくるのかと紫陽花の前で立ち止まる。ツツジはまだまだ綺麗な濃いピンク色をしていて、花も綺麗に咲いているから、紫陽花が隣で水色を広げている様は、そこに縦一本の境界線を引かれてでもいるみたいだった。
 ここから左が五月で、ここから右が六月だからね。誰かがそう念を押してでもいるみたいに、境目は綺麗に割れていた。

 地平線と水平線が同時に見える小さな町に住んでいた。都会では絶対にありえない風景だと気がついたのは、東京に出てきて何年も過ぎてからだった。周囲から聞こえてくる自然についてのあれやこれやは、私の耳を常に素通りしていたからだ。
 自然の空気は美味しいだとか。空が澄んでいて高いだとか。たくさんの星空は、降って来そうなほどだとか。海の水が透き通っているだとか。聞こえてくる全てが当たり前すぎる日常だったから、気に留めることもなかった。
 そもそも、本屋もコンビニもバスで三十分以上も揺られなければ無いようなところから東京へ出てきているのだから、田舎にない情報を吸収するだけで精一杯だったのかもしれない。
 傍から聞こえてくる羨むような田舎あるあるには、これっぽっちの興味もなければ、自慢できることだとも思っていなかった。
 寧ろ、電車の乗り方やパンケーキやポップコーンやタピオカの種類。カフェのコーヒーや流行のファッション。ラーメン屋の多さに夢の国の煌びやかさ。そんなものにだけ、目も耳も心も反応していた。
 毎日はただ目まぐるしいほどに忙しく、いろんなことに気がつかないまま通り過ぎていった。
 高校まで通っていた田舎の校舎は、土地に余裕があるため敷地はとても広かった。今は、使われていない教室がいくつもあるけれど。多分、私が生まれるずっと前は少子化なんて言葉などなくて、教室が余るなんてことはなかっただろう。今では空っぽの教室が、有意義に使われることもなくいくつも存在している。
 運動場も広く、一周三百メートルのトラックがあるグラウンドの他に、野球やサッカーのできる運動場もあった。入学当初。ううん。兄が高校に通った頃からその状況はすでに目の前に当然のようにあったから、それが普通のことなんだと疑いもしなかった。
 東京に来て、初めて運動場の狭さを知り。自分が生まれ育った場所が、どれほど恵まれていたかを知ったけれど、それもその時だけのことで。日々過ぎていく忙しい毎日の中では、関わり合いのない学校という括りの、更に運動場のことなど、すぐに頭の中から消え去ってしまった。
 田舎には余るほどの土地はあるけれど、就職には困ることだらけだった。農家や牧場、自営の子供はそのまま家業を継ぎ。それ以外は、役場や農協というお決まりのパターンしかない。勉強のできる人は、札幌などの大きな街に出て大学へ行く人もいるけれど、それは本当にごく一部のことだった。
 兄も札幌とまではいかないけれど、少し行った先のそこそこ大きな町役場に努めている。私よりも格段に勉強もスポーツも優れている兄さえ札幌に出ない。私の住んでいた田舎は、そういう場所だった。だから、何の変哲ない極々普通の成績の私が東京へ出ると言い出した時は、みんながみんな何を血迷ったのかと思ったみたいだ。
 私は幼い頃から、全てにおいて兄に敵うものはなかった。勉強も運動も、絵の才能もだ。兄妹喧嘩はよくしたけれど、今思えば随分と可愛がってもらってきたし、兄のことを心底嫌いだなんて思ったことなどない。それでも、比べられることがどうしてもいやで、何かにつけて兄の方が勝っていることが悔しくてならなかった。私が兄に勝てるのは、奥底に抱える負けず嫌いな性格だけかもしれない。
 家族にどんなに反対されても、私は東京という大きな街に出て、兄よりも成功することを糧にしてきた。そのくせ、東京の大学に合格しても、兄に勝ったとは思えなかった。大学では人に馴染むのも遅く、ド田舎出身という自分を卑下し過ぎて、内に内に籠ってばかりいた。私みたいな田舎者など、きっと山ほどいただろうけれど。みんなは私なんかよりもずっとずっと、この都会という場所に起こる波をうまく乗り越えて生きていたのだろう。
 それでも、漸くできた同じように田舎から出てきたという友達とは、頑張っていこうとよく話していた。田舎のどうしようもない交通事情に苦笑いを浮かべ。都会の新しいカフェに目を輝かせていた。
 そんな彼女は、大学二年の春に田舎へ帰ってしまった。都会は肌に合わなかったと、泣きそうな顔をしてさよならを告げられた時、大きく真っ暗な部屋の中に一人取り残された気がして、私は途方にくれた。

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