第26話 休憩にならない

文字数 4,954文字

 誕生日で幸せだったあの時間が嘘のように、週が明けるといつもの日常がやって来た。
 会社の前をお掃除している社長は相変わらずで、穏やかな表情はいつも通りだ。残暑とはいえ朝の空気が少しだけ落ち着いてきているせいか、吐く息も少し和らいでいるように見える。ショールームを綺麗にしている佐藤さんも変わらずで、元気に出勤してきた吉川さんも変わらず。
 そうして、目の前のデスクにいる専務も、相変わらずなのだ。
 あんな高級グラスをプレゼントしてくれたから、少しくらいは距離が縮まるかと思ったけれど、そんな雰囲気は、眉間によるシワを見れば今朝も無理そうだ。
 吉川さんは、どうやって専務とあんなにフランクに話せるようになったのだろう。やっぱり、長く勤めているからなせる技なのか。それとも、吉川さんの性格が明るく、誰とも屈託なく話し、溶け込みやすいからなのか。私の場合、最初が最初だからね。
 もっとサクサク話しかけて、仕事についてたくさん教えてもらいたいけれど、そんな風になるにはしばらく時間がかかりそうだ。
 午前中の仕事を終えると、いつものように吉川さんとランチに向かった。
「今日は、別のところに行ってみない?」
 先を歩く吉川さんの後についていくと、会社の裏手にタイ料理のお店があった。辛い物が平気かと訊ねられて頷いた。本当は、あまり辛すぎるとお酒が欲しくなるのだけれど、就業時間中に何を言ってるのかと笑われてしまうだろう。
 店内に入ると女性に人気なのか、男性客の姿はほぼなかった。
「何にする?」
 訊ねる吉川さんは、壁にかかる黒板にチョークで書かれたランチメニューを見上げている。同じように視線を向けて、ナシゴレンのセットに決めた。吉川さんは、ガパオライスだ。
 料理がテーブルにやって来ると、二人で何度も「辛いけど、美味しい」を繰り返しながら完食した。
 食後のアイスコーヒーのストローを、綺麗にお手入れされた吉川さんの指先が摘まんでいる。吉川さんは、とてもフランクで専務とも対等に渡り歩くくらい男前な性格だけれど、女性としてのおしゃれは怠らない。ゴテゴテと着飾っているわけではないけれど、今日のように、綺麗にお手入れされている爪や、形よくブローされたヘアスタイル、片耳に髪の毛をかけた時にチラリと見えるピアスはいつも違っている。細かいところに、しっかりと気を配っている。その点、伸びてきた爪を切るくらいしかしない私の方がよっぽど男っぽいだろう。
「週末、誕生日だったんでしょう。幾つになったの?」
「二十三歳になりました」
 同じようにストローへ指を伸ばして応えると、吉川さんがとても驚き目を丸くした。
「若っ! いいなぁ。私なんて、今年二十九歳になったからね。来年三十よ、三十」
 右手の指を三つ立てて、三十を強調している。
「若いですね。吉川さんて、ずっと二十五歳くらいだと思ってました」
 初めて会った時からそう思っていたから、素直に応えた。
「水野さん。あなたいい子だね~」
 お世辞でも嬉しいよと、頭を撫でられた。年上なのに、いつもフランクに付き合ってくれて、なんてありがたいことか。
「そろそろ、相手見つけないとな~って年ですよ、私は」
 吉川さんは背もたれにトンッと寄りかかり、息を零している。
「ご両親に何か言われてるんですか?」
「うーん。言われてはいないけど、なんていうの。実家に顔を出すたびに、そういうのはひしひしと伝わってくるわけよ。私も、孫の顔を見せたいなとは思うけど、今の会社好きだし。仕事続けてもいいって人見つけるのも、なかなか大変でね」
 溜息交じりに、グラスの中のコーヒーをストローで優しくかき混ぜている。
「実は、この前も合コンに行ってきたの。意外とさ、結婚したら家を守ってもらいたいって人が多くて驚いちゃった。そうじゃない人は、収入がね。共働きじゃないとやってけない感じ。じゃあ、子供ができて、私が働けなくなったらどうすんのよ。みたいなね」
 贅沢なのかなぁ。とコーヒーに向かって呟いている。かなり切実な問題なのだろう。
「水野さんの彼は、どんな感じ? 結婚に向いてるタイプ」
 訊かれて、そんなこと考えたことないや、と貴哉の姿を思い出した。
 週末にちらっと“結婚”のワードが頭を過ぎったけれど、むいてる、むいてないなんて、考えたこともなかった。
「若いから、まだ結婚なんて考えもしないか~。大学卒業したばっかだもんね。あ、そろそろ時間だね。行こっか」
 伝票を持って立ち上がる吉川さんの後についていくと、レジの前で掌を向けられた。
「今日は、誕生日のお祝い。ランチ奢らせて」
 笑顔と共に、粋な計らいをされた。
「ありがとうございます。ごちそうさまでした」
 自分もこんな風に気遣いのできる人になりたいなと、吉川さんに感謝をして小さく頭を下げた。

 日々の業務は、目新しいことも少しずつ減って、任された仕事に向き合う時間が増えていた。倉庫にある在庫の確認や、搬入先のお店の状況。この流れの中でも確認事項は多々あって、それらを何段階かでチェックしていく。
 最終チェックは上に任せるけれど、その段階ですぐにオーケーをもらえる手配が出来るよう細心の注意を払う。
「眉間にシワ」
「え?」
 パソコンの画面を見ていたら、隣の吉川さんが和やかに話しかけてきた。
「あんまり、根つめないでね。といっても、ミスは困るけど」
 矛盾してるよね、と苦笑い。
「息抜きしてる? お昼休憩以外でも、少し外の空気を吸ったり。ほら、コーヒーもタダだしね」
 吉川さんがマイカップのキティーを持ち上げて、あえてひと口飲んで見せる。
「水野さんて、生真面目なところがあるから、意識して息抜きしたほうがいいかもよ。他の人たちなんて、タバコ吸うのもあるけど、わりと席外して息抜きしてるんだから。あ、私は吸わないから、コーヒーね」
 言われて周囲を見回してみたら、確かにその通りだった。喫煙ルームで楽しげに会話をしている営業の人たちや。飲み物片手に、コーヒーメーカーが設置されている休憩室のテーブルで、会話をしている女性社員の姿が目に付いた。
 仕事を覚えるのに必死で、気がつかなかったな。こういうのって、ある意味周囲の状況把握に乏しいってことだよね。仕事にも影響しそう。
 サボるんじゃなくて息抜きで、それでいて周囲をよく観察したほうがいいのかも。
 コーヒーを入れに行ったついでに、自分の知らないお仕事の話も聞けるかもしれないよね。よしっ。
「コーヒー。入れてきます」
 すっくと立ち上がると、コーヒーに気合入れすぎ。と吉川さんが笑った。
 実は、家からマイカップを持ってきて、初めの頃に自席の抽斗に忍ばせていた。ただ、日々はめまぐるしく、今までマイカップの存在を忘れていた。
 初めてのお使いならぬ、初めての休憩室へ向かう。マイカップを握りしめ、少しばかり緊張しつつ中に入ると、二、三人の社員が私に気がつきニコリと笑みをくれた事でほっとした。握りしめたマイカップが、まるで護符か何かのようにしっかりと胸に抱き、コーヒーメーカーに描かれた「コーヒーの淹れ方」なるものを読んだ。淹れ方は簡単だ。カップを所定の場所にセットし、並ぶメニューのボタンを押すだけだ。味は、コーヒーの他にも抹茶ラテや苺ミルク、ココアにバナナオレなんていうのもあって、コーヒーを飲みに来たはずなのについ指が迷ってしまう。
 日替わりで一つずつ飲んでみようかな。今日は……。
 ボタンを人差し指で探るようにしながら、初めはカフェラテがいいか、抹茶ラテがいいかと迷っていた。
「決まったか?」
 いつの間に来ていたのか、専務が背後から声をかけ手元を覘き込んでいて驚いた。
「あ、はいっ。コーヒーです、ラテです」
 慌ててホットのラテを押すと、ブーンという機械音を立ててコーヒーが抽出され、ミルクも注がれ始めた。
 休憩室には、さっきまでいた社員もいなくなっていて、今は専務と二人だけだ。おかげで、ラテが出来上がるまでのわずかな時間がとても気まずい。専務が少しでも笑ってくれれば、話しやすくなるんだけどな。
「専務も、コーヒーですか」
 躊躇いながら話しかけてから、両手にカップも何も持っていないことに気がついた。タバコを吸いに行くのかもしれない。
「俺は、バナナオレだ」
「そうですか。え? バナナオ……えっ!?」
 あまりに似合わなすぎて、専務の顔を凝視してしまった。
「冗談だ」
 私の驚きや動揺に構いもせず、冷静に返されてしまった。
 そうだよね。専務がバナナオレって。ないよ。無さすぎる。いや、うん。少し見てみたい気もする。美味しそうにバナナオレを飲む専務の顔を。
「想像するな」
 妄想は、バレバレだった。
「すみません……」
 委縮しながら小さく頭を下げて謝ってから、専務って冗談も言うんだなと新鮮な気持ちになった。専務の冗談が珍しすぎて、新種の動物でも見るようにしていたら、とうに出来上がっていたラテの入るカップを私に手渡してくれた。
「ありがとうございます」
 カップを渡した専務は、胸元からタバコを取り出した。私は、マイカップ片手に少しだけ息抜きしてから席に戻ろうと、休憩室の椅子に腰掛けると専務も隣の椅子に座った。
「え」
 思わず漏れた声に、ダメなのか? というように専務が眉根を寄せる。
 ダメではないですが、タバコなんじゃないの? とはさすがに言えない。休憩するのに、指図なんかされたくないだろう。
 専務の存在を気にしつつ、熱々のラテに息を吹きかけながら一口含む。思っていたよりも、美味しい。もっと、インスタントの風味が強く出ているのかと思ったけれど、豆からちゃんと挽いているみたいだ。ラテを味わっていると、タバコの箱を弄ぶようにしながら専務が口を開いた。
「グラス、使ってるか?」
 グラスというのは、もちろんあのプレゼントしてもらった高級ワイングラスのことだ。
「はい。誕生日の時に、少し奮発してワインを買って飲みました」
 共通の話題になり、意気揚々と応えると専務の目尻が少し和らいだ。
「社割で買ったか?」
 社割と言われて、何のことだろうと首をかしげる。
「うちの社員は、割引で買えるからな。佐藤さんに言えば、やってくれる。まさか、販売額のまま買ってないよな?」
「あ、いえ。実は、……家の近所で買いまして」
 細かく言えば、近所の酒屋で一度買って納得いかずに、少し先のワイン専門店で買い直したんですけどね。
 肩を竦めていると、専務の顔がわずかに歪んだ。
「水野、うちで買わなかったのか」
 訊ねられて、はたと気がつく。
 こういうのを「墓穴を掘る」というのでしょう。ワインショップで、専務に話したら怒られそうだと思っていたのに、自らバラしてどうすんのよ。
「あ、いや。えっと、はい……、すみません」
 背中を丸めて謝ると、息をつかれてしまう。また、呆れられてしまった。
「いくらの買ったんだ?」
 息をついた後は、弄んでいたタバコの箱から一本取り出し、テーブルをトントンと叩いた。
 イラついてる?
 休憩に来たのに、怖くて緊張して、それどころではない。
 訊ねられて素直に値段を言うと、ニート上がりなんだろう。何やってんだよ。とやっぱり呆れた言葉をかけられた。
 肩を竦めて縮こまっているところへ、吉川さんがやって来た。
「専務、国際電話です」
「すぐ行く」
 声をかけられ、出したタバコを箱に戻した専務が立ち上がった。
「佐藤さんに言いにくいなら俺に言え。水野の好みに合いそうなやつ、選んでやるから」
 ポンと頭に手を置き、専務が席へと戻っていく。
 佐藤さんに言いにくいというよりも、専務に言いにくいのよね。
「それにしても、怒られて、呆れられてるんじゃなかったんだ」
 専務が優しく手を置いた頭に触れ、冷め始めたラテの表面を眺めると、ミルクがわずかにマーブル模様を描いていた。専務が怖いのか優しいのかまだよく解らなくて、マーブル模様みたいに頭の中はグルグルしていた。
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