第35話 逃げる

文字数 4,252文字

 貴哉からの連絡がないまま、寂しいだけのクリスマスが終わった。結局、もらったバッグはショッピングバッグへ収まったままで、使うなんて気にもならなかった。
「おはようございます」
 いつも通り、寒さに負けずに会社前のお掃除をしている社長に挨拶をして、ショールームから中へ入る。佐藤さんは、今日もお掃除やディスプレイに余念がない。
「おはようございます」
「おはよう」
 事務所に入れば吉川さんもいて、当然専務も居る。いつもと変わらず椅子に座り、すでに眉間にしわを寄せてパソコン画面と睨み合っていた。その表情を一瞥してから席に着いた。
「おはようございます」
「おはよ、水野ちゃん」
 いつにもまして、吉川さんは弾むような挨拶と笑顔をくれた。今日は、とてもご機嫌のようだ。何かいいことでもあったのだろうか。
 さり気なく観察していたら、首元に見たことのないネックレスをしていた。
「それ」
 指をさすと、得意げな顔をする。
「ふふふっ。流石ね、水野ちゃん。お目が高い」
 何処かの訪問販売員みたいな切口上で、吉川さんが、話したいのよ、ウズウズ。というように私の方へくるりと椅子の向きを変えた。
「もしかして、合コンがうまくいったんですか?」
 朝からあまり声を張るのも憚られて、コソコソと吉川さんに訊ねた。すると、にんまり笑顔とVサインが返ってきた。
「いいなー、って思ってた相手から、連絡が来てね。一緒に初詣に行くことになったの」
 吉川さんは嬉しそうに、けれど静かにはしゃいでいる。
「これは、自分へのご褒美。幸せに向かうための、糧みたいなものね」
 首元のネックレスに触れ、鼻歌交じりの吉川さんは、ふと私のことを真顔で見た。
「水野ちゃんは、今日はしてないのね」
 鋭い吉川さんが、首元に視線を寄越した。
 誕生日に貴哉から貰ったネックレスは、ずっと肌身離さず首元を飾っていた。けれど、今朝に至っては、それをする気分にはとてもなれず、貰ったネックレスはケースの中に戻していた。
「もしかして、喧嘩……?」
 気を遣って、優しく訊ねる吉川さんに苦笑いで頷いた。
「えっ、やだっ、もうっ。クリスマスに喧嘩なんて。水野ちゃん、ダメだよ。直ぐに連絡して仲直りしなくちゃ。なんなら私が何か手伝おっか?」
 色々と気を使い心配してくれるのはありがたいけれど。
「いいんです。もう、いいんです」
 その声が、さっきまでより大きくなる。
 声のボリュームが上がったのは、知らず浅はかな計算が混じっていたのかもしれない。彼とうまくいかないままだと話す声を、専務に聞いて欲しいという計算……。
 声を大きくして専務の様子を窺ってみても態度は相変わらずで、パソコンから視線さえ外さない様子に気落ちしてしまった。又、空回りだ。
「すみません。仕事、しますね」
 笑顔でパソコンのスイッチを入れると、吉川さんが少しの間心配そうに見ていた。

 今日を入れ、あと二日仕事をすれば冬季休暇に入る。休み明けは、五日からの出社だ。
 田舎には、三十日の早朝に立ち、三日の午後に帰る予定だ。五日間も実家にいることができるのは、専務のおかげだ。チケットさえ手に入らない状況だったのに、まさか帰ることができるなんて、思いもしなかったのだから。
 これは上司として、気を遣ってくれただけのことだよね。専務の態度を見れば、そう捉えるのが妥当なのだろう。何の感情もない相手の動向に振り回されているなんて、どうかしている。
 そうだ。チケット代、やっぱり払おう。次のお給料から天引きしてもらおうかな。
 もらう理由、ないもんね……。
 年内最終の仕事を終えると、みんなで普段掃除しないようなところを綺麗にしたあと、会議室で忘年会のような打ち上げが行われた。
 ワインを貯蔵庫から降ろしてきて、グラスを用意する。普通なら紙コップで済ますようなことでも、この会社はワインを仕入れているというプライドもあってか、しっかりとチューリップグラスが用意された。おつまみになるオードブルは、近くにあるご贔屓の “ワインとチーズ”という名のお店から届けられた。佐藤さんが手配をしていたらしい。
 チーズというのが店名に入っているだけあって、見ただけだと名前のわからない種類のものが幾つも目に付いた。それから、お肉にエスカルゴ、なんてものまであって驚きだった。スライスされたバケットもある。結構手の込んだものばかりで、美味しいもの好きの目が輝いた。
「みなさん、今年も一年お疲れ様でした。来年もどうぞよろしくお願いします。乾杯」
 社長の穏やかな乾杯に包まれて、みんながグラスを持ち上げワインを口にすれば、会議室はあっという間に賑やかな会場となった。
「吉川さん。テリーヌまでありますよ」
 料理の鮮やかさに興奮しながら話しかけたら、近くにいたのは吉川さんではなく専務だった。思わず息を飲む。
「あれ……、せ、専務。えっと、吉川さんは……」
 言いながら視線を彷徨わせたら、気がつかないうちに少し離れた場所にいる佐藤さんにネックレスを見せている姿が確認できた。佐藤さんへも嬉しそうな顔を向けているから、合コン相手と初詣へ行く話をしているのだろう。
 視線を元に戻せば、専務は相変わらずすぐそばに立っていて、私の心臓は無闇に速くなる。
「テリーヌ、美味しそうですよね」
 わざとらしいほどに平気な振りを装って、テリーヌへ手を伸ばそうとしたら、専務が私の手にあるお皿へ取ってくれた。
「ありがとうございます……」
 うまく顔を見られないし、会話もできそうになくて、小さくお辞儀をしただけで、そそくさとそばを離れた。専務は何か言うでもなく、片手にワイングラスを持ったまま、つい振り返ってしまった私を見ていて息が止まった。
 もうっ、テリーヌどころじゃないよ。黙ってばかりいないで、何か言ってくれたらいいのに。その後、散々飲んで食べて、普段話をしないような営業の人ともたくさん会話をした。専務には敢えて近づかないよう、距離を取っていた。
 そうして、吉川さんがいいように酔っ払ってはしゃぎ始めた頃、宴もたけなわでと会はお開きとなった。
 佐藤さんと一緒に給湯室でグラスを洗って片付けてから、良いお年をとみんなに挨拶をして会社をあとにする。
 吉川さんではないけれど、実は私も結構酔いが回っていた。少しふらつく足元を見ながら、何故だか笑みが漏れるのだから間違いない。
 ワインの種類が豊富だったから、あれもこれもと飲んでみたのがこの結果だ。チーズも色々と試すことができたから、余計にワインも進んでしまった。意味もなく楽しくて、フフッなんて笑いを漏らして駅に向かって歩いていたら、少し離れた距離から名前を呼ばれた。
 振り返ってみると、少し先に専務が立っているように見えた。
 目を瞬かせ、専務らしき人をもう一度ジーッと観察する。
 なんでこんなところに? ジュニアな専務が、タクシーにも乗らず歩いてくるわけがない。
 アルコールに浸った脳内は、こんなところにいるはずのない人物に対して首を捻っている。
 幻覚とか、ヤバイでしょ。ああ、本当に酔っているなぁ私。なんてまた笑みが漏れた。
 フフッとまた笑ったら、もう一度名前を呼ばれて笑みが消えた。
 ツカツカと革靴が、音を立てて近づいてくる。
 え? 幻覚じゃなくて、本物?
 そう思った瞬間に、脳内がクリアになっていく。
 やだ、来ないでよ……。
 少しずつ縮まる距離に、空回りしていた気持ちが拒否反応をしめした。
 どうして呼び止めたりするの? 貴哉と喧嘩している今、気持ちはこの身体よりもふらついている。
 もしも、あんな風にまた手を握られ、抱き締められたら、馬鹿みたいに勘違いしちゃうじゃん。気持ちもないのに、そばに来て欲しくない。
 近づいてくる専務から逃げ出したいと思うのに、足はピタリとアスファルトに吸い付いてしまって動いてくれない。
「酔ってるだろ」
 目の前にやって来た専務に訊かれて、ブンブンと首を横に振ったら、さっまでピタリと張り付いて動かなかったはずの足がフラついた。咄嗟に、専務が私の腕をとる。
「送ってく」
 専務が支えてくれて倒れずにすんだけれど、私はまたブンブンと首を振った。今度は両足に力を入れて、フラつくもんかとしっかり立つ。
「フラフラしていて危なっかしいし、遅いから送っていく。待ってろ、今タクシー……」
 専務が全部言う前に、取られた腕を振り払い後ずさる。驚き振り向く専務の視線を振り切り、全力でダッシュをした。
 要らない。要らないっ。そんな優しさ、要らないっ!
 私が欲しいのは、そんな中途半端な優しさじゃないんだからっ。
 そんな狡い態度なんて、要らないんだからっ。
 専務を巻くみたいに走り、少し遠回りになるのがわかっても、わざと路地裏に入って駅を目指した。これでも、体育や運動会じゃ陸上部と競うくらいの俊足なんだから。
 ヒールが折れそうでも構わず走って改札も勢いよく抜けたら、ちょうど電車が滑り込んできたから開いたドアめがけて飛び乗った。
 はぁっはぁっ、と吐く息に、車内の人たちが数秒注目してきたけれど、それもすぐに気にもされなくなった。
 すぐそばの手摺に掴まり、項垂れる。
 飲んで走っちゃダメだ。気持ち悪い……。
 胃の中を蠢くワインや料理が、攪拌されて座りこみたくなる。
 なんで優しくなんてするのよ。気まぐれで、気持ちをかき乱さないでよ。
 自分がこんなに単純な女だなんて、……知らなかった。ほんの少し手を握られたくらいで、ほんの少しの間抱き締められたくらいで、自分の心がどこにあるのか解らなくなってる。
 喧嘩でもしたのか、なんて他人行儀な態度をとるくせに。そうかと思えば、ヘタに優しさなんて振りまくからっ。私ただのバカな女じゃん。もうっ、イヤだよ……。
 気持ち悪さからと、自分のふがいなさに涙が滲む。
 子供みたいに涙を手の甲で拭い、最寄り駅で降りた。ホームの自販機で水を買い、半分ほどまで一気に飲んだ。ベンチに座り込みたい誘惑に駆られたけれど、ここで座ってしまったら二度とこの椅子から立ち上がれない気がして、弱っている気持ちを振り切りフラフラと家に戻った。すると、今度は貴哉がいて、酔って気持ち悪くてもうわけがわからなくて、気が付けば彼を部屋にあげていた。
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