最終話 温かな背中

文字数 5,362文字

 外の寒さに佇む貴哉へどんな声をかければいいのかわからなくて、カラカラとキャリーバッグを引きながらエントランスへ足を向けた。
 少し離れた場所から動かずにいる貴哉に気を揉み、「寒いから、中に入ろ」と声をかけた。反応した貴哉のスニーカーが、アスファルトを踏む僅かな音を立てて後を追ってきた。
 部屋に入っても貴哉は何か言うでもなくて、お互いに気詰まりな雰囲気を醸し出してしまう。居心地が悪いのは嫌で、兎に角、会話できるように空気を変えようと、キッチンへ行き薬缶を手に取った。
「コーヒー、飲む?」
 テーブルの前に立ったままの貴哉へ声をかけると、コクリと頷いた。
 以前なら飲む? なんていちいち確認なんてしなかった。したとしても、飲むことが前提で飲むよね? と既に準備を始めていた。余所余所しいのは仕方ないけれど、そんな二人の距離感はとても息苦しい。
「座ったら?」
 いつまでも立ったままでいる貴哉に声をかけると、うん。なんて静かに返事をしてから、ダウンを着たままテーブルの前にあぐらをかいた。部屋の中は、とても冷え切って寒々としている。なのに、貴哉はすぐ目の前に置かれている、エアコンのリモコンを手にすることもない。自分の家みたいに勝手につけるのが当たり前だったのに、借りてきた猫みたいって、こういうことを言うのかもしれない。
 余所余所しいままの貴哉の前に、うちに来た時には決まって使っていたマグマカップにコーヒーを入れて置いた。湯気が立ち上るのが微かに見える。
 自分のマグカップもテーブルに置いて、リモコンへ手を伸ばしてスイッチを入れて部屋を暖める。無言のままカップへ口をつけたら、熱さに油断して驚き舌を出した。
「あつっ」
 私の声に反応して、貴哉が顔を上げ目が合った。
「火傷したか?」
 訊ねられて首を振ってから、やっと声が聞けたとほっとした。少しの切っ掛けを掴んだ貴哉が口を開く。
「実家、どうだった?」
 そんな話をしにきたわけじゃないだろうけれど、話の取っ掛かりを掴もうと模索しているのがわかる。
「久しぶりだったからね。のんびり甘えてきた」
「そっか……」
 空気が硬く縮こまって、なかなかこの部屋の温度と同じように暖かく緩んでくれない。
 こうなる前の貴哉は、無駄に余計なことを言って私をイラッとさせたし。怒らせるようなことをわざと言った後に、気持ちがあったかくなるようなこと言って喜ばせてくれていた。なのに、目の前で俯き加減のまま、声を出すことにさえ勇気がないみたいに黙りこくってしまった姿は、らしくなさ過ぎて見ていられない。
 こんな姿、貴哉じゃない。いつもみたいに、考え無しのような態度で話せばいいのに。遠慮している姿は、別人みたいで。そんな風にさせてしまったのはきっと自分だから。だから仕方ないと思っても、少しずつイラつきみたいなものが積もっていった。
「何か話しがあるからきたんでしょ?」
 少しでも切っ掛けをと思って言葉にしたけれど、実際音に出してみたらとても声が尖っていて、冷たい言い方になってしまった。取り繕うようなことも出来ずに、そのまま口をつぐんだ。
 けれど、貴哉がその言葉で再び顔を上げて私の目を見た。真っ直ぐで、力強くて、私のよく知っている目に見られて、胸の真ん中あたりが騒ぎ出す。
 この感情は、なんだろう。
 懐かしい……。
 ああ、そうか。出会った時と、よく似ている。
 強引で、なのに優しくて、笑顔に誤魔化されてしまう顔だ。
「千夏、俺さ」
 目を見たまま、貴哉は一旦そこで言葉を止めた。
 何?
 そう言う代わりに、挑むように目をそらすまいと貴哉を見つめた。
「あの日、千夏に泣きながら言われて、ずっと勘違いさせて辛い思いをさせてきたことに気がついたんだ」
 勘違い?
 意味がわからないまま、貴哉の次の言葉を待っていた。
「意地張って田舎へ帰らない千夏が、いつか帰るって言ったら、俺も一緒に行くよ。って本当は言うつもりだった。いや、いつも言うつもりで待ってたんだけど、俺の言い方のせいで、千夏は余計に意地張っちゃって」
「え? ……どういうこと?」
「覚えてるかな。千夏が最初、俺と付き合う前に、大学でできた友達と話してたこと」
 なんのことなのかまるでわからなくて、私はひたすら首を傾げて答えを教えて欲しいと気が急っていた。
「千夏、言ってたんだよ。田舎に逃げ帰るのは簡単だけど、ギリギリまで頑張りたいって。だから、弱音吐いたら、ガツンと叱ってよねって。友達に向かって、笑顔で話してたのを、俺は聞いていたんだ」
 貴哉に言われて、その頃の事が少しずつ思い出された。
 右も左も分からない東京へ一人で出てきて。とにかく広いキャンパスには、知り合いなど一人もいなかった。全て初めてのことや知らないことの連続で、大きな大学という場所で迷いそうになりながら、気持ちも迷子になりそうになっていた。
 そんな時、たまたま受ける授業が重なる子がいた。少し話すようになって、気持ちが近くなった。 よく話してみると、彼女も田舎から出てきている子だって分かり、二人でがんばろうねって励ましあっていた。
「この子、根性あるなーって、すげー奴だって、ホントに思った。生まれた時から東京のことしか知らない俺にしてみれば、逃げて愚痴る場所なんて目と鼻の先で。腹が減れば親に頼って、欲しいものがあれば、ばーちゃんやじーちゃんに甘えればどうにでもなってた。けど、田舎から出てくるやつって、辛くてもどうにかしてくれる家族はすぐそばにいないから、本当はすげー尊敬してて。だけど、愚痴ってばっかで、しょっちゅう弱音吐いてるの聞いてると、無性にイラついて。愚痴るくらいなら声聞きに行けばいいじゃん。飛行機でも新幹線でも乗って会いに行けばいいじゃんて。それが簡単じゃないことわかってても、そう思わずにいられなくて。結局無理ばっかするからこっちの生活が続かなくて田舎へ帰る奴には、腹が立って仕方なかった。なんのために出てきたんだよ。って俺の方が悔しくなったりしてさ。なのに、千夏は、できれば親には頼りたくない。心配かけたくないって頑張ってて。それは半ば意地を張ってるだけって、見てればわかるんだけど。そういう根性あるとこに、俺は惚れた」
 吐き出すように真剣な表情で一気に話した貴哉は、最後の言葉で頬を緩めた。おかげで私の心臓が反応してしまう。
「ほ、惚れた……って」
 今更ながら、惚れたなんてことを言われて動揺を隠せない。誤魔化すみたいにカップを持ち上げて、少しぬるくなったコーヒーをゴクゴクと飲んだ。
 そんな私の姿を、貴哉は穏やかな目をして見つめてくる。
「だから、鼓舞するって言うか。千夏のそうやって頑張ってるところを応援したくなって、敢えて帰れば? って素っ気なく言ってた。田舎に帰ってしまった友達の代わりになんてなれるかわからなかったけど、千夏を励ましたかったんだ。けど、それでも辛くて帰るって言った時は、気持ちよく行ってこいって言いたかったし。なんなら、俺も一緒に千夏の田舎に行ってみたいって思ってた」
 面白い話でもするみたいに、貴哉が微笑んだ。優しくて穏やかな笑みが、また胸の真ん中を疼かせた。
 狡い。ズルイよ。その顔、やっぱりずるいっ。
 なんなのよ、それっ。
 確かに友達とそんな話はしたよ。けど、それは友達同士の話で、貴哉にじゃないじゃんっ。
 大体、私。彼には、優しくして貰いたいのにっ。そばにいる人から鞭打たれて、私は馬車馬じゃないんだからっ。もうっ。
「解りにくいっ!」
 目の前の貴哉に向かって、声を大にした。両手の拳を握りながら急に大きい声で怒り出したら、貴哉が驚いてわずかに身を引いて目を大きくした。
「けど、けど。もー、悔しいけど、確かに友達に言った。貴哉の話を聞いて思い出したけど、確かに私そう言ったよ。友達と絶対に頑張ろうね。って、あの時徒党を組んでたよ。あーっ、もう!」
 大学に入ってまだ数ヶ月で、やっと話すようになった友達と、二人で慰めあって励ましあって。田舎に逃げ帰りたくなったら、お互いガツンと言って頑張ろうねって約束した。
 なのに、結局彼女は貴哉が言う通りの田舎から出てきた弱い人間で。辛いと言って、大学を辞めて帰ってしまった。やっとの思いで合格して入った大学を辞めて、田舎へと帰ってしまったんだ。
 取り残されたみたいに、私はとても寂しくて、とても悲しかった。
 だから余計だった。負けたくない。絶対にここで地に足つけて頑張って、田舎に帰る時には、笑顔でいい報告ができる自分になりたいって思った。
「千夏。俺さ。会わない間にいっぱい考えた。考えて、考えて、すげー辛くて。こんな辛いことって今まであったっけかなってくらい、考えて。結局さ、答えなんて単純で。どんなに考えたって、もうこれしかなかった」
 そこで言葉を切ると、あぐらをかいていた足を整えて正座をした。急にかしこまって改まるから、私まで背筋が伸びた。
「俺には、千夏しかいない。千夏がいないと、ダメなんだ」
 正座の姿勢で真っ直ぐ目を見られてしまっては、もう逸らせない。
 力強いその目はいつだって正直過ぎるくらい正直で、自分の事しか考えてないみたいに傍若無人に見せて、実際は私のことをいつだってしっかり考えてくれていた。
 わかってる。そんなのは、知っていた。
 ただ、私は自分に負けてしまっただけなんだ。
 あの時、大学を辞めて帰ってしまった彼女のように、ただ優しくしてもらいたくて、甘えたかったのに、素直になれずに意地を張っていただけ。
 そんなところにたまたま専務が優しくなんてしてくれるから、勝手に勘違いして寄り掛かろうとしてしまった。
 寄りかかる相手を、間違えてたよね。
 甘えるなら、貴哉に、だ。愚痴りたいなら、貴哉に、だ。
 寄りかかって、泣きついて、辛いを吐き出せば良かっただけなのに。そしたらきっと、貴哉は一緒に田舎へ帰ろうと言ってくれたのだ。
「俺は、千夏と離れたくない」
 真っ直ぐに見つめる目はやっぱり逸らされることはなくて、有無も言わさぬその目力がこんなにも嬉しい。
 ああ、ダメだ。ほら、もう、涙腺が。
 そんな風に気持ちをぶつけられたら、私の答だって決まっている。
「私、そんなに強くないよ」
「うん」
「すぐ逃げ出したくなるし、泣きたいことだっていっぱいある」
「うん」
「ワイン好きになっちゃったから、酔っ払って迷惑かけるかもよ」
「うん」
「ビールの買い置きの変わりに、ワインばっかりだよ」
「うん」
「私、わたし……」
 視界がぼやける。悔しくて涙なんて流したくないのに、嬉しくて涙が止まらない。
 ずっと強がってきた気持ちを、見透かされていた。本当は弱虫で甘えたがりの性格のせいで、気持ちをフラフラさせちゃってたのに。そんな私のところに、貴哉が戻ってきてくれた。
 嬉しくて、好きな気持ちがいっぱいになってきて、涙だけじゃなくて鼻水も止まらなくて顔がぐしゃぐしゃだ。
 もうっ、かっこ悪いじゃん。
 慰めるみたいに穏やかな顔をした貴哉が、しょうがない奴だなって顔をして、ベッドの近くにあるティッシュの箱を取りに行き、シュッと一枚引き出すとそれを私の目に当てた。
「千夏の弱いとこも、俺全部好きだから」
 勢いよく息を吸ったら、ズピーと鼻が鳴って、可愛げも何もない。
 もう〜っ、なんてまたポロポロと涙が止まらない。
「大丈夫だ。鼻水くらい垂らしたって、千夏は可愛い」
 ケタケタ笑いながら言う、いつもの貴哉が小憎らしい。
 なのに、とても愛しい。
 愛しくて、愛しくて。ずっと欲しかった笑顔が目の前にあって、首に手を回して抱きついた。
「貴哉、貴哉」
 ズビズピ言いながら鼻を鳴らして、好きだともう一度再確認したまま抱きついていたら、そのままヒョイっという具合に貴哉が立ち上がり私の体が持ち上がった。
 驚いている間に、貴哉の背中にクルリと体が周った。ゴツゴツしてるのに、温かな背中に背負われた。
「相変わらず軽いな〜。ちゃんと食ってんのかよ。まー、病んでた時よりかは、二キロ? いや三キロは重いか」
 こぉーのぉー、女の子の体重を〜。
 ふざける貴哉の背中から、首にぎゅっと腕を回すと、締まった首にウゲーなんて声を上げる。
「落ちる、落ちるっ。タップ、タップ! 死ぬ」
 ジタバタする貴哉に、今度は優しく抱きついた。
「あったかいよね、貴哉の背中」
「そうか?」
「うん。すごくあったかい」
 お父さんの背中もあったかくて大好きだけど、貴哉の背中も大好きだ。
「辛かったら、俺がいつでも千夏のいるとこへ迎えに行ってやる。車はないけど、この背中で。いいだろ?」
「うん」
 家の中だというのも構わず、正月早々暴れた私たちは、もう一度寄り添う二人に戻った。
 気持ちの再確認にしては、少しばかり波乱だったけれど、元に戻れたのだから終わりよければで、ね。
 明日からまた仕事だ。仲直りしたと、吉川さんに報告しなくちゃ。
 そして、専務にも。
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