第13話 初出勤

文字数 4,413文字

 目覚ましが鳴っている。正確には、スマホにセットしたアラームだ。
 大学の頃貴哉が「いい曲だよな」そう言って教えてくれた曲を、スマホは震えながら鳴らしている。明るいけど賑やかすぎなくて、中盤では沁みるような音を奏でる曲は、アラームにセットしてしまえば毎回数秒で止められてしまうから、その沁みる音の部分にいつもはたどり着かない。けれど、今日はモゾモゾとベッドから起き上がっても止めることなく鳴らし続けてみた。
 昨日の夜、久しぶりに来てくれた貴哉は、グラスをテーブルに叩きつけるみたいにして部屋を出て行った。というか、帰ってと追い返したのだけれど、溜息だけを残して出て行く貴哉の背中を思い出せば、もう二度と私の前には現れないんじゃないかという気持ちになって、後悔や悔しさや怒りや、いろんなよくわらないような感情が胸の中をいっぱいにしてしまって自然と涙が溢れ出す。
 次々に溢れ出る涙を何度もゴシゴシとパジャマの袖で拭ってみて、初日から目が腫れているのもな、なんて少しばかり冷静な思考になって溜息を一度だけ大きく吐き出した。
 気がつけば、とっくに沁みる部分を通り過ぎてしまったアラームを止めてから、泣き顔の情けない顔を洗いに行った。スーツに着替えてから何を食べようか考えたけれど、食欲はなかった。冷蔵庫の扉にある牛乳パックを手にし、グラスに注ぎ飲んだ。体の中を冷たい牛乳が通っていく感覚をじっくり味わうみたいに、その場でグラスを握ったまま立ち尽くす。しばらくして、力なくシンクにグラスを置き、水を満たしておいた。
 あのあと、泣きながら書いた履歴書をバッグに入れてヒールを履く。久しぶりにかかとの高い靴を履いて玄関を出れば、何もないアスファルトでさえ歩きにくさに躓きそうだ。
 電車に揺られて改札口を抜ければ、さっそうと歩いていくサラリーマンやOLに紛れてヒールを鳴らした。そうすることで、気持ちを引き締めようとした。
 やっと決まった仕事の初日に、付き合っている恋人とのいざこざを引きずっていくなんて、せっかく採用してくれた浅野さんに申し訳ない。
 昨日と変わらず綺麗な外観のビルが見えてくる頃、浅野さんが出てくるのが見えた。箒を持ってビルの前を掃き始めている。その姿に慌てて駆け寄った。
「おはようございます」
 カツカツとヒールを鳴らして駆け寄ると、穏やかな表情で浅野さんがこちらを向いてから笑顔を向けてくれた。
「おはようございます。水野さん。今日も朝から暑いですね」
 ふぅっ、と息を吐き、また箒を動かし出した。
「私がやりますっ」
 長く勤めている人に、お掃除させるわけにはいかない。慌てて手を伸ばすと、いいんです。いいんです。と止められた。
「初日は、契約などもありますし。中で事務の佐藤さんという女性が待っていますので、色々聞いて下さいね。それに、これは私の日課ですから、お気になさらずに」
 柔和な表情で私を社内へと促し、浅野さんはまた箒を動かし始めた。気がひけるけれど日課だからと断られてしまってはしつこくもできず、ビルの自動ドアを潜った。
 入った瞬間に、エアコンの冷風にほっと息が漏れた。中では、昨日は見かけなかった三十代くらいの女性がワインの飾られている棚を掃除していた。おはようございます。と声をかけると、笑顔で振り返る。
「おはようございます、水野さん。事務の佐藤です。」
 語尾を少し上げて、私のことを確認する佐藤さんという女性社員に、「はいっ」と応えると、ニコニコしながら左奥にあるドアの方へと案内してくれた。面接の時、初めに浅野さんが出て来たところだ。
 ドアの向こうには、よくある事務机が幾つも並んでいて、特に区切りやパーテーションもない中、何人もの社員がデスクに向かっていた。何となく部署毎にはわかれているんだろうな、とデスクの組み合わせで判断した。小さな会社だと浅野さんは話していたけれど、思っていた以上に社員の人数はいるように思える。奥には、二十代後半くらいの女性が、パソコンの置かれているデスクに向かってすでに仕事を始めていた。
「今日から入った、水野千夏さんです」
 フロアによく通る声で、佐藤さんが紹介をしてくれた。
「よろしくお願いします」
 佐藤さんに紹介され頭を下げると、みんな好意的な笑みと挨拶をくれた。
「水野さんの机は、吉川さんの隣ね。わからないことがあったら、彼女に訊いてくださいね」
 奥に座って仕事をしていた女性は、吉川さんというらしい。彼女の隣の机が、空いていた。
「よろしくお願いします」
 吉川さんに向かって挨拶をすると、ちょうど電話中だった吉川さんはペコペコと頭を下げて笑顔を向けてくれた。
 浅野さんもそうだけれど、ここの人たちはとても好意的みたいでほっとする。その後、佐藤さんに契約の手続きや仕事の手順や説明をしてもらい、そのあとは吉川さんの隣のデスクに向かった。
 席に着くと、吉川さんはパソコンに何やら打ち込んでいるところだった。
「おはよ。さっきごめんね。倉庫から連絡が入ってて」
 どうやら、仕入れたワインの貯蔵庫が別にあって、そこからの電話だったらしい。吉川さんは、二十代半ばくらいだろうか。年齢が近い人がいるだけで、安心する。吉川さんは、とても気さくな人で、ざっくばらんに色々と仕事の仕方を教えてくれた。取り敢えず、しばらくは電話番と雑務のようだ。当然か。
 以前の会社でそうだったように、ここもお茶くみなどという一昔前のシステムが残っているかもしれないと思っていたけれど、そんなことは全くなかった。毎朝コーヒーを社員全員に入れたりなんてことはなく、飲みたい人は勝手にどうぞというスタンスで、なんならマイカップ持ってきなよと、吉川さんは自分が使っているキティーちゃんの可愛らしいマグを見せてくれた。
「そう言えばさ」
 吉川さんは書類の中に書かれている細かい数字を電卓で弾き、視線をそこから外さないまま話を始めた。私は、渡されたファイルを眺めて、取引先の社名や国名なんかを憶えていた。
「面接のとき、専務が会議室に乗り込んできたんだって?」
 専務と言われて一瞬首を傾げたけれど、乗り込んできたというワードに、苦虫を噛み潰したように溜息をこぼした昨日の男性社員の顔を思い出した。
 浅野さんに少しばかり強く当たっていた彼は、専務だったようだ。随分と若い人が専務をしているんだ。浅野さんは、部長かなにかだろうか。長く勤めているみたいで愛社精神もあるし、平社員ということはないよね。長く勤めているからといって、役職があるとは限らないけれど。
「専務って態度も口もあまりよくないけど、悪い人じゃないから気にしないでね。一生懸命なのが裏目にでることがあるだけなのよ」
 態度も口も悪いのに、悪い人じゃないというのをどうやって理解したらいいのだろうと、心の中で首をひねってしまう。
 専務をフォローする吉川さんの顔は何故だかとてもおかしそうで、専務のことを少し面白がっているところがあるように感じた。けれど、あんな態度を取られた私は、実際のところ本当に今日出社しても大丈夫なのだろうか、という不安が今でもないわけじゃない。
 浅野さんが明日からよろしくお願いします。とフォローしてくれて、今朝も明るく迎えてくれたからこうして今席に着いているわけだけれど、若干の不安があるにはあるのだ。
 あの専務がやって来たら、なんで居るんだ。なんて言われる気がしてならない。さっき、佐藤さんと契約の手続きはしたものの、そんなもの破棄だ、撤回だと言わられかねない人物に思えるのは気のせいだと信じたい。
 そんな風に専務という人物に恐怖を覚えていたら、当の本人がやって来た。ガッと勢いよく事務所のドアを開けると、社員がパラパラと朝の挨拶をする。
 私はパブロフの犬なみに、専務の姿を見た瞬間に椅子から素早く立ち上がり、頭を下げて朝の挨拶をした。
「おはようございますっ」
 頭を上げると、専務とバッチリ目が合った。鋭い瞳でこちらをじっと見たまま、立ち止まられてしまった。
 怖い……。
 入ってきて目があってから微動だにしない専務に、こ、これは何か話さなくてはいけないだろうかと、動揺しながら会話の糸口を探していると、急にスッと目をそらし、吉川さんの方へ近づいていく。急に時間が動いたみたいに。若しくは、ゼンマイでも巻かれたように専務がツカツカ歩き出した。と言っても吉川さんの席は隣だから、私の方へ近づいてきているも同然で、視線が合っていないというだけだ。
「吉川さん、チケット」
「おはようございます。専務」
 吉川さんはニコニコと笑みを浮かべて、手を出す専務の右手にチケットだろうものを手渡した。
「昼過ぎの便だっけ?」
「はい。十四時のフライトです」
「わかった。サンキュ」
 チケットを受け取った専務は、カラカラと左手にシンプルだけれど、たくさんの国へ行ったのがわかるフライトシールが貼られたスーツケースを引きずって、一番奥にある席に着いた。
 スーツケースを席のそばに置いた専務は、ストンッと他の社員よりは座り心地の良さそうな椅子に腰掛けると、ギジリと背もたれに寄りかかる。
 実際は、高級だろう椅子がギジリと鳴ったりはしないのだけれど、専務のデスクが私のデスクのほぼ正面に位置していたために、鳴るはずのない椅子の効果音が聞こえるほどに威圧感をヒシヒシと覚えて、思わずさっと目をそらしてしまった。
 頭の中にちっとも内容が入ってこない書類の上を、何度も視線が泳ぐ。そんな心情に拍車をかけるように、専務が声をかけてきた。
「履歴書、持ってきたか」
 とても大きな声だった。おかげで見ていた書類の収まるファイルを、何故だかバンッと音を立てて閉じ、直立不動で立ち上がった。そんな私の態度に隣の吉川さんが驚いた顔をした後に、座って座ってと優しく声をかけてくれた。
 それでも未だ直視しされたままの専務から目をそらせず、今にもサバンナでハイエナか何かにロックオンされたかのように、少しでも視線を動かしたら命はないくらいの気持ちで息を止めて立っていた。
「専務。声が大きいですよ。しかも、目が怖いです」
 相変わらず面白そうにして、吉川さんが専務へ言っている。
 吉川さんのツッコミに、そうか……なんてこめかみの辺りをぽりぽりとかいている専務の姿を見て、やっと息を吐き出した。
「水野さんは、座ってね」
 吉川さんに笑顔で促されて、再び静かに椅子へと腰を下ろした。
「水野さんの履歴書は、さっき佐藤さんに渡しているはずですよ。あと、契約も済んでますから、ご安心を」
 私の代わりに吉川さんが応えてくれると、専務はうむ。と言って、目の前にあるパソコンの電源を入れた。
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