早智がその子を追ってチャペルを出ると、入り口を出たすぐのところで、彼女は息を整えるように壁を向いて突っ立っていた。まだ肩に力が入った様子だ。うなじから見える鳥肌はきっと背中まで続いているのだろう。
後ろから声をかけた早智に、その子はビクッと振り返る。顔はまだ真っ青だ。早智は落ち着かせようと思って慌てて言葉を探したが、なかなか単語が出てこない。
やっと出てきた一言は本当に一言で、相手から返ってきた言葉も一瞬で途切れる。早智の額からも冷や汗が流れてきた。
チャペルの入り口の向かいに置いてある古い長椅子を指差して、早智は何とか言葉を紡ぎ出した。よく考えたら、呼び止めてからどうするか全然考えてなかった……口の中が急に乾いて、上手く言えてないような気がする。
あっ……でも……本当は人に会いに来たんでしょ? このチャペル……。
ピタッと彼女が動きを止める。早智の方もゴクリと息を飲む。顔が急に熱くなってきた。自分は探偵なんかじゃない。ごく普通の(神学部にいる時点であまり普通に見られなかもしれないけれど)どこにでもいる大学生だ。
それなのに「ほら、あなたのことわかってるんだよ?」なんて真似して引き止めて、いったい何をしようとしているんだろう。この雰囲気は得意じゃないのに……早智は相手が早く何か返してくれるのを必死に願った。
驚いた様子で彼女は早智を見つめる。あまり見つめられすぎてドキドキしてしまうほどだ。早智は視線を少しそらした。緊張して声が上手く出るか不安になる。
他じゃできない相談をしに、神学部の人探しに来たのかなと思って……。
早智の言葉を聞いてますます驚いた様子でその子は目を見開く。あっ、この子けっこう目大きい……羨ましいな。喉がカラカラになるほど緊張しているくせに、一方で呑気なことを考えている自分がいる。まあ、彼女の反応を見る限り予想は当たっているようだ。そのことに少しだけ安心できた。
神学部でエクソシストやってる人に……八津谷先輩に相談しに来たんだよね? チャペルが終わったら声をかけるつもりで。今日も、この前も、その前も……。
や、八津谷さんって言うんですか……その、エクソシストやってる人って?
神学部に本物のエクソシストがいるって聞いたんですけど……誰のことかわからなくて。色んな人に聞いたら、いつも神学部のチャペルに来てる人だって言われて。
いきなり声をかけてきた相手が、一応自分と同じ学年だと知って安心したのか、彼女は少しホッとした表情になった。
彼女は信じられないという顔で固まっている。早智と同じく彼女も幽霊が見えるとするなら、チャペルの中は幽霊の巣窟と言ってもいい状態だ。そんなところに本当にエクソシストがいるのかと不思議に思うのは当たり前かもしれない。しかも、このチャペルに霊を引き寄せている張本人がその人だと、この子はまだ知らない……。
先輩に相談しに来たってことは……悩んでるんだよね? その、幽霊とか悪魔に。
彼女の声が異様に小さくなる一方、早智の心臓の鼓動は異様に大きくなる。やっぱり見えるんだ……自分以外にもこの子にも見えてるんだ! 今まで霊感があるという人のブログや掲示板をいくつも見てきたが、本当に自分と同じように見えているという確信を持てた人はいなかった。それが今、目の前にいる!
あの……八津貝先輩が誰かわからなくて……チャペルから出てきたら教えてもらってもいい?
幽霊を引き寄せた先輩がチャペルから出てきたとき、「この人だよ」と言ったら彼女はどんな反応をするんだろう……先輩についた幽霊は、いつも礼拝が終わると霧が晴れるように消えていく。
けれども、入り口から出てくる頃にはまだ少し残っていることが多い。早智も、いつもは幽霊に接近することのないよう、チャペルが終わったら一番に出てくるのだ。
あっ、ありがとう。ずっと誰に声かけたらいいかわからなくて……文学部地理歴史学科の一回生の奥野鈴香です。
本当は、彼女が学科まで紹介したように、早智も「伝道者コースです」と言うべきなのかもしれないが、何となく「神学部」だけで口が止まってしまった。文芸部に初めて行ったときも、早智はとっさにコース名を言うことができなかった。伝道者コースと言うだけで、「牧師になるの?」とか色々聞かれそうな気がしたのだ。
ごめんなさい、見えてます……でも早智は言い出せない。本当なら「自分も見えてるんです」と話したい。さっきから何度もそうしようか迷っていた。けれども、ここは神学部……人口一パーセントにも満たない日本のクリスチャン、教会関係者の集まる場所だ。
下手に、牧師の娘である早智に幽霊が見えると知られてしまえば、狭いキリスト教界ではあっという間に噂が広まってしまう。そうすれば、自分が「見える」ことを話していない父の耳にも入ってしまうだろう。杏実のように、よっぽど信頼の置ける相手でなければ、早智は簡単に自分のことを話すわけにはいかなかった。
私は……先輩とはこの前初めて会ったばっかりだから。
少し残念そうに呟く鈴香に、早智はちょっと胸が痛くなる。ごめん……本当にごめん。後でちゃんと話せるようになるかな……そうだといいな、と早智は心の底から願う。
でも……どうして私が八津貝先輩を探してるって、幽霊に悩んでるってわかったの……?
あっ……えと、よく先輩に相談に来る人と同じ雰囲気してたから……そうかなって……。
そうなんだ、他にも相談に来てる人いるんだ。じゃあ、珍しくはない……んだね?
正直に幽霊が見えると話てる相手に対して、自分は色々隠していることに罪悪感が溜まってきた早智は、また違う話題を振ることにした。
あと、名前呼ぶとき「早智」でいいよ、同学年だし。もうすぐチャペルも終わるから、それまで一緒に待ってよ。
なら私も、鈴香って呼んでもらえれば。友達はみんな「スズ」って呼ぶけど。
スズか……かわいいね。私は「さっちゃん」って呼ぶ先輩がいるけど、ありきたりだなぁ。
そんなやり取りをしている間に、早智がスズを追いかけてチャペルを抜け出してから、もう15分ほど経っていた。大学のチャペルは、10時35分から11時5分までの三十分間で行われる。一時間から一時間半近く行われる教会の礼拝に比べると随分短い。
ちなみに、大学付属の中等部、高等部でも毎週チャペルが行われているが、そちらはさらに短い十五分間で礼拝を行っている。聞く方はいいが話す方はまとめるのが大変みたいだ。早智がスズにそんな話をしている間に、チャペルの方も終わりに近づいていた。
あっ、頌栄の賛美歌が聞こえてきた。もうすぐチャペル終わるよ。
頌栄というは、「父なる神」「子なる神(イエス・キリスト)」「聖霊なる神」の三位一体の神をたたえる歌のことで、だいたい礼拝の最後に歌われるものだ。これが聞こえてくれば、残るは後奏のみとなる。
そっか、もうすぐ出てくるんだ……ねえ、八津貝先輩って怖い人?
えっ、ちょっと不思議な癖はあるみたいだけど……普通に見たら怖い人じゃないと思う。
ストレスが溜まるとシャボン玉を吹き始める。その話が本当なら、とてもエクソシストのイメージには合わないし、怖い人とも思えない。あくまで「普通に見る」なら……。
チャペルのドアが開き、退堂の後奏を聞きながら杏実や霊南坂さんが出てくる。
あれ、早智ここにいたの? さっきの新入生追いかけて行ったのかと……って一緒にいたわ!
あっ、この人じゃないよ。この子は私の友達で社会学部一回生のアンちゃん。
はじめまして。早智のお姉さんやってる小友杏実です。
今回はお姉さんのくだりについては無視することにした。続いて、霊南坂さんと茜さん、その他の人たちが次々とチャペルを後にする。すれ違いざま会釈した茜さんの肩に、今日はあの手首が乗っていなくて早智はホッとした。
さっきは気分悪くなって出たの? さっちゃんが一緒についていてくれたってこと?
八津谷先輩は一番前の席に座っていたため、チャペルから出てくるのは一番後になってしまう。そして、おそらくスズの反応は……。
チャペルが終わったばかりの先輩には、まだぼんやりとした黒い影がつきまとっていた。チャペルの初めに見た時よりはだいぶ影が薄くなっているから、もうすぐ消えていくはずだ。
しかし、それでも近くに来るとヒンヤリとした感覚が伝わってくる。先輩のお腹を突き抜けて出たり入ったりする霊が目の前に見えると、早智の肌にも鳥肌が立つ。一週間毎日チャペルに出続けて慣れてきたとはいえ、このザワッとする感覚は好きになれない。
早智が先輩を紹介すると、スズは何か言葉を出そうとするものの、先輩にまとわりついた霊に目が行ったまま、口をパクパクとするだけで何も出てこない。すると、タイミング悪くヒラリと先輩から離れた霊が彼女の髪に触れる。
ビクンッと直立不動になったスズは、そのままヘナヘナと座り込んでしまった。一度引いた汗が再びすごい量になって顔から吹き出ている。
ええと……この前の早智と同じかな? これは体調が悪い奴だね。よし、また講師控え室だ!
恐るべき勘の良さで状況を察した杏実が機転をきかせ、スズを支えて立ち上がらせる。早智はまた心臓がドキドキなるのを感じながら、八津谷先輩の方を振り向いた。当の彼は、全く状況が飲み込めていない様子だ。
それが、先輩の悪魔祓い? に立ち会う早智にとって最初の体験の始まりだった。