第9話 霊が見えても変じゃない?

文字数 4,491文字

   八津谷先輩が早智、杏実、スズの三人を連れて行ったのは、大学の正門を出て目の前にある建物の二階、「ノック」という喫茶店だった。


   一階は文房具屋さんになっており、ノックはその横の入り口から階段を昇ったところにある。早智たちは先輩を先頭に玄関の大きな猫の置物を通り過ぎて、店員から奥の丸いテーブル席に案内された。

何か、勉強してる人が集まりそうなカフェって感じですね。
実際、コーヒー好きの教授がここでゼミ開いたりするからなぁ。神学部のゼミは学生が少ないから三〜四人でやるときもあるし。
あの、ここのメニューってけっこう高いんですか……?
特別安いわけじゃない。どっちかと言うと学生が来やすい値段ではないかな……その分混むこともあまりないから気に入ってるよ。窓際だったらシャボン玉吹いてても怒られないし。
えっ? シャボン玉?
まあ、値段はどれもそんな変わらないから気にせず選んでいいよ。軽食だったら、サンドイッチかスパゲティーかオムライスがある。あまりガッツリじゃないけどハヤシライスもおすすめ。
   シャボン玉って何のこと?   と気になっているスズを素通りして、先輩はメニューの説明を始める。早智も前からシャボン玉の件については気になっていたが、とりあえずはメニューを選ぶことにした。
鈴香さんは何にする?   私はオムライスにしたいんだけど、ハヤシライスも食べてみたいから、よかったら半分こしない?
   奢ってもらうメニューを自分から決めるのが気の進まない様子のスズに、杏実はさりげなくメニューを決めやすくする。メニューを落ち着かなくめくっていた彼女は、その言葉にホッとした表情を見せた。
あっ、じゃあそれで……。
私はサンドイッチにします。
じゃあ俺はミートソーススパゲティーにしよう。
   あえて自分の薦めたハヤシライスは注文せず、ミートソーススパゲティーを頼んだ先輩は、その日着ていた白シャツにところどころシミを作る結果になった。どこまでもカッコのつかない先輩だ……。

 その後、カチャカチャと鳴っていた食器が片付けられ、全員に食後のコーヒーが回ってきた。遠慮していた割に誰よりもペロッと食事を平らげたスズは、少し恥ずかしそうにおずおずと先輩にお礼を言った。
何か他学部からやってきて奢ってまでもらって……本当にすみません。
いや、なんだかんだ誰かと昼飯食べるのは久しぶりだったから嬉しかったよ。朝飯遅かったのに俺もペロッと食べちゃったし。
   誰かとご飯食べるのが久しぶりということは、先輩はいつも一人でここに来るのだろうか? でも確かに、喫茶店の窓際の席でシャボン玉吹いてる人と一緒に食事はしたくない……そりゃ一人で食べることになるだろう。もっとも、チャペルの時のように先輩が「何か」を連れていれば「一人」とは言い切れないけれども。
スズさんはこの後どうするの? お家、幽霊が出るから帰れないんだったよね?
もうお金もなくなってきたからこれ以上ネカフェに泊まるのは無理かな……一度実家に帰るしかないかと思ってたんですけど、先週くらいに「神学部で悪魔祓いしてくれる人がいる」って聞いて。エクソシストなら幽霊も何とかしてもらえるかと思ったんですけど……。
なるほど、実際に会ってみたら幽霊見えなくて頭に草つけてスパゲティーのソースもシャツにつけた先輩だったと……。
えっ、ソース飛んでる?   あっ……ほんとだ。
気づいてなかったんですか……?
……まあ、いいや。幽霊が出るっていう下宿先には、それから一度も帰ってないの? 
何度か入りはしたんですけど……一人で部屋の奥まで行く気にどうしてもなれなくて。
明るいときでも?   出るのは夜って話だったと思うけど。
明るいときに見えたことはまだないんですけど……「急に出てきたらどうしよう」って思うと部屋に居続けることができなくて……最近は部屋に入っただけで嫌な感じがするんです。
嫌な感じって?
今日もチャペルでしんどそうにしてたけど、家にいるときもあんなふうになるの? 顔からすごい汗出てたけど……。
チャペルにいたときは……その……ちょっと変なのが見えて。幽霊が見えると鳥肌が立ったり動悸が激しくなったりして、恥ずかしいけど顔からもすごい汗が出て……でもお腹とかは急に冷えて貧血みたいになるんです。

お昼にそうなることはないんですけど、なんか「ここにいちゃいけない」って雰囲気を強く感じて……そこにいられなくなるみたいな。
 早智は顔から汗は出ないが、後はだいたいスズと一緒だ。人によって幽霊が見えたときの感覚は少しずつ違うらしい。
幽霊が見えそうなときと実際に見えるときとで体の受け止め方が違うんだね。「小さい頃はみんなも見えてると思ってた」って言ってたけど、昔から幽霊が見えるとそんなふうになったの?
最初はそんなに……寒気がするようになったのは少し大きくなってからだと思います。友達と遊んでいるつもりで公園にいたら、お母さんに「スズちゃん誰と遊んでるの?」って言われてびっくりして……。


自分が遊んでた人たちは他の人にはみんな見えてないんだって初めて気づいたんです……お母さんに言われるまで知らなかったんですけど、私のこと近所では「見えない誰かと遊んでいる」って不気味に思われてたらしくて。


それからは自分にしか見えない人とはなるべく関わらないようにしてました。「気がついたらまた、周りから見て私一人になってるんじゃないか」って怖くなって……そのうち、私にしか見えない人に近づくと寒気がするようになってきて、「ああ、この人たちは生きてる人じゃないんだな」って思うようになったんです。

さっき言ってた、黒くてゆらゆらした人か。
だいたいは……何かのドアを開けるとそこにいたり、どこかの隙間から出てきてスッと私を通り抜けていったり。今のマンションでも入学式終わった辺りからそういうのが見えるようになって。


それでもまたしばらくしたら見えなくなるだろうって思ってほっといたんです。でも、小さい頃公園で知らずに遊んでた人たちみたいにだんだん部屋に来る人が多くなってきて……。


気にしたらかえってよくないと思ってたんですけど、別の日に布団で目を覚ましたときに黒い影が覆いかぶさってて……もうそれからは怖くて家に帰れないんです。

なるほど……つまり、引っ越してすぐのときはそんなに幽霊のことを怖がってなかったのかな? 最初はあまり気にしてなかったみたいだし……今みたいに怖いって感じるようになったのはここ最近?
そうですね、もともと普通に見えてるものだったので、たまに見えるくらいならそんなに気にしなかったんです。でも毎晩出てくるし、だんだん増えてくるし、だんだん絡み方が強くなってくるし……。
それは怖いよね……家にいなければ、そういうものは見なくて済むの? 自分についてきたりはしないの?
   早智の場合は、目にしたら最後、消えるまでどこまでもついてくる……というパターンが多い。早智自身が移動してもすぐ追いつかれてしまうため、相手が離れ去ってくれるまでひたすら待つことしかできない。
ついてきたことはほとんどないです。見えるのはいつも一人の時だけだし、人のいる場所に行けば、だいたい消えてくれるので。
そうか……だいたい一人の時に見えるのか。
あの、先輩は見えないって言ってましたけど……神学部のチャペルとか、教会の中に入って幽霊が見えるって言ったらおかしいですか? 
   スズの質問に早智もドキドキしながら先輩の答えを待った。早智は、自分の父親に幽霊が見えるとは言ったことがない。前に「この世に幽霊なんていないさ」と言っていたのを聞いて、自分が「見える」と言ったらどう返ってくるか怖かったからだ。


   「そんなわけない」「気のせいだよ」と言われるのが怖かった。見えていることを否定されたら「そうだよね」と言うしかないし、見えてる自分の方がおかしいと思って過ごすしかない。


   いくら自分のことを大切にしてくれる人間でも、自分の悩みを正当なものとして受けとめてもらえなかったら、やっぱり相談なんてできない。スズの先輩に対する問いかけはそういう意味で、早智にとっても緊張感のある問いだったのだ。

幽霊がチャペルに出たら? むしろ自然だと思うよ。
えっ?
へっ、何でですか?
俺は幽霊のことはよく知らないけど、もし幽霊が一般的に言われてるみたいな「この世に留まっている死んだ人の魂」なら、教会に来るのも礼拝に来るのもおかしくないと思う。
えっ? 教会とか礼拝って、聖なる場所なんですよね? そんなところに幽霊が……汚れた存在が入ってくるっておかしくないですか?
汚れた存在が教会に入れないなら俺も入れないよ……ぶっちゃけ、礼拝に来る人たちだってみんな心の清い人ばかりじゃないでしょ? 


「昔詐欺で捕まった」って人も教会に来るし、隣の家の人と喧嘩ばかりしてる人だって来るし、別に結界が張ってあるわけじゃないんだから。

でっ、でも幽霊ですよ? 天国に行けなかった悪い魂かもしれないんですよ?
 思わず、自分の中でひっかかっていたことが口から出てしまった。早智は聞いて後悔する。夫を亡くした茜さんの顔が頭の中をよぎったからだ。けれども、先輩は早智が思ってもみなかった言葉を返した。

幽霊が天国に行けなかった魂なのか、悪い人たちの死んだ後の姿なのかはわからないけど……それならむしろ礼拝に来るのは普通だよ。生きてる人でも救いを求めて礼拝しに来るんだから、死んだ人が天国に行けなくて悩んだら、真っ先にそこ行くでしょ。
あっ……。
俺だって、死んだ後天国に行けなくてこの世に留まっていたら、やっぱり礼拝してるとこに行くんじゃないかな……他にどうしたら天国に行けるか知らないし。


仮に、うちのチャペルで幽霊が見えても、それはチャペルが呪われてるとか危険な場所なんじゃなくて、ちゃんと霊的な救いの場になってるってことだと思うし。

 そんなふうに考えたこともなかった……早智は「教会に幽霊が出る」なんて言ったら、信徒さんから「そんな馬鹿なこと」と言われる気がしていた。聖なる場所でそんなもの見えちゃいけないんだと思っていた。


   けれど、先輩が言うようにそんなことないのかもしれない……むしろ、ここで自分が幽霊を見てしまうのは普通のことなのかもしれない。

まあ、見えない俺が何言っても理屈にしかならないけど、とりあえずそう思ってるよ。
 先輩の返事を聞いて、じっと聞いていたスズも顔を上げる。
分かりました……あの、食べ終わったけれど、もう少し話を聞いてもらってもいいですか?
ああ、というか俺も他の子も遠慮なく質問してるけど構わない?
はい、むしろ初めて会ったのにみんなに聞いてもらってすみません。
ううん、こっちこそついてきちゃってごめんね。
そうだよ、おかげで私たちも先輩に奢ってもらえるし。
君はもうちょっと遠慮したら……?
   前回、講師控え室で飲んだものより、ずっと飲みやすくてマイルドなコーヒーを味わいながら、幽霊についての相談は続いていった。
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登場人物紹介

月無早智、18歳。

牧師の娘でクリスチャン。中学の頃から幽霊が見えるようになってしまったが、家族にも教会の人にも相談できずにいる。


「聖職者になれば幽霊なんて平気じゃん」と言う友人に誘われたのをきっかけに、総合大学の神学部伝道者コースに入学する。院生の八津貝亮と出会ってから、幽霊に関する様々な事件に巻き込まれるようになった。

八津貝亮、22歳。

神学部思想文化コースの院生。全く霊感がないにもかかわらず、なぜか幽霊に関する事件の相談を受けることが多い。他学部では「神学部のエクソシスト」と呼ばれ有名だが、本人はエクソシストをしているつもりはない。


自覚はないが霊を引き寄せやすく、そのせいかはわからないが常にどこか調子が悪い。かと思えば、以外とタフな一面も見せる。ストレスが溜まるとシャボン玉を吹き始める。

川井古和、20歳。

文芸部の部長をしている文学部心理学科の三回生。文化祭で出会った杏実と仲良し。のほほんとした雰囲気に見えるが素で人を振り回す侮れない先輩。


ミステリー小説をネット上にアップしている。事件と名のつくものがあれば、とりあえず現場に行きたくなってしまう。八津貝亮の周りで何か起これば、たいてい彼女が現れる。

小友杏実、18歳。

早智に幽霊が見えることを知っている唯一の友人。周りからはアンと呼ばれている。明るく話しやすい人柄で口も固い。自分の進みたい総合大学に神学部があることを知り、進路に悩んでいた早智をそこへ誘った。自身は社会学部に入る。


ホラー小説や映画が好きで、自分も文芸部に入って小説を投稿している。文芸部のOBの院生が「神学部のエクソシスト」であることを知り、早智だけでなく彼にも会いに、よく神学部へ遊びに来るようになった。

霊南坂舞、22歳。

神学部伝道者コースの院生で、亮と同じ学年。教学補佐をしており、院生の中では早智たちとよく絡む。見つからない時はだいたい喫煙所にいる。


亮と一緒にいることが多いせいか、付き合っていると勘違いされやすいが、本人は「そういう興味はない」と言っている。どういう意味にとるかは神学部の中でも解釈が分かれている。

大葉   茜、50歳。

神学部伝道者コースの社会人編入生。入学してから最初にできた早智の友人。数年前から科目等履修生をしていたので、学内には詳しい。


本人は気づいてないが、亡くなった夫らしき霊(手首のみ)が憑いている。「幽霊は死んで天国に行けなかった人の魂なのか?」という困難な問題に早智を直面させることになった。

月無葛見、45歳。

早智の父親で牧師をしている。神様は全ての人の魂を救ってくださる方だから、幽霊はいないはずだと思っている。娘に幽霊が見えていることは知らない。


破壊的カルトの脱会活動も行っており、地獄の存在を強調したり、悪魔祓いと称する儀式を行う宗教者を警戒している。そのため、「神学部の悪魔祓い師」と噂される学生の存在が気になっている。

奥野鈴香、18歳。

一人暮らしを始めたばかりの文学部の新入生。小さい頃から時々幽霊を見ていたが、下宿先のマンションで毎晩幽霊が現れるようになり、帰れなくなっていた。


「神学部の悪魔祓い師」の噂を聞きつけ、相談するために神学部を訪れた。亮が多くの霊に取り囲まれているのを見て声をかけられないでいたところ、早智と知り合った。

黒麻弥恵、19歳。

実家通いの商学部の二年生。文芸部で杏実の先輩。新しい家に引っ越してから、度々ポルターガイストの現象に悩むようになった。


毎晩、家族と夕食をとっていると自分の手が引っ張られたり椅子から落とされたりするため、見えない幽霊に怯えて暮らすようになった。杏実の紹介で亮と早智に相談するため、神学部を訪れた。

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