第6話 あの子も「見える」?

文字数 5,317文字

さすがにもう慣れてきたな……。
   早智がチャペルで倒れてから一週間、あれからは特に何事もなく日々が過ぎていた。茜さんの肩には、相変わらず例の手首が見えたり見えなかったりしていている。けれども、たいていはすぐに消えてしまうため、あらかじめ意識しておけば急に自分が倒れたりすることはなさそうだ。


   問題は、八津谷先輩の方だ。彼も普段は大量の霊を引き寄せているわけではないらしく、廊下ですれ違った瞬間に変なものが見えたりすることはない。ただ、なぜかチャペルの時間になると、どこからともなく彼の周囲に黒い影が寄ってくるのだ。

早智、今日も何かいるの?
   チャペルの前でぼんやりと佇む早智を覗き込むように杏実が声をかけてきた。あれから彼女は早智を心配して、チャペルの時間には毎回神学部を覗きにきてくれている。この埋め合わせは何かしないと……と思いつつ、早智はまだ何もできていなかった。
うん……やっぱり八津谷先輩に集まってきてるみたい。
どうして毎回チャペルのときに出てくるんだろ? 礼拝ってホーリーな力に溢れてるんだよね? 霊とか悪魔にとっては居心地悪いんじゃないの?
私に聞かれてもな……。
そういえばさ、神学部の裏口の屋根下に二匹の龍の彫刻があったよね。キリスト教で龍とかモンスターって、悪魔的なものの象徴なんでしょ? どうしてそれが神学部に彫ってあるの?
あれは中世の教会の門とかにも彫ってあるらしいよ。「ここは教会だからこういった悪魔の類は入れません」って意味で、建物の外、入り口の上とかに彫ってあるんだって。
へぇ〜なるほどね……でも、めっちゃ入ってきてるんでしょ、幽霊?……しかもチャペルの中まで。
私も幽霊が礼拝に出て平気な事実に戸惑いを隠せないよ。
   今までも教会に幽霊がいるのを見たことがないわけではない。早智が中学の時、そういうものを見てしまうようになってから一番悩んだのは、「聖域」と思っていた自分の教会にまで、それらが入ってくるのを知ったときだ。


   けれども、今までは教会で霊を見ることがあっても、礼拝が始まるとすっと消えてしまうのが常だった。「礼拝に来れば幽霊がついてきても消えるんだ!」と思った早智は、それまで以上に真剣に礼拝に出たものだ。


   ところが、ハ津谷先輩に集まってきた群れは礼拝が始まってもしばらくは消える様子を見せず、むしろチャペルが終わるまでどんどん増えていた。目に見える幽霊を何とかしたくて礼拝に来ていたのに、今では礼拝が幽霊とご対面する場になっている……。

ねえ、無理して神学部の礼拝に出なくてもいいんじゃない? 他の学部のチャペルだって週に二〜三回あるんだし、私と社会学部のチャペル出たらいいじゃん。


社学でやってない時は部長のいる文学部とか商学部のチャペルに出る手だってあるんだしさ。

うん……それも考えてはいるんだけど。
   気になるのだ。何で神学部のチャペル、それもクリスチャンの学生にあれだけの霊が引き寄せられるのか……先輩は幽霊に囲まれても見えてないし平気なようだが、もし自分にも同じことが起きたらと思うとゾッとする。

 そうならないようにも、なるべく早いうちに幽霊が先輩に集まる理由を突き止めておきたい。そもそも、神学部に来たのは何とかして幽霊の悩みを解決したいからでもあったのだ。
どうする? 今からでも他のチャペルに行く……? さっちゃん、チャペルそのものはできるだけ休みたくないんでしょ?
うん……ありがと。でも、やっぱりここのチャペルに出るよ。もともと幽霊なんて平気になろうって神学部に来たんだし。
 早智は静かにチャペルの中へ進む。確かに、たくさん幽霊を引き寄せた先輩と一緒のチャペルに出るのは不安だ。けれども、この一週間でよくわかったのは、先輩に引き寄せられた霊は、なぜかチャペルが終わるまで早智の方には寄ってこないということだ。

 ということは、先輩の座っているところから十分な距離さえ取っていれば、それほど心配する必要はないことになる。いつもなら、早智の目にする幽霊は必ずと言っていいほどこっちに近づいてくる。逆に言えば、チャペルの間だけは離れたところから落ち着いて幽霊を観察することができるのだ。

 「幽霊追い払う方法とか、見なくて済む方法とかわかるようになるかもしれないじゃん」……杏実がこの大学に一緒に行こうと誘ったときの台詞を思い出しながら、早智は彼女に「入ろ」と手招きする。方法が見つかるかはわからないけれど、探さなければそもそも見つからない。杏実のくれたきっかけを無駄にしたくはない。
ほほぅ……早智も成長したね。中学の時は私の前じゃ泣いてばっかりだったのに。お姉ちゃん嬉しいよ。
だから、アンちゃん私より下じゃん。まあいいけど……さっ、入ろ。もうチャペル始まるし。
そうだね、それにしても毎回不思議に思ってたんだけど……。
   チャペルに入ってから、声のトーンを落として杏実はひそひそ囁いた。
神学部って、他の学部より少ないけれどクリスチャンの数は多いんだよね? にしてはチャペルの出席数少なくない? 教員もみんなクリスチャンなんだよね? いつもニ、三人しか見かけないけど……。
まあ、私もそれは思ってた……。
   早智が神学部に入学してから今まで、チャペルに出ている人の数は平均して十数名。それも毎回決まったような人たちだ。他学部のチャペルも相当出席が少ないとはいえ、神学部でこの人数は早智も想像していなかった。
私と早智と茜さん、それに八津谷先輩でしょ? 時たま部長が来て五人。あとはだいたい先生とか霊南坂さんたち補佐の人だよね? 毎回この人数とは思わないけど、普段こんな少なくて神学部大丈夫なの?
何か、神学部のチャペルはつまらないって思う人たちも多いらしくて……クリスチャンでも自分の教会でやってる礼拝と全然違う内容にはついていけないんだと思う。
教会の礼拝って、そんなバリエーションあるの? だいたいみんな賛美歌歌って、お祈りして、聖書読んで、メッセージ聞いて……って感じじゃないの?
そこはほとんど一緒だけど、賛美歌だって伝統的でクラシックな曲を使うか、ドラムとかギターを使って歌う曲を選ぶかで全然違うもんね。
えっ! 礼拝でドラムとかギター使うとこあるの!?
うん、私の所属してる教団はあまりないけど、お母さんが子どもの頃通ってた教会に遊び行ったときは、ドラムもベースも置いてあったよ。私はどっちかというとクラシックな方が安心するけど。
そうなのか……知らなかったよ。そんなバンドっぽい礼拝があること。
まあ、単純に面倒くさいとか、次の授業の課題できてねえとかで来ない人も多いけどな。
 突然入ってきた霊南坂さんに、早智も杏実もビクッと振り返った。以前会ったときよりも眉を真ん中に引き寄せ、若干不機嫌な様子だ。しかし、怒っていてもその顔は綺麗に整っている……羨ましいし、ちょっとずるい。
うわっ、びっくりした……。
霊南坂さん、急に入るからびっくりしたじゃないですか!
悪いね、つい……共学補佐と教務補佐は全員チャペルの出席が義務づけられているからさ。毎日チャペル出てるんだけど、ここまで同じ学部の人が出てこないと、ちょっと嫌になってね。
 「補佐」というのは神学部で授業のサポートをしているバイトや職員のことだ。院生の何人かが共学補佐として神学部の図書室の管理をしたり、授業で使うプリントの印刷をしてくれたりしている。教務補佐は完全に職員として雇われている人たちだ。どちらも、チャペルの時間は業務を中断して出てこなければならないらしい。
まあそりゃ、神学部なのにこんな出席少ないとは思わなかったですわ。
他の学部だとキリスト教学の授業でチャペルの出席取られるから、毎日礼拝のあるこっちのチャペルに来る人も多いんだよ。時期によっては神学部より他学部の方が上回るときさえあるからね……。


だけど、神学部はチャペルの出席をそもそも取らないんだ。礼拝には出るのが当たり前って考え方だからさ。

確かに、礼拝の出席を授業評価に入れるのは抵抗ありますもんね。

それは別にいいんだけど、将来牧師目指している人が普段やってる礼拝に出ないってどうなんだろうね……教員だってもっとちゃんと来てほしいよ。


礼拝に出たいと思わない人間が礼拝について教えるっていうのも何か悔しいし、せめて自分のゼミ生がメッセージするときくらいは見に来てほしい。

 そういえば、一昨日のメッセージは霊南坂さんが担当だった。彼女がどのゼミに所属してるのか早智は知らないが、どうやら自分の指導教授に来てもらえなかったのが不機嫌の原因らしい。教授が見てる前でメッセージをするなんて、その方が緊張しそうなものだが……。
そうですね、私も新入生オリエンテーションで、「ちゃんとチャペルに出ましょう」って言われた覚えあるけど、教授もあんまり来てないんですよね……いつも新任の先生を少し見るくらい。
   最初のうちは、入学したばかりの学生や神学部に赴任したばかりの新任教師が毎日チャペルに来るのを見ることができる。しかし、時間が経つにつれ、一人二人と減っていき、牧師の資格を持つ教員でさえ一度もチャペルに来ない週というのが少なからずある。そして、早智の同期も二日目以降ほとんどチャペルで顔を見なくなっていた。
他学部からなら今のところ私毎日来てますよー、神学部の教授に勝った!
ああ、アンさんだっけ? 社会学部だったかな……いつも来てくれてありがとう。そういえば、この前から他学部っぽい子がよくチャペル前に来るんだけど……君の知り合い?
えっ?
   チラッと霊南坂さんが視線を送った先に、チャペルの入り口付近でウロウロしている女の子が見える。実は早智も、ここ最近彼女を見かけて気になっていたのだ。
うう〜ん、ポニーテールで茶色い髪、ちょっとスポーツできそうな小柄な子……うん、全然心当たりありません!
この前「チャペル出たいの?」って聞いたら、「大丈夫です!」ってすぐ逃げられちゃったんだけど……それ以来どうしたいのかわからなくて声がかけられないんだよね。神学部の子じゃないと思うんだけど。
……とりあえず、そろそろ座りません? もう招詞も読まれそうですし。
   招詞とは、礼拝の初めに読まれる短い聖書の言葉だ。「招きの言葉」と言われることもあり、その日の説教のテーマや教会の行事歴から選ばれることが多く、教会によってはないところもある。神学部では前奏が終わった後、それを読んでから礼拝を始めることになっていた。
一番後ろにしよっか。
   一緒にチャペルに入った杏実が、早智に気を遣って、霊に囲まれた八津谷先輩からなるべく離れようとしてくれる。ありがたくその言葉に従って、一番後ろの席に早智が杏実と並んで座ると、さっきの女の子がおそるおそる礼拝堂へ入ってきた。


   なぜかオドオドした感じで全身が緊張してるのが伝わってくる。その子は聖書と賛美歌を受け取ると、ぎこちなく早智たちと同じ一番後ろの席に腰を下ろした。席に座るなり、彼女は寒そうに手足を摩り始める。早智がチラッと横目で見た彼女の首には、びっしりと鳥肌が立っていた。

今日、与えられましたペリコーペは……。
   司会者がお祈りをし、聖書が読まれ、説教者の朗々とした声が続いていく。今日のメッセージは社会人編入の院生が担当しているらしい。難しい神学的な用語や格式ばった言葉遣いがふんだんに使われている。

 いつもいつもこうではないし、もっとわかりやすく話してくれる院生や教員の先生もいる。とはいえ、確かに自分たちが置いてけぼりにされるような礼拝はつまらないと言われても仕方がないかもしれない。


   小さい頃から教会に通っている早智だって、今日のように誰のために誰に向かって話されているか分からない説教はつまらないのだ。隣にいる杏実も欠伸を隠さないで聞いている。

ひっ……。
   退屈な時間、何の変化もないはずの教室で、隣の女の子が驚いて息を飲む瞬間を早智は見逃さなかった。それはちょうど、八津谷先輩の周りで蠢いていた黒い影が、スッと彼の中を突き抜けていった時だ。先輩は相変わらず気づいた様子もなく平気な顔でいるが、見ているこっちはいつもドキッとしてしまう。
あの……大丈夫?
   早智を挟んで座っていた杏実も、その子が様子のおかしいことに気づいて声をかける。特に暑いわけでもないのに、顔中汗でびっしりだ。彼女は杏実にコクッと頷きながら、青い顔でゆっくりと席を立ち上がると、よろよろとチャペルを出て行った。
何か……この前の早智みたい。
 もしや、もしやと思っていた早智は、思わず居ても立ってもいられなくなった。この一週間、チャペルの前で立ちすくんだまま入ってこなかった彼女の様子、八津貝先輩の体を霊が通り抜けていったときの今の反応……やっぱり、やっぱりあの子も……。

 早智は「ちょっと抜けるね」と小声で杏実に言うと、そっと席を立ち上がった。礼拝中に自分からチャペルを出て行くなんて初めてのことだ。それでも、早智は追いかけずにはいられなかった。
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登場人物紹介

月無早智、18歳。

牧師の娘でクリスチャン。中学の頃から幽霊が見えるようになってしまったが、家族にも教会の人にも相談できずにいる。


「聖職者になれば幽霊なんて平気じゃん」と言う友人に誘われたのをきっかけに、総合大学の神学部伝道者コースに入学する。院生の八津貝亮と出会ってから、幽霊に関する様々な事件に巻き込まれるようになった。

八津貝亮、22歳。

神学部思想文化コースの院生。全く霊感がないにもかかわらず、なぜか幽霊に関する事件の相談を受けることが多い。他学部では「神学部のエクソシスト」と呼ばれ有名だが、本人はエクソシストをしているつもりはない。


自覚はないが霊を引き寄せやすく、そのせいかはわからないが常にどこか調子が悪い。かと思えば、以外とタフな一面も見せる。ストレスが溜まるとシャボン玉を吹き始める。

川井古和、20歳。

文芸部の部長をしている文学部心理学科の三回生。文化祭で出会った杏実と仲良し。のほほんとした雰囲気に見えるが素で人を振り回す侮れない先輩。


ミステリー小説をネット上にアップしている。事件と名のつくものがあれば、とりあえず現場に行きたくなってしまう。八津貝亮の周りで何か起これば、たいてい彼女が現れる。

小友杏実、18歳。

早智に幽霊が見えることを知っている唯一の友人。周りからはアンと呼ばれている。明るく話しやすい人柄で口も固い。自分の進みたい総合大学に神学部があることを知り、進路に悩んでいた早智をそこへ誘った。自身は社会学部に入る。


ホラー小説や映画が好きで、自分も文芸部に入って小説を投稿している。文芸部のOBの院生が「神学部のエクソシスト」であることを知り、早智だけでなく彼にも会いに、よく神学部へ遊びに来るようになった。

霊南坂舞、22歳。

神学部伝道者コースの院生で、亮と同じ学年。教学補佐をしており、院生の中では早智たちとよく絡む。見つからない時はだいたい喫煙所にいる。


亮と一緒にいることが多いせいか、付き合っていると勘違いされやすいが、本人は「そういう興味はない」と言っている。どういう意味にとるかは神学部の中でも解釈が分かれている。

大葉   茜、50歳。

神学部伝道者コースの社会人編入生。入学してから最初にできた早智の友人。数年前から科目等履修生をしていたので、学内には詳しい。


本人は気づいてないが、亡くなった夫らしき霊(手首のみ)が憑いている。「幽霊は死んで天国に行けなかった人の魂なのか?」という困難な問題に早智を直面させることになった。

月無葛見、45歳。

早智の父親で牧師をしている。神様は全ての人の魂を救ってくださる方だから、幽霊はいないはずだと思っている。娘に幽霊が見えていることは知らない。


破壊的カルトの脱会活動も行っており、地獄の存在を強調したり、悪魔祓いと称する儀式を行う宗教者を警戒している。そのため、「神学部の悪魔祓い師」と噂される学生の存在が気になっている。

奥野鈴香、18歳。

一人暮らしを始めたばかりの文学部の新入生。小さい頃から時々幽霊を見ていたが、下宿先のマンションで毎晩幽霊が現れるようになり、帰れなくなっていた。


「神学部の悪魔祓い師」の噂を聞きつけ、相談するために神学部を訪れた。亮が多くの霊に取り囲まれているのを見て声をかけられないでいたところ、早智と知り合った。

黒麻弥恵、19歳。

実家通いの商学部の二年生。文芸部で杏実の先輩。新しい家に引っ越してから、度々ポルターガイストの現象に悩むようになった。


毎晩、家族と夕食をとっていると自分の手が引っ張られたり椅子から落とされたりするため、見えない幽霊に怯えて暮らすようになった。杏実の紹介で亮と早智に相談するため、神学部を訪れた。

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