第25話 アダムとエバと蛇と名前?

文字数 2,719文字

…………結局……「悪魔」が出てきたのは私が食事中……妻に話しかけなかったからなのか?
「悪魔」が弥恵さんを引っ張る「理由」はわからないですけど、「悪魔」が出てきた「結果」はわかるので、そこからどうするか考えましょう。
……結果?
「悪魔」が弥恵さんを引っ張ると、黙っていたお父さんがお母さんの名前を呼んで二人を助ける行動を取ってきたんですよね? なら、その変化を「悪魔」が出てくる前に起こしてやったらどうですか? 

話しかける話題がなくてもいいから、お母さんの名前だけでも呼んでみるとか。
…………妻の名前を?
よくテレビの悪魔祓いとかで悪魔の名前を聞き出して叫んで追い出す場面があるけど……そっちじゃないんだね。
悪魔が名前を叫ばれたら出て行くのかはよくわからないけど……悪魔みたいに自分たちの関係性に不安をもたらすものが出てきたとき、「名前を呼び合う」ってけっこう大事なことなんだよ、聖書の中でも。
えっ……!
 先輩が聖書の話を……! 早智は驚いて思わず小さな声が出てしまった。
創世記の初めの方で、最初に作られた人間アダムとエバが蛇にそそのかされて神様の言いつけを破っちゃう話、聞いたことありますよね?
……ああ……有名な話だ。
アダムは神様から「食べるなと命じた木から食べたのか?」って聞かれたとき、「あの女が取って与えたので食べてしまいました」ってエバのせいにしちゃうんです。でも、エバが蛇にそそのかされたとき、アダムも一緒にいたけど全く止めようとしてなかったんです。
エバが木の実を渡したときもためらわず受け取るしねー。それなのに、神様に責められたらエバだけ悪者にしちゃうってひどい人だよー。
普通なら、もうこれで二人の関係って壊れちゃうでしょう? でも、この出来事の後、アダムは初めてエバに名前をつけるんです。
えっ……それまで名前つけてなかったんですか?
そう、神様から与えられたパートナーだったけど、アダムはまだ名前をつけてすらいなかったんだ……ひどい男でしょ。でも、蛇にそそのかされたのをきっかけに完全に壊れるはずだった二人の関係が、名前を呼び合うようになってまた回復するんだよ。
アダムとエバの話に出てくる蛇は、よく「悪魔」として捉えられますよね……。
実際のとこ、蛇が悪かったというより、蛇が出てきて人間の問題が露わになったって言った方がいい気もするんだけど……本来ならそのまま崩れていくはずだっ た二人の関係が崩れずに済んだのは、アダムがエバの名前をちゃんと呼ぶようになったっていうところにもあるんじゃないかなと思うんです。
 確かに、アダムがエバに名前をつけてからは、蛇が二人の前に現れることはなくなっている……そういう読み方を早智はしたこともなかったが。
人と人との関係は名前を教えたり聞いたりすることから始まるし、さらに深い関係を築くのも名前を呼び合い続ける中でです。離れた関係を近づけるのも名前を呼ぶっていう行動から……もし、誰かと誰かの関係を破壊しようとするのが悪魔なら、その真逆の行動はなかなか効果的な手段じゃないですか?
……名前を呼ぶだけでいいのか?
今まで声かけられなかったのに、突然名前呼ばれるのも何か恥ずかしいけど……。
最初は「何を話したらいいかわからないんだ」って言ってましたけど……お父さん、今だって話し始めたらけっこう話してますよね? たぶん、名前でも何でもひと言声がかけれたら、少しずつ食事中でもお母さんに話せると思いますよ。
……それ、いいと思う。
弥恵?
今日話聞くまでお父さんがお母さんと二人でよく話してたのも、食事中一生懸命話そうとしてたのも知らなかったけど……そうやって照れながら話してるとこ、もっと見せてくれてもいいと思う。
…………参ったな。
私も弥恵がそんなふうに思ってたなんて気づいてなかったわ……ごめんね。
ううん……先生、これで「悪魔」いなくなるかな?
どうかな……また出てきても、やっぱり自分たちには「手に負えない」ものだと思う?
……そうじゃ、ないかも。
お父さんもお母さんもいるし、私たちもまた遊びに来るから大丈夫だよー。私だって、いつまた引っ張られるようになるかわからないけど、みんながいるから安心だしね。
そっか……また出てきても、大丈夫……なんですね。
 最後に部長の言葉を聞いて、弥恵さんはホッとしたように微笑んだ。途中で止まっていた食事を再開し、早智たちはしばらくして弥恵さんの家を後にした。
……先輩も聖書の話、ちゃんとするときもあるんですね。
自然に出てくるときはね……俺だって全くしないわけじゃないよ。
おっ、ちょっとエクソシストっぽいと思った?
いえ、全然……。
 あの後、食事を再開してから「悪魔」が出てきたわけでもなのに何度もお茶をこぼした先輩を思い出して、早智は苦笑いする。本当に、どこまでも締まらない先輩だ……。
部長と先輩は……私が「見えてる」の、前から知ってたんですか?
 帰り道、途中で立ち止まって早智は聞いた。二人はゆっくりと振り返る。
……アンちゃんの小説を私も見せてもらったとき、見えない人にしては妙にリアルだなーって思ってさ……「誰か友達にそういう人がいるのかな?」とは思ってたんだよ。

そしたら入学式当日に、まさに小説のイメージっぽい子が入ってきたから「もしかして?」とはずっと思ってたんだ。
俺は小説読んでても最初全然気づかなかったけど……古和からチラッてその話聞いて、確かに小友さんの小説に出てきた主人公っぽいなと……だから今日聞いてもあまり驚かなかったよ。
そうだったんですか……。
 結局、杏実が書いた小説がきっかけだったのか……自分がモデルになってることは早智本人しか分からない程度かと思っていたが、読む人が読めばわかってしまうものらしい。
あの……見えるの黙っててすみませんでした。
お互い様だよ、私も言ってなかったしねー。
言わなきゃならないってもんでもないだろうし……別にいいんじゃない? 
でも……スズちゃんのときも私のことは黙ってて……。
それ、私もだから。
あっ……。
 そうか……部長もスズちゃんに「私も見えてたんだよー」とは言わなかったし、早智と同じように黙っていたのだ。現金だが、他の人も仲間だと思うと少し罪悪感が薄れてくる。
「見える」って言ったらどんな目で見られるか、まだまだ難しいからね……誰に、いつ、どうやって自分のことを伝えるかは慎重に考えるのが自然だと思うよ。俺だって神学部で幽霊とか悪魔が見えるようになったら、そうそう人に話さないだろうし。
 しかもチャペルの時間に大量の幽霊を引き寄せてるのだから、余計にそんなこと話せなくなるだろう……心が軽くなって、早智はくすっと笑った。
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登場人物紹介

月無早智、18歳。

牧師の娘でクリスチャン。中学の頃から幽霊が見えるようになってしまったが、家族にも教会の人にも相談できずにいる。


「聖職者になれば幽霊なんて平気じゃん」と言う友人に誘われたのをきっかけに、総合大学の神学部伝道者コースに入学する。院生の八津貝亮と出会ってから、幽霊に関する様々な事件に巻き込まれるようになった。

八津貝亮、22歳。

神学部思想文化コースの院生。全く霊感がないにもかかわらず、なぜか幽霊に関する事件の相談を受けることが多い。他学部では「神学部のエクソシスト」と呼ばれ有名だが、本人はエクソシストをしているつもりはない。


自覚はないが霊を引き寄せやすく、そのせいかはわからないが常にどこか調子が悪い。かと思えば、以外とタフな一面も見せる。ストレスが溜まるとシャボン玉を吹き始める。

川井古和、20歳。

文芸部の部長をしている文学部心理学科の三回生。文化祭で出会った杏実と仲良し。のほほんとした雰囲気に見えるが素で人を振り回す侮れない先輩。


ミステリー小説をネット上にアップしている。事件と名のつくものがあれば、とりあえず現場に行きたくなってしまう。八津貝亮の周りで何か起これば、たいてい彼女が現れる。

小友杏実、18歳。

早智に幽霊が見えることを知っている唯一の友人。周りからはアンと呼ばれている。明るく話しやすい人柄で口も固い。自分の進みたい総合大学に神学部があることを知り、進路に悩んでいた早智をそこへ誘った。自身は社会学部に入る。


ホラー小説や映画が好きで、自分も文芸部に入って小説を投稿している。文芸部のOBの院生が「神学部のエクソシスト」であることを知り、早智だけでなく彼にも会いに、よく神学部へ遊びに来るようになった。

霊南坂舞、22歳。

神学部伝道者コースの院生で、亮と同じ学年。教学補佐をしており、院生の中では早智たちとよく絡む。見つからない時はだいたい喫煙所にいる。


亮と一緒にいることが多いせいか、付き合っていると勘違いされやすいが、本人は「そういう興味はない」と言っている。どういう意味にとるかは神学部の中でも解釈が分かれている。

大葉   茜、50歳。

神学部伝道者コースの社会人編入生。入学してから最初にできた早智の友人。数年前から科目等履修生をしていたので、学内には詳しい。


本人は気づいてないが、亡くなった夫らしき霊(手首のみ)が憑いている。「幽霊は死んで天国に行けなかった人の魂なのか?」という困難な問題に早智を直面させることになった。

月無葛見、45歳。

早智の父親で牧師をしている。神様は全ての人の魂を救ってくださる方だから、幽霊はいないはずだと思っている。娘に幽霊が見えていることは知らない。


破壊的カルトの脱会活動も行っており、地獄の存在を強調したり、悪魔祓いと称する儀式を行う宗教者を警戒している。そのため、「神学部の悪魔祓い師」と噂される学生の存在が気になっている。

奥野鈴香、18歳。

一人暮らしを始めたばかりの文学部の新入生。小さい頃から時々幽霊を見ていたが、下宿先のマンションで毎晩幽霊が現れるようになり、帰れなくなっていた。


「神学部の悪魔祓い師」の噂を聞きつけ、相談するために神学部を訪れた。亮が多くの霊に取り囲まれているのを見て声をかけられないでいたところ、早智と知り合った。

黒麻弥恵、19歳。

実家通いの商学部の二年生。文芸部で杏実の先輩。新しい家に引っ越してから、度々ポルターガイストの現象に悩むようになった。


毎晩、家族と夕食をとっていると自分の手が引っ張られたり椅子から落とされたりするため、見えない幽霊に怯えて暮らすようになった。杏実の紹介で亮と早智に相談するため、神学部を訪れた。

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