第10話 旧約聖書に地獄はない?

文字数 3,928文字

ところでさ、スズちゃんが「見える」ことは、お父さんもお母さんも知らないの?   幽霊のこと両親には相談してないの?
お母さんには問い詰められて何度か話したんだけど……私が「見える」ってことをどう捉えたらいいかわからないみたいで。お父さんには私から話してないし、たぶんお母さんも伝えてないと思う。
じゃあ、今回のことも二人には話してないの?
言っても困った顔されるだけだと思って……実家に連絡したり帰ったりするのもどう説明すればいいかわからなくて今日まできちゃいました。
   両親に相談できていないのは自分だけじゃないんだと知って、早智はちょっとホッとする。自分の場合は母親も「見える」ことを知らないが。
なるほど。ちなみにさ、俺に相談しにきたのは何をどうしたいからなんだろう?
えっ、どうしたいって……?
そりゃ幽霊を何とかしてもらいたいに決まってるんじゃ……このままじゃ家に帰れないし。
家に幽霊がいなくなればいいのか、幽霊そのものを見えなくしたいのか、幽霊が見えても平気になりたのか……色々あると思うんだけど。スズさんの解決したいことが何かまだよくわからないんだ……スズさんは何がどう変わってほしいと思ってるの?
 先輩の言葉を聞いて、思わず早智は身を乗り出した。
……それって、「幽霊をいなくしてほしい」って言えば幽霊を追い出すし、「幽霊を見えなくしてほしい」って言えば見えないようにできるってことですか?
いや、そうできるってわけじゃないよ。ただ、幽霊に悩んでるからってみんながみんな同じ仕方で解決したいって思ってるわけじゃないからさ……「自分だけ幽霊が見えるのは嫌」って人でも、今まで見えてた幽霊が急に見えなくなって、どこにいるのかわからなくなったら不安でしょ?


「幽霊が見えなくなればいい」っていうのと「幽霊に去ってほしい」っていうのは全然違うことだし、スズさんが思い描いてる着地点がどこなのか知りたいだけなんだ。

私……見えること自体はそんなに気にしてないんです。小さい頃からいつも見えてたわけじゃなかったし、幽霊が見えたらその場所を避ければ済む話だったので。でも今は、避けることができない場所に出てくるので……。
いつも見えてたわけじゃない? 見える時期と見えない時期があったってこと?
はい……だいたい四月から六月頃に見えることが多くて、それ以外の時期はほとんど見ることもなかったんです。
四月から六月? じゃあちょうど今の時期か。毎年必ずこの時期に見えてたの?
いえ、毎年では……新しい家に引っ越した年とか、小学校から中学校に上がった年とかはよく見えたんですけど、ほとんど一年間何も見なかった年もありました。
そうか……スズさんが見えること自体を気にしてないのは、見えてもそんなに頻繁じゃなくて、簡単に避けることができていたから?
はい、外で見かけても「あっ、また見えるようになったな……気をつけよ」くらいにしか思ってなかったので。
今回も六月頃にはまた見えなくなるかもしれないとは思ってる?
いつもなら四月から六月の間にだんだん見えることが減っていくんですけど……今回はむしろ見えることが増えてるし、今までよりも私に絡んでくるんです。目の前に出てきたり、触ってきたり……。
   早智は、スズがチャペルから出てきた先輩に会ったとき、彼に纏わりついていた幽霊がスッと彼女の髪に触れていたのを思い出す。確かに、隣に早智もいたのにスズだけに絡んでいた気がする。
じゃあ、このまま待ってても消えてく気配はないってことか……。
先輩、何とかできるんですか?
どうだろう?   どうにかできなくても、どうにかなるかもしれないけど。
えっ……?
 どうにかできなくても、どうにかなるかもしれない? 何だろう、その曖昧な感じ……
とりあえず、スズさんは幽霊が見えなくなるようになりたいんじゃなくて、幽霊を避けることができるようになりたいんだね?
えっと……はい。別に見えるのに困ってるわけじゃなくて、家に出るから困ってるんです。外で見えても避けられるけど、自分の寝る部屋に出るのはどうしようもなくて。
幽霊が見えると寒気がしたり気分悪くなったりするみたいだけど、そういうのはかまわないの?   それも避ければ済むってことかな?
あれは慣れませんけど……嫌な感じのするところから離れれば寒気も消えるし、見えない時期にそうなることは今までなかったので。
   同じ見える人でもやっぱり色々と違う。早智の場合は、幽霊のいる場所から離れようと向こうがこっちについてきてしまうため、そもそも「避ければ済む」という話ではないからだ。
じゃあ、スズさんは自分に見える幽霊を避けることができればいいんだね? 
はい、別に見えててもいいから、関わらなくて済むようになりたいです。
幽霊を避けたいのは、関わるとスズさんが何か被害を受けるから?   寒けがしたりする以外にも嫌なことがあるの?
被害……というか、そのまま関わり続けたら何か悪さをされたり……連れていかれたりしそうで。
連れていかれそう?   どこに?
えっ、えっと……。
具体的に、自分が見たものからそういうことをされた経験とかがある?
具体的に……ですか?
実際に、どこかへ連れていかれそうになったとか。
本当にどこかへ連れていかれたことはないですけど……。
 スズがまた返答に困っているのを見て、先輩は再び質問の仕方を変える。
そうか……じゃあちょっと違う質問にしよう。スズさんが幽霊に関わっていると「連れていかれそう」って思うのはどういう感覚?   どこに連れていかれそうとか、連れていかれたらどうなると思っているかとか?
幽霊が連れていく場所っていったらあの世じゃないの?   あっ、「あの世」じゃキリスト教っぽくないか。幽霊が天国に連れていくっていうのも変だし、キリスト教で言えば地獄?
厳密に言うといわゆる「地獄」は旧約聖書に出てこないんだけどね。
えっ、そうなんですか?
旧約に出てくる「陰府」は、一般的にイメージされてる「地獄」とは違うんだよ。旧約に出てくる人たちは地獄に落ちることを恐れていたんじゃなくて、どちらかというと神様から忘れ去られることを恐れてたんだ。

ところどころ「命の書」っていうのが出てきて、そこに自分の名前が記されない=死んだら神様に忘れられるってことだったんだ。


彼らが死ぬときに求めてたのは自分たちの家族と同じ墓に入って「先祖の列に加えられる」ことだけで、死んだ後のことより、むしろ生きてる間に神様から受ける祝福が大事だったんだよ。

へぇ……以外と現実的。
スズさんも幽霊に連れていかれそうっていうのは、あの世みたいな所にって感じてるの?
ええと、何ていうか……知らない間に生きてる人から切り離されるのが怖いんです。気づいたら誰もいない一人っきりの場所に連れて行かれてしまうんじゃないかって。
生きてる人から切り離されるっていうのは、死ぬのとは違うの?
呪われたり気づかない間に取り憑かれてしまうのが怖いってこと? 
死ぬとか憑かれるというより……一人にされるというか……。
一人にされるか……。
   そう呟いたきり、八津谷先輩は黙りきって何やら考え事を始めてしまった。その間に早智もふと考える。自分が幽霊を怖がるのも、どこかに連れていかれそうだから?  


   いや、どちらかというと早智の場合は、自分を自分じゃないものにしようとしてくるような、そんな不安を幽霊に対して感じている。


   今まで自分が見えているものに対してなぜ不安を抱くのか、恐怖を覚えるのか考えてこなかったけれど、もしかするとそこに見えなくなるためのヒントもあるのかもしれない。

あのさ、とりあえず家に幽霊出なくなってほしいのはわかったんだしさ。この際一度みんなで行ってみればいいんじゃない?
   みんなが黙り込んだ中、痺れを切らした杏実がふいに口を開いた。唐突な提案に早智はまた慌ててしまう。
えっ、行ってみるって、どこに?
スズさんの家にだよ。幽霊が見えるのってほとんど一人だけのときなんでしょ? じゃあ、四人一緒にいたら見えなくなるんじゃない? 夜だって他に誰かが一緒にいたらスズさん家に帰れるじゃん。
みんなうちに来るってこと?
ちょっ、ちょっと急じゃない?   迷惑だよね?
   このままじゃ自分も行く流れになってしまう……普段は自分を幽霊から遠ざけようとしてくれるが、今日はなぜか反対のことをしてくる杏実に早智は焦りを募らせる。
もともと幽霊追い出すときには家に来てもらわないとダメだと思ってたから、それ自体は別に……ただ、そこまで付き合わせちゃうのも悪いし……。
とはいえ一人暮らしの女の子の家にいきなり……それって俺も入ってるの?
先輩がいないと意味ないじゃないですか。もともと先輩に相談に来たんだし。
後輩の女の子の家にいきなり行くってのはちょっと抵抗がある。
私は大丈夫です。このままじゃどうせ一人で帰れないし。
じゃ、今からさっそく行こうよ。
いっ、今から?
   わざわざ幽霊がいるとわかってるところに行きたくない。スズはともかく、早智は自分の見た幽霊から離れても付いて来られる可能性が高いのだ。


   まさかそんなことはないと思うが、杏実は幽霊を早智に引き寄せてスズの家から追い出そうとしているのだろうか?   いや……さすがにない。ないってわかってるけども!

今からでも私は大丈夫です。

部屋しばらく掃除してないので申し訳ないですけれど……。

   その言葉に、杏実はにこっと笑って早智を見る。いったい何を考えているのやら……そういうわけで、早智は不本意にも幽霊が出るマンションへ自ら一緒に行くことになってしまった。
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登場人物紹介

月無早智、18歳。

牧師の娘でクリスチャン。中学の頃から幽霊が見えるようになってしまったが、家族にも教会の人にも相談できずにいる。


「聖職者になれば幽霊なんて平気じゃん」と言う友人に誘われたのをきっかけに、総合大学の神学部伝道者コースに入学する。院生の八津貝亮と出会ってから、幽霊に関する様々な事件に巻き込まれるようになった。

八津貝亮、22歳。

神学部思想文化コースの院生。全く霊感がないにもかかわらず、なぜか幽霊に関する事件の相談を受けることが多い。他学部では「神学部のエクソシスト」と呼ばれ有名だが、本人はエクソシストをしているつもりはない。


自覚はないが霊を引き寄せやすく、そのせいかはわからないが常にどこか調子が悪い。かと思えば、以外とタフな一面も見せる。ストレスが溜まるとシャボン玉を吹き始める。

川井古和、20歳。

文芸部の部長をしている文学部心理学科の三回生。文化祭で出会った杏実と仲良し。のほほんとした雰囲気に見えるが素で人を振り回す侮れない先輩。


ミステリー小説をネット上にアップしている。事件と名のつくものがあれば、とりあえず現場に行きたくなってしまう。八津貝亮の周りで何か起これば、たいてい彼女が現れる。

小友杏実、18歳。

早智に幽霊が見えることを知っている唯一の友人。周りからはアンと呼ばれている。明るく話しやすい人柄で口も固い。自分の進みたい総合大学に神学部があることを知り、進路に悩んでいた早智をそこへ誘った。自身は社会学部に入る。


ホラー小説や映画が好きで、自分も文芸部に入って小説を投稿している。文芸部のOBの院生が「神学部のエクソシスト」であることを知り、早智だけでなく彼にも会いに、よく神学部へ遊びに来るようになった。

霊南坂舞、22歳。

神学部伝道者コースの院生で、亮と同じ学年。教学補佐をしており、院生の中では早智たちとよく絡む。見つからない時はだいたい喫煙所にいる。


亮と一緒にいることが多いせいか、付き合っていると勘違いされやすいが、本人は「そういう興味はない」と言っている。どういう意味にとるかは神学部の中でも解釈が分かれている。

大葉   茜、50歳。

神学部伝道者コースの社会人編入生。入学してから最初にできた早智の友人。数年前から科目等履修生をしていたので、学内には詳しい。


本人は気づいてないが、亡くなった夫らしき霊(手首のみ)が憑いている。「幽霊は死んで天国に行けなかった人の魂なのか?」という困難な問題に早智を直面させることになった。

月無葛見、45歳。

早智の父親で牧師をしている。神様は全ての人の魂を救ってくださる方だから、幽霊はいないはずだと思っている。娘に幽霊が見えていることは知らない。


破壊的カルトの脱会活動も行っており、地獄の存在を強調したり、悪魔祓いと称する儀式を行う宗教者を警戒している。そのため、「神学部の悪魔祓い師」と噂される学生の存在が気になっている。

奥野鈴香、18歳。

一人暮らしを始めたばかりの文学部の新入生。小さい頃から時々幽霊を見ていたが、下宿先のマンションで毎晩幽霊が現れるようになり、帰れなくなっていた。


「神学部の悪魔祓い師」の噂を聞きつけ、相談するために神学部を訪れた。亮が多くの霊に取り囲まれているのを見て声をかけられないでいたところ、早智と知り合った。

黒麻弥恵、19歳。

実家通いの商学部の二年生。文芸部で杏実の先輩。新しい家に引っ越してから、度々ポルターガイストの現象に悩むようになった。


毎晩、家族と夕食をとっていると自分の手が引っ張られたり椅子から落とされたりするため、見えない幽霊に怯えて暮らすようになった。杏実の紹介で亮と早智に相談するため、神学部を訪れた。

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