第5話 エクソシストは霊感ゼロ?

文字数 3,987文字

   コポコポコポ……温かいお湯の注がれる音、ほんのりと漂うコーヒーの匂い。気がつくと、早智はコピー機の横に置かれたソファーの上で、ぼんやりと意識を取り戻していた。
……どういうわけか古和が来るときは何かしら事件が起きている気がする。
事件が私を呼んでいるとも言えるし、八津谷くんが厄介ごとを引き寄せているとも言えるんじゃないかな?
   部長と誰かの話し声が聞こえる。たぶん、相手は例の八津谷先輩だろう。早智がまだ重たく感じる頭を声の方へ向けようとすると、側で様子を見ていた杏実と目があった。
早智! よかった〜急に倒れたからびっくりしたよ。高二のプールの時以来だったし……。
 高校二年生のプールの授業……確か、あの時も水の中からみんなの足を引っ張っているたくさんの手が見えて、早智は気を失ったのだ。結局、早智以外はみんな何ともなく、幽霊の手に触られているように見えていた人たちも平気な顔をしていた。今回もまた自分だけ倒れて迷惑をかけてしまった……。
ごめん……身体が冷えちゃって……急に。
もう大丈夫? どこも変じゃない?
 杏実の目は「何か見えたの? もうどこにもいない?」と早智に聞いていた。
……大丈夫、もう何ともないよ……。
 周りを見渡しながら、早智も目で「もう何もいないよ」と杏実に返す。幽霊が見えるときに出る鳥肌も、今のところ治っている。安心して良さそうだ。
目が覚めたのか、よかった。
 神学部のエクソシスト……そう呼ばれる八津貝先輩は、一言でいうと地味な学生にしか見えなかった。さっきまで周りにたくさんいた黒い影も、今はもうどこにも見えない。いったいなぜ、あそこまで霊が集まっていたのだろう。あそこで何かしていたのだろうか?
さっちゃん、本当にもう平気? あれからすぐ、ここまで八津谷くんに運んでもらったんだよ。チャペルに来てる男子他にいなかったからね。
   それはあんまり平気じゃないかもしれない……つい先ほどまで先輩が引き寄せていた怪しげなものたちを思い出す。あの群れの中で抱えられたのか……いつそれらが消えたのかわからないが、思わず早智はぶるっと肩を震わせた。
まだあまり大丈夫じゃなさそうだね……一応、保健館で診てもらった方が良さそうかな。落ち着いたらみんなで行こう。今日はまだ、授業って言ってもオリエンテーションだろうから、多少抜けても問題はないだろうし。
私も今日は授業ない日だからついてくよー。
えっ、何しに学校来たの……?
 優しく話しかけてくる先輩は悪い人には見えない。エクソシストの力を利用して、チャペルに幽霊を引き寄せいていた……とかいうわけでもなさそうだ。それどころか、幽霊に取り囲まれても顔色一つ変えなかったのを見ると、幽霊が見えていたかも微妙に感じる。ついつい、早智は再び八津貝先輩を凝視してしまった。
えっと……どうかした?
すみません……ちょっとまだボーっとしてて。
さっちゃん、今日はよく八津谷くんのこと見てるねー。チャペルに来た時もずっと八津谷くんのこと見てたし。
何かお前変なこと言ったんじゃないか……俺のこと。
そう! 先輩がエクソシストだって聞いて! それって本当ですか? 
 さすが杏実だ。本当に直球で本人に聞いている。それに対し、先輩の方はどう答えようか困っている雰囲気だ。部長はその様子をニコニコと眺めている。
エクソシストなんてしてないよ。悪魔とか幽霊のことで相談はなぜかよく来るけど……。
えっ、じゃあ何で相談来るんですか?
俺が聞きたい……。
あっ、あれ?……でも相談が来るってことは先輩も悪魔とか幽霊が見えたりするんですよね?
いや、全く見えん。
えっ?
へっ? 
 思わず、早智も声が漏れてしまう。見えてないんじゃ……とは思っていたが、ここまであっさり「見えない」と言われると、何だか残念に思ってしまう。

ほらねー普通でしょ?
じゃ、じゃあ! 見えないけれど相談を聞いて、幽霊とか悪魔を追い払ったことがあるってことですか? 聖書読んだり聖水を使ったりして。
そんなことしたことないよ。
マジか……ちょっと期待してたのに。
そもそも聖水の作り方とか分かんないし。
 わかんないのかよ! と杏実が心の中でつっこみを入れるのが早智にはわかった。本来、聖水は悪魔祓いに使うものというより、カトリック教会や正教会が洗礼・祝福・ミサをする際に用いる聖別した水のことだ。

 十字架を一晩水の中につけたら聖水ができる……なんてエンターテイメント作品に出てくることがあるが、実際には洗礼の前に水を聖別する式文を唱えたりするだけだ。とはいっても、早智もその式文がどんな言葉だったか覚えていない。
……なら何でエクソシストって呼ばれてるんですか?
だから俺が聞きたいよ……。
   本気で困った様子の先輩は、どうも嘘を言っているようには見えない。確かに、本人に悪魔や幽霊が見えていたら、早智みたいにひっくり返ってるか、すぐにチャペルから出て逃げようとするだろう。早智はちょっとホッとしたような、肩すかしを食ったような、複雑な気分になる。
見えないのに……そういう相談が来るのって困らないんですか?
   この際だから自分も……と、早智は思い切って聞いてみた。普段、見えないのに自分の話を聞いてくれる杏実のいる横でこんなこと聞くのは、ちょっと心が痛んだが。
えっ、困るか?って言われたらどうかなぁ……状況とタイミングにもよるけど、もともと友達の相談に乗ってたら他からも来るようになっただけだから。人の悩みとか愚痴とか聞くことって、別に珍しくないでしょ?
自分が経験したことのない悩みでも……ですか?
   若干、ハの字の形になっている眉毛をさらに傾かせて先輩は続けた。
確かに俺は幽霊見たことないけど……恋愛経験のない人が恋愛相談受けたり、バイトしたことのない人がバイトの愚痴を聞いたりすることだってあるでしょ?
   確かにあるけど、そういう次元で話していいのだろうか……。
でも、わかんなかったら悩みを聞いても解決させてあげることって、難しくないですか?
いや、問題を解決するのはこっちじゃないし。
えっ、相談受けるのに先輩は何もしないんですか?
何もしないというか……何もできないし。
   「何もできない」って……じゃあ何で話を聞くのだろう? 単に興味本位で聞いてるんだろうか? でもそれなら、先輩が「学生エクソシスト」と呼ばれるような理由がわからない。

 見かけは特に変わったところがないし、行動もエクソシストっぽいことはしていないのに、そう呼ばれるには理由がある……きっと、何かしら相談をした人間が満足する結果を得ているから、エクソシストと呼ばれてきたんじゃないだろうか?
八津谷くんはねぇ、何もしないけど変化を信じさせてくれるんだよ。
変化を信じさせる……? どういうことですか?
うーん……どういうことですかね、先輩?
えっ、俺に振るの?
さあ、一言で!
えっ、えーと……人が人を救うのは無理だけど、救われるための力は一人一人持っているんだよ。
おっ、急に説教っぽくなったねー。
えっと……ちょっとよく分かんないです。
 早智にもよくわからなかった。ただ、先輩は文字通り相談する人に何もしないというわけではなさそうだし、部長も何か知っているらしい。少しの間、早智と杏実がポカンっとしてしまったせいか、急に部屋は静かになったように感じた。
何か……変な質問してすみません。
   どうしたらいいかわからない雰囲気になって、早智は少し焦り始める。慌てて他の話題を探すことにした。
そう言えば、ここってどこですか? 神学部の中ですよね。こんな部屋ありましたっけ?
ここは講師控え室で、隣が用務員室だよ。今はパソコン室の利用があって用務員さん出てるけど、事情を話して貸してもらった。
色々すみません。茜さんと霊南坂さんにも悪かったな……。
茜さんは社会人編入生の何か手続きがあるらしくて先に行ったよ。早智が目を覚ましたら後で様子教えてって連絡先書いてくれたんだった。はい、これ。
霊南坂は共学補佐の仕事があるから、今図書室で当番しているよ。あいつも心配してたから、俺から様子伝えとくよ。
   「あいつ」と呼び捨てにするあたり、先輩と霊南坂さんはけっこう親しい間柄なのかもしれない。そういえば、先輩も彼女も同じ院生だった。きっと同学年なのだろう。早智はつくづく神学部の人間関係は狭いんだなと感じた。
ありがとうございます。私も後で二人に御礼言ってきます。
まあ、もう少し休んでからにしたら? せっかくコーヒーもできたとこだし。
   そう言って、八津貝先輩は大きなマグカップを早智に渡す。目覚めたとき漂っていた匂いがすぐ近くにやってくる。さっきまで体の冷えていた自分にはありがたい。礼を言って、早智はマグカップを受け取った。
(ズズズッ)………………………………。
   言葉が出てこないほど……苦い。一気に目がさめる味だ。
八津谷くん、これちょっと苦過ぎだよー。いくら新入生の女の子運ぶのに緊張したからって、豆の量間違えるにも程ほどがあるって。
うわっ、苦っ! そうだったんですか〜? 先輩、ずっと眠そうな顔だから分かんなかったけど、やっぱり女子には緊張するですね。
悪い、確かに豆の量は間違えた。ごめん。
おお、やっぱり緊張したんだ? 照れてますなー。
そうなんですか? そうなんですか? 先輩!
あの……やめてあげて、二人とも。
   何だか先輩が可愛そうになってきた。けれども、既にからかいモードに入った二人は止められない。申し訳ないが、早智も自分に飛び火しないように傍観していることにした。


   クリスチャンと言えど、我が身が一番の時は誰でもある。温かいコーヒーを気まずそうに飲む先輩の「ズズズッ」という音が、少しの罪悪感と共にしばらく早智の耳に残ることになった。

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登場人物紹介

月無早智、18歳。

牧師の娘でクリスチャン。中学の頃から幽霊が見えるようになってしまったが、家族にも教会の人にも相談できずにいる。


「聖職者になれば幽霊なんて平気じゃん」と言う友人に誘われたのをきっかけに、総合大学の神学部伝道者コースに入学する。院生の八津貝亮と出会ってから、幽霊に関する様々な事件に巻き込まれるようになった。

八津貝亮、22歳。

神学部思想文化コースの院生。全く霊感がないにもかかわらず、なぜか幽霊に関する事件の相談を受けることが多い。他学部では「神学部のエクソシスト」と呼ばれ有名だが、本人はエクソシストをしているつもりはない。


自覚はないが霊を引き寄せやすく、そのせいかはわからないが常にどこか調子が悪い。かと思えば、以外とタフな一面も見せる。ストレスが溜まるとシャボン玉を吹き始める。

川井古和、20歳。

文芸部の部長をしている文学部心理学科の三回生。文化祭で出会った杏実と仲良し。のほほんとした雰囲気に見えるが素で人を振り回す侮れない先輩。


ミステリー小説をネット上にアップしている。事件と名のつくものがあれば、とりあえず現場に行きたくなってしまう。八津貝亮の周りで何か起これば、たいてい彼女が現れる。

小友杏実、18歳。

早智に幽霊が見えることを知っている唯一の友人。周りからはアンと呼ばれている。明るく話しやすい人柄で口も固い。自分の進みたい総合大学に神学部があることを知り、進路に悩んでいた早智をそこへ誘った。自身は社会学部に入る。


ホラー小説や映画が好きで、自分も文芸部に入って小説を投稿している。文芸部のOBの院生が「神学部のエクソシスト」であることを知り、早智だけでなく彼にも会いに、よく神学部へ遊びに来るようになった。

霊南坂舞、22歳。

神学部伝道者コースの院生で、亮と同じ学年。教学補佐をしており、院生の中では早智たちとよく絡む。見つからない時はだいたい喫煙所にいる。


亮と一緒にいることが多いせいか、付き合っていると勘違いされやすいが、本人は「そういう興味はない」と言っている。どういう意味にとるかは神学部の中でも解釈が分かれている。

大葉   茜、50歳。

神学部伝道者コースの社会人編入生。入学してから最初にできた早智の友人。数年前から科目等履修生をしていたので、学内には詳しい。


本人は気づいてないが、亡くなった夫らしき霊(手首のみ)が憑いている。「幽霊は死んで天国に行けなかった人の魂なのか?」という困難な問題に早智を直面させることになった。

月無葛見、45歳。

早智の父親で牧師をしている。神様は全ての人の魂を救ってくださる方だから、幽霊はいないはずだと思っている。娘に幽霊が見えていることは知らない。


破壊的カルトの脱会活動も行っており、地獄の存在を強調したり、悪魔祓いと称する儀式を行う宗教者を警戒している。そのため、「神学部の悪魔祓い師」と噂される学生の存在が気になっている。

奥野鈴香、18歳。

一人暮らしを始めたばかりの文学部の新入生。小さい頃から時々幽霊を見ていたが、下宿先のマンションで毎晩幽霊が現れるようになり、帰れなくなっていた。


「神学部の悪魔祓い師」の噂を聞きつけ、相談するために神学部を訪れた。亮が多くの霊に取り囲まれているのを見て声をかけられないでいたところ、早智と知り合った。

黒麻弥恵、19歳。

実家通いの商学部の二年生。文芸部で杏実の先輩。新しい家に引っ越してから、度々ポルターガイストの現象に悩むようになった。


毎晩、家族と夕食をとっていると自分の手が引っ張られたり椅子から落とされたりするため、見えない幽霊に怯えて暮らすようになった。杏実の紹介で亮と早智に相談するため、神学部を訪れた。

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