第21話 先輩と整備スペース

文字数 3,062文字

 平日の夜で、客が誰もいない時間帯。こうなってくると、この店はそれなりに暇である。夕方をしのぎ切ってしまえば、あとは平和なものだった。
 チーフメカニックも帰宅してしまったので、あとはルリとユイ、そして店長しか残っていない。なので、バイトの二人は公私混同で遊び始める。主に、自転車で……

「……ユイ。私との約束を破りましたね?」

 店内のレジ横に設けられた、オープンな整備スペース。本来ならお客様の車体を修理したり、部品の取り付けや新車の組み立てなどをする目的のスペースなのだが、今日はそこにユイのママチャリを持ち込んでいた。
 その車体を暇潰しに点検していたルリは、開口一番にユイを責め立てた。
 対するユイは、

「はて? 何のことでござるか?」

 完全にすっとぼける姿勢である。目線を斜め上に向けて、唇を尖らせる。これで口笛でも吹ければ満点だ。

「ユイ。貴女は力が強すぎるんです。だから私は言いましたよね? 『絶対に本気は出さない事』と――」

「う……そ、それは」

「シティサイクル(ママチャリ)は、そこまで強いペダリングに耐えられる設計ではないので、本気を出してしまうと足回りの部品が破損する。と、言いましたよね?」

「むー……」

「メカニック泣かせなんですから」

「し、仕方が無かったのでござるよ。変な男たちに車で追いかけられて、逃げるために必死だったのでござる!」

「はぁ……」

 軽く目を閉じたルリは、ユイの方を見ずに言った。

「ユイ。やはり貴女には、自転車乗りの資格も、才能もありません」

「なっ……ルリ姉。いま、なんと?」

 ユイが珍しく、凍るように冷たい目を向ける。しかし、その温度の低さはルリのそれに勝てない。ユイが液体窒素なら、ルリは絶対零度の視線を、とても自然に向けてくる。それがルリの普段どおりの態度だった。

「ユイは自転車に向かない、と言ったんです。前の車体だって、無茶な改造をして壊してしまったでしょう。それで今度は大事に乗ると言ったのに、それさえも守れていない。つまり、それは『資格が無い』んですよ」

「ルリ姉だって、前のレースで事故って脚を折ったくせに」

「あ?」

「ひっ!?……」

 理不尽に近い怒りに、ユイも肩をすくめる。背丈はそんなに変わらないくせに、なぜかルリの目線が上になるのはどういう理屈だろう。

「ま、まあ、ユイちゃんもルリちゃんも仲良く、ね?」

「店長。私は決して喧嘩をしていたわけではありません。ユイに変わって、ユイの自転車を心配していただけです。持ち主に大切にされていないようなので――」

「拙者だって……拙者だって、自転車を大切にしているでござるよ」

 半分くらい泣き顔になりながら、ユイが徹底的に抗議する。しかし、それはルリに届かなかった。彼女はもう振り返らず、店の奥に行ってしまう。

「むー。ルリ姉のバカ」

「まあ、落ち着いてよユイちゃん。それにルリちゃんが言ってた通り、本気を出しちゃったのも事実でしょう? ルリちゃんはそういうの、見れば分かっちゃう人だから」

「て、店長までそう言うのでござるか……」

 どうやら、ユイに味方はいないらしい。

「あ、そう言えば、調整の依頼で来店予約の人、そろそろじゃないかな?」

 店長が腕時計に目を落として、そう言った。
 店の奥のスペースには、『お客様預かり中』と書かれた札が付いたロードバイクがある。特に壊れたところも無かったが、調整してほしいと言われた車体だ。こういう依頼も、わりとよくある。
 その予定受け取り時刻が、もうすぐだった。

「本来であれば、担当したチーフメカニック本人がいると、話がスムーズなのでござるが……」

「まあ、チーフも勤務時間外だからね。車体は出来上がっているから、あとはこのメモの通りに説明して、お渡しするだけ。ユイちゃん、やっといてね」

「拙者でござるか? うむ。やってみるでござる」

 チーフから預かったメモに目を落として、ユイはひとつひとつ項目を確認した。おそらく一般人には通じない用語が並んでいるが、ユイには理解できる。お客様はロードバイクの初心者らしいが、ひとつひとつ説明したら理解してもらえるだろう。

「ユイ。大丈夫ですか?」

「る、ルリ姉! いつから拙者の背後に!?

 後ろから突然声をかけられたユイは、さっとメモをポケットにしまうと、ライフルを突きつけるような姿勢で飛びのいた。

「あ、そこは日本刀の構えじゃないんですね」

「う……まあ、いまさらでござるが、拙者は別にサムライではござらぬゆえ……」

「まあ、なんでもいいですが、構え方がおかしいですよ。ストックは肩に担ぐものではありません」

「う、うるさいでござる。その綺麗な顔を吹き飛ばすでござるよ!」

 がるるる……牙をむき出しにして威嚇するユイに、ルリは手を振って退散の意思を伝えた。

「そのお渡しのお客様。ユイがちゃんと対応できますか?」

「え? う、うむ。拙者だってこの半年、ルリ姉がいないままでも頑張ってきたのでござるよ?」

「そうですか。ではお任せしますが、何かあったら私に頼りなさい」

「う、うむ。かたじけない」

 ルリが何を心配しているのか、ユイには分からなかった。今までの常連客だって、ユイの接客に満足していた。修理も整備も、チーフメカニックがしっかり対応したはずだ。そのうえユイ自身は面白くてユニーク。となれば、問題はないだろう。
 そう思っていたのだ。ユイは。



「こんにちは。俺のロードバイク。出来てますか?」

 ちょうど来店予約時間ぴったりに、その青年はやってきた。どことなく人のよさそうな、真面目そうな人だ。スーツを着てバックパックを背負った姿は、まさに自転車通勤者(ツーキニスト)といったところか。

「いらっしゃいませ。えっと、ロードバイクのお客様でござりますか?」

 ユイがとてとてと駆け寄っていくと、男は首を傾げた。

「あれ? いつものメカニックさんは?」

「あ、すみませぬ。本日はメカニックが全員退社してしまいましたので、せっ……わたくしが対応させていただく所存でござるます」

「ふーん」

 彼はユイの姿を、じっくりと足元から見る。この地元でも珍しいグリーンのセーラー服。その上に整備用エプロン。そして胸には『アルバイト・天地 ゆい』の文字と、彼女が勝手につけているくまさん缶バッヂ。

「ゆいちゃんっていうの? 高校生なんだね」

「む? そうでございますが、何か……」

「ふーん。そっかそっか。若いのに偉いねー」

 その客自身も若いと思うが、彼は急に老け込んだような話し方をすると、

「まあ、いいや。俺のロードバイク。ハリー!」

 急に手を叩いて、ユイをせかした。

「は……はい。ただいま。こ、こちらでござる」

 店の奥の、整備スペース横へと案内する。そこには、サービスも兼ねてピカピカに磨かれた、彼のロードバイクがあった。

「あの、失礼ですがお客様。お名前をうかがってもよろしいですか?」

「谷村だよ」

「谷村様。こちらのロードバイクでお間違いないでしょうか?」

「ああ、そう言っているじゃないか」

 もちろん聞いている。マニュアルで確認する決まりになっているので、その手続きをしているだけだ。
 メカニックからのメモでも、『谷村様よりお預かり。名前を確認すること』とある。それから、もう一つ――

「あの、谷村様。ご不便をおかけしますが、今回の点検で不具合が見つかりました」

「は?」

「大変申し訳ないのですが、変速機が不調となっております」

「ふーん。で? 直ったの?」

「直って……ございませぬ」

 ユイがメモの通りにそう伝えると、谷村はとても嫌そうな顔をした。
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