第3話 伝説の自転車乗り 後編

文字数 4,148文字

 ここ数年ほど、とても暑い夏が続いている。その日差しは強く、ヘルメットの中は蒸れるほど暑い。
 それでも、九条は上機嫌だった。頑張って中古で購入したスポーツタイプの原チャリは、たった50ccとは思えないほどの大きさを持っている。
 これが、ぐんぐんと前に進んでいくのである。まるで鳥にでもなった気分だった。あるいは、子供の頃に憧れたヒーローのように。
(いい調子だ。楽しいぜ)
 抱擁するように、オイルタンクに胸を押し付ける。空力抵抗を避ける姿勢だとか言われているが、それ以上に格好つけた乗り方だった。
 憧れの車体と一体化したような幸福感。それは、夏の暑さを差し引いても嬉しい。


(このまま家に帰るのは、勿体ないな)


「……い、くじょ……」


(どこか、寄り道しようか。例えば、知らない道とか……)


「く、じょ、う、どのー!」


(そうだな。どこまでも、走って……)


「待ってほしいでござるよー。九条殿ー」


(……)


 そっと上半身を起こして、ハンドルに取り付けられたサイドミラーを見る。
 そこに映っていたのは、青いママチャリに乗ったユイだった。

「う、嘘だろ。学校出た時は、こいつ……」

 確か、掃除をしていたはずである。自分の方が先に帰ったはずなのに、後ろから追い付いてきた。そういうことになるが……

(あり得ない。なんでママチャリなんかで、俺の原付に!?

 確かに法定速度を守り、信号に何度か引っかかってはいた九条だが、ここまでは一本道を最短距離で来ている。つまり、

(あいつのママチャリは、時速30キロを超えている……!?

 見たところ、本当に『ザ・ママチャリ』と言わんばかりの車両だ。
 アップハンドルと呼ばれる、手前に曲がったハンドル。前にも後ろにもカゴがあり、その後ろカゴにはスクールバッグ。そして前には熊のぬいぐるみが入っている。
 一応、6段の変速ギアは付いているといえ、それはスポーツバイクのような性能を発揮するものではなかった。そのはずなのに、

(なんで、追い付いてくるんだよ!?

 九条の知る限り、たまに原チャリを抜いていくロードバイクはいる。なので、自転車が意外と速い事は理解していた。
 しかし、ママチャリとなれば話は別だ。あれはスポーツ用に開発されていない。

(いや、聞いたことがある。あの熊のぬいぐるみ、まさか……)

 思い当たる節が、一つだけあった。
 後ろから高速で追いついてくるママチャリの少女。追い抜かれると意識を失うという都市伝説――

「まさか、ユイがあの『殺戮ベア』なのか!!

「うむ。その通りでござるよ」

 いつの間にか、彼女は横に並んでいた。大胆不敵にも、九条の右側に、だ。

(な、なんで……なんで俺がその『殺戮ベア』に狙われるんだ?)

 心当たりなど、あるとしたらあれしかない。

(ま、まさか遅刻を咎めたからか?)

 その時、ユイになんと言ったか……


『それか、まあ……自転車を辞めるか、だな。もっと速い乗り物に乗るのが良い』


(あれか。あれを恨んで、自分の方が速いことを証明しに来た、ってのかよ!?

 九条の頬を、汗が伝う。気温の所為ではない。冷や汗だ。

「九条殿?」

「く、来るなー!」

 九条が左足で、チェンジペダルを上げる。ギアを最高にして逃げるつもりだ。
 意外にも、原付と言えど本気を出せば、時速50キロほどは出るものである。普段は法定速度でセーブしてあるが、その出力にはゆとりがある。
 とっさに、右手でアクセルをひねっていた。九条の乗る原付が、加速する。

「うわぁぁあああ!」

 殺戮ベアがどのようにしてすれ違った相手を倒すのか、それは分かっていない。ただ、追い抜かれた相手はみんな、病院送りにされたらしい。

(冗談じゃない。俺までやられてたまるか!)

 メーターを見れば、もう45km/h(時速45キロ)を超えている。これなら自転車も追い付けないはずだ。

「ど、どうだ?」


「いやー、速いでござるな。拙者、びっくりしたでござる」

「……え?」

 ユイは、それにぴったりとついてきていた。さすがに横並びではないが、後ろから煽るように接近する。
 一歩間違えば追突する。そんな距離まで、彼女は詰めてきていた。この速度で、だ。

「じょ、冗談だろ」

「何がでござるか?」

 すさまじいほどの高速回転で、ペダルを回す。そんなユイは、しかし表情も涼しそうで、疲れも見えない。

「信号、赤でござるよ」

「――っ!?

 ユイに言われて、前を向く。
 確かに、目の前の信号は赤だった。自動車の交通量もそこそこある道だ。

(ど、どうするっ?)

 信号を無視して突っ切ってしまうか、それともユイに捕まることも覚悟で止まるか。
 車は隙間なく走っているわけではない。上手くやれば、タイミング次第では無事に抜けられる。
 しかし、一歩間違えば大事故だ。
 スッ――と、ユイが横にずれる。追突を避けるためだろう。つまり、追い抜く姿勢に入ったということだ。

(くそっ。俺は――)


 キキーッ!


 前輪ブレーキを握ったせいで、原付が前に少しだけ傾いた。そして、フロントサスペンションの力で後ろに戻される。
 止まることを選んだ九条の横に、ぴったりとユイが並んだ。

「ふむ……原付とは、思ったよりも速い乗り物なのでござるな」

「こ、こっちのセリフだ。なんでママチャリであんなスピードが出るんだよ!?

「あんなスピード?」

「45キロも出てたぞ」

 九条に言われて、ユイはママチャリのハンドル付近を操作する。そこにはサイコン――要するにスピードメーターのようなものが付いていた。

「おお、本当でござるな。MAX46km/hでござる」

 そんな速度を出したとは思えないほど、のんきな喋り方。スカートの折り目を直すだけの余裕さえ見せるユイに、九条は聞く。

「お前が殺戮ベア――それじゃあ、その自転車が伝説の改造ママチャリなのか?」

 多くの自転車乗りを潰してきたという、いわくつきの自転車だと聞いていた。よもや自分もやられるのか。と九条は恐れる。
 しかし、

「いや、この自転車はこないだ買ったばかりの新車でござるよ。改造ママチャリの方は、残念なことに壊れてしまったのでござる」

「え、そうなのか?」

「うむ。普通のママチャリでござる」

「じゃ、じゃあ、俺を殺さないのか?」

「む?」

 ユイは首を傾げ、それから細い顎に手を当てて、ぶつくさと何かを呟く。きょろきょろと大きな瞳を斜め上や下に向けて、それから何度か瞬きすること10秒ほど――

「おお、そんな形で伝わっていたのでござるか!? それは誤解というやつでござる。噂に尾ひれも背びれも付き過ぎでござるよ」

 と、驚いたように言うのであった。そのころころ変わる表情からは、一度も敵意のようなものを感じない。

「じゃ、じゃあ、なんで俺を追いかけてきたんだ?」

「ああ、それは忘れ物を届けに――」

 言いかけた時、後ろからクラクションが鳴る。信号は青に変わっていたのに、いつまでも発進しない二人に対して、後ろのドライバーが苛立っていた。

「ここは迷惑になるでござるな。場所を移そう」

「あ、ああ」





 歩道に入り、道の奥まったところに駐輪する。ここは歩道も狭いので、他の歩行者を邪魔しないように配慮を欠かさない。

「それで、このノートでござるが……」

「あ、俺のノート」

「やっぱり、忘れ物でござるな」

「ああ、すまない」

 何の変哲もない大学ノート。それを九条は、割と大切そうに受け取った。

「な、中、見たか?」

「む、す、少しだけ、見てしまった。いや、見るつもりは無かったのでござるよ。落ちた時の不可抗力と言うか……すまぬ」

「いや、見られて困るものでもないけど、少し恥ずかしかったからさ」

 ノートの表紙には、何も書かれていない。その中に書かれていたのは、バイクの事だった。
 たくさんの中古ショップを回って、めぼしいバイクを片っ端から記録したり、
 バイトの給料を計算して、目標金額までの道のりを書いたり、
 免許試験の過去問を書き写していたり、
 たまに気が乗ったのか、バイクの絵が描かれていたりもした。
 このノートには、九条が今のバイクを手に入れるまでの努力と、ワクワクが詰まっている。ユイがどのページを見たのか知らないが、九条にしてみれば少し恥ずかしかった。

「むー。恥ずかしがることは無いと思うのでござるが?」

「え?」

「だって、バイクが好きな九条殿が、バイクについて書いた記録でござろう?」

 トン、と、ユイは自転車のサドルに横から腰掛けた。両脚スタンドで垂直に立つママチャリは、真横から体重をかけられても、びくともしない。
 すっと九条を見つめた彼女は、少し大きな声で言う。


「好きなことに夢中になる人は、素敵だと思うでござるよ」


 ドキッとした――と同時に、嬉しい気持ちが込み上げる。

(ああ。そんな風に言ってくれた人、初めてだな)

 バイク自体を褒められることはあっても、それに費やした時間や努力を褒められるなんて、九条にとっては願ってもみない事であった。

「では、拙者はこれにて失礼するでござる。バイトもあるのでな」

 スタンドを蹴ったユイが、片足を上げて自転車に跨る。サドルの先にスカートを引っかけないように、そっと布地を押さえながら座った、その時だった。

「ま、待ってくれ」

 九条が呼び止める。

「ふむ?」

「あ、あのっ……」

 何か言いたいことがあったのだろう。しかし、なかなか話し出さない。ユイをまっすぐに見つめて、手を伸ばしたまま、固まってしまった。

「えっと、その……」

「ど、どうしたのでござるか?」

「……ごめん」

「?」

 ユイが首をかしげると、九条の顔がみるみる赤くなる。眉をひそめた彼は、それでも視線をそらさず言った。

「だから、自転車。遅いとか、もっと速い乗り物に乗ったらいいとか、馬鹿にしてゴメン。俺、その……」

 バイクに夢中な自分を、素敵だと言ってくれたユイ。それなら、自転車に本気で乗っているユイも、もちろん素敵だ。
 そう言おうとした言葉は、引っかかって出なかった。プライドの問題とか、やっぱり男の方から女子にそんなことを言うのはためらうとか、いろいろな事情があって――
 しかし、勇気を振り絞った彼は、ついに言うのだった。


「ユイのことが、好きだ」



「え?」

「あ、あれ?」

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