第35話 スポーツ少女と攻略法
文字数 3,063文字
翌朝。ユイはとても爽快な目覚めを経験していた。
「うーむ。昨日は久しぶりに自動車に乗ったでござるな」
あの後、特に何もないまま、与次郎はユイを家まで送り届けた。これをユイは「珍しく自動車に乗った日」くらいに捉えていたのだが、与次郎にしてみれば大決戦の後、死闘の末になんとか事なきを得たくらいの気分である。
まあ、そんな事はさておき、
ユイはその後、自転車のタイヤとチューブを交換して、きちんと車体に組み直していた。ホイール自体を本体から外せれば、あとはタイヤなど素手でも外れるものである。空気が抜けた状態なら、簡単にするりと抜ける。
それからチューブを組み込み、タイヤをかぶせてホイールにはめ込むだけ。
現在の自転車で一般的に普及しているWO式タイヤは、とても簡単に交換できるのが特徴だ。小学生のころからやっていたユイにとって、わざわざ専門家を頼るようなことではない。
「さて、問題は――」
自室から窓の外を見る。ガラスは上から下へと水を流し、その向こうの景色さえ融解させていた。夏の新緑を称える庭は、朝も早くから2段ほど暗い色を見せている。
まあ、簡単に言えば今日も大雨なのだった。
「この天気では、昨日の二の舞もあり得るでござるな」
念のため、雨で滑らないように、少しだけタイヤの空気圧を低めにしている。これによって突き刺さるような衝撃も多少は回避できるはずだが、抜き過ぎれば今度はリム打ちでパンクするため、ままならない。
タイヤを自動補修するシーラント剤という液体も充填したが、雨の中では気休めに近かった。
まあ、昨日のようなパンクはそう頻繁にあるものでもない。それこそユイが何十万キロと走ってきた半生のうちの、非常に珍しい一回だ。
「制服は――明日までには乾けばよいな」
昨日のうちに洗濯して、ずっと部屋干ししているセーラー服。それはまだ乾いていない。なので今日はもう一着持っているスペアの方を着ていくわけだが、それも今日で濡れる前提だ。
「さて、行くか」
気合を入れ直したユイは、さらにポリ袋にスクールバッグも入れ直して、家を出るのだった。
ただ、今日は心強い味方がいる。
「頼むでござるよ。アミ殿」
昨日、九条に着替えを見られた話をしたときに、秘策があるから次から連絡してくれと言ってくれた友人だ。彼女の言う秘策が何なのかはまだ分からないが、きっと悪いものではないだろう。
――その秘策があると言っていたアミだが、
「よう、来たな。ユイ」
自身、上から下までびしょ濡れの格好でユイの前に現れた。
「うむ。ところで、どうして学校の裏で待ち合わせだったのでござるか?」
一度学校の前にある駐輪所に自転車を止めてきたユイは、そのまま歩いて学校の裏に来ている。学校の敷地とは不思議なもので、校舎内にいればさほど広くないように感じても、周囲をぐるりと回ると広いものだ。特に自転車を置いて歩くと、長く感じる。
「まあ、見てなって。着替えるのに最も適したところがあるんだよ。こっちだ」
「む? そっちは確か……って、ああ、待つでござるよ。アミ殿」
「こっちだ。見つかるなよ」
降りしきる雨と灰色の空の中、太陽のような笑顔を浮かべるアミ。夏を一足先に満喫してきたような小麦色の肌は、こんなどんよりした空さえも、いたずらに吹き飛ばしてしまいそうだった。
で、肝心の向かう先なのだが、
「こっちは学校の裏でござろう?」
「厳密に言えば横だな」
「何もないでござるよ」
「いやいや、あるんだよ。ここに……」
よくある金網を張り巡らせたフェンス。その一角を、アミはこじ開けた。
そう。開いてしまうのだ。学校の敷地として外部からの侵入を拒むためのフェンスが、いとも簡単にそこだけ。
人間がギリギリ通れるくらいの隙間しか開かないが、そこにアミはバッグを投げ込み、自分自身もするりと入っていく。
「よし、先に荷物を渡しな。持っててやるよ」
「う、うむ。すまぬ」
ユイは彼女にバッグを預けてから、そのフェンスの隙間をくぐった。アミと違って、出るところが出てしまっているユイの身体だ。少しばかり引っかかる抵抗を感じるが、それもうまく身体を回転させることですり抜ける。
「うーむ。まさかこんな侵入経路があったとは、驚きでござる」
「だろ? で、ここから先に進むと――」
これまた獣道のような、草の茂ったところを歩く。もともとはきちんと整備されたところだったのだろう。雑草が伸びすぎて歩きにくい。
濡れた草が足に当たるたびに、ソックスがよりぐっしょりと濡れた。既に濡れていたから気にしないとはいえ、濡れ具合にも段階があるものだ。濡れた草に当たったときの浸み込み具合は特別酷い。
「じゃーん。アタシたち水泳部の根城。その名もプール!」
ユイも知っている場所だ。夏場の体育の授業で使うことがある、普通の25メートル屋外プールである。
「ここの更衣室なら、絶対に見られないで着替えられるだろ? 物干しロープもあるから、制服を放課後まで乾かしておくこともできる。まあ、どうせ帰りも濡れるから、アタシは気にしないけどな。それと、タオルもドライヤーもあるぜ」
「本当に至れり尽くせりでござるな。でも、勝手に使ってもいいのでござるか? 学校側は許可――」
「いいわけないだろ!」
「ダメなのでござるか!?」
「見つかったらアタシが預かってる鍵も没収されるぞ。部活以外で使わない約束で借りてんだからさ」
そういった事情で、わざわざ裏からフェンスを切って入り込んだのだ。もちろん、このフェンスを勝手に切ったこともバレたらマズい。もっとも、その施工をしたのはアミより何代か前の先輩なので、アミの知ったことではないが。
「いいか。戻るときも渡り廊下は使うなよ。まあ、どのみちそっちの鍵はアタシも持ってないんだけどさ」
「そ、それではどこから校舎に入るでござるか?」
「傘をさして、外からぐるっと回るんだ。そのまま正門に出て、何食わぬ顔で他の生徒に混ざる。繰り返すけど、見つかるなよ」
「お、おーけーでござる」
秘密通路に、更衣室やプール自体の鍵。この学校のセキュリティの甘さに驚きながらも、ユイは壮大なプールを再び眺めた。ざぶざぶと降り注ぐ雨に波紋を作られ続けるそれは、なんだかとても雄大だ。
それをここまで自由に使えるアミも、実は大物なのかもしれない。
「ん? どうしたんだ、ユイ?」
「いや、アミ殿のこと、見直したでござあぁあぁあ!?」
ざっぱーん!
大きな音を立てて、ユイは背中からプールに落ちて行った。足を滑らせた結果である。濡れたプールサイドと靴下の組み合わせが招いた悲劇であった。
「おいおい、ユイ。いくらもう濡れてるからって、そこまで開き直らなくてもいいだろ」
「違うでござる。滑ったのでござるよ」
「ああ、そっか。んー……」
ぱしゃん!
綺麗な弧を描いたアミが、頭上で組んだ両手から水面に落ちる。大きな水しぶきを上げたユイとは対照的に、雨粒と一緒に水面に溶けていくような、美しい飛び込みだった。
「って、何でお主まで落ちるのでござるか!?」
「いやー、あはは。ユイがばしゃばしゃしてんの見てたら、アタシも泳ぎたくなってさ」
「拙者は泳ぎたかったわけでも、泳いでいたわけでもないでござるよ」
「そう硬いこと言うなって。ほれほれー」
「わっぷ!? もー、アミ殿。お返しでござる!」
結局、二人とも雨どころではないほどに濡れて、ずっしりと数倍重くなった制服を着たまま、水遊びに夢中になってしまった。
結果、揃って遅刻してしまったとか何とか。
「うーむ。昨日は久しぶりに自動車に乗ったでござるな」
あの後、特に何もないまま、与次郎はユイを家まで送り届けた。これをユイは「珍しく自動車に乗った日」くらいに捉えていたのだが、与次郎にしてみれば大決戦の後、死闘の末になんとか事なきを得たくらいの気分である。
まあ、そんな事はさておき、
ユイはその後、自転車のタイヤとチューブを交換して、きちんと車体に組み直していた。ホイール自体を本体から外せれば、あとはタイヤなど素手でも外れるものである。空気が抜けた状態なら、簡単にするりと抜ける。
それからチューブを組み込み、タイヤをかぶせてホイールにはめ込むだけ。
現在の自転車で一般的に普及しているWO式タイヤは、とても簡単に交換できるのが特徴だ。小学生のころからやっていたユイにとって、わざわざ専門家を頼るようなことではない。
「さて、問題は――」
自室から窓の外を見る。ガラスは上から下へと水を流し、その向こうの景色さえ融解させていた。夏の新緑を称える庭は、朝も早くから2段ほど暗い色を見せている。
まあ、簡単に言えば今日も大雨なのだった。
「この天気では、昨日の二の舞もあり得るでござるな」
念のため、雨で滑らないように、少しだけタイヤの空気圧を低めにしている。これによって突き刺さるような衝撃も多少は回避できるはずだが、抜き過ぎれば今度はリム打ちでパンクするため、ままならない。
タイヤを自動補修するシーラント剤という液体も充填したが、雨の中では気休めに近かった。
まあ、昨日のようなパンクはそう頻繁にあるものでもない。それこそユイが何十万キロと走ってきた半生のうちの、非常に珍しい一回だ。
「制服は――明日までには乾けばよいな」
昨日のうちに洗濯して、ずっと部屋干ししているセーラー服。それはまだ乾いていない。なので今日はもう一着持っているスペアの方を着ていくわけだが、それも今日で濡れる前提だ。
「さて、行くか」
気合を入れ直したユイは、さらにポリ袋にスクールバッグも入れ直して、家を出るのだった。
ただ、今日は心強い味方がいる。
「頼むでござるよ。アミ殿」
昨日、九条に着替えを見られた話をしたときに、秘策があるから次から連絡してくれと言ってくれた友人だ。彼女の言う秘策が何なのかはまだ分からないが、きっと悪いものではないだろう。
――その秘策があると言っていたアミだが、
「よう、来たな。ユイ」
自身、上から下までびしょ濡れの格好でユイの前に現れた。
「うむ。ところで、どうして学校の裏で待ち合わせだったのでござるか?」
一度学校の前にある駐輪所に自転車を止めてきたユイは、そのまま歩いて学校の裏に来ている。学校の敷地とは不思議なもので、校舎内にいればさほど広くないように感じても、周囲をぐるりと回ると広いものだ。特に自転車を置いて歩くと、長く感じる。
「まあ、見てなって。着替えるのに最も適したところがあるんだよ。こっちだ」
「む? そっちは確か……って、ああ、待つでござるよ。アミ殿」
「こっちだ。見つかるなよ」
降りしきる雨と灰色の空の中、太陽のような笑顔を浮かべるアミ。夏を一足先に満喫してきたような小麦色の肌は、こんなどんよりした空さえも、いたずらに吹き飛ばしてしまいそうだった。
で、肝心の向かう先なのだが、
「こっちは学校の裏でござろう?」
「厳密に言えば横だな」
「何もないでござるよ」
「いやいや、あるんだよ。ここに……」
よくある金網を張り巡らせたフェンス。その一角を、アミはこじ開けた。
そう。開いてしまうのだ。学校の敷地として外部からの侵入を拒むためのフェンスが、いとも簡単にそこだけ。
人間がギリギリ通れるくらいの隙間しか開かないが、そこにアミはバッグを投げ込み、自分自身もするりと入っていく。
「よし、先に荷物を渡しな。持っててやるよ」
「う、うむ。すまぬ」
ユイは彼女にバッグを預けてから、そのフェンスの隙間をくぐった。アミと違って、出るところが出てしまっているユイの身体だ。少しばかり引っかかる抵抗を感じるが、それもうまく身体を回転させることですり抜ける。
「うーむ。まさかこんな侵入経路があったとは、驚きでござる」
「だろ? で、ここから先に進むと――」
これまた獣道のような、草の茂ったところを歩く。もともとはきちんと整備されたところだったのだろう。雑草が伸びすぎて歩きにくい。
濡れた草が足に当たるたびに、ソックスがよりぐっしょりと濡れた。既に濡れていたから気にしないとはいえ、濡れ具合にも段階があるものだ。濡れた草に当たったときの浸み込み具合は特別酷い。
「じゃーん。アタシたち水泳部の根城。その名もプール!」
ユイも知っている場所だ。夏場の体育の授業で使うことがある、普通の25メートル屋外プールである。
「ここの更衣室なら、絶対に見られないで着替えられるだろ? 物干しロープもあるから、制服を放課後まで乾かしておくこともできる。まあ、どうせ帰りも濡れるから、アタシは気にしないけどな。それと、タオルもドライヤーもあるぜ」
「本当に至れり尽くせりでござるな。でも、勝手に使ってもいいのでござるか? 学校側は許可――」
「いいわけないだろ!」
「ダメなのでござるか!?」
「見つかったらアタシが預かってる鍵も没収されるぞ。部活以外で使わない約束で借りてんだからさ」
そういった事情で、わざわざ裏からフェンスを切って入り込んだのだ。もちろん、このフェンスを勝手に切ったこともバレたらマズい。もっとも、その施工をしたのはアミより何代か前の先輩なので、アミの知ったことではないが。
「いいか。戻るときも渡り廊下は使うなよ。まあ、どのみちそっちの鍵はアタシも持ってないんだけどさ」
「そ、それではどこから校舎に入るでござるか?」
「傘をさして、外からぐるっと回るんだ。そのまま正門に出て、何食わぬ顔で他の生徒に混ざる。繰り返すけど、見つかるなよ」
「お、おーけーでござる」
秘密通路に、更衣室やプール自体の鍵。この学校のセキュリティの甘さに驚きながらも、ユイは壮大なプールを再び眺めた。ざぶざぶと降り注ぐ雨に波紋を作られ続けるそれは、なんだかとても雄大だ。
それをここまで自由に使えるアミも、実は大物なのかもしれない。
「ん? どうしたんだ、ユイ?」
「いや、アミ殿のこと、見直したでござあぁあぁあ!?」
ざっぱーん!
大きな音を立てて、ユイは背中からプールに落ちて行った。足を滑らせた結果である。濡れたプールサイドと靴下の組み合わせが招いた悲劇であった。
「おいおい、ユイ。いくらもう濡れてるからって、そこまで開き直らなくてもいいだろ」
「違うでござる。滑ったのでござるよ」
「ああ、そっか。んー……」
ぱしゃん!
綺麗な弧を描いたアミが、頭上で組んだ両手から水面に落ちる。大きな水しぶきを上げたユイとは対照的に、雨粒と一緒に水面に溶けていくような、美しい飛び込みだった。
「って、何でお主まで落ちるのでござるか!?」
「いやー、あはは。ユイがばしゃばしゃしてんの見てたら、アタシも泳ぎたくなってさ」
「拙者は泳ぎたかったわけでも、泳いでいたわけでもないでござるよ」
「そう硬いこと言うなって。ほれほれー」
「わっぷ!? もー、アミ殿。お返しでござる!」
結局、二人とも雨どころではないほどに濡れて、ずっしりと数倍重くなった制服を着たまま、水遊びに夢中になってしまった。
結果、揃って遅刻してしまったとか何とか。