第42話 練習開始(前編)

文字数 3,323文字

「なあ、ユイ。真剣に答えてくれ」

 九条が、ユイに詰め寄る。頭ひとつ分ほどの身長差から、必然ユイが九条を見上げる形になる。

「な、なんでござるか。藪から棒に……」

 ユイは身を縮めて、後ろへ3歩下がった。そこで壁にぶつかる。
 背中を壁に当てて寄り掛かるしかないユイ。そこに、九条が一瞬で歩を詰めた。

 ――どん。

 九条の靴が、ユイが背にした壁を蹴る。その場所は、ユイの両脚の間だ。つまり、ユイは横に逃げることも出来なくなってしまった。太ももの間に膝を潜り込まされたユイは、もう脚を閉じることも、しゃがみ込むことも出来ない。
 眉をひそめたユイが、そっと顔を上げる。九条は何か思いつめたような表情で、彼女を見下ろしていた。その表情も、真夏の太陽がつくる逆光で判別しづらい。

「ユイ。本当のことを言ってくれ。俺と、与次郎と――」

「う、うむ?」



「どっちが速かった?」

「む? ……それは、よじろー殿でござる」

「ぐはっ!?

 それまでの情勢から一転、九条は魂の抜けたように倒れ込んだ。後ろ側へ仰向けに転んだ彼を、今度はユイが見下ろす形になる。

「この庭を8の字に一周するタイム。最速が拙者の2分21秒であることは当然として、次によじろー殿の3分13秒。僅差ではあるが、九条殿は3分20秒。この7秒は、秒数にすると短く感じるかもしれぬが、距離にすると大きいでござるよ」

「そ、そうか……」

 同時にスタートして一緒に走るのではなく、あくまでそれぞれのタイムを計るだけのやり方。こうなると、自分が相手に対して――九条が与次郎に対して、どれほど差をつけられているのか分かりにくい。
 倒れ込んだ九条は、そのまま空を見上げた。自分を見下ろすユイの顔も、その後ろを通過する白い雲も、緑川家の屋根も、全てが遠い。

「あっれれー? 九条っち、ぼくより遅いってマジですかー。やっぱエンジンに頼ってばかりじゃ、体力つかない。ってことじゃないのー」

 にやけた顔で勝ち誇る与次郎だけは、大きく見えることが不愉快だった。なので、立ち上がるついでに与次郎の足を掴んで転ばせておく。

「うわぁっとー!?

 バランスを崩した与次郎の手を、九条が掴んだ。本当に転ばせる気はない。こんな奴でもチームメイトなのだ。

「頭は冷えたか?」

「冗談きついって。九条っちー」

「俺に言わせれば、お前が俺より好タイムをたたき出したことが悪い冗談だ」

「ほー。そんじゃー、もっかいやるかい?」

「当然だ。本当の実力を見せてやる」

 このチームの男子二人は、なんだかんだで仲が良いようである。こうしてお互いに車体を使い回しながら、その記録を測っている。
 ストップウォッチを担当するのはイア。そして、走りを分析するのはユイだ。



「タイム順では、ユイちゃんが当然の1位として……2位に与次郎君。3位に九条君。4位にアミちゃんってところかな」

 庭に設置されたパラソルの下、イアが記録表を付けながら小さく言った。この順位はたまに変動するものの、だいたい固定されている。

「うむ。まずよじろー殿であるが、単純な体力が続くのでござる。全力疾走の走りが、ここ一番の直線でしっかりと出ているでござるな。フォームはめちゃくちゃでござるが」

「ってことは、フォームを改善すれば、与次郎君はもっと速くなるってこと?」

「いや……」

 ユイがコースを見る。
 与次郎は自転車を大きく揺すって、踏みつけるようにペダリングをしていた。いわゆる『腰が浮いている』という状態で、身体を上下に揺すって踏みつける動作だ。
 ロードバイク業界においてはタブー扱いの、効率が悪く安定しない走り方。
 しかし与次郎は、その走りでそれなりの成果を出していた。普段の筋トレで高負荷トレーニングをしているせいだろう。通常の自転車乗りと異なり、ただ力強く踏む方法に慣れてしまっている。ある意味で完成されていた。

「あのフォームでないと、よじろー殿のパワーを発揮することはできないでござる。長期的に見ればフォーム改善もアリでござるが、今回のレースには間に合わないでござろう」

 まあ、充分に速いというのも手伝って、今更いちいち何かを口出しする気にならない。


 自転車が、九条に手渡される。
 今回のレースはリレー方式。1チームで1台の自転車を使い回す方式だった。つまり、自転車自体がバトンやたすきの役割を果たす。ユイが自転車を1台しか用意しなかった理由がそれだった。
 背の高い九条は、与次郎やアミに合わせてセッティングされたサドルに跨ることになる。しかしオートバイ慣れした彼にとって、あまりサドルは高くない方がいい。本人もこれくらいがベストだと思っていた。

「九条君は?」

「うむ。ある意味では、よじろー殿と真逆でござる。力任せに速度を上げるよじろー殿と裏腹に、九条殿はバイクコントロールの正確さが出るようでござるな」

 九条が急カーブに迫っていく。木の枝が伸び、やや見通しの悪いところだ。そこをほぼ減速しないで走り切った彼は、続いて池を跨ぐ橋の上へ――
 そこでも彼は減速しない。手すりに挟まれた狭い道では、心情的には遅くなるものだ。それがアーチを描いていれば、物理的にも上り坂の減速がある。しかし、九条はそこを勢いに任せて、一度もブレーキを握らずに超えていた。

「二輪車に対する度胸と、自分ならコントロールできるという自信があるのでござろう」

「そっか。オートバイに慣れてると、自転車も操作しやすいのかな」

「いや、それは間違いでござるよ。イア殿」

「え?」

 ユイは戻ってくる九条の顔を、まっすぐ見つめる。何事も無いような涼しい顔をしている九条だが、それがユイにはやせ我慢のように見えた。

「車体の軽い自転車は、より繊細な操作が求められるでござる。速度的にはオートバイの方が反射神経を使うでござるが……要するに、互換性はない。そういう事でござるよ」

「じゃあ、九条君は――?」

「うむ。あやつは底意地と負けず嫌いの性格だけで乗りこなしているでござる。おそらく、拙者たちが想像するよりずっと、精神をすり減らしてござるよ。心拍数計でも付けたら面白そうでござるな」

 九条がスタート地点まで戻ってきて、ユイに自転車を渡す。

「ユイ。お前の番だ」

「うむ。拙者もいつもの自転車ではござらぬゆえ、感覚を掴むのが大変でござるな」

 九条が持つ自転車のハンドルを、ユイが握る。そうしてすれ違いざま、ユイは九条の胸に拳をコツンと当てた。

「お主の走り、格段に良くなっているでござるよ」

「そ、そうか?」

「うむ」

 ユイが自転車に跨り、そこからはあっという間に見えなくなってしまった。
 同じ車体でこれが出来るのだから、やはり格が違う。

「コースはどうだった? 九条君」

 イアがタオルを持ってきてくれた。九条はそれを手に取る。
 自転車に乗っているうちは、意外と涼しくて気持ちいい。それは汗をかいたとき、前方からの風で気化しているからだ。
 つまり、止まった瞬間に汗がだらだらと出る。急に日差しが熱く感じられ、空気が湿気をはらむような感触だ。

「まあ、そうだな……余裕だ。そろそろ馴染んできたよ」

 と、タオルに顔をうずめながら、息をひそめて答える九条。

「ユイちゃんは、九条君に心拍数計をつけたら面白そうって言ってたけど」

「勘弁してくれ」

 そんなことをされれば、走っている最中の自分が意外と辛いことがバレてしまう。九条にとって、そんな汗臭い役割は柄じゃない。
 何より、ユイがエールをくれた時が、一番心臓が跳ね上がってしまったこともバレてしまうかもしれない。などとは言わないし、思っても頭から振り払うが。
 タオルを顔から離した九条は、それをイアに返そうとして……

!?

 イアが意外と近くで覗き込んでいたことに気づいた。

「あ、ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけどさ。九条君、髪に葉っぱがついてたから」

「あ、ああ。そうか」

 イアに取られるまでもない。九条は適当に頭を叩くと、乱暴に葉っぱを落とした。

「トイレに行ってくる」

「あ、うん。どうぞ」

 九条はイアに背を向けて、すたすたと本館の中に入って行った。来客用トイレの場所は事前にカオリから聞いている。

「やれやれ……どいつもこいつも」
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