第44話 ユイの初恋の人

文字数 3,295文字

「ふぅ。今日の練習はここまでで終わりでござるな」

 ユイが言ったのをきっかけに、自転車がストップする。
 レーシング用に改造されたママチャリは、軽量化のためにライトすら外している。もう夜も暗くなってくる頃だ。ほどよくライトアップされている緑川邸の庭も、自転車で走るのは厳しくなる頃だろう。
 何より――

「ぜはー、ぜはー、も……もう、ぼくも限界かも……」

「お、俺は、まだいけるぜ――っ痛!?

 普段から短時間での筋トレしかしていない与次郎と、そもそも筋肉など作り上げていない九条が限界を超えていた。日没よりも、こちらの方が問題だ。

「んー、そうだな。アタシも明日は水泳部の朝練があるからさ。この辺でお開きにしてくれると助かるぜ」

 アミだけは、とても元気だった。

「さて、じゃあ自転車はどうしようか?」

「拙者が乗って帰るでござる」

 もともと、ユイはそのつもりだった。家に何台の自転車が増えようと、それは大して構わない。
 与次郎は少し寂しくもあった。帰りもユイを乗せて行けると思っていたからだ。が、切り替えは早い。

「おーけー。じゃあ、ぼくはイアちゃんとアミちゃんを送り届けるよ。そうしたら、カオリちゃんがハイヤーを出す手間も省けるでしょ?」

「ハイヤーを出す手間って……指パッチンひとつなんだけど?」

「マジで?」

「ふふ……」

 カオリはゆっくりした動作で右手を上げた。そして中指と親指を当てて、ぐっと力を籠める。

 ――ぱすん。

「……」

「冗談よ。いくら使用人や貸し切りタクシーでも、指パッチンで来るわけないじゃない」

「いや、その前に鳴ってないんだけど?」

 何とも言えない空気である。が、結局この日は、与次郎の提案通りの帰宅となった。



「アミちゃーん。イアちゃーん。どっちが助手席に乗る?」

「アタシ、後部座席で」

「私も後部座席がいいな」

「わーお、全滅かー」

 コントみたいなやり取りをして、他のメンバーが帰って行く。

「それじゃ、俺もこれで」

「うむ。また次の練習もよろしく頼むでござる」

「はいよ」

 九条もそう答えて、オートバイに跨った。結構疲れているのだろう。スポーツタイプの原付に跨るその動作でさえ、足が震えているように見えた。
 それでも……

「やっぱ、原付は落ち着くな……」

「うむ。自分の好きな車体があるということは、とても良い事だと思うでござるよ。それが自転車でないのは、少し寂しいでござるが……」

「……」

 エンジンをふかしていたはずの九条が、唐突にそれを切る。

「……九条殿?」

「いや、ユイ。えっと……」

「む?」

 九条は、何か言葉を選んでいるようだった。が、ほんの少しの間をおいて、はっきりと言う。

「今日は、楽しかったよ。その……みんなで自転車に乗るのが、さ。だから、その、ありがとう。自転車、悪くないよな。うん」

 何とも情けない回答だった。でも、自転車が好きなユイに対する、最大限の回答だった。
 だからユイも、満面の笑みで返す。

「うむ!」

 武士のような言葉遣いと裏腹に、普通の女子高生という印象の笑顔と声で。



 すっかり暗くなった帰り道。じつは密かに電池式ライトを持ってきていたユイは、それをレース仕様のママチャリのハンドルにつけて走る。
 そんなものを持っているなら、夜でも練習できるのではないか? そう思う人もいるかもしれないが、正面しか照らせないライトで、曲がりくねった狭い道を走るのはあまり向かないのだ。

(今日は、楽しかったでござるな)

 ユイにとって、自転車で友達とわいわい出来る時間は貴重だった。
 いつだって友達は、自分について来れなくて消えていく。はるか後方へ――ではない。そもそも誘った段階で、『え? なんで自転車で?』という反応を返されるのだ。
 だから、こないだイアと一緒に海水浴に行ったのも、アミと一緒に帰って来たのも、ユイにとっては貴重な体験だった。こうして自転車に乗る時間を共有できるなんて、ユイにとっては特別な時間だったのだ。
 もちろん、今日も――

(こんな時間を、クラスメイトと過ごせる時間が来るとは、去年の拙者なら思わなかったでござる)

 レース用チューンのママチャリは、ユイが思うよりもずっとスムーズに進んでいく。それこそ、去年までユイが乗っていた改造ママチャリのように――もっとも、その車体は無茶な改造に耐えられず、壊れてしまったが。

(それこそ、拙者と肩を並べて走れる者など、バイト先のルリ姉か、それとも――)

 と、去年までの事を思い出すユイ。その目の前に、ひとつの光が灯る。
 対向車のヘッドライトだ。その揺れ方や、静かな音から、自転車であることが分かる。


 徐々に近づいてくる自転車。

 細い道を、正面からやってくる。

 お互いに、何も言わなくても左に寄って避ける。

 すれ違いざま、相手の顔が見えた。


 その顔に、ユイは見覚えがあった。

「アキラ殿!?

 相手も、ユイの声を聴いて止まる。メカニカルディスクブレーキによる急制動。ママチャリには真似できないほどの、唐突な止まり方だ。
 そのまま、彼はペダルに足を乗せて止まる。地面に足を着かない止まり方。ユイがかつて、彼に教えた止まり方――

「ユイ。久しぶりだな」

「やっぱり、アキラ殿でござるか。止まり方が上手くなったでござるな」

「ユイが教えてくれたおかげさ。まあ、あれから1年も練習しているし、それなりに上達もしたけどさ」

 彼は、不知火 翠(しらぬい あきら)という、ユイの通う高校の近所に住む大学生だ。
 ユイとは地元のサイクリングロードで出会った。去年の夏ごろの話だ。
 あえて言うなら、ユイと一緒にサイクリングに出かけられる唯一の仲とも言える。ルリは、あまり休日に付き合ってくれないので。

「で、ユイはこんな時間にどうした? サイクリングか?」

「いや、レースの練習でござるよ。ほら、あの山口サイクルチャンピオンシップでござる」

「ああ、ユイも出るのか」

「ユイ『も』?」

 ユイが首をかしげると、アキラは大きく頷いた。

「いや、実はさ。俺も出場しようと思うんだ」

 アキラはクロスバイクにある意味で似つかわしくない、ロードバイク用ジャージを着て走っていた。きっと彼もどこかで練習だったのだろう。

「本当は、うちのチームにユイも入ってくれたら嬉しかったんだけどさ。そっか。ユイは別チームでもう出場予定か」

「う、うむ。すまぬな」

「いやいや」

 アキラがハンドルをまっすぐ前へ向ける。出発するという合図だろう。

「あ、待ってほしいでござる。アキラ殿」

 別れる前に、ユイは話をしたかった。とっさに自分の自転車をUターンさせて、アキラの横にピタリとつく。

「どうした?」

「あ、えっと、その……でござるな」

 ユイにしては珍しく、歯切れが悪い。ハンドルから両手を離したユイは、風で飛ぶ自分の髪を手櫛で梳きながら走る。ちょっとミスをすれば、隣にいるアキラにぶつかりかねない状況だ。もっとも、ユイが今更そんな操作ミスはしないが。

「あ、アキラ殿。そのうち、また二人でサイクリングにでも行かぬか?」

 その何気ない誘いは、しかしユイにとって結構いろいろな感情が渦巻くものであった。実際、やや心拍数が早くなるのが分かる。自転車の所為ではない。
 一方、アキラの答えはシンプルなもので、

「いいな。それじゃあ、また空いてる日があったら連絡するよ」

「う、うむ」

 二つ返事の了承だった。ユイの走り方を知ったうえで、一緒にサイクリングに行こうと言ってくれる人。その数少ない一人が、アキラだった。

「じゃ、お休み。ユイ」

「うむ。ではの」

 ハンドルに手を戻したユイが再びUターンして、アキラと逆方向に走り出す。

「うーむ、誘ってしまったでござる」

 ユイはチラリと、後ろを振り返ってみた。アキラの姿はもう見えない。お互いにそれなりの速度は出ているようだ。
 再び前方に視線を戻すと、息を吐きながら小さく独り言を漏らす。

「アキラ殿には、一度ふられているわけでござるが……いや、拙者も未練たらしいと言うか、いやしいと言うか……」

 今のは、ただのサイクリングの誘いではない。ユイなりのデートの誘いだった。

「ふふっ。いつにしようか、悩むでござるな」
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