第59話 一人じゃないから(中編)

文字数 1,915文字

 近くにいたスタッフたちが、駆け寄ってはみんなの安否を確認している。軽傷者たちは勝手に走り出し、レースを再開していた。
 そんな中、九条は考えていた。

(今回はリレー形式。さすがにここで俺が諦めたら、俺たちのチームは脱落、か)

 一人なら、間違いなく諦めていた。いや、それこそ賢明な判断だと、すぐにスタッフに伝えていただろう。
 自分の身体よりも大切なものは多くない。大切なものはいつだって、自分があってこそ成り立つものばかりだ。
 ただ、今の九条にとっては、違う。

(せっかく、ユイが待ってるんだもんな)

 倒れている自転車へ、しっかりと歩み寄る。それを起こして、跨ろうとした。

「だ、大丈夫かい? 足を引きずっているようだけど……」

 スタッフが心配して、声をかけてきた。

「大丈夫です。まだ走れますから」

「本当に?」

「ええ。ご心配ありがとうございます」

 本当は、自分の身体が無事なのかどうか、自分でも分からない。
 足が痛むのは間違いないが、それが無視していいほど軽い怪我なのか、それとも大きな怪我なのか、それも分からない。もしかしたら、足よりも重症なところがあるかもしれない。
 それでも、いま一番気になるのは――

「ユイのところに行かないと……心配しているかもしれないからな」

 不思議と、ユイが心配しているんじゃないかと思うと、それが怖いのだ。
 すぐに駆けつけて、大丈夫だって言ってやらないといけない。そうしないと、自分が不安で押しつぶされそうだ。
 ユイの笑顔が見られたら、全部が笑い話になるような気がしたんだ。
 自分でも、よく分からないけど。

(この足でバランスを取るのは……無理か)

 足首から下が、きちんと安定しない。自転車の左右バランスを決めるのは、ペダルにかける体重だ。特にこういう下り坂では――

(オートバイなら、ここでニーホールドを使うところなんだが……いや、出来るか?)

 目いっぱい(を少し超える程度)まで上げられたサドルを、もう一度下げ直す。この作業に工具は要らないはずだ。レバーを起こして、力尽くでネジを回せばいい。

「よし、出来そうだ。ふん――」

 サドルを一番下まで下げた九条は、後ろの荷台に腰掛ける。
 ペットボトルを両サイドに吊り下げただけの荷台は、上には特に何も載っていない。なので、九条が乗ることもできるのだ。

(これなら、膝でフレームを挟み込むことが出来る)

 ペダルに体重がかからないが、それでも無事な方の足で無理やり蹴り込む。もはやこの角度だと、下に踏みつけるというより、前に蹴り出すと言った方が適切だろう。
 一度でいい。
 一瞬でいい。
 走り出してくれれば、あとは下り坂の傾斜に任せて走り続けることが出来る。
 順位は何位でもいい。タイムはどれほどかかっても構わない。
 ユイにつなぐ。それだけが目的だ。

 車体の一番後ろに腰を乗せて、前傾姿勢を取る。その姿勢は、結果的に安定感だけでなく、空気抵抗の軽減にも貢献してくれた。

(いいぞ。速いじゃないか)

 地面が近いため、より体感速度が上がる。普通なら恐怖するところかもしれない。事実、半年ほど前の九条だったら怖かっただろう。
 あの時の――
 ユイがノートを届けに来てくれた時の、原付を買ったばかりで速度を出すのが怖かった頃の九条なら、とっくに怖くてブレーキを引いていた。
 いつまでも、その頃の九条じゃない。

(ユイと一緒に走れるくらいには、俺も成長したいからな)

 まだ目標でしかないが、いつかはきっと、だ。
 路上の小石ひとつでも跳ねる車体を、離さないように全身で抱きしめる。
 日差しの暑さも、ライダースーツにこもる熱も気にならない。風だけでブレーキをかけて、重力だけでアクセルを回す。
 自然に身を任せているわけじゃない。
 身の回りの全てを、自分の意思で動かすのだ。

(知らなかったな。自転車が、こんなに速いって……)

 オートバイに憧れていた九条が、今まで自転車で全力疾走したことが無いのかと問われれば、そんなことは無い。
 子供の頃から、憧れに少しでも近づきたくて、走り回っていた。少しでも下り坂を見つけると、そこを使ってオートバイの真似事はしたものだ。
 それでも今日ほどの速度が出なかったのは、心のどこかで『自転車は遅い』と決めつけていたからだろう。
 その殻を破れたから――

(ユイが破ってくれたから)

 だから、ここまでこれた。
 常識の通用しない彼女に出会ってから、九条の世界は壊れっぱなしだ。

(やれやれ。良くない影響だな。このままアイツと一緒にいたら、俺はどうなっちまうんだ?)

 そんな期待は、目の前の景色と一緒に近づいて来る。
 ユイが待つバトンタッチ地点が、ようやくこの目に見えてきた。
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