第52話 決戦当日の朝

文字数 3,553文字

 夏休みも終わりかけた頃、ついにその日がやって来た。レース当日である。
 会場は午前中から、大盛り上がり――と言ったら少し嘘になる。

「ま、こんなもんか」

「うーん。こんなもんだろうねー」

 本来なら陸上競技場であるこの場所は、本日だけは自転車レースのスタート地点として使われている。観客席は出場者の身内などで満席だ。――逆に言えば、出場者の身内だけで満席になるほど小さな会場だった。

「おとやー!!がんばれー」

「しっかりやれよー」

 40代くらいの夫婦が、与次郎(よじろう) 音也(おとや)に声援を送っている。与次郎はそんな客席を見上げて、軽く手を振った。

「あれは?」

 九条が訊くと、与次郎はすぅーっと息を吸いながら後ろ頭を掻く。

「いやー、まあ……そのー、あれだよ。両親だねー」

「お前、オトヤって名前だったのか」

「――ってオーイ! そこなの!? こんなに一緒にいるのに名前さえ覚えてもらえてないのー!?

「スマン。で、何でお前は与次郎ってあだ名なんだ?」

「苗字だよ! そっちも本名だよー!」

 与次郎は膝から崩れ落ちた。直射日光で焼けたアスファルトが、彼の膝をじんわり過熱していく。

「熱っちぃ!?

「座ったり跳んだり忙しいやつだな」

 九条はこんな中でも、暑苦しいライダーズパンツを履いて汗ひとつ掻いていない。さすがにジャケットは脱いでおり、今はタンクトップ一枚だが。



 やや遅れて、向こうから走ってくる人影が見える。この暑さの中でも元気いっぱいの少女。アミだ。

「よぉ。揃ってんな? ……ってあれ? ユイは?」

「さあな。まだ来てない。それよりもお前、その恰好……」

 よりによって学校の陸上部ユニフォームで来ているが、それは部活動以外で勝手に着用していいものなのだろうか?

「いやー、この格好でまたここに来れるとは思ってなかったなぁ。地区予選以来だぜ」

「ああ、そういや陸上部はインターハイで引退だったっけ?」

「そうなんだよ。お、ヨジローも涼しそうなカッコしてんな。それ、なんてバンドのTシャツ?」

「え? いやー、ぼくもよくわかんない」

 3人揃ったところで、スピーカーに『キーン』と音が入った。やや時間が空いて、女性の声がする。
 その声は、この辺に住んでいる人なら知る人も多い。朝のニュース番組で聞く声だ。

『はぁい。皆さん集まってますかぁ? 今大会の司会および解説を担当する、三隅梨乃ですぅ。
 現在時刻は12:00になりましたぁ。あと30分で、本日のメインイベントが始まりますよぉ。サイクル・チャンピオンシップin山口。ママチャリリレーですぅ。
 エントリーは締め切りましたぁ。合計45組の出場、ありがとうございますぅ』

「あれって、三隅アナだよな。自転車レースの解説なんかできるのか?」

「あれ? 九条っち、知らないのー?」

「……何だよ?」

「いやー、あの人さ。半年前にあった日本縦断レースの実況解説してた人らしいんだよ。アナウンサーになったのも、その実績があったからなんだってさ」

「ふーん」

 放送機材の向こうでは、三隅がルールの説明を続けている。あくまでママチャリを使う事や、変速ギアや電動アシストの使用が禁止されていることなど、いろいろ……

『――と、まあルールの説明はそろそろこの辺までとして、そろそろスタートする時間が迫っていますよぉ。
 皆さん、自転車は準備できましたかぁ? 腰などを傷めないように、きちんと準備してから跨ってくださいねぇ。激しいのを期待してますよぉ』

「あ、第一走者のユイちゃんは?」

「つーか、アイツが自転車を持ってくる約束になってたよな。まだ来てないのかよ」

「アタシら自転車持ってきてないし、ヤバくない?」

 まだスタートまで30分あるが、逆に言えば30分しかない。

「電話も出ないか。仕方ない。俺たちで手分けして探すぞ」

「よし、じゃあアタシはこっちを探す。九条はそっち。ヨジローはどこでもいいや」

「おーけー……あれ?」

 さらっと戦力外通告をされた与次郎を置いて、九条は入場口の方へ。アミは観客席の方へと向かう。

「じゃ、じゃあぼくはこっちかなー」

 行き場を失った与次郎は、会場の奥の方……他の選手たちが並んでいる方へと向かっていった。そっちの方にはいないと思うのだが、手分けすると言われた手前、二人と違う方向に行くしかない。



 ――数分後、与次郎はユイを発見した。
 こういう時、ハズレだと思われた方にこそ、探し人はいるものである。失くした探し物が諦めた途端に出てきたり、期待もしていない懸賞に限って当選したり。

「あー、ユイちゃー……」

 声をかけようとしたが、それを引っ込める。駆け寄ろうとしたが、その足が止まる。
 ユイは一人でいたわけではなかった。

(誰だろう? 相手チームの人?)

 すらっとした男性だった。こう言っては何だが、たかがママチャリレースなのに気合の入った、競輪選手のような恰好をしている。自分と同年代のようにも見える顔立ちだが、どこか大人びた雰囲気を纏っている。大学生だろうか。
 その男は、ユイと何やら楽しそうに話していた。

(あ……)

 そっと、男の手がユイの頭に乗る。撫でられたユイは、まんざらでもなさそうに目を細めて笑った。その手がユイの頬をなぞり、そっと下ろされる。

(――)

 何だろう。このモヤモヤとした感じは。
 ユイちゃんが他の男と一緒にいただけ。ただそれだけなのに、なんだか何かを取られたような気がしてならない。
 もし自分が同じように手を伸ばし、頭を撫でようとしたら、ユイは笑って受けただろうか。
 小さい頃からよく知る幼馴染の、全く知らない一面を見せられた。ずっと見ていたはずの少女が、誰とも知らない男に――

「お、よじろー殿!」

 ユイと目が合った。名前を呼ばれて手招きされる。そうされたら、与次郎も行くしかあるまい。

「ユイちゃん。探したよー」

 なるべく平静を装って駆け寄る。探していたのは事実だ。

「よじろう?」

 ユイの傍らにいた男が訊いた。

「うむ。よじろーおとや殿でござる。拙者のクラスメイトで、今日のチームメイトでござるよ。アキラ殿」

「ああ、そうなのか」

 アキラと呼ばれたその男性は、そっと握手を求めてきた。

「俺はアキラ。まあ、えっと――ユイとは……」

(呼び捨て?)

 同じクラスの九条もそうだったが、あれはまだ許せる。九条が誰かに敬称をつけたり、愛称で読んだりする方が想像つかない。
 でも、この男はどういった関係でユイを下の名前で呼ぶのだろう? 兄弟か? いやいや、ユイが一人っ子であることは、幼馴染の自分が一番よく知っている。
 しかし、アキラも説明に困ったらしい。言葉を切ったまま、その続きを言わずに黙っている。

「そういや俺、ユイの何なんだ?」

 などと、アキラ自身が言い出したくらいだ。

「うーむ……そうでござるな」

 少し顎に手を当てて考えたユイだが、すぐに適切な説明を思いつく。



 その説明は――
「アキラ殿は、」

 予想に反して、
「拙者の――」

 あるいは、予想通りの、
「初恋の人でござる」



 もっともシンプルな回答だった。



「おいおい。他にないのかよ」

「何でござるか。本当の事でござろう?」

「まあ、俺だって女の子から告白されたのは、ユイが初めてだったけどさ」

「去年のキャンプの時でござったな」

 アキラとユイの仲睦まじい会話を、館内放送が遮る。

『さあ、第一走者の皆様は、スタート地点に集まってくださいねぇ。選手の走順交代はまだ間に合いますよぉ。その場合はスタート地点にいるスタッフか、あるいは受付に申し出てください。まもなく開幕ですよぉ』

「おっと。行かねば。――ああ、スタートの時間が迫ってたから、よじろー殿は拙者を探しに来てくれたのでござるな。かたじけない」

「いや、まあ、そうなんだけど……あ、待ってよユイちゃん!」

 与次郎の静止もむなしく、ユイはくるりと自転車ごと向きを変えて、スタート地点に向かってしまう。

「さて、俺も行かないとな」

 アキラがサングラスをかけて、自転車のスタンドを蹴り上げた。その時、

「待ってよー」

 与次郎は、アキラの腕を掴んでいた。
 その後の事は考えていなかった。アキラの腕を掴んで何になるのか、それすら分からない。

「なんだ?」

「いやー、ちょっとお願いというかさー。アキラさん? だっけ。個人的なことで申し訳ないんだけどさー」

 今日は与次郎にとって、一世一代の勝負の日。そして記念日になる予定だった。
 ユイちゃんに告白する。その日だ。
 でも、状況が変わった。与次郎がユイにOKを貰えるかどうか、という二択ではなくなった。
 勇気の無い自分の心に打ち勝つ! しかしその前に、勝たねばならない相手が増えたらしい。

「アキラさん。ぼくと一戦、交えてくれないかな」

 そうすることでしか、前に進めない状況があった。
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