第22話 誰も傷つかないざまぁ(前編)

文字数 2,966文字

 ユイがメモの通りにそう伝えると、谷村はとても嫌そうな顔をした。

「は? 直ってない? ちょっと、そういうの困るよ」

「す、すみませぬ。症状を説明します。こちらについているディレイラーハンガーのゆがみにより、プーリーがまっすぐな角度で合わなくて――」

 ディレイラーというのは、外装変速機に必ずついている部品である。変速ギアの本体と言っても過言ではない。ちなみに、ユイのママチャリにも付いている。
 これはチェーンを一度外した後、ひとつ隣の歯車にチェーンをかけ直す装置だ。こうやって複数の歯車の中からチェーンをかける歯車を選ぶのが、変速ギアの基本構造となっている。

「で? どうすれば直るの?」

「えっと、部品を交換するしかないでござる……でございます」

「ふーん。じゃあ替えて」

 谷村がそう言ってくれたおかげで、ユイの表情もぱぁっと明るくなる。ユイ自身、きちんと修理できていない車体をお渡しすることには抵抗があったのだ。しっかり修理する方向で話がまとまって、本当に良かったと安堵する。
 整備スペースの奥にあるバインダーを取り出したユイは、そのページをめくっていく。その指はまるで踊っているようで……なんなら、ユイ自身の足取りも踊っているみたいだった。

「それでは、現在使用しているものと同型の部品を取り寄せます。お値段が税込みで2,998円に、プラス調整料金が1,000円……当店の会員様ですので、割引で700円で調整させていただきます。交換費用はサービスで……」

「ちょっと待って。え? え? それ俺が払うの?」

「……はい。お客様がご利用される車体でござるので」

 谷村はぽかーんと口を開けていた。ちなみに、ユイもそれを真似するように、小さな口を開けて見せる。

「……」

「……」

「何で?」

「む?」

「何で、俺がそれを払うの? え? 壊したのは君だよね?」

「拙者は壊してないでござる。最初から壊れていたのを、うちの整備士が発見したのでございます」

「じゃあ何? 俺が壊したって言いたいの? 言っとくけど、俺は何もしてないよ」

「まあ、何もしていなくてもたまに壊れる商品でござります。例えば、乱暴に変速したとか、チェーンオイルが切れたまま走っていたとか、駐輪所に置いといたら将棋倒しになっていたとか……」

「ないない。駐輪所には置いてるけど、将棋倒しになってるのなんて見たことないもん」

「……そうですね。親切な人とかが、倒れている自転車を戻してくださることもあります。その時に壊れたのに気づかなかった可能性も」

「ないよ!」

「なんで言い切れるのでござるか!?

 谷村のイライラは加速しているようで、だんだん貧乏ゆすりが大きく速くなってきた。真新しい革靴が、先ほどルリが磨き過ぎた床と擦れてキュッキュッと音を立てる。

「とにかく、俺が調整してって頼んで、店側が『わかりました』って言ったんだから、最後まで責任もって調整してよ」

「すでに調整の範疇を超えているのでござるよ」

「知るか!」

 ドン! と、谷村は床を踏みつけた。よほどイライラしているのか、それとも脚力が自慢なのか。谷村の革靴は、大きく音を響かせる。

「だいたい女子高生が!」

 ドン!

「バイトの分際でっ!」

 ドン!

「25万もするスポーツ自転車を!」

 ドン!つるりん――

「語れるわけがあああああっ! ぽ、ぽぉう!」

 先ほどルリが、自分で磨いて自分で転んでいた床だろう。足を滑らせた谷村は、そのまま大開
脚して横ロール。床に寝そべる姿勢のまま、ユイを指さす。

「ないだろぉぉ!」

「その姿勢でクレームを続けるのでござるか!?

 どこまでも上から目線の、しかし物理的には下から見上げる説教を、ユイはスカートの裏地で受け止めることになってしまった。

(仕方ないでござるな……)

 ユイが手を差し伸べると、谷村は意外にも素直に握り返し、それを支えに立ち上がる。途中で手を放してやろうかと思ったユイだったが、大事なお客様にそれは出来ない。
 はたから見れば、戦いの後の光景のようにも、仲直りの握手のようにも見えた。しかし谷村の言いたいことは終わったわけではない。

「俺を誰だと思ってんだよ?」

「む?」

「だー、かー、らー、俺を誰だと思ってんのか? って聞いてんの」

 間違いなく、初対面である。もっとも、ロードバイクにこの店の会員証ステッカーが張ってあるので、もしかしたら何度か店に来てくれている客なのかもしれない。いちいち顔など覚えていないが……

「えーと、お客様は、大事なお客様でござる」

「そうじゃなくてさ。俺はアレだよ?」

「?」

 何が言いたいのか分かりかねるユイ。それに対して谷村は面倒くさそうな演技で――そう。面倒くさそうなのは演技で、本音としては楽しそうに、嬉しそうに、自分の経歴を語り出す。

「俺はね。あの『チャリンコマンズ・チャンピオンシップ』にも出場したライダーなんだよ? 知ってる? 今年の初めにやった、あのロードレースの大会」

「は、はい。知っていますでござる」

 と、いうより、その大会はとても有名だった。日本縦断レースとして、開催期間中は毎日のように中継放送されていた。なので、『日本で知らない人はいない』と言っても過言ではないだろう。
 ちなみに、厳密に言えばロードレースではない。また別のレースだ。

「ち、ちなみに戦績は?」

「ああ、初日でリタイアだよ。訳の分からないガキに水をぶっかけられてな……」

「なんで自転車レースで水ぶっかけられるのでござるか?」

「こっちが聞きてぇよ!」

 どうやら、『出場した』だけが自慢で、それ以上深く突っ込んではいけないらしい。

「で、そのレース出場経験のある俺に、なんで、女子高生のアルバイト風情が、知ったような口を利くのかって聞いてんだよ」

「そ、それは一応、バイトとはいえ自転車屋でござるし」

「それでも出場経験はないだろ。どーせ普通のママチャリなんか乗ってんだろ」

「そ、そうでござるけど……」

「だったら、俺の言う通りに直せよ。俺のロードバイク! ろぉーどっ! ばーいっ!」

 もうめちゃくちゃである。
 谷村はその辺のテーブルに腰掛けると、たばこを取り出した。それを口にくわえて、ライターで火をつける。

「あ、あの、おタバコは外にある喫煙スペースで……」

「ふーっ」

「けほっ、こほっ! お客様。店内で喫煙は困るでござっ――」

「ふーっ」

「けほっ、こほっ!」

 谷村はイライラを鎮めるため、たばこを吸う。自分自身で分かっているのだ。このまま頭に血を登らせても仕方ない、と。
 なので、まだ世間を知らない女子高生に対し、冷静に話をするために、たばこを吸う。甘い香りが鼻に抜けて、呼吸器すべてを満たしてくれる。ちなみにユイが吸っている副流煙は1ミリも甘くない。

「しょ、少々お待ちください」

 ついに、ユイが反撃の一手を打つ。バックルームに向かったユイは、最後のカードを切るのであった。



「ルリ姉。助けてほしいでござる」

「……まあ、ユイ一人ではこうなると思っていましたよ。だから私に最初から任せておけばよかったのに」

「いいから!」

「……そうでしたね。私も、お客様をお待たせするのは性に合いません。この分の説教は後にするとして……」

 ルリは、すっと立ち上がると、その立派な胸を張る。

「まずは、ユイより先に、お客様を説教しますか」
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