第33話 無理はしないで

文字数 3,644文字

 雨は、午後からさらに激しくなっていた。風もより強くなり、外は非常に危険になってきている。
 窓がガタガタと音を立てて揺れる中、やや薄暗い教室には、放課後だというのに多くの生徒が残っていた。親に迎えに来てもらう生徒や、天候が回復することに一縷の望みをかけた生徒が待機しているのだ。
 そんな中、ユイのスマホが鳴った。

「む?」

 相手はバイトの先輩、ルリだ。ひとまず出ないといけないと判断したユイは、廊下へと移動する。なんとなくだが、教室で電話を取るのは気が散るのだ。


「もしもし、ルリ姉?」

『ああ、ユイ。今どこにいます?』

「学校でござる。これからそっちに向かうでござるが……」

『いえ。今日は休んでも構いませんよ』

「む?」

 意外な申し出に、ユイは目を見開いた。電話の向こうでは、相変わらず静かな声が、特に感情を込めないまま紡がれる。

『この雨ですから、無理して出勤されて、道中で何かあっても困ります。何より、どうせこの雨の中で来店するお客様はほとんどいません。つまり、接客専門の私たちが出勤する意味が薄れます』

「そ、そうでござるな。確かに」

『ということで、私も休暇を貰いました。ユイを引き合いに出して上司を説得したので、ユイもそのまま休んでください』

「いや、拙者の知らないところで勝手に拙者の臨時休暇を決定しないでほしいでござる!」

『では、出勤しますか? 私は止めませんが』

「……いやー、うーむ」

 自転車を走らせられない天候ではないが、たしかに出勤したい状況でもない。何より、たまにはサボりたい気持ちがあるのも本音だ。

「了解でござる。それでは、拙者も休ませてもらおうか」

『それが良いと思います。では、乾杯』

「うむ。乾杯――かんぱい?」

 ユイがそう返すよりも少し早く、向こうから電話が切られる。

「さてはルリ姉。もう飲んでるでござるな」

 通話終了の画面を閉じたユイは、スマホを体操着のポケットに入れながら教室へ戻った。





 アスファルトは黒く染まり、表面に数えきれない波紋を浮かべる。風は雨粒を真横に運び、信号機はダンシングフラワーのように踊っていた。
 見慣れた町が違って見える中、ユイはずぶ濡れのセーラー服で家まで向かう。
 いくら泥除けを付けたママチャリでも、ここまで浸水すれば派手に水しぶきを上げるものだ。まるで船が進むように、波を左右にかき分けて進む。

「確かにこれは、出勤できる状況ではござらんな」

 もしかしたらバイト先は浸水しているんじゃないか、とまで心配になるほどの降水量だった。実際、数年前に床上浸水したと聞いているので笑えない。
 目を開けていると、水滴がぶつかって痛い。水の中で目を開けることはできるユイだったが、それとこの状況は話が違っていた。もっとも、気温が高いのは救いである。意外と寒くはない。

「帰ったらすぐに、お風呂に入りたいでござるな……」

 本当はカオリから『送っていくわよ』と言われていたのだが、自転車を学校に置いていくわけにはいかないからと断っていた。実際、これがないとユイはどこにも行けない。学校に自転車を取りに来るにも自転車が必要になるというジレンマだ。

「速度を上げるのも危険でござるな。どうしたらいいか……ひゃん!?

 ぱぁん!

 後輪が爆ぜて、車体が横にスライドする。まるで地面を真横に倒されたかのような感覚。車体が左に急激に流されて、自分の身体が右に倒れる。地面が迫ってくる。

「あぶなっ!?

 すぐに右足を付いて、身体だけは体勢を立て直す。自転車も起こそうと思ったが、摩擦を失った車体は、そのままズルズルと地面に吸い寄せられてしまった。もうリカバーできる角度ではない。

 ドシャア!

 大きな音と水しぶきを立てて、ユイの自転車は道路に横たわった。車体を見捨てて逃げたようなユイ本人だけが、その場に立ち尽くしている。

「す、すまぬ。大丈夫でござるか?」

 頑張って車体を起こしてみた。パッと見て分かるのは、タイヤのパンク。どうやら何かを踏んでしまったらしい。転んだせいでパンクしたのではなく、パンクしたから転んだという因果関係だろう。

(傷口は……深めの長い切り傷。飛んできたトタン板でも踏んだか、それともグレーチングが浮いていたところに乗り上げたか……)

 いずれにしても、地面が見えていたら回避できたはずの事だ。今日は冠水しているせいで、全くそういった障害物が見えなかった。
 両脚スタンドを立てて、ペダルを回転させながら各部を点検する。チェーンや変速ギアは無事だ。ブレーキもきちんと機能する。目視で確認できる限りでは、ホイールにも歪みはない。あえて言えば、後ろカゴの取り付け角度がずれたくらいか。

「よかった。タイヤ以外の損傷はないでござるな。……しかし、これほどの切り傷になると、タイヤそのものもダメでござるか」

 チューブなら、予備を一応積んでいる。携帯ポンプも常備しているので、これで穴が開いただけなら対処は出来た。ただ、切り傷によるバーストなのだ。家に帰ればスペアタイヤはあるが、ここにはない。

(ここから家まで、だいたい10キロ。押して帰れば3時間……いや、タイヤが潰れていることも考慮して、3時間半ってところでござる)

 いっそバイト先の自転車店に向かって、そこでタイヤを買おうかとも思ってしまう。が、さすがに休みの連絡を入れたばかりだ。行きづらい。

「あー、もう! どうすればいいでござるか!」

 ひとまず、ユイはポリ袋の中からスクールバッグを取り出した。そのサイドポケットのファスナーを空けて、財布を取り出す。

「所持金は……200円しかないでござる。これではどのみち、タイヤは買えぬな」

 仕方がないので、200円で生還できる方法を、コーヒーを飲みながら考える。残りの所持金は70円。


 一台の車が、ゆっくりと近づいてきた。軽自動車だ。水でも跳ねないように慎重に走ってくれているのだろうか。人が歩く程度と思えるほど遅い。

(優しいでござるな。まあ、もう拙者はどれほど濡れてもいいでござるけど)

 やさぐれ気味に自転車に寄り掛かり、来るなら来いと水しぶきを受け入れる体制をとる。そんなユイの目の前で、その車は完全に停まった。

「む?」

 パワーウィンドウが開かれる。そこからこちらを覗き込んだのは、与次郎だった。

「ユイちゃん。こんなところで何してんのー?」

「よじろー殿!?

「大丈夫―? 乗せて行こうか?」

「え? いいのでござるか?」

「ああ。ユイちゃんだけなら大丈夫だよ。自転車は適当なところに止めて……」

 そこまで言ったとき、与次郎はユイの悲しげな表情に気づいた。

「……ああ、いや。うーん。ちょっと待っててねー。後部座席を倒せば、もしかしたら自転車も積めるかもしれない」

「ほ、本当でござるか?」

「本当かどうかは、やってみないと解らないさー。よいっ……しょっ」

 雨の中、車を降りた与次郎は、すぐに後ろに回り込んで座席を倒す。意外と慣れた手つきなのは、きっと彼があっちこっちに遊びに行くときによくやるからなのだろう。

「軽自動車とはいえ、一応ハイトワゴンだからね。あー、でもハンドルの高さがキツイかー」

「そ、それならちょっとは何とかなるかもしれぬ。待っててほしいでござる」

 ユイがメンテナンスキットの中から、アーレンキーを取り出す。大きさの違う何本もの六角柱を、折り畳み式ナイフのようにグリップ内に収納したものだ。

「これを使って、ホークコラムの下側のネジを緩めれば……っく!」

 ネジが緩まない。これ1本でハンドルバーの全体を止めているネジは、意外と止まり方が硬いのだ。スポーツ用車両なら4本で固定するところを、たった1本で固定している都合である。

「外せばいいのー?」

「いや、軽く緩めるだけでよい。完全に外すと面倒でござる」

「おっけー。やってみるよー。代わって」

 与次郎がユイに変わって、ネジを緩める。小柄な彼だが、割と筋肉は鍛えているほうで、

「ふんっ!」

 バキバキッ! ベキン!

「……嫌な音がしたなー」

「大丈夫でござる。大体そんなものでござるからな」

 ママチャリ特有の、大きく上を向いて手前にねじ曲がったアップハンドル。それがくるりと回って、真下にうなだれる。これで車高はだいぶ下がっただろう。
 ついでにサドルも限界まで下げて、自動車へと入れていく。

「じゃあ、僕が後ろから入れるから、ユイちゃんは横のスライドドアから引っ張って」

「分かったでござる」

 雨の中の作業ではあったが、なんとか自転車を入れるところまでは成功した。あとは扉を閉めるだけだが……

「ユイちゃん。これ後ろのカゴが入りきらないや」

「分かったでござる。いま外すゆえ、もう一度降ろしてほしいでござる」

「外せるの?」

「自分で取り付けた部品でござるよ。プラスドライバーがあれば簡単に外れるでござる」

 複数のアーレンキーの中に、プラスドライバーもちゃっかり混ざっていた。それを使えば外せるらしい。

「よーし、やろう。何とかなりそうだ」

「うむ!」
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