第14話

文字数 7,631文字

「そうぷりぷり怒ってるだけじゃわからねえや、森田屋さんが何を言ってきたっていうんだい?」
 尋ねた息子に、友五郎は吐き捨てるように答えた。
「清次だ。奴に森田屋の荷を触らせるなだとよ」
「するってえと、野郎が何か拙いことでもしでかしたのかい?」
「そうじゃねえ、ただ島帰りの野郎なんぞに店の荷を担がれるのが気に入らねえんだそうだ」
 義太郎は怒るというより、むしろ呆れた顔で首を振った。
「そいつは御大層な。森田屋の荷と言ったって、たかが油じゃねえか。ご献上品でもあるめえし」
「だからおれも言ってやったさ、野郎は確かに島帰りだがお上のお赦しを得て帰って来たんだ、おれ自身がこいつなら大丈夫と信じて森田屋さんに差し向けてるんだが、そのおれの目を疑うっていうのかい……ってな」
「森田屋の旦那は、それでも納得しなかったのかい?」
 友五郎は苦い顔で頷いた。
 ずっと話を聞いていたお稲が、そこにひょいと口を挟む。
「お腹立ちはわかりますけど、お客がそう言うなら仕方ありません。こんな下らない人だったのかと腹の中で軽蔑して、言う通りにしてやる他ありませんよ」
「おれもそのつもりだったさ。おれたちゃ何も森田屋の仕事だけ受けてるわけじゃねえし、森田屋が厭だって言うんなら仕方ねえ、清次にゃ他所の荷を担がせれば良いだけと思ったのだが」
 事実この辺りには問屋が数え切れないほどあり、酒に醤油に酢や塩と、着いた荷を上げる人足を回して欲しい店なら幾らでもある。
「だが森田屋はそれだけじゃ駄目だ、清次を伊勢崎屋から放り出せ……って言うのだ」
「そりゃあ無茶だ、あれだけ懸命に働いてるのに酷過ぎら、森田屋さんほどのお人が何でそんな不人情なことを……」
「実はな、今度の事は清次がただ島帰りだから気に入らねえ、ってわけじゃねえようなのだ」
「じゃ、一体何が気に入らなくて、こんな因縁じみたことを言って来るんだ?」
「清次の面だが、お前、どう思うよ」
 突然そんな話を振られて、義太郎はちょっと困った顔をする。
「どうって、男の面なんざ見たって楽しくも何ともねえが、まあ娘っ子にゃ三国一の色男に見えるだろうね」
「それだ。野郎にとっちゃ皮肉な話だが、男前過ぎるのが裏目に出ちまったのよ」 
「あ、そういうことね」
 即座に頷いたのはお稲だ。
「変な意味で言うのじゃないけれど、お美代ちゃん、清次のことすごく気に入ってるみたいよね? 森田屋の幸助さんにしたら気が気じゃないって言うか、かなり面白くないんじゃないかしら」
「幸助がうちの人足相手に焼き餅って? 馬鹿馬鹿しい」
 義太郎は笑い飛ばすが、お稲の顔は真剣だ。
「そうかしら、男の嫉妬はほんとは女のより怖いんじゃないかと、あたしは思うけど?」
「どうもお稲の言う通りらしいのだ。森田屋め、清次を追い出さねえのなら、うちに人足を頼むのも考え直すなんて言いやがった」
「で、おとっさんは何て返事したんだい?」
「義、おめえならどう答えるよ?」
 問いをそのまま返された義太郎は、跡継ぎとしての器量を友五郎に試されている気がしてひどく難しい顔で唸った。
「森田屋さんの横車にゃ業腹だが、おれ達も店の者を食わせて行かなきゃならねえのだし、世の中綺麗事だけじゃ渡って行けねえのもわかる。どうしたら良いのかなんて、おれにはまだわからねえ」
「そうだな。今度の事もそうだが、世の中にゃあ正しい答えなんてねえものがいっぱいあるわな」
 ほろ苦く笑った後で、友五郎は表情を引き締めた。
「誰だって銭は必要だ、世の中金がすべてだとは言わねえが、銭が無きゃあ一日だって生きて行けねえからな。ただおれはな、世の中には曲げちゃあいけねえ筋ってものがあると思うのだ」
 金が惜しいからと、何も悪くねえ奴を店から追い出すような真似をしちゃあ、伊勢友の看板が泣く。それではおれの男が立たねえ。
 ゆっくり、しかしきっぱりとそう言う友五郎に、義太郎は深く頷いた。
「森田屋さんの話は断って来たんだね、おれもそれで良いと思う」
 すっきりとした表情になる義太郎とは逆に、お稲の方は屈託ありげな難しい顔になる。
「けどそうなると、難しいのはお美代ちゃんの縁談の方もどうなるかだね」

 話を聞いたお美代は、お稲が止める間もなく血の気が引いた顔で店を飛び出して行った。
 お美代をそこまで怒らせたのは、森田屋に仕事を切られたことよりその理由だった。
 森田屋はちょうど表の格子戸を締めかけていたところで、お美代は中に駆け込むと、幸助の袖を掴んでものも言わずに外に引っ張って行く。
「何だね、おい……」
 叱ろうとした彦右衛門だが、初めて見るようなお美代のきつい目に思わずその先を飲み込んでしまう。
 お美代にしてみれば、その彦右衛門にも言ってやりたい事は山ほどあった。だがもし口を開けば小さい頃から親戚同様に良くしてくれていた幸助の父親に、取り返しのつかない罵詈雑言を浴びせてしまいそうで、それで今はひと睨みするだけにして幸助だけを連れ出した。
 日は既に落ちているし、風もかなり冷たくなっているが、怒りで頭が煮えたぎっていたお美代はまるで気づかずにいた。
 お美代は幸助を油掘が大川に注ぐ下ノ橋まで引っ張って行くと、その胸倉を掴むようにして掻き口説いた。
「ね、清さんのこと、考え直すように幸助さんからも小父(おじ)さんに話して!」
「いや、それは無理だよ、お美代ちゃん」
「何で? 小父さんがそんなに怖いの?」
「そうじゃないさ、あの男のことについてはわたしもおとっさんと同じ気持ちなんだ。お美代ちゃんと友五郎の小父さんこそ、早く考え直したらどうなんだい?」
 幸助とは幼い頃からの長い付き合いになるが、お美代の頼みをこのようににべもなく断ることなど殆ど無かった。
「何でよッ、清さんが幸助さんとこに何したって言うの、いきなり追い出せだなんてあんまりじゃない!」
「うん、確かにまだ何もしてないさ。けどあいつが何かしてからじゃ遅いんだよ」
「……それ、どういう意味?」
「わからないかな、わたしもおとっさんもただ意地悪でこんな厭なことを言ってるんじゃ無いんだ。お美代ちゃんの為を思ってのことなんだよ」
「あたしの為? 言ってる意味が全然わからないのだけど」
「いいかい、あの清次ってのは、お美代ちゃんの周りにいちゃいけない奴なんだ」
「ふうん」
 お美代は笑った。納得しての笑みではまるでなく、これまでに見たことの無い嘲るような笑い方だった。
「全っ然そんなんじゃないのに」
「え?」
義姉(ねえ)さんも言ってたけど、清さんに焼き餅焼いてこんな真似するなんて馬鹿みたい、見損なった」
 そう言い捨てて背を向けるお美代の袖を、今度は幸助が掴んだ。
「あの重蔵って目明かしがうちに来てね、清次が何をしでかして島送りになったか聞いたんだ。いけないよお美代ちゃん、あの男は獣よりまだ質が悪い」
「へえ、幸助さんあんな悪い岡っ引きの言うことなんか信じてるんだ」
「いや、うちでも四ツ谷まで人をやってちゃんと調べもしたさ。その上ではっきり言わせて貰うけど、わたしはあの男と同じ空気を吸ってると思うだけで気分が悪くなる」

 今夜も徹太はちゃんと長屋に帰り、二親や弟と差し向かいで夕食をとっていた。が、ただ箸と顎を動かしているだけのようなもので、何を食べても味など殆どわからなかった。
 あれ以来、松蔵は一度も顔を見せていないが、借りた金のことをこのまま忘れてくれるなどとは、徹太も夢にも思っていない。
 むしろ簀巻きにされて大川に放り込まれる自分や、涙をこぼしながら岡場所に売られて行く姉の姿を夢に見るくらいで、だから三度の飯だけでなくお美代お嬢さんが差し入れてくれる八ツ刻の菓子も、まるで砂でも噛んでいるようだ。
 空になった茶碗を箱膳に入れて立ち上がり、土間の水瓶の水を掬い一口飲んで障子戸を開ける。
「おや、どこに行くんだい?」
 母親に不安げな声をかけられて、ちょっとそこまでと言い捨て、父親の咎めるような目にも気づかぬふりをして長屋の外に出た。
 箱膳を片付けて水を飲む時、へっついの脇の包丁をひょいと取って持って出たのだが、その事には誰にも気付かれなかった。
 表通りに出る前にその包丁を手拭に包み、懐に入れて坂田橋を渡り西支川を南に下る。そして少し前から目を付けていた、北川町の表通りから少し奥に入った、昼間なら立派な見越しの松が目印になるしもた屋の前に立った。
 北川町はその昔に永代橋を架ける時にどかされた、大川の対岸の北新堀の者に与えられた代地である。だから西隣の富吉町など周囲の漁師町と違って、住んでいる者にも金のある商人が少なくない。
 この塗り板塀で囲われたしもた屋に住んでいるのも、日本橋の大店の隠居とその妾だ。
 徹太は懐の包丁を出し、包んでいた手拭で頬被りして面も隠した。しかしここに至ってもまだ決心がつかずにいる自分が、徹太は死にたいほど情けなかった。
 いっそこの包丁で喉でも突いて死んでしまった方が、どれほど楽だろうかとも思う。が、そのような真似をしても借りが帳消しになるわけでなく、ただ身内につけを回すことにしかならない。そしてその時には、それこそ一家で首を括るしかないのもわかる。
 徹太はぎゅっと目を閉じ、松蔵に仄めかされたことを思い起こした。
 姉ちゃんを女郎に売るわけにはいかねえ、皆が助かるにはこれしか手はねえんだ。命まで取ろうってわけじゃねえし、それに相手はどうせ金持ちの狒々親爺だ、これくらいの目に遭った方が良い薬になるくらいじゃねえか……。
 徹太はそう自分に言い聞かせ、一つ大きく息をして塀の木戸を叩いた。
「もうし、もうし」
 抑えた声をかけながら繰り返し木戸を叩くうち、やがて少し間延びのした艶っぽい声が返ってきた。
「はぁい、どなたァ?」
「夜分遅く済みません、近江屋の者ですが、ちょいとこちらの旦那にお伝えしたいことがありまして」
 お店者の口調を真似て、旦那への使いの者を何とか装う。
 徹太が名を借りた近江屋は、辺りでは知らぬ者のないこの町きっての大商人で、思った通りすぐに中から閂を外す音が聞こえた。
 間髪を置かず、徹太は中の者が開けるのも待たずに木戸をがらりと引き開けた。そしてその隙間から体をねじ込み、目を丸くしている妾の二の腕を鷲掴みにした。
 同時にもう一方の手に握った包丁を喉元に突き付け、押し殺した声で脅し付ける。
「声を立てるんじゃねえ。ちょっとでも妙な真似をしてみやがれ、ぶっすり行くぞ」
 目も口も大きく開けたままただ頷く妾の頬を、突き付けた包丁の刃でぴたぴた叩く。
「旦那はどこだ、案内しろ」
 力の加減を誤ったか妾の頬に血の線がうっすらと滲み出したが、今さら後戻りは出来ないし構っちゃいられない。
 震える妾を押し立てて上がり口から中に入ったちょうどその時、奥の座敷から髪が半ば白くなりかけた痩せた小男が顔を覗かせた。
「お古乃、どなたかい?」
「やい、有り金そっくり出しやがれッ」
 その旦那らしい小男を睨み据え、徹太はお古乃に突き付けた包丁をちらつかせた。
「わかった、だから手荒な事はするな」
 白髪頭を振り立てて男は出て来た奥の座敷に戻り、徹太もお古乃の腕を捩り上げたまま、土足でそのすぐ後に続いて中に入った。そして差し出された西陣の分厚い財布を、包丁を構えた方の手で引ったくるように取る。
「さ、お古乃を放してくれ」
 金を払ったのだからもうこちらのものだと言わぬばかりに、旦那は手を差し伸べて近づいて来るが、そうは行かない。ここでうっかりお古乃を放してみろ、これ幸いと助けを求めて騒ぎ立てるに違いないと徹太は思った。
「うるせえ、すっこんでろ!」
 徹太は包丁を前に突き出して威しながら、お古乃をもう一方の腕に抱えて海老のようにじりじりと後ろに下がった。
 徹太としてはお古乃をどうこうしようというのではなく、ただ木戸から外に出るまで二人を黙らせておきたいだけだった。外の道に出さえすれば、騒がれても一目散に駆ければ夜の闇に紛れて逃げられると思っていた。
 だから質に取った妾は木戸口で放すつもりだったが、それが相手にわかる筈も無い。このまま攫われると思ってお古乃は激しく泣きじゃくるし、旦那も目を三角にして詰め寄って来る。
「寄るんじゃねえって、死にてえのかッ」
 空気でも掻き混ぜるように包丁を振り回しながら、徹太はまた下がる。
 上がり框から三和土に降りようと、ほんの一瞬足元に目を反らしたその時だった。小男で還暦を過ぎたような旦那が、猫のように飛びついて来て包丁を持つ手にかじり付こうとした。
「あッ」
 咄嗟に振り払おうとした徹太は、包丁を持つ手に変な手応えを感じた。
 何か柔らかいものに包丁の刃がめり込んで行く胸が悪くなるような感触が、柄を握る手に確かに伝わって来る。
 同時に旦那はくぐもった呻き声を上げながら前屈みになり、お古乃の方は両手を胸の前で握り締めて耳をつんざくような金切り声を上げた。
 悪ぶってはいるが、徹太は加賀町の与吉親分の手を煩わせるような真似は一度もした事が無かった。喧嘩なら幾度もしてきたが、押し込みをしたのはもちろん、刃物で人を刺したのも、本当にこれが生まれて初めてだった。
 頭の中が真っ白で殆ど何も考えられなくなり、お古乃も包丁もその場に放り出して、徹太は家のある伊沢町の方に一目散に駆けて行った。

 今日は油堀ではなく、永代橋の向こうの新堀河岸に行き酢の荷揚げを手伝えと言われて、清次はおやと思った。昨日までの話では、森田屋の仕事は確かまだ暫く続くということだった筈だ。
 だがどこでどの荷を揚げるかは友五郎が決めることで、清次はただ言われた店の荷を担ぐだけの話だ。
 どの店の荷を揚げようがさして気にしていないのは他の人足らも同じで、それより今日は朝から、北川町で起きた押し込みの噂でもちきりだった。
「日本橋の松川町に山田屋って太物屋があってな、やられたのはそこの隠居だそうだ」
「やられた……って、その旦那は死んだのか?」
 尋ねた徹太が妙に青い顔をしているから、周りの者たちもついからかいたくなる。
「何だテツ、震えてるじゃねえか」
 うるせえやと毒づくものの、その声にもどうも力がない。
「いや死んじゃいねえ。何しろ隠居だから年だし、血もかなり出たようで弱っちゃいるが、命の方には別条ねえようだ」
 そこで今度は大袈裟なくらいに安堵の息を漏らすものだから、刺されたのはおめえの親父や身内じゃあるめえしと、皆はまた笑う。
 一頻り笑った後で、皆は表情を引き締めて顔を見合わせた。
「その北川町のしもた屋だが、他には通いの女中が一人居るだけだから、夜は隠居と妾の二人だけになっちまう」
「なるほど、そこを狙われた……ってわけだな」
「でもよ、それを承知の上で押し込んだとすると、やったのは土地の者って事になりゃしねえか?」
「北川町って言やあ、かなり近くじゃねえか。いってぇ誰がやりやがったのだ」
「ま、加賀町の親分も目の色変えて聞き込みに回ってるらしいし、ほんとに近くの者ならじきお縄になるだろうよ」
 徹太はまた青い顔に戻り全身を耳にして皆の話に聞き入っていたが、その徹太を清次は笑うでもなく、ただ首を傾げて様子を見守っていた。

「おとっさん、本当に良いのかい?」
 幸助に尋ねられた森田屋の彦右衛門は、伊勢崎屋を切って代わりの人足の手配を六間堀の豊甚こと豊島屋に頼んだことだとすぐに察した。
「仕方あるまい、伊勢友はわたしの忠告を聞かないどころか、わたしを人を見る目の無い器の小さな人間とまで言ったのだ」
 いくら長い付き合いでも、聞き捨てに出来ない言葉ってものがある。吐き捨てるようにそう呟いた後で、彦右衛門は逆に息子の顔をじっと見た。
「友五郎が詫びを入れて来ない限り、あいつの娘を貰う話も棚上げにしなきゃならないが、お前も承知してくれるか?」
「ええ、わかってます、それは仕方ないでしょう」
 感情を押し殺して素っ気ない振りをして見せようとしたものの、声が僅かに震えてしまうのはどうにもならない。
 見損なった、幸助さんがこんな最低な人だとは思わなかった。敵でも見るような燃える目で睨みながら、お美代はそう言った。
 お美代のことを、幸助は心から案じていた。清次の過去を調べ上げて近づかぬよう言ったのも、面だけは良いあの男の本性を見せてお美代の目を覚まさせる為だ。
 お美代はまだ若いし、ちょっと悪っぽいのを男らしさと勘違いしてしまうのもわかる。だがあの男だけは駄目だと、幸助は清次がしでかしたことを詳しく聞く前から本能で感じていた。
 だが目を開かせようとする幸助の言葉すべてを、お美代はこれまで見たことも無いくらい激しい調子で拒絶した。
「わざわざ人をやって昔のことをあれこれほじくり返して、そんな岡っ引きみたいな真似して楽しい? いくら焼き餅焼いて気になるからって、男らしくなさ過ぎると思わない? ほんと最低、大っ嫌い、顔も見たくない!」
 心底惚れているなら、どう罵られようと耐えて守り続けるべきなのかも知れない。だが幼い頃からずっと大切に思ってきた相手が、札付きの悪にどんどん惹かれて行く姿を指を咥えてただ見続けているのは、本当にもう限界だった。
 それにいくら兄妹同然に育った幼馴染みでも、彦右衛門ではないが言ってはいけない言葉があるだろうと思う。
「それはそうと、北川町の押し込みの話はお前も聞いたか?」
「ええ、酷い話です」
「与吉親分だけじゃない、松井の旦那も出張ってお調べになってるようだが、一体誰がそんな大それた真似をしでかしでかしたのだろうな」
 問いかけた彦右衛門の目を見て、父が誰のことを頭に思い描いているのか幸助もすぐに気づいた。
「あの男と伊勢崎屋さんをうちの仕事から切って良かったと、後々思うことになるかも知れませんね」

 気づかなければそのまま見過ごしてしまったであろう事も、一度気になると妙に目につき、余計な話もあれこれ耳に入って来てしまうようになる。
 一日の仕事を終えた清次は、永代橋を渡って今川町の伊勢崎屋に帰る途中に油堀で見た光景に眉を寄せた。
 河岸には森田屋への荷を積んだ船が続々と着いていて、それを見たことの無い顔の人足らが担ぎ揚げている。
 どういう事なのだろうと、清次は首を捻った。
 伊勢崎屋のお嬢さんは森田屋の跡取りと良い仲で、年が明けたら夫婦になる話は清次も知っている。それを考えれば、別の口入れ屋に替えることなど出来ぬ筈だ。
 最近は安平も重蔵も姿を現さず、他の人足たちも清次を仲間と認めてくれて、本当に良い日が続いていた。
 それだけに、森田屋と伊勢崎屋のことが妙に気になった。
 気になると言えば、徹太の様子も見れば見るほど不審でならない。 そして何故だろう、どうしたのだろうと気にかけているうち、聞かねば良かったと心から思う厭な囁き声が、少しずつ清次の耳に入って来た。
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登場人物紹介

清次……三宅島から戻って来た島帰りの男。昔は四ッ谷の狼とも呼ばれたかなりの悪だったらしいが、今は売られた喧嘩すら買わず、堅気になろうと懸命に働く。三十過ぎくらいの、渋い良い男。

安平……同じ三宅島に流されていたやくざだが、一見すると人当たりは良い。しかし芯は冷たい根っからのやくざ者。

松蔵……元は清次の子分で、悪だった清次に憧れていた。今は本物のやくざになり安平の弟分で、堅気になろうとしている清次に失望している。

伊勢崎屋友五郎……口入れ屋の主。田舎から出て来て一代で店を持つに至る、それだけの男だから仕事には厳しいが、人情に厚い義理堅い男。

お美代……友五郎の娘で伊勢崎屋のお嬢さん。たまたま行き倒れていた清次を拾う。最初から清次に好意的で周囲が心配するほど良くなついている。

森田屋幸助……お美代と兄妹同然に育ち、今は許嫁の間柄。最初は気にしないでいたが、次第にお美代と清次の仲が気になってくる。

徹太……伊勢崎屋の人足で最も若い、威勢の良い者。それだけに、自分の男を見せつけようと、島帰りという清次に無闇に突っかかって喧嘩を仕掛ける。

重蔵……かつて清次をお縄にした岡っ引き。清次を目の敵にして、清次が赦されて戻って来た今も散々嫌がらせをしている。

佐吉……堀川屋という袋物屋で働く真面目なお店者だが、わけあって清次を深く恨み、何度も清次の前に姿を現す。

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