第12話

文字数 8,414文字

 加賀町の十手持ちの与吉は、油堀沿いの千鳥橋の袂近くで女房に蕎麦屋をやらせていた。
 その蕎麦屋の障子戸を伊勢崎屋の友五郎が叩いた時、与吉はちょうど店の奥の部屋で着替えていた。
「どうしたい、友五郎さん」
 与吉は突き出た腹に帯を巻きながら出て来て、あと二刻も経てば客で溢れかえる店の座敷に友五郎を座らせた。
「朝っぱらから済まねえ、だがちょいと耳に入れておいてほしいことがあってな」
 どこか屈託ありげな友五郎の話を一通り聞くと、与吉は頷いて女房に淹れさせた茶をひと啜りした。
「伊勢友さんのとこで島帰りの野郎を使ってる……って話はな、おれも前から聞いちゃあいたのだ」
「さすがは加賀町の親分さんだ、お耳が早い」
「ま、稼業だからな。今ンところ真面目に働いているらしいのも、おれもこの目で確かめてもいるぜ」
「ならわっしが言うまでもなかろうが、今の野郎はただ働く為に生きてるようなものでな。日が暮れるまで重い荷を担いで、真っすぐ帰って来ちゃあ寝てまた起きて働いての繰り返しよ。飲む打つ買うのどれもしねえで、楽しみと言っちゃあ湯に入った後に二階で饅頭を一つ食うくらいのものでな」
 湯屋の二階は休憩所のようになっていて、将棋盤や碁盤もあり、湯上がりに気の合う者同士で駄弁(だべ)って行く者も少なくなかった。そこでは饅頭も売っていて、小女が茶も淹れてくれる。
「で、その清次だが、夕べちゃんと帰って来たのだな?」
「奴らの誘いを断ったってんで険悪な空気になりかけたらしいが、夕べのところはまあ何とかな」
「わかった。おれも手が空いてたら、河岸にちょくちょく顔を出しておこうじゃねえか」
「助かりまさ。親分の目が光ってるとわかりゃ、三五郎一家の連中の足も自然に遠のくに違いねえ」
 その友五郎に、与吉が表情を緩めてからかうような顔を見せた。
「それにしても伊勢友さんほどのお人が、島帰りの野郎なんぞにそこまで肩入れするとはね」
「親分も見たろうが、野郎があれだけ懸命に頑張ってるとこを見りゃ、こっちも手を貸して堅気にしてやりてぇって気にならあな」
 おれがそうなったのも、半分はお美代の奴にうるさく煽られてのことなのだがと、友五郎は苦笑する。
 ただ最近のお美代は、親の目にも清さん清さんと騒ぎ過ぎのように見えていて、森田屋の幸助が厭な気持ちになっていやしないか、ちょっと気にならないでもない。
 なぁに馬鹿なこと言ってんの、幸助さんはそんな器の小さな人じゃないから大丈夫。
 心にやましいものが無いせいか、当のお美代は自信あり気にそう言うのだが、それは男を買いかぶり過ぎだろうと思わないでもない。
「ま、三五郎の身内のことについちゃ、おれもちゃんと心に留めておくぜ」
 力強く頷く与吉に安堵して座を立ちかけた友五郎だが、そこで気掛かりなことがもう一つあったのを思い出した。
「ところで親分、伊賀町の重蔵親分ってご同業の方のことはご存じで?」
 友五郎がその名前を出した途端に、与吉は露骨に厭な顔を見せた。
「縄張りも離れてるから滅多に会いもしねえが、顔ぐらい知ってるし、噂はいろいろ聞いちゃあいるよ」
 与吉は先ほどまでとは打って変わって厳しい顔で、友五郎を睨むように見る。
「で、その重蔵だが、伊勢友さんに何か絡みでもしたのかい?」
「いや、絡まれたのはおれじゃあねえのだが」
 重蔵に河岸に乗り込まれたた時のことを話すと、与吉の表情はますます苦くなった。
「同じ稼業の者を悪く言いたかねえが、重蔵ってのは底意地が悪い上に金にも(きたね)え野郎でな。何かってえと金をせびりたがるんで、縄張りの商人たちにもえらく嫌われてるのよ」
 目明かしの親分としてやって行く以上、子分だって幾人も抱えて面倒を見て行かねばならない。にもかかわらずお上からの手当は雀の涙だから、その為の金をどこかから捻り出さねばならぬのは与吉にもわかる。
 わかるが重蔵は、その金のねだり方が些か目に余った。
「そのうちきっと、伊勢友さんの店にも清次のことで因縁をつけに行く肚なのだろうよ。島帰りの悪党を店に置いとくたぁ、どういうこった……ってね」
「どういうこったって、清次は島で罪を償って綺麗な体になって帰って来たんじゃねえか。お上のお赦しだって戴いてるんだ、なのに改心して真面目になろうって奴を、何で苛めてまた悪い道に追い込もうとするのかと思うぜ」
 岡っ引きの袖に放り込む金を惜しむわけではないし、事実与吉には盆暮れの付け届けを欠かした事の無い友五郎だが、重蔵のことを考えるとどうにも業腹でならない。
「わかるぜ、その通りだ伊勢友さん。縄張りを土足で踏み荒らすような真似をされちゃあ、おれだって面白くねえや。もしこの辺りで重蔵を見かけたら、十手持ちの仁義についておれからもきつく言っておくぜ」

 重蔵に縄張りを荒らされて腹を立てたのも、顔を見かけでもしたら怒鳴りつけてやろうと思ったのも事実だった。
 だが友五郎を送り出した後、与吉の頭の中の大半を占めていたのは他のことだった。
 友五郎から話を聞かされた時、与吉は初めのうち、本音では面倒なことを聞かせやがってと思っていた。迂闊な岡っ引きなら身投げで片付けてしまいそうな不審な死骸は、あの後も大川に二体浮かんでいて、与吉も与吉に十手を預けた同心の松井孝之助もそれどころではなかった。
 そのどちらも南蛮渡りの阿芙蓉によるものと、孝之助も与吉も睨んでいる。
 が、誰が阿芙蓉を手に入れて売り捌いているか、まだ手掛かり一つ掴めていないのだ。
 たかが島帰りの野郎とは言え、もし死骸にでもされたなら無論駆けつけて探索にかかるつもりだ。しかし聞けば、その野郎は怪我一つせずに帰って来たと言うではないか。
 友五郎は深川(ところ)でも顔役の一人だから黙って話を聞いていたが、こんなつまらぬ話で朝っぱらから煩わせないでくれと言いたいのが与吉の本音だ。
 が、話を聞き続けるうちに、これは案外、例の阿芙蓉の件の調べを進める糸口になるかも知れないと思い始めた。
 清住の吉蔵が豊島屋の凄腕の用心棒に返り討ちにされた今、この深川を仕切っているやくざは弥勒の三五郎一家だが、これが巧く立ち回っていてなかなか尻尾を出しやがらない。
 だがもし清次が殺されでもすれば、その尻尾が掴めるかも知れない。松蔵だって売り出し中の兄貴株でただの三下とは違うし、安平に至っては島送りになる前から札付きの悪だ。
 この二人をお縄にして痛め吟味にかけることが出来れば、阿芙蓉の抜け荷についても何か吐かせられるかも知れぬ。そう気づいた途端、与吉は友五郎の話を本気で身を入れて聞く気になった。
 だから与吉は、清次が何かされるまでは黙って見ていようと決めた。
 別に殺されてくれとまでは言わねえ、助けてやるのは片輪にされるか半殺しにされるか、安平らを問答無用でお縄に出来るくらい痛め付けられてからだ。
 南蛮渡りの人を腑抜けにする薬から江戸の皆を守る為だ、清次って野郎にゃ、可哀想だが手掛かりを掴む撒き餌になって貰うしかねえ。
 与吉は肚の底でそう考えていた。
 ただ昨夜店に帰った清次が友五郎に喋ったのは、弥勒の三五郎一家の誘いをきっぱり断ったことだけだった。何か怪しげな物の受け渡しの話を持ちかけられたことは、約束通りまだ誰にも喋っていない。
 だから安平が阿芙蓉の抜け荷について何か知っているどころか、三五郎の片腕として取引に関わろうとしているとは、さすがの与吉も気付かずにいた。

 その日も清次は変わらずに仕事に出たが、皆がひそひそ囁き合っている話の中身は、ちらちら向けられる視線だけでほぼ見当がついた。
 伊勢崎屋に戻って来たということは、まだここで人足仕事を続けるつもりなのか。だが三五郎一家の兄ィ達とあれだけ親しげにしていたところを見れば、やっぱりやくざともまだ縁が切れてないのではないか。
 もし誰かに尋ねられたなら、答えられる範囲でちゃんと話すつもりもあった。だがあえて尋ねようとする者はいなかったし、清次も百の言葉で語るより態度で見せる方がより真実を示せると考えていた。
 だから清次は今日も重い荷を担ぎ、船から陸の蔵へと、流した自分の汗の上を繰り返し辿るように一心不乱に働いた。
 辛くないと言えば嘘になる。しかし頭がぼうっとして何も考えられなくなるほど疲れるのは、時によっては救いにもなることを、清次は痛いほどよく知っていた。
 その清次の前に立ち塞がる者が、今日もまたしても現れた。
「どこまで太いやつなんだ、まだこんな所にいやがって」
 目を上げてその男の顔を見た清次は、担いでいた油樽をその場に置くなり土下座した。
「佐吉さん済まねえ、そんな事じゃあどうにもならねえ事はわかっちゃいるが、どうぞ気が済むまで殴ってくれ。何なら殺してくれたって構わねえ」

 地べたに額を擦りつける清次を見下ろす佐吉の目は、氷よりも冷たかった。
「殺す? お前はわたしを馬鹿だと思ってるのかい?」
「とんでもねえ、何でそんな……」
 思わず顔だけ上げた清次に、棘だらけの言葉が突き刺さる。
「もし出来るならそうしてやりたいさ。お上が許して下さるなら、台所の油虫を踏み潰すみたいに平気で殺してやる」
 そこで一端言葉を切り、佐吉は身を屈め顔を近づけて吐き捨てるように続けた。
「でも今、そんな真似をしてみろ、どう申し開きしようと人を殺めた科でわたしは死罪になるんだ」
 確かにそれが御定法で、どんな理由があろうと故意の殺しは死罪が原則だ。仇討ちですら許されるのは武士のみで、しかも討って良いのは尊属の仇に対してのみと決まっていた。
 つまり妹は兄の仇を討てるが、兄が妹の仇を討つことは許されないのである。
「どう考えたって引き合わないと思わないかね? わたしの大切な妹を死なせたお前が島送りで済んで、わたしがお前を殺せばわたしは死罪だよ」
「確かにその通りだ、言われるまで気がつかなかった。ただおれはそんなつもりじゃあ……」
「お前みたいな屑はいつもそうだ。そんなつもりじゃなかった、気がつかなかった、ついカッとして、ついムラムラして、こんな事になるなんて思いもしなかった。そう言い訳すりゃあ、世間さまが甘い目で見てくれる。そう思って、好き放題して世を渡ってるのだろ?」
「おい、いい加減にしねえかッ」
 不意に肩を痛いくらいに鷲掴みにされ、振り返った佐吉は仁王のような面で睨みつけている猪吉をそこに見た。
「こちとら仕事の途中なのだ、皆が癇癪を起こさねえうちに(けえ)った方が身の為だせ」
 清次を責めるのに夢中でまるで気づかなかったが、佐吉はいつの間にか伊勢崎屋の人足らに取り囲まれていた。細作りで背も低い佐吉は、隆と筋肉が盛り上がった河岸の荷揚げ人足の輪の中ではまるで鰹の群れの中の鰯のようだ。
「黙って聞いてりゃ、こないだっから、ねちねち、うじうじ、鬱陶しいんだよッ」
「こんなに謝ってんじゃねえか、しつけえったらありゃしねえ」
「こいつを御赦免にしたのはお上だ、文句があるならお奉行さまにでも申し上げろ、ってんだよ」
 手こそ出しやしないが、佐吉を取り巻く皆は今にも殴りかかりそうな顔をしている。三五郎一家のやくざや十手持ちではさすがに後の祟りが恐ろしいが、相手が見るからにひ弱なお(たな)者となれば話は別だ。
 が、既に膝の辺りが震え始めているくせに、佐吉も気持ちだけは負けていない。
「殴るのかい、だからお前たちのような奴らは嫌いなんだ、頭ン中が空っぽで、腕力でしか物事を決めようとしない」
「何だとてめぇッ」
「さあ、やるならやったらどうだい。わたしに怪我でもさせてごらん、後で十手持ちに来られて泣くのはお前たちなんだからね」
 そこに清次が、佐吉を背の後ろに庇って割って入る。
「待って下せえ、悪いのは全部あっしなんだ、佐吉さんに手は出さねえで下せえッ」
 その清次に皆はわかってると頷く一方、佐吉には侮蔑の混じる威すような目を向けた。
「ざまはねえな。見ろ、てめえが恨んでいる敵に庇われてら」
「河岸の者はみな気が短えんだ、痛え目を見ねえうちにとっとと帰んな」
 佐吉は中の一人に襟首を掴まれ、爪先立ちに近い体勢のまま人の輪の外に引き出される。おまけに強く胸を押され、数歩たたらを踏んだが堪えられずに尻餅をついてしまった。
 伊勢崎屋の人足らの哄笑を浴びながら、佐吉はゆっくりと立ち上がり尻の辺りをはたいた。そして永代橋の方に去って行ったが、ただ一人心底済まなそうな顔で頭を下げている清次にこう言っておくことも忘れなかった。
「いいかい、わたしもお志津も親父も、死んで焼かれて骨になっても絶対お前を許さないからねッ」

「あっしのせいでみんなに迷惑かけちまって、本当に申し訳ねえ。この通りだ」
 遠ざかる佐吉の背がまだ遠くに見えているうちに、清次は河岸の皆に深々と頭を下げた。
 下げた頭をそのまま上げずにいる清次の背に、まだ一度も口をきいた事のなかった三十少し前くらいの髭面の人足が、労るように手をかけた。
「おめえのせいじゃねえ、悪いのはあの野郎よ」
 その一言が呼び水になったかのように、他の人足らも次々に声をかけて来る。
「気にするこたァねえさ、本気で堅気になろうっておめえの気持ちは、皆わかってら」
「昔のことを心底悔やんでんのだって、誰だってわかるじゃねえか、なあ?」
「それがわからねえのは、あの馬鹿野郎くれえのもんよ」
「若え頃にゃ血が騒ぐもんだ、誰だって過ちの一つや二つくれえ、してらあな」
「あの佐吉って奴にも聞いてみてえもんだぜ、てめぇはそんなにご立派なのかよ、って」
「おうよ、野郎にだって人に言えねえ事は一つや二つ、あるに違えねえんだ」
「人ってのはお互い様なんだ、さっき偉そうなこと抜かしてたあの野郎だって、悪いことは何もしてねえ筈はねえんだ」
「誰だってよ、多かれ少なかれ周りの誰かに迷惑かけながら生きてるもんだ。あの佐吉だってそうなんだって、何で野郎は気がつかねえのかな」
「その通りよ。世の中にゃ片方だけ良くて、もう一方だけが悪いなんてこたぁねえのだ」
「だから腹が立つことがあったって、水に流して許し合っていかなきゃ、世の中は成り立たねえ」
 皆に初めて仲間として認めて貰えた気がして、清次は瞼も胸も熱くなって殆ど言葉が出て来ない。出来るのはただ、繰り返し頭を下げて、みんな済まねえと呟くことだけだった。
 そこに猪吉が割って入り、苛立ちを声と顔の両方に現して怒鳴り散らす。
「てめぇら何やってんだ、仕事を続けろい!」
 が、皆がいつも通りに仕事に戻ってすぐ、猪吉は誰にも聞かれぬよう清次の耳元でぼそりと囁いた。
「安心しな、あの野郎がまた因縁つけに来やがったって、すぐ追い返してやらあ」

 その様子を与吉が少し離れた蔵の陰からずっと窺っていて、何とも言いようの無い顔をしていた。
 もし来たのが安平や松蔵なら、長脇差を抜くまで黙って見ているつもりだった。そして伊賀町の重蔵だったら、すぐにすっ飛んで行こうと決めていた。縄張りを荒らされて業腹だっただけでなく、重蔵のような十手持ちにうろつかれて、安平や松蔵が寄り付かなくなったらもっと困る。
 清次に絡んだ男の顔を見るのは初めてだったが、友五郎から聞いた話から、重蔵が連れて来たというお店者だろうとすぐに見当がついた。
 ただ佐吉とか言うお店者が一人で来るとは思っていなかったので、出て行くべきかどうか与吉もかなり迷った。
 自分が出て行けば騒ぎはすぐに治まると、考えるまでもなくわかっていた。が、清次の堅気になる覚悟がどれ程のものかを確かめてみたい気持ちの方が大きくて、与吉は身を隠したままただ様子を見ていた。
 無論、佐吉が伊勢崎屋の人足に袋叩きにでもされれば、その時には直ぐに止めに入るつもりではいた。それは佐吉の為ではなく、これまでも何かと力になってくれている友五郎への義理だ。
 幸い揉め事は血を見るには至らず、佐吉がつまみ出され河岸から追い払われて一先ずけりがついた。
 たかが島帰りの野郎の一人や二人、いざとなれば見殺しにする肚だった。しかし清次が人足らに河岸の仲間の一人と認められ、皆に庇われている姿を目の当たりにして、柄にもなく胸の辺りがじいんと熱くなってくる与吉だ。
 ただその事に気を取られていたせいで、与吉は己もまた見られていたことに気づかなかった。

 ある意味、その日の松蔵はひどくついていたと言えるかも知れぬ。
「清次の奴のこたぁまあいいや、今はまだ放っておけ」
 安平にはそう言われたが、松蔵の方はそう簡単には割り切れなかった。
 安平は島に流された後の清次しか知らないだろうが、松蔵は違う。昔の四ツ谷の狼として鳴らしていた頃を間近で見ていただけに、今の清次の有り様に我慢がならなかった。
 その頃の気概を半分でも取り戻して欲しかったし、さもなければこの世から消えて無くなって欲しかった。そうでないとずっと清次に憧れ続け、その背を追うように生きて来た自分が否定されるようで、どうにもやり切れなくなって来る。
 どうあっても昔の兄ィに戻って貰いてえ。何としてもそう話をつけるつもりで、返答次第では長脇差も抜く覚悟で松蔵は河岸に向かっていた。
 その松蔵が永代橋の方からでなく、加賀町の方から油堀に沿って行ったのは物怪の幸いだった。もし大川沿いに行っていたら、与吉がそこに居ることにまるで気づかぬところだった。
 河岸での清次の様子を、与吉は油堀に沿って並ぶ蔵の陰からじっと見張り続けている。
 それに気付かなかったら、危うく妙な紐をつけて帰って、安平の兄貴がいる場所まで知らずに案内するところだった。松蔵は胸を撫で下ろしながら、その与吉に気取られぬようそっと向きを変えて引き返した。
 安平が二階にまだ居る筈の黒江町の真砂屋に向かいつつ、松蔵は胸の中に黒い厭なもやもやが広がって行くのを感じていた。
 安平の兄貴が例の取引を手伝って貰いてえと話を持ちかけた次の日に、なぜ岡っ引きが隠れて清次を張っているのか。
 野郎、あの後真っすぐ与吉ンとこに駆け込みやがったかッ。
 考えたくはないが、そう疑う気持ちを松蔵は拭い切れなかった。
 もしそうだとしたら……。
 腰の長脇差を握り締めて、松蔵は真砂屋に向かう足を速めた。

 同じ頃、森田屋の幸助はお美代と仙台堀に沿ってゆっくりと歩いていた。永代橋から小名木川までの大川端や油堀と同じように、この仙台堀の両側にも蔵が立ち並んでいる。
 暦の上では既にすっかり冬だが、日差しは優しく風も無く、日だまりに居ればいつの間にか体がじんわり暖かくなってくる。
 それに幸助の隣には、お美代がいた。
 可愛らしい笑顔を向け、日々のことを楽しげに喋るお美代と一緒なら、雪が降る中でも寒風が吹き荒ぶ中でも自分は笑っていられるだろうと幸助は思っていた。
 ただ最近は、その気持ちも少し揺らぎかけている。
 お美代の笑顔は変わらずいつも通りだが、お美代が話すことと言えば今日も清次のことばかりだ。
 聞けばやくざに身内になれと誘われたり、きっぱり断って帰って来たりとかいろいろあったようだ。それを人に喋りたくなるのも、喋るうちについ熱が入ってしまうのも、まあわからないでもない。
 ただ聞かされている幸助が面白いかどうかは、まるで別問題だ。
 清さんがね、それで清さんはね、清さんったらね……。
 いつまでも続く清次の話を聞きながら、幸助はもし自分が店の女中の誰それが頑張り屋で気立ても良くて、こんな事もあんな事もするんだ、とっても凄い娘だろうなどと褒め続けたら、お美代はいったいどんな顔をするだろうなどと、ふと思ったりもした。
 それでお美代に焼き餅の一つも焼かれ、痴話喧嘩というやつにでもなるならまだ良い。だがもし嫉妬すらされずに、へえそうなのとただ聞き流されでもしたらと思うと、怖くて試してみる勇気も出て来ない。
 お美代ちゃんは今わたしと会ってるんだよ、清次とやらの話はもういいじゃないか。
 さらりとそう言ってやれればどれだけ良いかと、前から何度も思い続けている幸助だ。
 が、店の人足風情に焼き餅を焼く器の小さな男と思われたくなくて、幸助は面白くない気持ちを押し隠して、さも楽しげに微笑んで頷いて見せていた。
「……でね、ちょっとぐらい言い返してやればいいのにって、あたしなんかいじいじしちゃうくらいだったけど、黙って頑張るとこを見せ続けて、とうとう店のみんなにも仲間だって認めさせちゃったの。清さんってほんとに凄いでしょう?」
 曇り一つ無い笑顔を向けるお美代に、幸助も何とか笑顔を作って相槌を打とうとしかけた。が、それより早く後ろからついて来ていた男が、追い抜きざまに低く厭な笑い方をした。
「熱でもあるんじゃねえのかい、伊勢崎屋のお嬢さん。あの屑野郎をどうしたらそんなに買い被れるのか、おれにゃあどうにもわからねえ」
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登場人物紹介

清次……三宅島から戻って来た島帰りの男。昔は四ッ谷の狼とも呼ばれたかなりの悪だったらしいが、今は売られた喧嘩すら買わず、堅気になろうと懸命に働く。三十過ぎくらいの、渋い良い男。

安平……同じ三宅島に流されていたやくざだが、一見すると人当たりは良い。しかし芯は冷たい根っからのやくざ者。

松蔵……元は清次の子分で、悪だった清次に憧れていた。今は本物のやくざになり安平の弟分で、堅気になろうとしている清次に失望している。

伊勢崎屋友五郎……口入れ屋の主。田舎から出て来て一代で店を持つに至る、それだけの男だから仕事には厳しいが、人情に厚い義理堅い男。

お美代……友五郎の娘で伊勢崎屋のお嬢さん。たまたま行き倒れていた清次を拾う。最初から清次に好意的で周囲が心配するほど良くなついている。

森田屋幸助……お美代と兄妹同然に育ち、今は許嫁の間柄。最初は気にしないでいたが、次第にお美代と清次の仲が気になってくる。

徹太……伊勢崎屋の人足で最も若い、威勢の良い者。それだけに、自分の男を見せつけようと、島帰りという清次に無闇に突っかかって喧嘩を仕掛ける。

重蔵……かつて清次をお縄にした岡っ引き。清次を目の敵にして、清次が赦されて戻って来た今も散々嫌がらせをしている。

佐吉……堀川屋という袋物屋で働く真面目なお店者だが、わけあって清次を深く恨み、何度も清次の前に姿を現す。

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