第16話
文字数 8,828文字
押し込んだ先の北川町と徹太の住む伊沢町は、蛤町三丁目と坂田橋を挟んで殆ど隣町とも言えた。当然、目明かしやら下っ引きやらがうろついて、誰彼となく話を聞き込んでいる様子は厭でも目に飛び込んで来た。
それで徹太は、
「おい、ちょいと番屋まで来てくんな」
十手持ちがいつそう言ってくるかと、猫に怯える鼠のようにびくついていた。
だから仕事の荷揚げの最中に、永代橋広小路の向こうから与吉が友五郎を連れてやって来る姿を見た瞬間、徹太は担いでいた樽をすッと足元に置き、背を丸めて目の前の雑踏に紛れ込んだ。そしてそのまま、殆ど駆けるように日本橋の方に逃げ出した。
「待てよ、おいッ」
後ろから声をかけられたが振り向きもせず、徹太はさらに足を速めてより人の多い方へと急いだ。
良い話と悪い話があると聞かされた友五郎は、殆ど迷わずに良い話の方を先にしてくれと頼んだ。
頷いた与吉だが、話す前に少し気の毒そうな顔をして、どっちにしたって伊勢友さんにとっちゃ悪い話に違いないのだがと呟いた。
「まず清次だが、やったのが野郎じゃねえのは確かだ。友五郎さんが聞いた噂はおれも知っちゃあいるが、馬鹿らしいと聞き流してる」
「で、悪い方の話ってのは?」
「伊勢友さんとこの徹太って若いのが、三五郎一家の賭場でどえらい借りを作って二進も三進も行かなくなってるの、友五郎さんも知っていなさるかい?」
友五郎はまず目を見張り、続いてその顔がたちまち青くなる。
「おいおい、冗談だろ。あのテツがまさかそんな……」
「いや、そのまさかなのだよ。人ってやつはさ、追い詰められると何をしでかすかわからねえ怖いものでな。やったのは徹太でまず間違いなかろうとおれは睨んでる」
が、友五郎はまだまるで納得の行かぬ顔で首を振る。
「親分にゃ悪いが、テツの野郎から直に聞くまではおれにはどうにも信じられねえ」
「いいだろう。おれもそろそろ野郎と差しで話をしてみてえと思ってたところだ、何なら今から一緒に行くかい?」
それで友五郎は子分を二人連れた与吉と共に、徹太がいる筈の北新堀の河岸に来てみたが、すると店の人足らは仕事も手につかぬ様子でざわついていた。
「おい、どうしたい?」
友五郎を見て慌てて寄って来た猪吉は、尋ねられてわけがわからぬといった顔で首を捻る。
「それが徹太と清次が、いきなり居なくなっちまったんで」
やられた。与吉は鋭く舌打ちすると、二人が逃げたという方角に子分と一緒に駆け出して行く。
「あの、いってぇどういう事なんで?」
今度は猪吉に尋ねられた友五郎だが、
「何が何だか、おれにもわからねえ」
本当にそう答えるしかなかった。
徹太も清次もそのまま戻らず、与吉も箱崎橋の向こうに駆けて行ったきりで、友五郎はそのまま店に帰るしかなかった。
日が暮れても、清次は伊勢崎屋に戻らないままだった。
「ね、どうして? 清さんはやってないって、与吉親分だって言ってたんでしょ?」
お美代はしつこいくらいに尋ねるのだが、友五郎にも答えようが無い。
夕食を済ませ、店の戸締まりをした後も誰も居間から動かず、出がらしの薄い茶ばかり飲んでいるうちに時が過ぎていった。
ひどくくたびれきった顔の与吉が伊勢崎屋の戸を叩いたのは、宵五ツ(午後八時)もかなり過ぎてからであった。
「妙なことになったぜ友五郎さん。北川町の押し込みはおれがやりましたって、清次の野郎が番屋に名乗り出て来やがった」
与吉の言ったことに驚かぬ者はなかったが、中でもお美代の顔はたちまち青くなる。
「ね、どういう事? 清さんは絶対そんな事してないよね?」
「どうもこうもねえ、野郎がそう言ってるんだ」
胸に縋ろうとするのを与吉は煩げに突き放したが、お美代はめげない。
「でもやったのは清さんじゃない、そうでしょう?」
「ああ、その通りさ」
押し込んだ賊と清次の年や背格好は、刺された隠居と妾の話とはまるで違うし、それに包丁のこともある。現場に残された包丁は徹太の家のものだと、徹太の母親自身が認めていた。
「それで友五郎さんや皆に聞きたいのだが、野郎には何か徹太を庇わねばならねえような義理でもあるのかい?」
「とんでもない、その逆さね」
徹太が清次に散々突っ掛かり、揚げ句に殴って怪我までさせた話を聞かされて、与吉の眉間の皺はますます深くなる。
「どうにもわからねえ。盗まれたのは十と二両だ、このままじゃどう考えても清次は死罪間違いなしだ」
「おとっさん、清さんを助けて!」
お美代の必死の眼差しを受けるまでもなく、友五郎もこのまま見過ごすつもりは無かった。
「どうだい与吉親分、そこまでしてテツの野郎を庇うわけを、おれに尋ねさせちゃくれねえか?」
「それよ。おれもその事を、友五郎さんに頼みに来たのさ」
仙台堀が大川に注ぐ辺りに架かる上ノ橋の向こうにある番屋は、今川町の伊勢崎屋の殆ど目と鼻の先と言っても良かった。
火の気も無い冷たい板の間に縛られたまま正座していた清次は、友五郎の顔を見るなり深々と頭を下げた。
「申し訳ありやせん、あっしがやりやした」
与吉は疲れの色が濃く浮かぶ顔を歪めて低く唸り、例の包丁を目の前に突き付けて、友五郎にもした話を繰り返す。
が、それでも清次はやったのは自分だと言い張るのを止めない。
「てめぇ、おれを虚仮にする気かッ。何なら押し込まれた家の者をここに呼んで来て首実検したっていいんだぜ? そうすりゃ直ぐにばれるような嘘を、なぜそう言い張るのだ?」
苛ついて今にも噛みつきそうな与吉の袖を引き、友五郎が代わって前に出る。
「なあ清次、おれだけじゃねえ、義太郎もお美代もうちの者は皆おめえがそんな真似するわけねえ……って信じてるのだ。それともうちに骨を埋めてえって話は、まるっきり嘘だったのかい?」
「申し訳ねえ、そうおっしゃられると一言もありやせん」
清次の顔から血の気が引き、苦しげに目を閉じて呻くように言う。
「けどこうするしか無いんでさ、どうか何も聞かずにやったのはあっしだってことにしておくんなさい」
「何を手前勝手なことをほざいてんだ、おめえが良くったって、おめえを信じておめえの身を案じてる人の気持ちが晴れねえよッ」
清次は後ろ手に縛られたまま、額が床に着くくらい頭を下げる。
「伊勢崎屋の親分さんの恩を仇で返す事になってしまうのはあっしも死ぬほど辛い、けどこうするしかねえんです」
「おれなんざどうでもいいんだ、お美代の気持ちを考えてみろ。森田屋の息子とあんな事になってもまだおめえを信じて、おめえが帰って来るのを待ってるんだぜ」
清次は下げた頭を上げられぬまま、折り曲げた体を震わせる。
その時、番屋の障子戸が勢い良く引き開けられて、伊沢町の辺りに張り込ませておいた下っ引きが、徹太の背を押しながら中に入って来た。
「まさかと思ったがこの野郎、二親ンとこにのこのこ帰って来やがったんでさ」
徹太は友五郎と清次をそこに見て、縛られたまま番屋の土間にぺたりと座り込んだ。
「済まねえッ、みんなおれが悪いんだ!」
北新堀町の河岸から逃げ出した時、徹太は後を追って来ているのは十手持ちと思い込んでいた。だから死ぬ気で駆けたのだが、追って来た者の足は驚くほど速かった。
箱崎橋を越えて小網町の河岸に入るか入らぬかという辺りで肩を強く掴まれて、その手を払おうと振り返って初めて追いかけて来た者の顔を見た。
「てめッ、何しやがる!」
相手が一人でしかも清次と知った途端、怯えていた気持ちは一瞬で猛烈な怒りに代わった。
以前のようにのしてやるつもりで拳を振るったが、気づいた時には清次の姿は目の前から消えていた。同時にその腕を取られて逆に捩り上げられ、徹太はあまりの痛さに身動きが取れなくなった。
その徹太を、清次は日本橋川に沿って並ぶ蔵の陰に押して行く。
「逃げようなんて思うなよ、ちょっとでも妙な動きをしたらこの腕へし折るからな」
静かな、しかし睾丸が腹に縮み上がるほど冷ややかな声だった。捕らえられた腕も万力に挟み込まれているようで、徹太は逆らう気力もすっかり無くしてしまった。
「北川町の押し込みだが、やっぱりおめえか」
「そうだよッ、でも仕方なかったんだ!」
半ば破れかぶれで、賭場で作った借りのことと、それを返さないと姉が売られてしまうことを洗いざらいぶちまけた。
呆れたような長い溜め息が聞こえ、同時に捩り上げられていた腕の力が緩む。
「もしやり直せるならやくざとは手を切って、博打にも二度と手を出さねえと誓えるか?」
「賽子なんてもう二度と見たくもねえよ、けどやり直すなんて出来るわけねえじゃねえか」
何を馬鹿なと言いかけた徹太だが、清次があの松蔵の兄貴分だったことを思い出した。
「なあ、まさかおれの為に、松蔵の兄ィに口を利いてくれるって言うのかい?」
「おれに任せとけ、おめえが本気で真面目になるならおれが何とかしてやる」
「本当かい? あの借りをちゃらにして姉ちゃんが女郎にならないで済むようにしてくれるなら、おれはこのまま死罪になっても構わねえ」
「その事も大丈夫だ、おめえは何も心配しねえで家に帰れ」
それだけ言うと、清次は徹太をその場に残して永代橋の方に戻って行った。
暫くの間、徹太はそこで身動き一つ出来ずにいた。騙されてるんだ、悪い冗談だと思う一方、藁にも縋る思いで清次の言葉を信じたい気持ちが沸いて来てしまう。
ただ賭場で借りた金はともかく、押し込みの方は無かったことに出来る筈など無いと覚悟していた。
まさか清次が自分の罪を被って出るとは思ってもいなかった徹太は、お縄を受ける前にせめて二親の顔を一目見ておこうと、夜が更けるのを待って伊沢町に戻ったところで、張り込んでいた与吉の子分に捕まってしまった。
「全く呆れた野郎だぜ、おめえって奴はよ」
徹太からすべて聞いた友五郎は、与吉と顔を見合わせて首を振った。
「テツの為に体を張ったのはわかったが、何故そこまでするのかまるでわからねえ。大事な兄弟分ならともかく、この野郎はおめえを散々いびってたじゃねえか」
「その通りですが徹太を見ているとね、あっしゃ、昔のあっしを見ているような気分になっちまうんでさ。あっしにもこんな怖いもの知らずで世間知らずな悪太郎だった頃がありやしてね」
もっと箸にも棒にもかからねえ馬鹿だったと、清次は自嘲気味に笑う。
「徹太を見る度にあっしは思ってたんでさ、もしもう一度こんな年頃に戻れて、昔のことは無かったことにして生き直せたらどんなに良いだろう、ってね。けどそんなこたぁ、神様や仏様にだって出来やしねえ」
「だから罪を被って、代わりに徹太を生き直させてやろうってわけか」
「へい。一からやり直すにはあっしじゃ遅すぎるが、徹太なら充分間に合いやす。こんな屑みてえなあっしと引き換えに若 え命が一つ助かるんなら、こんなに嬉しいことはありやせん」
「清次、おめえって奴は……」
友五郎も与吉も、胸が詰まって直ぐには言葉が出て来ない。
「死んだ方がいいのはおれだ、おれみてえな屑に兄ィが体を張る値打ちなんかありゃしねえ!」
叫ぶように言いながら涙をこぼす徹太に、清次は笑って首を振った。
「そんなこたぁねえ。おめえならまだ間に合う、変われるんだよ」
清次は縛られたまま、同じように縛られている徹太の方に膝でにじり寄った。
「生意気な野郎を見ればぶん殴りてえし、いい女がいれば押し倒してえ。おめえにも覚えがあるだろ? 若い頃ってのは体ン中に魔物が棲んでてさ、煮えたぎった熱いもんが今にも溢れ出しそうになってんだ」
話していた相手は徹太だが、与吉の子分や番太郎など居合わせた者みなが清次の言うことに耳を傾けていた。
「島に流されても、恥ずかしいがおれは初めは後悔なんかちっともしてなかったさ。お縄になっちまったのも、ただ運が悪かったくらいに思ってな」
清次は泣き顔に近い笑みを浮かべて首を振る。
「けど三十を過ぎたあたりからかな、人を殴りてえとか女を欲しいとか思う気持ちがさ、嘘みてえに消えてたんだよ」
「ほんとかい? そうなるきっかけみたいな事は、ほんとに無かったのかい?」
どうにも信じられぬ様子で目を見開く徹太に、清次は即座に頷き返す。
「ほんとさ。ただ気が付いたら、いつの間にかそんな気が無くなってた……って感じよ」
そして小首を傾げ、あえて言えば島ではただ生きるだけで精一杯で、喧嘩をするだの女を抱くだのってゆとりも無かったからかも知れねえがと付け加えた。
「そうさ、そんなもんなんだ」
清次の横顔をずっと見詰めていた友五郎が、大きく頷きながら口を挟んだ。
「うちの義太郎だって、昔はかなりの悪たれでおれも手を焼いたものよ。だがお稲に惚れて、これからは真面目になると誓うから一緒にさせてやったら、見ての通り人が変わったように稼業に身を入れてよく働くようになりやがった」
だからおめえだって変われるさ。徹太の肩を励ますように叩く友五郎の後を、清次がやや難しい顔で引き取った。
「ただそうなるってえと、昔てめえがしでかしたことが死にてえほど恥ずかしくなって来るんだ。何であんな馬鹿で惨いことをしちまったんだろう、ってな」
だから。清次は言いながら徹太の目の中を覗き込んだ。
「変われるんだって気づいて真面目になるのは、早ければ早いほど良いのさ。その分だけ後で悔やむことが少なくなるからな」
その昔のことで、今もこの頭をかち割って記憶をそっくり削ぎ落としたいくらい苦しんでいる清次だ。だがその事だけは、徹太にも友五郎にもどうしても言えなかった。
代わりに清次は与吉の方に向き直り、もう一度頭を下げる。
「そういうわけでこのままあっしを牢に送って、徹太の奴はこのまま帰 してやって下せえ」
「無茶を言うな、そしたらおめえは間違いなく死罪だ、やってねえってわかってるのにそんな事できるかい」
「いえ、どうせ誰か死ななきゃならねえなら、あっしが死んだ方が世の為人の為なんでさ。もう一度江戸の地を踏めて、思い残すことと言えば親兄弟に詫びの一つも言えてねえことだけだが、代わりに伊勢崎屋の皆さんにゃ、こんなあっしを人間らしく扱っていただけたんだ。それだけでもう充分でさ」
清次は続いて友五郎に頭を下げた。
「散々お世話になった上に御恩返し一つ出来ていないのに心苦しいが、もう一つお願えがありやす。死にに行く者の最後の願いと思ってどうか聞いてやって下さい」
そして必死の思いを目に込めて友五郎を見上げる。
「徹太の残りの借りを、立て替えて払ってやっちゃいただけやせんか。賭場の借りを返すなど溝 に金を捨てるようなものだが、やくざから借りを背負ったままじゃ、この先、深川 で生きて行くのは厄介だ」
暫くものも言わずに難しい顔で唇を噛んでいた友五郎だが、同じように困り顔で唸っている与吉の袖を掴んで番屋の隅に引っ張って行った。
「なあ与吉親分、この件は内済ってことにはできねえだろうか。無論テツの野郎が押し込んだ先にはおれの方から事情をよく話して、相応の償いもさせて貰うつもりだ」
何しろ町奉行所は御用繁多だから、罪を犯す者が出ても町内の顔役が間に立って被害を受けた者と和解させ、内済、つまり示談で収めてしまうことも少なくない。
「山田屋のご隠居は話のわかる良いお人だが、了解してくれるかどうかは当たってみなくちゃ何とも言えねえ。それに松井の旦那の方にも、ちゃんと話を通しておかにゃならねえしな」
「でも、とりあえず内済ってことで話を進めてくれるんだね?」
「おれだって清次みてえな野郎をみすみす死なせたくねえさ、松井の旦那の方はおれが何とかするから、友五郎さんは山田屋さんの方をうまく頼むぜ。まあそん時にゃ、おれからも口添えをさせて貰うつもりだが」
「助かる、恩に着るぜ」
与吉に頭を下げると、友五郎は全身を耳にして二人の話に聞き入っていた徹太を睨みつけた。
「この大馬鹿野郎め、困ってたなら何でもっと早く言って来ねえのだ。それでおめえが死ぬのは自業自得だが、おかげで清次まで死なせるところだったじゃねえか」
徹太は体を二つに折って詫びるが、そんな事では友五郎の腹立ちは収まらぬ。
「おい、勘違いするんじゃねえぞ。おめえがこさえた借金も何とかしてやるし、おめえがしでかした事も内済で収めるよう骨を折ってもやるが、それはおめえの為じゃねえ。清次の男気に応えてやりてえ、って思うからよ」
「わかってまさ、相済みません」
「それに弟の不始末を体で返さにゃならねえ羽目になっちゃ、おめえの姉ちゃんが可哀想だからなあ」
堪え切れずに声を上げて泣き出す徹太に舌打ちし、続いて友五郎は清次に何とも言えぬ複雑な顔を向けた。
「おめえもおめえさ、何でもっとおれを頼らねえ? 腹を割ってもっと早いうちに話してくれりゃ、他にやりようもあったろうし、おれや家の皆もこんなに気を揉むことも無かったのだぜ」
誰かを頼っていいなどと、清次は思ってもいなかった。伊勢崎屋の皆の親切は身に染みていたが、だからこそこれ以上の迷惑はかけてはならないと思っていた。
塵芥よりまだ悪いようなこんな自分の為に尽力してくれようという人がいるなどと、清次は夢にも思ってなかった。
「勿体ねえ、死ぬまで恩に着やす」
徹太は声を上げて泣き続けているし、友五郎や与吉まで目を潤ませかけているしで、胸が詰まってただそう繰り返すしかない清次だった。
初めてその取引に行かされた時、安平は例の薄い笑みを浮かべて太一にこう説明した。
「何も難しい話じゃねえ、日が暮れたら明神丸って長崎から来た船に猪牙で漕ぎ寄せて、こいつと引き換えに物 を受け取って来るだけのことよ」
確かに安平の言う通りで、取引はあっけないほど簡単に終わった。真砂屋の主になるまでは船頭だった太一にとって、夜陰に紛れて船を漕ぎ寄せるなど容易いことだったし、託された金の包みと見返りの荷の交換も何の問題もなく済んだ。
ただ相手の船に乗り組んでいるのは、商人のなりこそしているもののやくざや海賊といった人間だということも、この仕事はまず間違いなく抜け荷で、お上の手が回れば太一の首は胴と生き別れになることもすぐに察した。
太一は何も、好き好んでこの危ない仕事を引き受けたわけでは無い。賭場で作ってしまった借金を棒引きにする代わりに、安平に命じられるまま否応なく働かされているだけだ。
身から出た錆とわかってはいるが、仕事を無理強いされているのがひどく面白くなかった。しかも太一が命の危険を冒して寒い海に猪牙を漕ぎ出している間、安平の野郎は真砂屋の二階でぬくぬくしながら、大事なお高にちょっかいを出してやがるのだ。
いつもは作り笑顔を浮かべて何でも言うことを聞いていたが、太一の腹の中は煮え繰り返っていた。で、安平と三五郎一家に何とか痛い目を見せてやれないものかと、本気で考え続けてもいた。
しかし腕っ節にはまるで自信が無いし、太一に出来そうな意趣返しと言えば、託された金かその引き換えの荷の、どちらかを持って逃げることくらいだ。
ただ安平も馬鹿ではなく、太一が取引から帰るまでの間は女房のお高を人質代わりに押さえていた。
お高が居なければ一日たりとも生きて行けないくらい、太一は女房に惚れ抜いている。だからお高を置いて己だけ逃げるなど、考えたことすら無かった。
金も持ってお高も連れて逃げる手が、きっとある筈だ。
そのことばかり、太一はずっと考え続けていた。
清次が番屋から帰って来たのは、三日後のことだった。
与吉の言う通り山田屋の隠居は話のわかる人で、刺された傷もそう深くなかったこともあり、友五郎が持ちかけた内済の話に応じてくれた。
「そうですか、そんな事情があってちゃんと改心もしているなら、まだ若い者の将来を台なしにすることもありませんね。それにしてもその清次ってお人の侠気には、この年寄りもすっかり心を打たれてしまいましたよ」
無論あの晩に徹太が盗んだ十二両も返したし、さらに相応の見舞いと詫びの金も添えたのは言うまでもない。
与吉も山田屋の隠居との話し合いに同席するだけでなく、深川を廻る同心松井孝之助に探索の打ち切りを願い出てもいた。
それらの話を友五郎から聞いていた伊勢崎屋の者は、清次が帰って来るのを皆で待っていた。中でもその時を一番心待ちにしていたのは、言うまでもなくお美代だ。
待ち兼ねて日に何度も店の前に出ては仙台堀の向こうに目をやり、お茶やお華の稽古事も早々に終えて店に帰り、清次がまだ戻ってないとわかると傍目にもわかるほどがっかりする繰り返しだった。
ずっとそんな有り様だったから、
「ご心配とご迷惑をかけやした、また宜しくお願いしやす」
どことなく気恥ずかしげに伊勢崎屋の暖簾を潜った清次は、奥の居間から飛び出して来たお美代にものも言わずに首っ玉にしがみつかれて、夏の鬼灯よりも顔を赤くして身を固くした。
居合わせた店の人足らは奇声を上げて冷やかすし、友五郎や義太郎は苦い顔をするが、お美代は恥ずかしいとも悪い事をしているとも思わなかった。
清次が居なくなるなどと考えたことも無かったし、死罪になるかも知れないと聞いた時には、胸を鋭い爪で掻き毟られたかのように苦しくなった。
清さんが死んじゃったら、あたしだって生きていられない。
そんな気持ちになりかけて、お美代は自分が清次に恋していることに初めて気づいた。
いつもの普段着は着心地は良くても、身につけて胸がときめいたりすることはない。幸助もちょうどそれと同じなのだと、お美代は思った。常に側に居てくれたし優しいのもよくわかるが、一緒に居て胸が高鳴ることは一度も無かった。
友五郎に叱られて嫌々体を離した後も、お美代はまだ清次の袖だけは握っていて、もう決して放したりするものかと心の中で誓った。
それで徹太は、
「おい、ちょいと番屋まで来てくんな」
十手持ちがいつそう言ってくるかと、猫に怯える鼠のようにびくついていた。
だから仕事の荷揚げの最中に、永代橋広小路の向こうから与吉が友五郎を連れてやって来る姿を見た瞬間、徹太は担いでいた樽をすッと足元に置き、背を丸めて目の前の雑踏に紛れ込んだ。そしてそのまま、殆ど駆けるように日本橋の方に逃げ出した。
「待てよ、おいッ」
後ろから声をかけられたが振り向きもせず、徹太はさらに足を速めてより人の多い方へと急いだ。
良い話と悪い話があると聞かされた友五郎は、殆ど迷わずに良い話の方を先にしてくれと頼んだ。
頷いた与吉だが、話す前に少し気の毒そうな顔をして、どっちにしたって伊勢友さんにとっちゃ悪い話に違いないのだがと呟いた。
「まず清次だが、やったのが野郎じゃねえのは確かだ。友五郎さんが聞いた噂はおれも知っちゃあいるが、馬鹿らしいと聞き流してる」
「で、悪い方の話ってのは?」
「伊勢友さんとこの徹太って若いのが、三五郎一家の賭場でどえらい借りを作って二進も三進も行かなくなってるの、友五郎さんも知っていなさるかい?」
友五郎はまず目を見張り、続いてその顔がたちまち青くなる。
「おいおい、冗談だろ。あのテツがまさかそんな……」
「いや、そのまさかなのだよ。人ってやつはさ、追い詰められると何をしでかすかわからねえ怖いものでな。やったのは徹太でまず間違いなかろうとおれは睨んでる」
が、友五郎はまだまるで納得の行かぬ顔で首を振る。
「親分にゃ悪いが、テツの野郎から直に聞くまではおれにはどうにも信じられねえ」
「いいだろう。おれもそろそろ野郎と差しで話をしてみてえと思ってたところだ、何なら今から一緒に行くかい?」
それで友五郎は子分を二人連れた与吉と共に、徹太がいる筈の北新堀の河岸に来てみたが、すると店の人足らは仕事も手につかぬ様子でざわついていた。
「おい、どうしたい?」
友五郎を見て慌てて寄って来た猪吉は、尋ねられてわけがわからぬといった顔で首を捻る。
「それが徹太と清次が、いきなり居なくなっちまったんで」
やられた。与吉は鋭く舌打ちすると、二人が逃げたという方角に子分と一緒に駆け出して行く。
「あの、いってぇどういう事なんで?」
今度は猪吉に尋ねられた友五郎だが、
「何が何だか、おれにもわからねえ」
本当にそう答えるしかなかった。
徹太も清次もそのまま戻らず、与吉も箱崎橋の向こうに駆けて行ったきりで、友五郎はそのまま店に帰るしかなかった。
日が暮れても、清次は伊勢崎屋に戻らないままだった。
「ね、どうして? 清さんはやってないって、与吉親分だって言ってたんでしょ?」
お美代はしつこいくらいに尋ねるのだが、友五郎にも答えようが無い。
夕食を済ませ、店の戸締まりをした後も誰も居間から動かず、出がらしの薄い茶ばかり飲んでいるうちに時が過ぎていった。
ひどくくたびれきった顔の与吉が伊勢崎屋の戸を叩いたのは、宵五ツ(午後八時)もかなり過ぎてからであった。
「妙なことになったぜ友五郎さん。北川町の押し込みはおれがやりましたって、清次の野郎が番屋に名乗り出て来やがった」
与吉の言ったことに驚かぬ者はなかったが、中でもお美代の顔はたちまち青くなる。
「ね、どういう事? 清さんは絶対そんな事してないよね?」
「どうもこうもねえ、野郎がそう言ってるんだ」
胸に縋ろうとするのを与吉は煩げに突き放したが、お美代はめげない。
「でもやったのは清さんじゃない、そうでしょう?」
「ああ、その通りさ」
押し込んだ賊と清次の年や背格好は、刺された隠居と妾の話とはまるで違うし、それに包丁のこともある。現場に残された包丁は徹太の家のものだと、徹太の母親自身が認めていた。
「それで友五郎さんや皆に聞きたいのだが、野郎には何か徹太を庇わねばならねえような義理でもあるのかい?」
「とんでもない、その逆さね」
徹太が清次に散々突っ掛かり、揚げ句に殴って怪我までさせた話を聞かされて、与吉の眉間の皺はますます深くなる。
「どうにもわからねえ。盗まれたのは十と二両だ、このままじゃどう考えても清次は死罪間違いなしだ」
「おとっさん、清さんを助けて!」
お美代の必死の眼差しを受けるまでもなく、友五郎もこのまま見過ごすつもりは無かった。
「どうだい与吉親分、そこまでしてテツの野郎を庇うわけを、おれに尋ねさせちゃくれねえか?」
「それよ。おれもその事を、友五郎さんに頼みに来たのさ」
仙台堀が大川に注ぐ辺りに架かる上ノ橋の向こうにある番屋は、今川町の伊勢崎屋の殆ど目と鼻の先と言っても良かった。
火の気も無い冷たい板の間に縛られたまま正座していた清次は、友五郎の顔を見るなり深々と頭を下げた。
「申し訳ありやせん、あっしがやりやした」
与吉は疲れの色が濃く浮かぶ顔を歪めて低く唸り、例の包丁を目の前に突き付けて、友五郎にもした話を繰り返す。
が、それでも清次はやったのは自分だと言い張るのを止めない。
「てめぇ、おれを虚仮にする気かッ。何なら押し込まれた家の者をここに呼んで来て首実検したっていいんだぜ? そうすりゃ直ぐにばれるような嘘を、なぜそう言い張るのだ?」
苛ついて今にも噛みつきそうな与吉の袖を引き、友五郎が代わって前に出る。
「なあ清次、おれだけじゃねえ、義太郎もお美代もうちの者は皆おめえがそんな真似するわけねえ……って信じてるのだ。それともうちに骨を埋めてえって話は、まるっきり嘘だったのかい?」
「申し訳ねえ、そうおっしゃられると一言もありやせん」
清次の顔から血の気が引き、苦しげに目を閉じて呻くように言う。
「けどこうするしか無いんでさ、どうか何も聞かずにやったのはあっしだってことにしておくんなさい」
「何を手前勝手なことをほざいてんだ、おめえが良くったって、おめえを信じておめえの身を案じてる人の気持ちが晴れねえよッ」
清次は後ろ手に縛られたまま、額が床に着くくらい頭を下げる。
「伊勢崎屋の親分さんの恩を仇で返す事になってしまうのはあっしも死ぬほど辛い、けどこうするしかねえんです」
「おれなんざどうでもいいんだ、お美代の気持ちを考えてみろ。森田屋の息子とあんな事になってもまだおめえを信じて、おめえが帰って来るのを待ってるんだぜ」
清次は下げた頭を上げられぬまま、折り曲げた体を震わせる。
その時、番屋の障子戸が勢い良く引き開けられて、伊沢町の辺りに張り込ませておいた下っ引きが、徹太の背を押しながら中に入って来た。
「まさかと思ったがこの野郎、二親ンとこにのこのこ帰って来やがったんでさ」
徹太は友五郎と清次をそこに見て、縛られたまま番屋の土間にぺたりと座り込んだ。
「済まねえッ、みんなおれが悪いんだ!」
北新堀町の河岸から逃げ出した時、徹太は後を追って来ているのは十手持ちと思い込んでいた。だから死ぬ気で駆けたのだが、追って来た者の足は驚くほど速かった。
箱崎橋を越えて小網町の河岸に入るか入らぬかという辺りで肩を強く掴まれて、その手を払おうと振り返って初めて追いかけて来た者の顔を見た。
「てめッ、何しやがる!」
相手が一人でしかも清次と知った途端、怯えていた気持ちは一瞬で猛烈な怒りに代わった。
以前のようにのしてやるつもりで拳を振るったが、気づいた時には清次の姿は目の前から消えていた。同時にその腕を取られて逆に捩り上げられ、徹太はあまりの痛さに身動きが取れなくなった。
その徹太を、清次は日本橋川に沿って並ぶ蔵の陰に押して行く。
「逃げようなんて思うなよ、ちょっとでも妙な動きをしたらこの腕へし折るからな」
静かな、しかし睾丸が腹に縮み上がるほど冷ややかな声だった。捕らえられた腕も万力に挟み込まれているようで、徹太は逆らう気力もすっかり無くしてしまった。
「北川町の押し込みだが、やっぱりおめえか」
「そうだよッ、でも仕方なかったんだ!」
半ば破れかぶれで、賭場で作った借りのことと、それを返さないと姉が売られてしまうことを洗いざらいぶちまけた。
呆れたような長い溜め息が聞こえ、同時に捩り上げられていた腕の力が緩む。
「もしやり直せるならやくざとは手を切って、博打にも二度と手を出さねえと誓えるか?」
「賽子なんてもう二度と見たくもねえよ、けどやり直すなんて出来るわけねえじゃねえか」
何を馬鹿なと言いかけた徹太だが、清次があの松蔵の兄貴分だったことを思い出した。
「なあ、まさかおれの為に、松蔵の兄ィに口を利いてくれるって言うのかい?」
「おれに任せとけ、おめえが本気で真面目になるならおれが何とかしてやる」
「本当かい? あの借りをちゃらにして姉ちゃんが女郎にならないで済むようにしてくれるなら、おれはこのまま死罪になっても構わねえ」
「その事も大丈夫だ、おめえは何も心配しねえで家に帰れ」
それだけ言うと、清次は徹太をその場に残して永代橋の方に戻って行った。
暫くの間、徹太はそこで身動き一つ出来ずにいた。騙されてるんだ、悪い冗談だと思う一方、藁にも縋る思いで清次の言葉を信じたい気持ちが沸いて来てしまう。
ただ賭場で借りた金はともかく、押し込みの方は無かったことに出来る筈など無いと覚悟していた。
まさか清次が自分の罪を被って出るとは思ってもいなかった徹太は、お縄を受ける前にせめて二親の顔を一目見ておこうと、夜が更けるのを待って伊沢町に戻ったところで、張り込んでいた与吉の子分に捕まってしまった。
「全く呆れた野郎だぜ、おめえって奴はよ」
徹太からすべて聞いた友五郎は、与吉と顔を見合わせて首を振った。
「テツの為に体を張ったのはわかったが、何故そこまでするのかまるでわからねえ。大事な兄弟分ならともかく、この野郎はおめえを散々いびってたじゃねえか」
「その通りですが徹太を見ているとね、あっしゃ、昔のあっしを見ているような気分になっちまうんでさ。あっしにもこんな怖いもの知らずで世間知らずな悪太郎だった頃がありやしてね」
もっと箸にも棒にもかからねえ馬鹿だったと、清次は自嘲気味に笑う。
「徹太を見る度にあっしは思ってたんでさ、もしもう一度こんな年頃に戻れて、昔のことは無かったことにして生き直せたらどんなに良いだろう、ってね。けどそんなこたぁ、神様や仏様にだって出来やしねえ」
「だから罪を被って、代わりに徹太を生き直させてやろうってわけか」
「へい。一からやり直すにはあっしじゃ遅すぎるが、徹太なら充分間に合いやす。こんな屑みてえなあっしと引き換えに
「清次、おめえって奴は……」
友五郎も与吉も、胸が詰まって直ぐには言葉が出て来ない。
「死んだ方がいいのはおれだ、おれみてえな屑に兄ィが体を張る値打ちなんかありゃしねえ!」
叫ぶように言いながら涙をこぼす徹太に、清次は笑って首を振った。
「そんなこたぁねえ。おめえならまだ間に合う、変われるんだよ」
清次は縛られたまま、同じように縛られている徹太の方に膝でにじり寄った。
「生意気な野郎を見ればぶん殴りてえし、いい女がいれば押し倒してえ。おめえにも覚えがあるだろ? 若い頃ってのは体ン中に魔物が棲んでてさ、煮えたぎった熱いもんが今にも溢れ出しそうになってんだ」
話していた相手は徹太だが、与吉の子分や番太郎など居合わせた者みなが清次の言うことに耳を傾けていた。
「島に流されても、恥ずかしいがおれは初めは後悔なんかちっともしてなかったさ。お縄になっちまったのも、ただ運が悪かったくらいに思ってな」
清次は泣き顔に近い笑みを浮かべて首を振る。
「けど三十を過ぎたあたりからかな、人を殴りてえとか女を欲しいとか思う気持ちがさ、嘘みてえに消えてたんだよ」
「ほんとかい? そうなるきっかけみたいな事は、ほんとに無かったのかい?」
どうにも信じられぬ様子で目を見開く徹太に、清次は即座に頷き返す。
「ほんとさ。ただ気が付いたら、いつの間にかそんな気が無くなってた……って感じよ」
そして小首を傾げ、あえて言えば島ではただ生きるだけで精一杯で、喧嘩をするだの女を抱くだのってゆとりも無かったからかも知れねえがと付け加えた。
「そうさ、そんなもんなんだ」
清次の横顔をずっと見詰めていた友五郎が、大きく頷きながら口を挟んだ。
「うちの義太郎だって、昔はかなりの悪たれでおれも手を焼いたものよ。だがお稲に惚れて、これからは真面目になると誓うから一緒にさせてやったら、見ての通り人が変わったように稼業に身を入れてよく働くようになりやがった」
だからおめえだって変われるさ。徹太の肩を励ますように叩く友五郎の後を、清次がやや難しい顔で引き取った。
「ただそうなるってえと、昔てめえがしでかしたことが死にてえほど恥ずかしくなって来るんだ。何であんな馬鹿で惨いことをしちまったんだろう、ってな」
だから。清次は言いながら徹太の目の中を覗き込んだ。
「変われるんだって気づいて真面目になるのは、早ければ早いほど良いのさ。その分だけ後で悔やむことが少なくなるからな」
その昔のことで、今もこの頭をかち割って記憶をそっくり削ぎ落としたいくらい苦しんでいる清次だ。だがその事だけは、徹太にも友五郎にもどうしても言えなかった。
代わりに清次は与吉の方に向き直り、もう一度頭を下げる。
「そういうわけでこのままあっしを牢に送って、徹太の奴はこのまま
「無茶を言うな、そしたらおめえは間違いなく死罪だ、やってねえってわかってるのにそんな事できるかい」
「いえ、どうせ誰か死ななきゃならねえなら、あっしが死んだ方が世の為人の為なんでさ。もう一度江戸の地を踏めて、思い残すことと言えば親兄弟に詫びの一つも言えてねえことだけだが、代わりに伊勢崎屋の皆さんにゃ、こんなあっしを人間らしく扱っていただけたんだ。それだけでもう充分でさ」
清次は続いて友五郎に頭を下げた。
「散々お世話になった上に御恩返し一つ出来ていないのに心苦しいが、もう一つお願えがありやす。死にに行く者の最後の願いと思ってどうか聞いてやって下さい」
そして必死の思いを目に込めて友五郎を見上げる。
「徹太の残りの借りを、立て替えて払ってやっちゃいただけやせんか。賭場の借りを返すなど
暫くものも言わずに難しい顔で唇を噛んでいた友五郎だが、同じように困り顔で唸っている与吉の袖を掴んで番屋の隅に引っ張って行った。
「なあ与吉親分、この件は内済ってことにはできねえだろうか。無論テツの野郎が押し込んだ先にはおれの方から事情をよく話して、相応の償いもさせて貰うつもりだ」
何しろ町奉行所は御用繁多だから、罪を犯す者が出ても町内の顔役が間に立って被害を受けた者と和解させ、内済、つまり示談で収めてしまうことも少なくない。
「山田屋のご隠居は話のわかる良いお人だが、了解してくれるかどうかは当たってみなくちゃ何とも言えねえ。それに松井の旦那の方にも、ちゃんと話を通しておかにゃならねえしな」
「でも、とりあえず内済ってことで話を進めてくれるんだね?」
「おれだって清次みてえな野郎をみすみす死なせたくねえさ、松井の旦那の方はおれが何とかするから、友五郎さんは山田屋さんの方をうまく頼むぜ。まあそん時にゃ、おれからも口添えをさせて貰うつもりだが」
「助かる、恩に着るぜ」
与吉に頭を下げると、友五郎は全身を耳にして二人の話に聞き入っていた徹太を睨みつけた。
「この大馬鹿野郎め、困ってたなら何でもっと早く言って来ねえのだ。それでおめえが死ぬのは自業自得だが、おかげで清次まで死なせるところだったじゃねえか」
徹太は体を二つに折って詫びるが、そんな事では友五郎の腹立ちは収まらぬ。
「おい、勘違いするんじゃねえぞ。おめえがこさえた借金も何とかしてやるし、おめえがしでかした事も内済で収めるよう骨を折ってもやるが、それはおめえの為じゃねえ。清次の男気に応えてやりてえ、って思うからよ」
「わかってまさ、相済みません」
「それに弟の不始末を体で返さにゃならねえ羽目になっちゃ、おめえの姉ちゃんが可哀想だからなあ」
堪え切れずに声を上げて泣き出す徹太に舌打ちし、続いて友五郎は清次に何とも言えぬ複雑な顔を向けた。
「おめえもおめえさ、何でもっとおれを頼らねえ? 腹を割ってもっと早いうちに話してくれりゃ、他にやりようもあったろうし、おれや家の皆もこんなに気を揉むことも無かったのだぜ」
誰かを頼っていいなどと、清次は思ってもいなかった。伊勢崎屋の皆の親切は身に染みていたが、だからこそこれ以上の迷惑はかけてはならないと思っていた。
塵芥よりまだ悪いようなこんな自分の為に尽力してくれようという人がいるなどと、清次は夢にも思ってなかった。
「勿体ねえ、死ぬまで恩に着やす」
徹太は声を上げて泣き続けているし、友五郎や与吉まで目を潤ませかけているしで、胸が詰まってただそう繰り返すしかない清次だった。
初めてその取引に行かされた時、安平は例の薄い笑みを浮かべて太一にこう説明した。
「何も難しい話じゃねえ、日が暮れたら明神丸って長崎から来た船に猪牙で漕ぎ寄せて、こいつと引き換えに
確かに安平の言う通りで、取引はあっけないほど簡単に終わった。真砂屋の主になるまでは船頭だった太一にとって、夜陰に紛れて船を漕ぎ寄せるなど容易いことだったし、託された金の包みと見返りの荷の交換も何の問題もなく済んだ。
ただ相手の船に乗り組んでいるのは、商人のなりこそしているもののやくざや海賊といった人間だということも、この仕事はまず間違いなく抜け荷で、お上の手が回れば太一の首は胴と生き別れになることもすぐに察した。
太一は何も、好き好んでこの危ない仕事を引き受けたわけでは無い。賭場で作ってしまった借金を棒引きにする代わりに、安平に命じられるまま否応なく働かされているだけだ。
身から出た錆とわかってはいるが、仕事を無理強いされているのがひどく面白くなかった。しかも太一が命の危険を冒して寒い海に猪牙を漕ぎ出している間、安平の野郎は真砂屋の二階でぬくぬくしながら、大事なお高にちょっかいを出してやがるのだ。
いつもは作り笑顔を浮かべて何でも言うことを聞いていたが、太一の腹の中は煮え繰り返っていた。で、安平と三五郎一家に何とか痛い目を見せてやれないものかと、本気で考え続けてもいた。
しかし腕っ節にはまるで自信が無いし、太一に出来そうな意趣返しと言えば、託された金かその引き換えの荷の、どちらかを持って逃げることくらいだ。
ただ安平も馬鹿ではなく、太一が取引から帰るまでの間は女房のお高を人質代わりに押さえていた。
お高が居なければ一日たりとも生きて行けないくらい、太一は女房に惚れ抜いている。だからお高を置いて己だけ逃げるなど、考えたことすら無かった。
金も持ってお高も連れて逃げる手が、きっとある筈だ。
そのことばかり、太一はずっと考え続けていた。
清次が番屋から帰って来たのは、三日後のことだった。
与吉の言う通り山田屋の隠居は話のわかる人で、刺された傷もそう深くなかったこともあり、友五郎が持ちかけた内済の話に応じてくれた。
「そうですか、そんな事情があってちゃんと改心もしているなら、まだ若い者の将来を台なしにすることもありませんね。それにしてもその清次ってお人の侠気には、この年寄りもすっかり心を打たれてしまいましたよ」
無論あの晩に徹太が盗んだ十二両も返したし、さらに相応の見舞いと詫びの金も添えたのは言うまでもない。
与吉も山田屋の隠居との話し合いに同席するだけでなく、深川を廻る同心松井孝之助に探索の打ち切りを願い出てもいた。
それらの話を友五郎から聞いていた伊勢崎屋の者は、清次が帰って来るのを皆で待っていた。中でもその時を一番心待ちにしていたのは、言うまでもなくお美代だ。
待ち兼ねて日に何度も店の前に出ては仙台堀の向こうに目をやり、お茶やお華の稽古事も早々に終えて店に帰り、清次がまだ戻ってないとわかると傍目にもわかるほどがっかりする繰り返しだった。
ずっとそんな有り様だったから、
「ご心配とご迷惑をかけやした、また宜しくお願いしやす」
どことなく気恥ずかしげに伊勢崎屋の暖簾を潜った清次は、奥の居間から飛び出して来たお美代にものも言わずに首っ玉にしがみつかれて、夏の鬼灯よりも顔を赤くして身を固くした。
居合わせた店の人足らは奇声を上げて冷やかすし、友五郎や義太郎は苦い顔をするが、お美代は恥ずかしいとも悪い事をしているとも思わなかった。
清次が居なくなるなどと考えたことも無かったし、死罪になるかも知れないと聞いた時には、胸を鋭い爪で掻き毟られたかのように苦しくなった。
清さんが死んじゃったら、あたしだって生きていられない。
そんな気持ちになりかけて、お美代は自分が清次に恋していることに初めて気づいた。
いつもの普段着は着心地は良くても、身につけて胸がときめいたりすることはない。幸助もちょうどそれと同じなのだと、お美代は思った。常に側に居てくれたし優しいのもよくわかるが、一緒に居て胸が高鳴ることは一度も無かった。
友五郎に叱られて嫌々体を離した後も、お美代はまだ清次の袖だけは握っていて、もう決して放したりするものかと心の中で誓った。