第18話
文字数 9,039文字
重蔵と佐吉は相変わらず河岸に清次の厭な噂を撒き散らしていたし、清次は自分が白い目で見られていることもよくわかっていた。
それでも挫けたり逃げ出したりしてしまいたくなる度に、友五郎に言われたあの言葉を清次は胸の中で繰り返した。
懸命に働けば、世の中の皆さんだっていつか必ずわかってくださるさ。
そう信じてくたくたになるまで働き続けて半月ほど経った、ある夕暮れのことである。清次が伏見から来た酒を揚げていた新川の北の河岸に、友五郎が供の一人も連れずにふらりとやって来た。
友五郎は清次を手招きし、
「こいつをちょいと借りるぜ」
小頭の猪吉にもそう一声かけて、川岸にずらりと並ぶ蔵の向かいにある小さな神社の境内に清次の背を押すようにして連れて行く。
その友五郎は妙に苛々した様子で、眉間に皺を寄せて苦虫を噛み潰したような顔でこう切り出した。
「おめえが前に言ってた、伊勢崎屋に骨を埋めてえ……って気持ちだが、今も変わりはねえか?」
「へい」
「それでお美代のことだが、おめえはどう思ってるよ?」
「どうって……あっしの命の恩人の、天女みてえなお嬢さまって」
少し顔を赤らめ眩しげな目でそう言う清次に、友五郎はこんな遠回しに聞いてちゃわからねえかと小さく息を吐く。
「だからよ、うちのお美代と夫婦になる気はあるのかと聞いてるんだ」
目と口の両方を開けて柄にもない間抜け面を見せかけた清次だが、すぐに顔を顰めて目を逸らす。
「からかわねえで下せえ旦那、そんなこと、冗談にも言っちゃならねえです」
「冗談なんかじゃねえ、おれは本気で言ってるんだ。お美代のやつがおめえに惚れてることぐれえ、おめえだって気づいてねえわけじゃあるまい?」
「けどあっしは島帰りの大罪人だ、お嬢さまを戴くなんて滅相もねえ。身分が違うどころの話じゃありやせん」
痛みでも堪えるような辛い顔で俯く清次の肩を、友五郎は太く節くれ立った指で強く掴んだ。
「それも承知の上で話してるんだが、それとも何か、うちのお美代どこか気に入らねえとこでもあるって言うのかい?」
清次が昔住んでいた四ツ谷にも人をやり、ずっと仕えている同心の松井孝之助にも頼んで奉行所のお調べ書きまで見た上で与吉が報告に来たのは、それより一刻ほど前のことだった。
袖を引かれるようにして座敷に連れて行かれた与吉は、友五郎に安心しろと頷いた。
「若えからまあ仕方も無かろうが、あの清次って野郎が箸にも棒にもかからねえ悪だったのは違えねえや。喧嘩はする、遊ぶ金欲しさに人の金は脅し取るでな」
清次がとぐろを巻いていた鮫ヶ橋は、本所吉田町と並ぶ江戸で指折りの空気の悪い所で、賭場だの娼家だのが多いことでも知られていた。清次はその娼家に通う鼻の下の長い親爺どもを暗がりで待ち伏せては、ものも言わずに殴りつけて金を巻き上げていた。
「考えたもんだぜ、やられた方も女を買いに行ったって弱い尻があるから、恥ずかしくってお上にも訴え出られねえ……ってわけよ」
「で、その殴った相手が運悪く死んじまったとかいうわけではねえのだな?」
「当たり前よ、もしそうなら追い剥ぎに加えて殺しだ、問答無用で獄門になってら」
「佐吉って野郎が言ってた、妹をどうのこうの……って話はどうなんだろうな?」
「うん、佐吉の妹と清次がわけありだったのも、そのことで佐吉の親父と清次が揉めてたのは確かなのだが」
こうした男女の痴情の縺れではよくあることだが、佐吉の妹は手籠めにされたと言い、清次の方はお互い納得ずくでのことだと言う。
「それで佐吉の親父がな、腹を立てて清次をぶん殴っちまったんだ。まあ娘を持つ父親の気持ちからすれば仕方ねえことだろうが、清次も若えから頭に血が上って殴り返すしで、気が付いたら相手の親父を半殺しにしちまってた……ってわけだ」
それ以前の余罪も加算されてのことではあるが、清次が島に流された直接の理由はそれだと与吉は保証した。
「誰か人を殺めたのでも、女を手籠めにしたのでもねえのだな?」
「お奉行所の記録ではそうなってるな」
それに当時の清次には情婦 が何人も居て、女に不自由はしてなかった筈だと与吉は付け加えた。
「どうだろう、清次の昔のことだが、わっしはもう忘れて許してやっても構わねえと思うのだが、いけねえかい?」
「うん。悪い野郎だったとは思うがよくここまで立ち直った、偉いもんだと褒めてやっても良いとおれも思うぜ」
友五郎は大きく頷くと、座敷の障子の向こうに声を張り上げた。
「おい、そこに居るんだろ、入って来な。おめえがそこで立ち聞きしてるのはとうにお見通しよ、行儀が悪いったらありゃしねえ」
ややあって障子が音も無く開き、お美代がおずおずと顔を出す。
「こんな事になるなどとおれも夢も思っちゃ無かったが……お美代、婿はほんとにあの清次で良いのだな?」
目に涙を浮かべて何度も頷くお美代の前で、友五郎はまだ何とも言えず複雑な顔をした。
「おめでとうって、とりあえず言っても良いんだよな?」
こちらの目の色を窺って念を押す与吉に、友五郎はほろ苦く笑って頷く。そして直ぐ表情を引き締めて、与吉の方に膝を進めた。
「それで、もう一つお願いした事の方なのだが……」
「うん、そっちの方も大方わかりそうだぜ」
ありがてえと友五郎は頭を下げ、今度こそ嬉しげに笑った。
「あの野郎の驚く顔が、今から目に見えるようだぜ」
「おかみさん、おかみさんおかみさんッ」
お里が長岡屋の勝手場で女中たちに混じって水仕事をしているところに、手代の仁八が泡を食って駆け込んで来た。
「与吉って深川の岡っ引きの親分さんが、おかみさんのお兄さんって人のことで話があるって訪ねて来てるんです」
聞いた途端に頭から血が引いて、お里は立ってもいられずに流しに手をかけたまましゃがみこんだ。
お里に兄は二人居るが、岡っ引きが訪ねて来る用があるとすればあの極道者の下の兄の方に違いなかった。
長岡屋は両国でも名の知れた米問屋で、お里がこうして店の若おかみの座に納まっていられるのも、浅草寺の境内の水茶屋で働いている時に、長岡屋の若旦那の惣太郎に見初められたからである。
当然、惣太郎の身内には水茶屋の女を嫁にすることに反対する者が多く、中でも姑で店の大おかみでもあるお初には、事あるごとに辛く当たられて来ていた。ただ惣太郎は今でもお里に惚れ抜いていて、お里の二親にも良くしてくれているから、お里はどんな嫁いびりにも耐えて来ていた。
その苦労の末にようやく掴みかけた幸せもこれでお仕舞いだ、何もかもあの碌でなしの兄のせいだと、お里は目の前が真っ暗になった。
しかし手代の仁八は、構わずにお里を急き立てる。
「大旦那さまや若旦那だけじゃありません、皆さんお揃いでおかみさんに奥に早く来るようにとお呼びです」
よろめくようにして奥の座敷に向かうと、そこには松島町に住むお里の二親や上の兄まで顔を揃えて待っていて、ここの義理の親や惣太郎の前で小さくなっていた。
姑に凄い目を向けられ、お里は中にも入れずに廊下で膝をつく。
そのお里を、この災難を招いたごつい顔で小太りの岡っ引きが、いやに愛想の良い笑顔で中に招き入れた。
「脅かしちまったようで済まねえが、これは長岡屋さんにも決して悪い話じゃねえんだ」
「本当でございましょうか、だってこの嫁のもう一人の兄さんって人は……」
「おっかさんッ」
目にも言葉にも嫁を責める色を滲ませるお初だが、惣太郎に睨まれてようやく黙る。
「ま、ここでわっしがいくら口で言ったところで、長岡屋さんだって大おかみさんだって得心が行かねえだろう。そこでだ、論より証拠で皆さんにも一緒に来て見てほしいものがありやしてね」
そう言うと与吉はそこに居た皆を追い立てるようにして店の外に出し、足が弱い者の為に駕籠も仕立てさせる。
「親分、手前どもを一体どこへ連れて行こうというのです?」
惣太郎の父親で長岡屋の大旦那は普段は嫁を苛めるような真似はしないが、今日ばかりは不安げな色を隠せない。
行き先が気にならない者など誰もいないが、与吉は笑ってちょいとそこまでとしか言わぬ。
「ま、これはほんとに良い話なのだから、わっちを信じてついて来て下せえ。何もかも半刻も経たねえうちにわかりまさ」
相手は十手持ちだし仕方なく付いて行くと、与吉は店の近くの竪川に架かる一ツ目橋を南に渡り、大川に沿って南へ南へと真っすぐに下り、小名木川も仙台堀も渡ってしまう。さらに永代橋で大川も渡って、霊岸島の新川河岸でようやく足を止めた。
与吉は蔵の陰に皆に呼び寄せ、十間ほど先で着いたばかりの酒を陸に揚げている男たちの一人を指さした。
「あれをご覧なせえ」
男は屈強な荷揚げ人足の中でも一際背が高く、自分の目方より重いくらいの四斗樽を軽々と担ぎ揚げている。それだけでなく周りの皆を笑顔で励ましながら、懸命に人の倍も働いていた。
その男を見詰めていたお里が、元々大きな目をさらに見開いて譫言のように呟いた。
「……兄さん? もしかしてあれって、清次兄さんなの?」
父の久助に母のお登与、それに上の兄の善太も、夢でも見ているかと目をこすったり、少しでもよく確かめようと首を前に伸ばしたりしている。
さらに長岡屋の惣太郎も、驚きを隠せぬ様子で首を振りながら脇に立つお里に囁いた。
「なあ、何だか聞いていた話と違って、随分しっかりした良い男のようじゃないか」
「その通りでさ」
答えたのは、よく日に焼けた恰幅の良い男だった。いつの間にか皆のすぐ側にいたその男は、年の頃は五十の少し手前というところで身なりもかなり良い。
「わっしは今川町で口入れ屋をしている伊勢崎屋友五郎って者だが、清次はうちで一番の働き者で、飲む打つ買うもまるでしねえ堅物ときてる。それでいて男気もあるものだから、わっしはあいつを伊勢崎屋の屋台骨を支えてくれる男と見込んで、わっしの娘の婿にすると決めたんでさ」
そして友五郎は皆に背を向け、河岸の清次に大きく手を振った。
「おおい清次、ちょいとこっちに来い!」
清次は初め、虚ろな目でただ呆然と立ち尽くしていた。
だが目にしているものが幻でも見間違いでもないとわかると、酒樽を足元に置いて泳ぐように家族の元にやって来た。そして皆の直ぐ前で土下座し、額を地べたに擦り付けて詫びる。
「済まねえ、酷え親不孝やら償い切れねえ迷惑やら、とにかくいろいろ済まねえッ」
お里だけでなく久助や善太まで目を潤ませていたが、最初に泣き出したのはお登与で、土下座している清次の上に屈み込み、広い肩に腕を回して涙ながらにこう繰り返した。
「いいんだよ、こうして生きてまた会えたんだ、過ぎたことはもういいんだよ」
「清次、今日はもういいぜ。心行くまで皆さんと積もる話でもして来るがいい」
友五郎のその言葉に甘えて、清次は長岡屋の家族との顔合わせと挨拶も済ませた後で二親が今住んでいる松島町の家に向かった。
その長屋は二間しかないが中の調度も整っているし辺りも静かで、清次は安堵の息を漏らした。
「じゃ、今は何とかやって行けているのだね?」
「ああ、お里と長岡屋さんのおかげでね」
嬉しげに頷くお登与に、これからはおれも精一杯親孝行せねばと心に誓う清次だ。
「兄さんは? おれのせいで、その、店の方も……」
奉公していた先の大きな両替商で手代の筆頭にまで抜擢されたのに、有無を言わさず暇を出されたと大横丁の長吉伯父に聞いた。
「ああ、お払い箱になったさ」
善太は片頬で笑いながら頷いた。
「その時はそれはもうお前を恨んださ、お前のせいでわたしの一生は台なしだ……とね。けどお前は知らないだろうが、大店の仕事ってのはなかなか厳しいものさ」
何十人も居る奉公人の中で番頭まで出世して、やがて暖簾分けして自分の店を持させて貰えるまでになるのは、本当にほんの一握りに過ぎない。それだけに同じ店の奉公人は仲間などではなく、すべて競争相手であり敵だった。
「だから店を追い出されて、生きて行く為に仕方なく小間物の行商を初めてようやく気づいたんだ。わたしは商人のつもりでいながらお客の為なんかこれっぽっちも考えて無かった、他の誰かと競って蹴落とすことにばっかり精出してた……ってね」
詫びようが無くてただ頭を下げていた清次が恐る恐る目を上げると、昔はずっと苦手でならなかった兄は優しい目で微笑んでいた。
「わたしは今、外神田の平右衛門町で小間物屋をやってるんだ。と言っても女房の他には小僧一人しか居ないような小さい店だが、毎日お客の顔を見てお客に喜んで貰える物を商うのが楽しくて仕方ないんだよ」
「女房って、兄さん嫁を貰ったのかい?」
尋ねられて、善太は浮かべていた笑みを顔いっぱいに広げた。
「ああ。子供も生まれて、男の子で夏には三つになる」
いつでも女房と甥っ子に会いに来いと、善太は真顔で頷いた。
清次が伊勢崎屋に帰ったのは夜も更けてからで、お美代はそれを寝ずに待っていた。
「申し訳ありやせん、先に寝てて下されば良かったのに」
清次に済まなそうに謝られて、お美代は首を振った。
「いいの、あたしが待ってたかっんだから」
本当はこのまま帰って来ないんじゃないかと心配だったとは言えずに、お美代は笑顔で話題を変える。
「それよりもう許婚なんだから、その言葉遣いは何とかならないかしら。お嬢さんってのも、もう無しね?」
「そう言われても、お嬢さんはお嬢さんだしなあ」
困ったようなくすぐったいような顔をした後で、清次は今日のことも胸の中で思い返しながら、自分の家族のことを初めてお美代に話した。
「あっしの親は腕の良い指物師なんだが、あっしも兄貴もどうにも不器用で、どっちも親の跡は継げなくて」
久助さんは女房を器量で選んだ。実を言うと清次の二親は陰ではそう囁かれていて、お登与は顔が綺麗な上に気働きも優れていたが炊事も掃除も洗濯もみな苦手だった。清次と善太が揃って指物師に向かなかったのは、おそらくそのお登与の方に似たのだろう。
ただ善太は不器用でも頭の良さと機転を母から受け継いで、奉公先も麹町の名の知れた両替商にすんなり決まった。だから父も母も、指物師の跡を継ぐより良いとむしろ喜んだくらいだ。
「けどあっしは不器用な上に頭も悪くてね、しかも体だけは丈夫に産んで貰えたのを良いことに、近所の悪餓鬼どもと喧嘩ばかりしてたんだから始末が悪いや」
一方善太は奉公先でも旦那や番頭に目をかけられて、店でも上へ上へとどんどん抜擢されて行っていた。
当然、清次はその兄と比べられては、出来損ないの駄目な弟と皆から叱られてばかりという事になる。
「今になって考えれば仕方のない事さ、だって兄貴と較べりゃほんとに取り柄のねえ駄目な弟だったんだからさ」
だがあの頃の清次にはそうは思えなかった。兄と自分を比べては、馬鹿だの出来損ないのと謗る親戚連中や近所の口さがない奴らが憎くてならなかった。それどころか、そうした世間の風当たりから守ってくれようともせずに兄のことばかり自慢にしている二親でさえ、自分の敵のように思っていた。
「てめえらは我が子が可愛くねえのか、それでもおれのほんとの親なのか……ってね」
振り返ってみればお笑い草だが、あの頃の清次は世の中すべてが敵だと思っていた。
「で、とどめはお袋が決めてきたあっしの奉公先さ。一体どこだと思う? 紅屋だぜ」
眉を寄せて微苦笑する清次だが、前掛け姿で小腰を屈め、女の客の機嫌を取りながら口紅や頬紅を売っている清次の姿を頭に思い描くだけで、お美代も気の毒やらおかしいやらでつい笑い出してしまう。
「あんたは女に可愛がられそうな顔をしてるからきっと向いてるよって、お袋は得意そうにそう言うんだが、あっしには酷え厭がらせにしか思えなかった」
それで奉公先の店を飛び出し、四ツ谷仲町の親の家にも帰らず近くの鮫ヶ橋という悪い場所でとぐろを巻いて、散々悪の限りを尽くした揚げ句に気がついたら三宅島に流されていた。
「あの頃のあっしは、てめえでは世の中に苛められて酷え目に遭わされてるつもりでいたが。とんでもねえ、その程度の事なんざ世間じゃよくある話で、むしろ人を苛めて泣かせてた悪党はあっしの方だったのさ」
親がどうの、世間がどうのなどという話は言い訳に過ぎず、本当はただ体の中から溢れ出す衝動に突き動かされて暴れていたのだと、今になればよくわかる。
「それだけにねえ、今胸の中にあるのはどうしようもねえ後悔だけなんでさ。何て馬鹿なことをしちまったんだろう、申し訳ねえ……ってね」
ひどくしんみりとした、胸に染み入る声で呟いてうなだれる清次の背に、お美代はそっと腕を回した。
「どうしようもないなんて、そんなこと無い。取り返しのつかないことなんて無いんだから、ずっと笑って暮らせるようにこれから二人で頑張ろう?」
二人のことをあれこれ言う者は相変わらず少なくなかったが、当の清次とお美代はこの上なく幸せだった。深川でもあちこちで梅の花が咲き始め、少なくとも二人の間は既に春の盛りのようだった。
しかし親の友五郎にしてみれば、二人を夫婦にさせると決めてからむしろ心配事が増えたくらいだった。人の世の甘いだけでなく酸いの方もよく知っているだけに、清次やお美代のように言いたい人には言わせておけば良いとは言えぬ。
中でも友五郎が特に気にかかっていたのは、今もまだ辺りをうろついては清次の悪い噂を広め続けている重蔵と佐吉の事だった。
ただ清次の為じゃねえ、このままじゃお美代の傷にもなりかねねえ。そう思いあぐねた友五郎は、加賀町の与吉のもとを訪ねた。
友五郎の懸念を身を入れて頷きながら聞いていた与吉は、おれもそう思うぜと苦い声で答えた。
「重蔵の方はおれに任せときな。おれが言うのも何だが相手は十手持ちだ、伊勢友さんは手を出しにくかろう?」
「そいつは助かるが、本当にいいのかい?」
「別に伊勢友さんの為ってわけじゃねえさ。野郎にゃ、おれ自身の返してやりてえ意趣があるのだ」
「どっちにしたってありがてえ、恩に着るぜ」
「袋物屋の佐吉の方も、ついでにおれががつんと叱っとこうか?」
「いや、そっちの方はわっしに考えがある。清次を兄貴分みてえに思ってるうちの若えのが、兄貴の為に何かしてえ……ってうずうずしてるのさ」
「おいおい、そいつは剣呑だな。若え者はすぐ無茶をしたがるから気を付けた方がいいぜ」
「なあに、心配は要らねえ。手は絶対出さねえよう、固く言い付けてあるのでな」
「この馬鹿野郎、とんだどじ踏みやがってッ」
三五郎の毛むくじゃらな太い足に蹴り飛ばされて、安平は長火鉢の向こうに仰向けに転がった。
そのまま両腕で顔を庇う安平を、三五郎は荒い息を吐きながら繰り返し踏み付ける。
「阿芙蓉をそっくり持ち逃げされただぁ? それで済むとてめえ本気で思ってんのか、えッ?」
真砂屋の太一は何しろ気の小さい野郎だし、取引に出す時は例の阿芙蓉の粉を持って帰るまで恋女房のお高を人質に押さえておけば、裏切ることなどまずあるまいと安平は思っていた。
しかしその太一に、安平はうまうまとしてやられた。
猪牙を長崎から来た船に漕ぎ寄せ、託された金を阿芙蓉の粉の包みに替えるところまではいつも通りにやった。ただ太一は受け取った阿芙蓉をそのまま懐にねじ込んで、陸で待っていた安平には予め用意しておいたうどん粉の包みを渡した。
見かけは殆ど同じだから、その粉が阿芙蓉かどうかは使ってみるまではわからない。そしてまんまとやられたと気付いて長脇差を握り締めて踏み込んだ時には真砂屋は既にもぬけの殻で、太一はお高を連れてどこかに高飛びしていた。
あの阿芙蓉の粉は江戸のどの親分も喉から手が出るほど欲しがっていて、足元を見られて買い叩かれたとしても、太一は今頃一生遊んで暮らせるだけの金を手にしている筈だ。
三五郎は倒れたままの安平の襟首を掴んで引き起こし、今度は平手でその横っ面を続けて張った。
「なあヤスよ、おれはあん時てめえに何て言った? 決して裏切らねえ確かな野郎を探せって、そう言い付けたよなあ、え?」
確かにその通りだから、安平は切れた唇の端から血を流しながら項垂れているしかない。
「その太一とかいう野郎だが、生まれはどこだ?」
「へえ、下総の銚子だそうで」
それも漁師の三男で、だから猪牙を操るなどお手の物だったのだ。
「おい安平、おめえ草鞋を履け。その野郎を草の根分けても捜し出すのだ」
まず銚子に飛び、生まれた村に帰って無かったら京でも大阪でも日本中を捜し回って、野郎をとっ捕まえて来るまで一家の敷居を跨ぐんじゃねえ。
弥勒の三五郎は掴んだままの襟を強く揺さぶって、安平にそう厳命した。
口元の血を手の甲で拭いながら三五郎の居間を出た安平の直ぐ後を、松蔵が急ぎ足で追いかけて来た。
「とんだ災難でやしたね、安平の兄貴」
「まあ仕方ねえさ、おれのどじだ」
痛む唇を曲げて笑って見せたものの、安平の腹は煮え繰り返っていた。
清次の奴が、あの時うんと言ってくれさえしていれば。その事を安平は何度思ったかわからない。
安平の腹では、賭場の借金の質 にあの真砂屋を太一から取り上げて、代わりに清次を店の主に据えて阿芙蓉の取引を任せるつもりだった。
もしその通りになっていれば太一など使わずに済んだし、こんな事にはならなかった筈だ。そう考えると、今度の不始末の原因はすべて清次にあるような気がしてならない。
「兄貴、聞きやしたか。清次の奴め、何と伊勢友の娘と夫婦になるらしいですぜ」
そう言ってきた松蔵の目を見ると、どうやら松蔵も安平と同じことを思っていたらしい。
まずは黙って頷いた安平だが、頬が引き攣るのが自分でもわかった。島で散々助けてやった恩も忘れて何食わぬ顔で伊勢崎屋の婿に納まろうなど、太々しいにも程がある。
「なあ松、おれは草鞋を履く前にちょいとやりたい事があるのだが、おめえも助 けてくれるかい?」
「……清次のことでやすか?」
「その通りよ」
逃げた太一にはもちろんこの返礼をたっぷりするつもりだが、その行き掛けの駄賃に清次にも仲間の仁義ってやつを教え込んでやらねば気が済まなかった。
「喜んで手を貸させていただきまさ。同じ穴の貉のくせにてめえだけ足を洗って良い子になろうなんて、虫が良すぎでさね」
それでも挫けたり逃げ出したりしてしまいたくなる度に、友五郎に言われたあの言葉を清次は胸の中で繰り返した。
懸命に働けば、世の中の皆さんだっていつか必ずわかってくださるさ。
そう信じてくたくたになるまで働き続けて半月ほど経った、ある夕暮れのことである。清次が伏見から来た酒を揚げていた新川の北の河岸に、友五郎が供の一人も連れずにふらりとやって来た。
友五郎は清次を手招きし、
「こいつをちょいと借りるぜ」
小頭の猪吉にもそう一声かけて、川岸にずらりと並ぶ蔵の向かいにある小さな神社の境内に清次の背を押すようにして連れて行く。
その友五郎は妙に苛々した様子で、眉間に皺を寄せて苦虫を噛み潰したような顔でこう切り出した。
「おめえが前に言ってた、伊勢崎屋に骨を埋めてえ……って気持ちだが、今も変わりはねえか?」
「へい」
「それでお美代のことだが、おめえはどう思ってるよ?」
「どうって……あっしの命の恩人の、天女みてえなお嬢さまって」
少し顔を赤らめ眩しげな目でそう言う清次に、友五郎はこんな遠回しに聞いてちゃわからねえかと小さく息を吐く。
「だからよ、うちのお美代と夫婦になる気はあるのかと聞いてるんだ」
目と口の両方を開けて柄にもない間抜け面を見せかけた清次だが、すぐに顔を顰めて目を逸らす。
「からかわねえで下せえ旦那、そんなこと、冗談にも言っちゃならねえです」
「冗談なんかじゃねえ、おれは本気で言ってるんだ。お美代のやつがおめえに惚れてることぐれえ、おめえだって気づいてねえわけじゃあるまい?」
「けどあっしは島帰りの大罪人だ、お嬢さまを戴くなんて滅相もねえ。身分が違うどころの話じゃありやせん」
痛みでも堪えるような辛い顔で俯く清次の肩を、友五郎は太く節くれ立った指で強く掴んだ。
「それも承知の上で話してるんだが、それとも何か、うちのお美代どこか気に入らねえとこでもあるって言うのかい?」
清次が昔住んでいた四ツ谷にも人をやり、ずっと仕えている同心の松井孝之助にも頼んで奉行所のお調べ書きまで見た上で与吉が報告に来たのは、それより一刻ほど前のことだった。
袖を引かれるようにして座敷に連れて行かれた与吉は、友五郎に安心しろと頷いた。
「若えからまあ仕方も無かろうが、あの清次って野郎が箸にも棒にもかからねえ悪だったのは違えねえや。喧嘩はする、遊ぶ金欲しさに人の金は脅し取るでな」
清次がとぐろを巻いていた鮫ヶ橋は、本所吉田町と並ぶ江戸で指折りの空気の悪い所で、賭場だの娼家だのが多いことでも知られていた。清次はその娼家に通う鼻の下の長い親爺どもを暗がりで待ち伏せては、ものも言わずに殴りつけて金を巻き上げていた。
「考えたもんだぜ、やられた方も女を買いに行ったって弱い尻があるから、恥ずかしくってお上にも訴え出られねえ……ってわけよ」
「で、その殴った相手が運悪く死んじまったとかいうわけではねえのだな?」
「当たり前よ、もしそうなら追い剥ぎに加えて殺しだ、問答無用で獄門になってら」
「佐吉って野郎が言ってた、妹をどうのこうの……って話はどうなんだろうな?」
「うん、佐吉の妹と清次がわけありだったのも、そのことで佐吉の親父と清次が揉めてたのは確かなのだが」
こうした男女の痴情の縺れではよくあることだが、佐吉の妹は手籠めにされたと言い、清次の方はお互い納得ずくでのことだと言う。
「それで佐吉の親父がな、腹を立てて清次をぶん殴っちまったんだ。まあ娘を持つ父親の気持ちからすれば仕方ねえことだろうが、清次も若えから頭に血が上って殴り返すしで、気が付いたら相手の親父を半殺しにしちまってた……ってわけだ」
それ以前の余罪も加算されてのことではあるが、清次が島に流された直接の理由はそれだと与吉は保証した。
「誰か人を殺めたのでも、女を手籠めにしたのでもねえのだな?」
「お奉行所の記録ではそうなってるな」
それに当時の清次には
「どうだろう、清次の昔のことだが、わっしはもう忘れて許してやっても構わねえと思うのだが、いけねえかい?」
「うん。悪い野郎だったとは思うがよくここまで立ち直った、偉いもんだと褒めてやっても良いとおれも思うぜ」
友五郎は大きく頷くと、座敷の障子の向こうに声を張り上げた。
「おい、そこに居るんだろ、入って来な。おめえがそこで立ち聞きしてるのはとうにお見通しよ、行儀が悪いったらありゃしねえ」
ややあって障子が音も無く開き、お美代がおずおずと顔を出す。
「こんな事になるなどとおれも夢も思っちゃ無かったが……お美代、婿はほんとにあの清次で良いのだな?」
目に涙を浮かべて何度も頷くお美代の前で、友五郎はまだ何とも言えず複雑な顔をした。
「おめでとうって、とりあえず言っても良いんだよな?」
こちらの目の色を窺って念を押す与吉に、友五郎はほろ苦く笑って頷く。そして直ぐ表情を引き締めて、与吉の方に膝を進めた。
「それで、もう一つお願いした事の方なのだが……」
「うん、そっちの方も大方わかりそうだぜ」
ありがてえと友五郎は頭を下げ、今度こそ嬉しげに笑った。
「あの野郎の驚く顔が、今から目に見えるようだぜ」
「おかみさん、おかみさんおかみさんッ」
お里が長岡屋の勝手場で女中たちに混じって水仕事をしているところに、手代の仁八が泡を食って駆け込んで来た。
「与吉って深川の岡っ引きの親分さんが、おかみさんのお兄さんって人のことで話があるって訪ねて来てるんです」
聞いた途端に頭から血が引いて、お里は立ってもいられずに流しに手をかけたまましゃがみこんだ。
お里に兄は二人居るが、岡っ引きが訪ねて来る用があるとすればあの極道者の下の兄の方に違いなかった。
長岡屋は両国でも名の知れた米問屋で、お里がこうして店の若おかみの座に納まっていられるのも、浅草寺の境内の水茶屋で働いている時に、長岡屋の若旦那の惣太郎に見初められたからである。
当然、惣太郎の身内には水茶屋の女を嫁にすることに反対する者が多く、中でも姑で店の大おかみでもあるお初には、事あるごとに辛く当たられて来ていた。ただ惣太郎は今でもお里に惚れ抜いていて、お里の二親にも良くしてくれているから、お里はどんな嫁いびりにも耐えて来ていた。
その苦労の末にようやく掴みかけた幸せもこれでお仕舞いだ、何もかもあの碌でなしの兄のせいだと、お里は目の前が真っ暗になった。
しかし手代の仁八は、構わずにお里を急き立てる。
「大旦那さまや若旦那だけじゃありません、皆さんお揃いでおかみさんに奥に早く来るようにとお呼びです」
よろめくようにして奥の座敷に向かうと、そこには松島町に住むお里の二親や上の兄まで顔を揃えて待っていて、ここの義理の親や惣太郎の前で小さくなっていた。
姑に凄い目を向けられ、お里は中にも入れずに廊下で膝をつく。
そのお里を、この災難を招いたごつい顔で小太りの岡っ引きが、いやに愛想の良い笑顔で中に招き入れた。
「脅かしちまったようで済まねえが、これは長岡屋さんにも決して悪い話じゃねえんだ」
「本当でございましょうか、だってこの嫁のもう一人の兄さんって人は……」
「おっかさんッ」
目にも言葉にも嫁を責める色を滲ませるお初だが、惣太郎に睨まれてようやく黙る。
「ま、ここでわっしがいくら口で言ったところで、長岡屋さんだって大おかみさんだって得心が行かねえだろう。そこでだ、論より証拠で皆さんにも一緒に来て見てほしいものがありやしてね」
そう言うと与吉はそこに居た皆を追い立てるようにして店の外に出し、足が弱い者の為に駕籠も仕立てさせる。
「親分、手前どもを一体どこへ連れて行こうというのです?」
惣太郎の父親で長岡屋の大旦那は普段は嫁を苛めるような真似はしないが、今日ばかりは不安げな色を隠せない。
行き先が気にならない者など誰もいないが、与吉は笑ってちょいとそこまでとしか言わぬ。
「ま、これはほんとに良い話なのだから、わっちを信じてついて来て下せえ。何もかも半刻も経たねえうちにわかりまさ」
相手は十手持ちだし仕方なく付いて行くと、与吉は店の近くの竪川に架かる一ツ目橋を南に渡り、大川に沿って南へ南へと真っすぐに下り、小名木川も仙台堀も渡ってしまう。さらに永代橋で大川も渡って、霊岸島の新川河岸でようやく足を止めた。
与吉は蔵の陰に皆に呼び寄せ、十間ほど先で着いたばかりの酒を陸に揚げている男たちの一人を指さした。
「あれをご覧なせえ」
男は屈強な荷揚げ人足の中でも一際背が高く、自分の目方より重いくらいの四斗樽を軽々と担ぎ揚げている。それだけでなく周りの皆を笑顔で励ましながら、懸命に人の倍も働いていた。
その男を見詰めていたお里が、元々大きな目をさらに見開いて譫言のように呟いた。
「……兄さん? もしかしてあれって、清次兄さんなの?」
父の久助に母のお登与、それに上の兄の善太も、夢でも見ているかと目をこすったり、少しでもよく確かめようと首を前に伸ばしたりしている。
さらに長岡屋の惣太郎も、驚きを隠せぬ様子で首を振りながら脇に立つお里に囁いた。
「なあ、何だか聞いていた話と違って、随分しっかりした良い男のようじゃないか」
「その通りでさ」
答えたのは、よく日に焼けた恰幅の良い男だった。いつの間にか皆のすぐ側にいたその男は、年の頃は五十の少し手前というところで身なりもかなり良い。
「わっしは今川町で口入れ屋をしている伊勢崎屋友五郎って者だが、清次はうちで一番の働き者で、飲む打つ買うもまるでしねえ堅物ときてる。それでいて男気もあるものだから、わっしはあいつを伊勢崎屋の屋台骨を支えてくれる男と見込んで、わっしの娘の婿にすると決めたんでさ」
そして友五郎は皆に背を向け、河岸の清次に大きく手を振った。
「おおい清次、ちょいとこっちに来い!」
清次は初め、虚ろな目でただ呆然と立ち尽くしていた。
だが目にしているものが幻でも見間違いでもないとわかると、酒樽を足元に置いて泳ぐように家族の元にやって来た。そして皆の直ぐ前で土下座し、額を地べたに擦り付けて詫びる。
「済まねえ、酷え親不孝やら償い切れねえ迷惑やら、とにかくいろいろ済まねえッ」
お里だけでなく久助や善太まで目を潤ませていたが、最初に泣き出したのはお登与で、土下座している清次の上に屈み込み、広い肩に腕を回して涙ながらにこう繰り返した。
「いいんだよ、こうして生きてまた会えたんだ、過ぎたことはもういいんだよ」
「清次、今日はもういいぜ。心行くまで皆さんと積もる話でもして来るがいい」
友五郎のその言葉に甘えて、清次は長岡屋の家族との顔合わせと挨拶も済ませた後で二親が今住んでいる松島町の家に向かった。
その長屋は二間しかないが中の調度も整っているし辺りも静かで、清次は安堵の息を漏らした。
「じゃ、今は何とかやって行けているのだね?」
「ああ、お里と長岡屋さんのおかげでね」
嬉しげに頷くお登与に、これからはおれも精一杯親孝行せねばと心に誓う清次だ。
「兄さんは? おれのせいで、その、店の方も……」
奉公していた先の大きな両替商で手代の筆頭にまで抜擢されたのに、有無を言わさず暇を出されたと大横丁の長吉伯父に聞いた。
「ああ、お払い箱になったさ」
善太は片頬で笑いながら頷いた。
「その時はそれはもうお前を恨んださ、お前のせいでわたしの一生は台なしだ……とね。けどお前は知らないだろうが、大店の仕事ってのはなかなか厳しいものさ」
何十人も居る奉公人の中で番頭まで出世して、やがて暖簾分けして自分の店を持させて貰えるまでになるのは、本当にほんの一握りに過ぎない。それだけに同じ店の奉公人は仲間などではなく、すべて競争相手であり敵だった。
「だから店を追い出されて、生きて行く為に仕方なく小間物の行商を初めてようやく気づいたんだ。わたしは商人のつもりでいながらお客の為なんかこれっぽっちも考えて無かった、他の誰かと競って蹴落とすことにばっかり精出してた……ってね」
詫びようが無くてただ頭を下げていた清次が恐る恐る目を上げると、昔はずっと苦手でならなかった兄は優しい目で微笑んでいた。
「わたしは今、外神田の平右衛門町で小間物屋をやってるんだ。と言っても女房の他には小僧一人しか居ないような小さい店だが、毎日お客の顔を見てお客に喜んで貰える物を商うのが楽しくて仕方ないんだよ」
「女房って、兄さん嫁を貰ったのかい?」
尋ねられて、善太は浮かべていた笑みを顔いっぱいに広げた。
「ああ。子供も生まれて、男の子で夏には三つになる」
いつでも女房と甥っ子に会いに来いと、善太は真顔で頷いた。
清次が伊勢崎屋に帰ったのは夜も更けてからで、お美代はそれを寝ずに待っていた。
「申し訳ありやせん、先に寝てて下されば良かったのに」
清次に済まなそうに謝られて、お美代は首を振った。
「いいの、あたしが待ってたかっんだから」
本当はこのまま帰って来ないんじゃないかと心配だったとは言えずに、お美代は笑顔で話題を変える。
「それよりもう許婚なんだから、その言葉遣いは何とかならないかしら。お嬢さんってのも、もう無しね?」
「そう言われても、お嬢さんはお嬢さんだしなあ」
困ったようなくすぐったいような顔をした後で、清次は今日のことも胸の中で思い返しながら、自分の家族のことを初めてお美代に話した。
「あっしの親は腕の良い指物師なんだが、あっしも兄貴もどうにも不器用で、どっちも親の跡は継げなくて」
久助さんは女房を器量で選んだ。実を言うと清次の二親は陰ではそう囁かれていて、お登与は顔が綺麗な上に気働きも優れていたが炊事も掃除も洗濯もみな苦手だった。清次と善太が揃って指物師に向かなかったのは、おそらくそのお登与の方に似たのだろう。
ただ善太は不器用でも頭の良さと機転を母から受け継いで、奉公先も麹町の名の知れた両替商にすんなり決まった。だから父も母も、指物師の跡を継ぐより良いとむしろ喜んだくらいだ。
「けどあっしは不器用な上に頭も悪くてね、しかも体だけは丈夫に産んで貰えたのを良いことに、近所の悪餓鬼どもと喧嘩ばかりしてたんだから始末が悪いや」
一方善太は奉公先でも旦那や番頭に目をかけられて、店でも上へ上へとどんどん抜擢されて行っていた。
当然、清次はその兄と比べられては、出来損ないの駄目な弟と皆から叱られてばかりという事になる。
「今になって考えれば仕方のない事さ、だって兄貴と較べりゃほんとに取り柄のねえ駄目な弟だったんだからさ」
だがあの頃の清次にはそうは思えなかった。兄と自分を比べては、馬鹿だの出来損ないのと謗る親戚連中や近所の口さがない奴らが憎くてならなかった。それどころか、そうした世間の風当たりから守ってくれようともせずに兄のことばかり自慢にしている二親でさえ、自分の敵のように思っていた。
「てめえらは我が子が可愛くねえのか、それでもおれのほんとの親なのか……ってね」
振り返ってみればお笑い草だが、あの頃の清次は世の中すべてが敵だと思っていた。
「で、とどめはお袋が決めてきたあっしの奉公先さ。一体どこだと思う? 紅屋だぜ」
眉を寄せて微苦笑する清次だが、前掛け姿で小腰を屈め、女の客の機嫌を取りながら口紅や頬紅を売っている清次の姿を頭に思い描くだけで、お美代も気の毒やらおかしいやらでつい笑い出してしまう。
「あんたは女に可愛がられそうな顔をしてるからきっと向いてるよって、お袋は得意そうにそう言うんだが、あっしには酷え厭がらせにしか思えなかった」
それで奉公先の店を飛び出し、四ツ谷仲町の親の家にも帰らず近くの鮫ヶ橋という悪い場所でとぐろを巻いて、散々悪の限りを尽くした揚げ句に気がついたら三宅島に流されていた。
「あの頃のあっしは、てめえでは世の中に苛められて酷え目に遭わされてるつもりでいたが。とんでもねえ、その程度の事なんざ世間じゃよくある話で、むしろ人を苛めて泣かせてた悪党はあっしの方だったのさ」
親がどうの、世間がどうのなどという話は言い訳に過ぎず、本当はただ体の中から溢れ出す衝動に突き動かされて暴れていたのだと、今になればよくわかる。
「それだけにねえ、今胸の中にあるのはどうしようもねえ後悔だけなんでさ。何て馬鹿なことをしちまったんだろう、申し訳ねえ……ってね」
ひどくしんみりとした、胸に染み入る声で呟いてうなだれる清次の背に、お美代はそっと腕を回した。
「どうしようもないなんて、そんなこと無い。取り返しのつかないことなんて無いんだから、ずっと笑って暮らせるようにこれから二人で頑張ろう?」
二人のことをあれこれ言う者は相変わらず少なくなかったが、当の清次とお美代はこの上なく幸せだった。深川でもあちこちで梅の花が咲き始め、少なくとも二人の間は既に春の盛りのようだった。
しかし親の友五郎にしてみれば、二人を夫婦にさせると決めてからむしろ心配事が増えたくらいだった。人の世の甘いだけでなく酸いの方もよく知っているだけに、清次やお美代のように言いたい人には言わせておけば良いとは言えぬ。
中でも友五郎が特に気にかかっていたのは、今もまだ辺りをうろついては清次の悪い噂を広め続けている重蔵と佐吉の事だった。
ただ清次の為じゃねえ、このままじゃお美代の傷にもなりかねねえ。そう思いあぐねた友五郎は、加賀町の与吉のもとを訪ねた。
友五郎の懸念を身を入れて頷きながら聞いていた与吉は、おれもそう思うぜと苦い声で答えた。
「重蔵の方はおれに任せときな。おれが言うのも何だが相手は十手持ちだ、伊勢友さんは手を出しにくかろう?」
「そいつは助かるが、本当にいいのかい?」
「別に伊勢友さんの為ってわけじゃねえさ。野郎にゃ、おれ自身の返してやりてえ意趣があるのだ」
「どっちにしたってありがてえ、恩に着るぜ」
「袋物屋の佐吉の方も、ついでにおれががつんと叱っとこうか?」
「いや、そっちの方はわっしに考えがある。清次を兄貴分みてえに思ってるうちの若えのが、兄貴の為に何かしてえ……ってうずうずしてるのさ」
「おいおい、そいつは剣呑だな。若え者はすぐ無茶をしたがるから気を付けた方がいいぜ」
「なあに、心配は要らねえ。手は絶対出さねえよう、固く言い付けてあるのでな」
「この馬鹿野郎、とんだどじ踏みやがってッ」
三五郎の毛むくじゃらな太い足に蹴り飛ばされて、安平は長火鉢の向こうに仰向けに転がった。
そのまま両腕で顔を庇う安平を、三五郎は荒い息を吐きながら繰り返し踏み付ける。
「阿芙蓉をそっくり持ち逃げされただぁ? それで済むとてめえ本気で思ってんのか、えッ?」
真砂屋の太一は何しろ気の小さい野郎だし、取引に出す時は例の阿芙蓉の粉を持って帰るまで恋女房のお高を人質に押さえておけば、裏切ることなどまずあるまいと安平は思っていた。
しかしその太一に、安平はうまうまとしてやられた。
猪牙を長崎から来た船に漕ぎ寄せ、託された金を阿芙蓉の粉の包みに替えるところまではいつも通りにやった。ただ太一は受け取った阿芙蓉をそのまま懐にねじ込んで、陸で待っていた安平には予め用意しておいたうどん粉の包みを渡した。
見かけは殆ど同じだから、その粉が阿芙蓉かどうかは使ってみるまではわからない。そしてまんまとやられたと気付いて長脇差を握り締めて踏み込んだ時には真砂屋は既にもぬけの殻で、太一はお高を連れてどこかに高飛びしていた。
あの阿芙蓉の粉は江戸のどの親分も喉から手が出るほど欲しがっていて、足元を見られて買い叩かれたとしても、太一は今頃一生遊んで暮らせるだけの金を手にしている筈だ。
三五郎は倒れたままの安平の襟首を掴んで引き起こし、今度は平手でその横っ面を続けて張った。
「なあヤスよ、おれはあん時てめえに何て言った? 決して裏切らねえ確かな野郎を探せって、そう言い付けたよなあ、え?」
確かにその通りだから、安平は切れた唇の端から血を流しながら項垂れているしかない。
「その太一とかいう野郎だが、生まれはどこだ?」
「へえ、下総の銚子だそうで」
それも漁師の三男で、だから猪牙を操るなどお手の物だったのだ。
「おい安平、おめえ草鞋を履け。その野郎を草の根分けても捜し出すのだ」
まず銚子に飛び、生まれた村に帰って無かったら京でも大阪でも日本中を捜し回って、野郎をとっ捕まえて来るまで一家の敷居を跨ぐんじゃねえ。
弥勒の三五郎は掴んだままの襟を強く揺さぶって、安平にそう厳命した。
口元の血を手の甲で拭いながら三五郎の居間を出た安平の直ぐ後を、松蔵が急ぎ足で追いかけて来た。
「とんだ災難でやしたね、安平の兄貴」
「まあ仕方ねえさ、おれのどじだ」
痛む唇を曲げて笑って見せたものの、安平の腹は煮え繰り返っていた。
清次の奴が、あの時うんと言ってくれさえしていれば。その事を安平は何度思ったかわからない。
安平の腹では、賭場の借金の
もしその通りになっていれば太一など使わずに済んだし、こんな事にはならなかった筈だ。そう考えると、今度の不始末の原因はすべて清次にあるような気がしてならない。
「兄貴、聞きやしたか。清次の奴め、何と伊勢友の娘と夫婦になるらしいですぜ」
そう言ってきた松蔵の目を見ると、どうやら松蔵も安平と同じことを思っていたらしい。
まずは黙って頷いた安平だが、頬が引き攣るのが自分でもわかった。島で散々助けてやった恩も忘れて何食わぬ顔で伊勢崎屋の婿に納まろうなど、太々しいにも程がある。
「なあ松、おれは草鞋を履く前にちょいとやりたい事があるのだが、おめえも
「……清次のことでやすか?」
「その通りよ」
逃げた太一にはもちろんこの返礼をたっぷりするつもりだが、その行き掛けの駄賃に清次にも仲間の仁義ってやつを教え込んでやらねば気が済まなかった。
「喜んで手を貸させていただきまさ。同じ穴の貉のくせにてめえだけ足を洗って良い子になろうなんて、虫が良すぎでさね」