第15話

文字数 7,974文字

 押し込みもその為にしたのだが、徹太も流石にその足で松蔵のいる賭場へは向かえなかった。その晩は二親のいる長屋で夜具を頭から引っ被って、いつ捕り方に踏み込まれるかと怯えながら殆ど眠れないまま夜を明かした。
 翌日はいつも通りに仕事に出て、胸が潰れる思いで皆の話に耳を傾けながら一日を過ごした。素人だからいろいろどじを踏んだのは自分でもわかっていたが、探索の手が思った以上に早く伸びて来そうで怖くてならず、しかしだからこそ与吉親分らがどう見ているか聞かずにはいられなかった。
 仕事が終わると徹太は湯屋にも寄らず、真っすぐに松平加賀守の下屋敷の賭場に行った。
 日が暮れて間も無い頃だから客はまだ少なくて、松蔵は直ぐに徹太を見つけ、隣の狭い部屋に背を押すようにして連れ込んだ。
「おうテツか、金は出来たのかい?」
 どうせ出来る筈もねえだろう、諦めて姉ちゃんに泣いて貰う肚は決まったかと言いたげににやつく松蔵に、徹太は十二両の金を差し出した。
 山田屋の隠居の財布の中にあったのはそれだけで、何故あの時手文庫や箪笥も開けて見させなかったと悔やまれてならないが、今となってはどうしようもない。
「……ほう?」
 目を剥いてその金を眺めた松蔵だが、直ぐに心得顔でにたりと頷いた。借りている三十両にはかなり足りないが、それでも徹太などに逆立ちしたって作れるような額ではないことは、誰にだってわかる。
 しかしこの金をどう工面したとはあえて聞かず、松蔵はその金を懐にねじ込んだ。
「雑司ケ谷の姉ちゃんをどうこう……って話だけは、お願えだから待ってやっておくんなさい」
 金さえ受け取ればもう用はねえとばかりに座を立ち、代貸のところに行きかけた松蔵の着物の裾を掴み、徹太は平蜘蛛のように畳に額を擦り付けた。
 その徹太を、松蔵は温かさなど欠片もない目で見下ろした。
「いいとも、ちょっとは待ってやろう。だがおめえの借りはまだ残ってるのも忘れんなよ?」
 そして屈み込み、徹太の耳をぐいと掴んでねっとりした声で囁きかけた。
「利子さえ払えねえって話になってみろ、そん時には……な?」

 これで少しは息をつげるどころか、事態はますます悪くなるばかりで、奈落の底に真っすぐ落ち込んで行くかのように思えた。
 思い詰めて押し込みまでしたものの、手に出来た金はまだかなり足りない。
 逃げる時に弾みで隠居を刺してしまったのも悔やみ切れないへまの一つで、おれは人殺しになっちまったのかも知れねえと、徹太は夜も眠れずに悶え苦しんだ。それだけに隠居が死んでないと知った時には体中の力が抜けるくらい安堵したものだ。
 しかし山田屋の隠居が助かろうが死のうが、よく考えてみれば実はどちらでも同じことだった。
 十両以上の金を盗めば死罪になるのが御定法で、盗んだのは十二両だからお縄を受ければ生きて帰れないのは間違いなかった。あの隠居が生きているか死んでしまったかで、徹太に違いがあるとすればただ打ち首になるか、それとも市中引き回しの上獄門になるかくらいのものだ。
 それを考えるにつけても、中も確かめずに財布だけ奪って逃げて来た己の愚かしさが悔やまれてならない。
 何も好き好んで死にたいわけでは無いが、三十両の金が作れるなら死罪になっても仕方ないと思っていた。身から出た錆だし、それで姉に迷惑かけずに済むなら、たとえこの首を落とされても諦めがつくというものだ。
 だが己は死罪になるし姉も救えぬでは、ただの死に損いで、それこそ死んでも死にきれない。
 まだ死ねねえ、少なくとも残りのあと十八両を何とか作るまでは。
 そう思いながら伊沢町の長屋に帰ったものの、その残りの金を工面する算段すらまるで立たない有り様だ。
 その徹太の顔を見るなり、母親は隣近所に筒抜けの野良声でまくし立てた。
「包丁、やっぱりどこにも無いんだよ。徹太、お前本当に知らないかい?」
「知らねえって言ってんだろッ」
 徹太の母親は今日の朝からずっと、三本ある包丁のうちの一本が足りないと騒ぎ続けている。
「だってお前……」
 母親はその先の言葉を呑み込んだが、言いたいことはおおよその見当がつく。
「黙って持ち出すような奴は、この家にゃどうせおれしかいねえ、ってか?」
「おい、てめえの母親に向かってその言い草は何だ」
 見兼ねて父親が睨むが、背丈も目方も徹太の方が明らかに上回っている今では威しにもならない。
「何でえ、みんなおればっかり悪者にしやがって。クソ面白くもねえ」
 どさりと腰を下ろし皆に背を向けて胡座をかくが、本当は恐ろしくてならなかった。父親や母親に咎められることがではなく、己のしでかした取り返しのつかぬしくじりがもたらすであろう結果が。
 夕べ持ち出した包丁は、夜のうちに何食わぬ顔で戻しておくつもりだった。しかし隠居を刺してしまったことで動転して、その場に放り出して逃げてしまった。
 徹太の家で包丁が無くなったことは、母親が騒いだから既にこの長屋の皆が聞いて知ってしまっているに違いない。そして包丁のことで与吉親分に聞き込みに来られた日には、もう万事休すだろう。
 すぐ目の前にぽっかり開いてる地獄へ続く暗い穴が見えるようで、徹太は生きた心地もしなかった。

 次の日、店の皆を仕事に送り出した後で、友五郎はお美代を居間に呼んだ。そして長火鉢の前に座らせてみたものの、いざ面と向かってみると、どう話を切り出したものかひどく困った。
「お前と幸助のことなんだが、ほら、今うちと森田屋はこんなだから……」
「はっきり言ってくれていいのよ、おとっさん」
 瞬きもせずに真っすぐ見つめられて、友五郎はますます動揺してしまう。
「いや、だから別に破談にさせてくれとはっきり言われたわけじゃねえんだ。ただその何だ、輿入れとかはちょっと延ばして、お互い冷静になってからにした方が良いのではとな……」
「わかった。でもそんな中途半端なことじゃなくって、ちゃんと破談にして貰った方が、あたしはすっきりするくらいだけど」
「そう返事しちまって本当にいいのかい? だって幸助のこと、お前はずっと昔っから好きだったろ?」
「昔はね」
 一瞬宙に目をやって、お美代はほろ苦く笑った。
「ほら、うちの兄さんって昔はあんなだったでしょ?」
 お稲と出逢って真面目になるからどうか夫婦にさせて下さいと頭を下げるまでは、一端の侠客気取りでかなり暴れてもいた。
「だから甘えたくても甘えられなかったし、優しくされた覚えだって全然ないから」
「そりゃあそうだ、悪たれの餓鬼大将が娘っ子なんぞと喋ったり遊んだりしてたら格好つかねえや」
「でも幸助さんは全然違った。いつもちゃんと話を聞いて、女の子の遊びにも付き合ってもくれて」
 やっぱり幸助に惚れてるんじゃねえかと言いかける友五郎に、お美代は違うのと首を振る。
「幸助さんって、あたしにとってはお兄さんみたいなものだったんじゃないかって思うの」
「お兄さんか。男にとっちゃそれは、あんまりありがたくねえ呼び名だな」
 何となく酸っぱい顔をする友五郎に、お美代は半ば泣くような笑みを浮かべて頷いた。
「ずっと一緒にいたから、このまま生涯添い遂げて当たり前みたいに思ってたけど。でも今度のことがあってよく考えてみたらね、幸助さんのことは好きって言うのとは何か違うってわかったの」

 一日の仕事が終われば湯屋に行き、二階で茶を飲み饅頭を一つ食ったら真っすぐ伊勢崎屋に帰るのが清次の常だった。
 が、この日だけは違った。森田屋のことや徹太のことなど、妙に気になることばかりあって、じっとしていたら頭がどうかなってしまいそうだった。
 それで珍しく真っすぐ店に戻る気になれず、湯冷めするのも構わずに清次は仙台堀と油堀の間を闇雲に歩き回っていた。悩んで苦しいのに何も出来ないこんな時には、疲れ切るまで体を動かすのが一番だとわかっている。
 佐賀町から中川町へ抜け、田中橋を渡って西永代町の干鰯場を通り仙台堀に出る。そして店のある西の方には折れずに、反対の松永橋を越えたところで、仙台堀の水面をぼんやりと眺めながら佇む人影を見た。
 もう何日も前にたった一度だけ、それもすれ違う程度にしか会っていない相手だが、忘れようも見間違いようも無かった。
「平松先生、確かそうおっしゃいましたね?」
 何故かこのお侍に嫌われていることは、清次もよくわかっている。だから普段なら気づかぬふりをして、目も背けてそのまま行き過ぎたに違いなかった。
 だがいろいろ考えあぐねている今だからこそ、この男にぜひ問うてみたいことがあった。
「うん?」
 元は旗本の次男坊で、今は友五郎と同業の豊島屋の用心棒をしているという平松祐二郎は一瞬訝しげな顔をした。が、すぐに小作りだが整った顔にひやりとするような笑みを浮かべて頷いた。
「……ああ。どこの誰かは知らぬが、その面に見覚えはある」
 そしてそのまま、何の用かとも聞かずに清次の顔をただ凝視した。
 口に出したことこそ無かったが、清次は誰かを怖いと思ったことなど殆ど無かった。相手が安平だろうが重蔵だろうが、本気で命のやり取りになれば負ける筈などないと思っていた。
 だからこそ誰に突っ掛かられても、頭を下げて罵られるままになっていられた。
 だが清次の顎くらいの背丈しかないこの先生には、ただこうして向かい合っているだけで体の芯の方から妙な寒気を感じた。
「これは失礼しました、あっしは今川町の伊勢崎屋に世話になっている清次って者ですが、つかぬ事をお伺いしてもかまいませんか」
 能面を思わせる笑みを浮かべたまま、平松祐二郎は僅かに頷く。
「あの時、って言うのはこの先の幸多って居酒屋でお目にかかった時ですが、あっしの何が先生のお気に障ったんでしょう?」
 清次を元の悪の道に引き込もうとした松蔵ではなく、平松祐二郎はお前も堅気になれと諌めた清次の方を睨んだ。
「先生などと声をかけてきたって事は、私が誰で何をしているかも承知と見たが?」
「へい」
「清次とか言ったな? 私がなぜ強くなったかわかるか」
 答えようが無かったし、平松も特に返事を求めているわけでも無さそうなのがわかるから、清次は黙って話の続きを待った。
「私はこの通り背も低いし、体も丈夫じゃなかった。何しろ外で遊ぶより学問をする方が楽しいような子供だったから、悪餓鬼どもに散々苛め抜かれたものさ」
 平松の顔が僅かに歪み、浮かべていた作り物の笑みがすっと消えた。
「いびられて泣いてる者がいても、世の中そう甘くはない。可哀想だと思ってくれる人はいても、誰も助けちゃくれやしない。まあそれも仕方ないさ、誰だって自分に火の粉が降りかかって来ちゃ厭だものな?」
 言いながら平松は、左手の拳で刀の柄を軽く叩いた。
「だから私は、生きる為に強くなるしかなかったのだ。強くならなければ、そのまま虫けらみたいに踏み潰されてただろうさ。ちょうどお前のような人間にな?」
「でも、あっしは……」
「うむ、昔の私を苛めたのはお前ではない。だが臭いでわかるのだ、お前も奴らと同じ種類の人間だろう? お前は、お前の周りに居た昔の私のような弱い者を、何の罪の呵責もなく平気で踏み付けてきた。違うか?」
 言われてみればその通りで、清次は返す言葉もなく項垂れるしかない。
「だから私は、今の仕事が楽しくてならないのだ。弱い者を泣かす、昔の私を苛めたようなやくざ者たちをさ、片っ端から斬ってやるのがな」
 言いながら、平松は何とも厭な含み笑いを漏らした。
「自分が屑なのはよくわかってやす、昔のことを思うとあっしは本当に恥ずかしくてならねえ。だからこそ死ぬ気で堅気になって生き直そうと思うのは、間違ってやすかね? あっしのような者がいくら悔やんでも、世間ってのはどうあっても忘れて許しちゃあくれねえものなんですかい?」
「忘れろだと? 何故わからぬのかな、そう平気で言えること自体が、お前が苛めた側の人間だって証なのだよ」
 刺すような目で睨みながら、平松は喉の奥で低い笑い声をたてた。
「人を殴ったことを忘れるのと、人に殴られた痛みを忘れるのと。どっちが容易いかなど、考えてみるまでもあるまい?」
 頭にこびりついて離れない昔の記憶が繰り返し蘇る責め苦に、清次はどれだけ眠れぬ夜を過ごしたかわからない。それでもまだ悔やみ足りないのだとすれば、死ぬより他に無いのではないかという気持ちになってしまう。
「そうそう、お前が連れていたやくざだが……」
「松蔵ですか?」
 すると平松は、毒虫に名前など要らぬと首を振った。
「松虫だか何だか知らぬが、野郎はまだいいのだ。奴が悪党のやくざ者でいる限り、いつか斬ってやれる機会があるだろうからね」
 悪なら悔やんだりするな、悪のまま生きて悪のまま死ね。氷のような目で清次を見据えて、平松はそう言い放った。
「私が一番許せなく思うのは、人を散々踏み付けにして泣かせてきた昔を、若いうちはそんなもんだ、人生いろいろあらァなでごまかして、真っ当な人達に混ざって普通に生きようとするお前のような奴さ」
「そんなつもりじゃねえ、あっしは……」
 本当に悔やんで真面目に生き直すつもりでと言いかけたのを、平松は煩げに手を振って遮る。
「お喋りはもう充分だ」
 そして清次に背を向け、相生橋を渡り更に海辺橋の方に歩き去った。

 清次が妙に改まった顔で友五郎の前に出たのは、次の日の朝のことだった。
 朝飯の後の茶を飲む友五郎にまず深々と頭を下げ、同じ居間にいるお美代など友五郎の身内の顔も見回して別れを告げる。
「散々お世話になっちまって、感謝の言葉もありやせん。何の恩返しも出来ないままなのは心苦しいですが、今日限りでこちらをお(いとま)させていただこうと思いやす」
 友五郎も義太郎も目を丸くしたが、中でもお美代は息を呑み直ぐには何も言えないでいる。
「おいおい、そいつは急な話だな。親兄弟でも見つかったのかい?」
「いえ、そういうわけでは……」
 頭を振った清次の顔が苦しげに歪む。
「で、どっか行くあてでもあるのかい?」
「いえ」
「だったら何も、そう慌てて出て行くことも無いだろうよ。それともうちの仕事が厭になったか」
 荷揚げがきつい仕事なのはわかるが、本当に心を入れ替えて頑張る気だと信じていただけに、友五郎は当てを外された気がして腹まで立ってくる。
「そうじゃありやせん、あっしだってこのままこちらに骨を埋められたらどれだけ幸せかと思いやす」
「じゃあ何で出て行こうなんて思ったんだい?」
「あっしが居ると、伊勢崎屋の皆さんの為にならねえからでさ」
 思わず視線を交わし合う友五郎と義太郎に、清次はやっぱりそうかと改めて思った。
「森田屋さんが別の口入れ屋を頼んだのは、あっしが居るせいでしょう? それにお嬢さんと森田屋さんの若旦那のことだって……」
 あたしは別にいいのよと身を乗り出して言いかけるお美代を、友五郎は目で制す。
「知ってるんなら包み隠さず言うが、おめえのことで森田屋と揉めたのはその通りだ」
「ならあっしなんざ……」
「まあ仕舞いまで聞け。おめえの過去(まえ)がどうだろうと、おめえなら大丈夫だ、うちの仕事を任せられると見て森田屋に差し向けたのはこのおれだ。だから森田屋は、おれの人を見る目にけちをつけたも同然、ってことよ」
 その後を、さらに義太郎が続ける。
「だから今さらおめえが居なくなって見ろ、やっぱり清次は信用出来ねえ野郎で、森田屋の言う通り伊勢崎屋の目が曇ってた……って話になっちまう」
「おい、ここまで聞いてまさかおれの面子を潰すつもりじゃねえだろうな?」
「あっしなんかの為に、お気持ちは有り難すぎて涙がこぼれまさ。けど……」
 平伏して顔だけ上げた清次の目の先にはお美代が居た。
 そのお美代はつと立ち上がり、するすると歩み寄って清次の肩に軽く手をかけた。
「気にしないでいいの。幸助さんがほんとは思ってたような人じゃなかったってお嫁に行く前にわかって、あたしはむしろ良かったと思ってるんだから」

 清次が目を潤ませて河岸の仕事に出掛けた後、それまでずっと難しい顔でただ話を聞いていたお稲が初めて口を開いた。
「それはそうとあの北川町の押し込み、早く捕まってくれないと困っちまう」
「そりゃあ早くお縄になるに越したことはねえが、何でお前が困るんだ?」
 尋ねた義太郎ではなく、お稲は友五郎に妙に真剣な目を向けた。
「だって噂になってるんですよ、やったのはうちの清次じゃないかって」
「そんな、あるわけないッ」
 真っ先に叫んだのはお美代で、友五郎と義太郎も笑って首を振った。
「馬鹿馬鹿しい。野郎がいつも河岸から店に真っすぐ帰って来てるのは、お前もよく知っているだろ」
「そうよ、それでいつ押し込みに(へえ)れるって言うんだよ」
「わかってます、清次がやったんじゃないってあたしだって思ってますさ」
 頷いた後で、お稲は厳しい顔で皆の顔を見回した。
「けどそう噂されてるのは、ほんとの事なんですよ」
「うん、くだらねえと聞き捨てにしていたが、その噂ならおれも小耳に挟んではいるのだ」
「酷い、誰がそんなことを言うの?」
 殆ど泣きそうな顔で怒る妹に、義太郎は慰めて宥めるような声をかけた。
「まあ奴が島帰りなのは皆知ってるからな、真っ先に疑われるのは仕方のねえことなのかも知れねえ」
「でもそんなのって無い、清さんが本気で堅気になろうと頑張ってることぐらい、見れば誰だってわかる筈なのに」
「そう思うのはお前が清次の奴を気に入ってるからよ。野郎が死ぬ気で働いてるのを側で見ていたってわからねえ奴もいる、それが世間ってもんさ」
「森田屋さんね? 厭な噂を流してるのって、もしかして幸助さんなの?」
「いや、おれは森田屋とはあれから話もしてねえから、それは何とも言えねえが」
 友五郎に目を向けられたお稲も頷き返し、さらにこう付け加えた。
「ただ万が一ってことも、うちでも考えておいた方がいいんじゃありませんかね」
「と言うと?」
「あたしだってあれが清次の仕業だなんて思っちゃいませんよ、けどね、清次が何で今になって急に店を出たいなんて言い出したか、ちょいと気にならないでもなくて」
「ねえ、それって疑ってるって言ってるのと同じじゃない!」
 お美代は眉を逆立てるが、友五郎はひどく難しい顔で腕組みをした。
「懐は温かいし、町の噂にもなっちまってるから今のうちに草鞋を履こうとしたんじゃねえか……って? 恐ろしく穿ってひねくれた考えだが、そう受け取れなくもねえな」
「おとっさん!」
「お美代、お前はちょっと黙ってろ。お前の頭ン中は清次のことしかねえようだが、おれはこの伊勢崎屋の皆のことをまず考えにゃならねえのだ」
 兄夫婦と自分をまだ睨みつけているお美代、その間に挟まれてただおろおろするしか出来ないお照を見て、友五郎は太い息を漏らした。
「おれはちょいとこれから、加賀町の親分と話をして来るぜ」

 素人が町の噂話に頭を悩ませてたって仕方ねえ、まずはその筋の人の考えを聞いてからだ。
 友五郎はそう判断して、与吉が女房にやらせている蕎麦屋に行ってみた。
 だがまだ五ツ(午前八時)にもならないのに、与吉は既に探索に出ていた。そして友五郎が残した伝言を聞いた与吉が伊勢崎屋にやって来たのは、その日も暮れかけてからであった。
 友五郎も含めて伊勢崎屋の者はみな清次を信じてる、だが町の噂ではあの押し込みは清次のやったことになっているらしいが、本当のところはどうなのだろうか。
 友五郎の話すことを、与吉は一度も遮らずにただ聞いていた。そして友五郎が喋り終えると、友五郎の目を真っすぐに見たまま低い声でこう言った。
「その事についちゃ、良い話と悪い話が一つずつあるのだが、友五郎さんはどちらから聞くね?」
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登場人物紹介

清次……三宅島から戻って来た島帰りの男。昔は四ッ谷の狼とも呼ばれたかなりの悪だったらしいが、今は売られた喧嘩すら買わず、堅気になろうと懸命に働く。三十過ぎくらいの、渋い良い男。

安平……同じ三宅島に流されていたやくざだが、一見すると人当たりは良い。しかし芯は冷たい根っからのやくざ者。

松蔵……元は清次の子分で、悪だった清次に憧れていた。今は本物のやくざになり安平の弟分で、堅気になろうとしている清次に失望している。

伊勢崎屋友五郎……口入れ屋の主。田舎から出て来て一代で店を持つに至る、それだけの男だから仕事には厳しいが、人情に厚い義理堅い男。

お美代……友五郎の娘で伊勢崎屋のお嬢さん。たまたま行き倒れていた清次を拾う。最初から清次に好意的で周囲が心配するほど良くなついている。

森田屋幸助……お美代と兄妹同然に育ち、今は許嫁の間柄。最初は気にしないでいたが、次第にお美代と清次の仲が気になってくる。

徹太……伊勢崎屋の人足で最も若い、威勢の良い者。それだけに、自分の男を見せつけようと、島帰りという清次に無闇に突っかかって喧嘩を仕掛ける。

重蔵……かつて清次をお縄にした岡っ引き。清次を目の敵にして、清次が赦されて戻って来た今も散々嫌がらせをしている。

佐吉……堀川屋という袋物屋で働く真面目なお店者だが、わけあって清次を深く恨み、何度も清次の前に姿を現す。

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