第1話
文字数 3,488文字
水平線の彼方に江戸の町並みが見えてくると、船縁から身を乗り出して波の向こうを眺めていた男たちは言葉にならぬどよめきの声を上げた。
近くの誰彼となく抱き合い、背や肩を叩き合う。喜びの余り泣き出す者も少なくなかったが、髭だらけの頬から顎へと伝う涙を、恥ずかしいとは誰も思わなかった。
上様の代替わりによる数年ぶりの御赦免船が、八丈から三宅島、そして新島を経て今まさに江戸に着こうとしていた。
生き地獄さながらだった流人暮らしの間、夢にまで見た江戸が目の前にあるのだ。島送りになるような強 か者とて、感極まらないわけがない。
だが清次だけは違った。帰りたい気持ちは誰にも負けない筈だったが、その江戸の町を見た途端に胸が悪くなった。
それだけではない、胃の辺りもぎゅっと締め付けられ、軽い吐き気までしてきた。
青い顔をして屈み込む清次に真っ先に気づいたのは、島でもずっと一緒だった安平だった。
「どうしたい、お江戸のこんな目と鼻の先まで来て船に酔ったとか言うんじゃねえだろうな?」
「いや、そうじゃねえ」
清次は整った顔を僅かに和らげ、片頬に笑みを作る。
「お江戸が見えたらな、何やら怖くなっちまって」
「怖い? わからねえな。これで天下晴れて自由の身になれる、っていうのによ」
そうだろうなと、清次も腹の中で思った。もう一度江戸の土を踏めたらその場で死んでも良いと、清次自身つい先刻まで思っていたのだ。
「ヤスさんには、迎えてくれるお人が江戸に大勢いるんだろ?」
「まあな」
その時のことを思い浮かべてか、安平は顎の辺りを締まりなく緩めた。
事実島に居た間も、安平には米やら味噌やら油やら様々なものが、江戸の縁者らから絶えず送られて来ていた。
そうした流人の縁者からの差し入れを、見届物という。
「おれは違うんだ、おれが帰っても喜んでくれる者なんざ誰も居やしねえ」
「そんなこたぁねえさ、清の字だって木の股から生まれたわけじゃあるめえ?」
「親兄弟も居るこたぁ居るが、親子の縁などとっくに切られてまさ」
三宅島に居た十二年の間、清次のもとには見届物どころか手紙の一通すら届いたためしのないことは、安平も知っている筈だ。
「そのまま島でくたばっちまえばいい。おれなんざ、皆にそう思われてるに違えねえのさ」
安平は一瞬言葉に詰まり、清次の肩に軽く手を置き慰め顔で囁くように語りかけた。
「まあそう言うな。血は水より濃い、って言うじゃねえか。船が着いてみりゃ親兄弟が揃って待っていて、涙のご対面というやつになるかも知れねえぜ?」
清次は唇を強く結び、安平の方には目を向けようともしない。
「他人 事と思って適当なことを言うな、って面をしてやがるぜ」
苦笑する安平に、清次の苛立ちはさらに募った。
「ヤスさんにはわからねえのだ」
御赦免を望まぬ流人など居ないが、大半はそのまま島で野垂れ死んでいた。
清次たち流人にとって、御赦免とは文字通り夢なのだ。
だからこそ島で思うのはただ江戸に帰ることだけで、その後のことなど殆ど何も考えてなかった。
その江戸が波の遥か向こうに見えたたった今、これから先もそこで生きて行かねばならぬ現実に気づいて、清次は膝の力が抜けるほど恐ろしくなった。
昔の荒 んだ暮らしに戻るつもりはさらさら無い、だがこんなおれが真面目に生き直すことを、世間さまは許してくれるだろうか。
その清次の気持ちを、安平も何となく判ったのかどうか。
「まあな、世間ってぇやつは、一度でもぐれた者にゃ冷てえからな」
安平は一人で頷いた後で、清次の耳元に口を寄せた。
「もし戻ってどこにも行き場が無かったら、おれンとこに来て草鞋を脱げ。親分にも口をきいてやるからよ」
この安平はのっぺりとした顔で人当たりも良く、ちょっと見には堅気の職人か何かのようだ。しかし島に流されるまでは、本所の二ツ目橋から南を縄張りにする弥勒の三五郎一家のやくざだった。
黙って見返す清次に、安平は薄い唇を裂くように開いてにたりと笑いかけた。
「おめぇは面 が良いだけのただの色男じゃあねえ、度胸も根性もあるのもよくわかってら。おめぇのような男なら大歓迎だ」
しかしそれこそ、清次が最も恐れていたことだった。
御赦免船などと言われるが、島の流人を江戸に帰す為だけに船を一艘仕立てるゆとりなどある筈も無かった。それで伊豆七島の産物を江戸に運ぶ、勘定奉行の支配下の春と夏と秋の年に三度の交易船に、流人らも便乗させていた。
島から戻る船が行き着く先は鉄砲洲の伊豆七島物産売捌所、普段は島会所と呼ばれている所だが、その前に永代橋の船番所に寄り、御赦免になった流人たちはそこで船を下ろされた。
永代橋は清次の記憶にあるより更に長く、遥かに高かった。そしてその下を、荷を山積みにした数え切れないほどの大小の船が行き交っている。
永代橋の上を行き交う人の数のあまりの多さに、清次は目眩すら覚えた。
知らせを受けて待っていたのだろう、船番所と道を隔てる柵の向こうの永代橋広小路には、御赦免になった流人の身内や縁者らしい者らが寄り集まって、船を下りる者たちの顔を食い入るように見つめている。
安平にはああ言ったものの、清次は我知らずその中に知った顔を目で捜していた。
昔の自分が馬鹿で屑でどうしようもない悪太郎で、いっそ死んでくれた方が皆の為と身内にも思われていることくらい、自分でもよくわかっている。わかってはいるのだが、もしや誰か迎えに来てくれるのではと期待してしまう気持ちはどうしようもない。
そしてなまじ望みを抱いてしまうから、後の落胆がより大きなものになる。
一緒に船を下りた者らは、船番所の柵の外の人だかりの中に見知った顔を見つけては、顔をくしゃくしゃにして手を振った。そして船手頭と南北両町奉行所から出向いた与力らが、解き放つ前に御赦免下知状に書かれているのが当人に相違ないかを確かめるのももどかしく、迎えに来た縁者のもとに駆け寄った。
再び生きて会えぬものと覚悟していたのだ、永代橋を行き交う者の目も恥じずに手を取り合い、あちこちで固く抱き合う姿が見られた。
おそらく母親なのだろう、髪に既に白いものが混じりかけている男の両頬を皺だらけの手で挟み、噎び泣きながらその顔を確かめる老婆もいた。
「兄貴、長らくお疲れさまでした、よくお帰りになりましたッ」
一目でその筋の者とわかる、弥勒の字を染め抜いた印半纏の若い者らが道端にずらりと並んで深々と頭を下げ、それに軽く頷きながら薄い笑みで応えているのはあの安平だ。
清次はそれらを、木偶のように突っ立ってただ眺めていた。
誰も来てくれやしねえって、ちゃんと覚悟してた筈じゃねえか。
いくら己にそう言い聞かせても、喉の奥から酸っぱいものが込み上げて来て胸が苦しくなってくる。
「うむ、何処なりとも行くが良い」
御赦免下知状を改めた与力に促されて、清次は柵の外の道にのろのろと出た。
広い道の向こうで組の若い衆に囲まれていた安平はその姿を目に留め、こっちへ来ねえと手を振った。
気づかぬふりをして逃げるように立ち去りかけた清次の前に、近くの町屋の影に身を潜めていた男が立ち塞がる。
「おい、どの面さらして戻って来やがったッ」
語気こそ鋭いものの、男は背丈も低いし顔立ちにもどこといった特徴もなく、折り畳んだ縹色の前掛けを手に持って、どこにでも居る冴えないお店者にしか見えなかった。年の頃は清次と同じで、三十を少し過ぎたといったところか。
その男に見覚えはまるで無かった、しかし人から恨まれる覚えなら幾らでもある清次だ。
島送りになる前のおれは、どうしようもなく非道い奴だった。その事はよくわかっているし深く恥じているから、清次は深く頭を下げた。
土下座して詫びろと言うならそうするし、それで少しでも気が済むなら殴ってくれても構わない。清次は本気でそのつもりでいた。
その清次に、男はすり足で歩み寄る。
「お上が赦したって関係ない、わたしは知るもんかッ」
食いしばった歯の間から声を絞り出し、折り畳んだ前掛けの間にスッと右の手を差し込んだ。
が、その中のものを抜き出す前に、気づいて様子を見ていた与力の一人が行く手を遮り、同時に男の利き手を抑えた。
続いて船番所からばらばら飛び出してきた他の与力や御船手組の侍に、男はたちまち囲まれて取り押さえられる。
その与力らの一人が、男の腕を捩り上げたまま振り返って清次に怒鳴った。
「馬鹿ッ、早う行かぬか!」
その鋭い声に、清次は背に鞭を当てられたように急ぎ足で人込みの中に姿を消した。
近くの誰彼となく抱き合い、背や肩を叩き合う。喜びの余り泣き出す者も少なくなかったが、髭だらけの頬から顎へと伝う涙を、恥ずかしいとは誰も思わなかった。
上様の代替わりによる数年ぶりの御赦免船が、八丈から三宅島、そして新島を経て今まさに江戸に着こうとしていた。
生き地獄さながらだった流人暮らしの間、夢にまで見た江戸が目の前にあるのだ。島送りになるような
だが清次だけは違った。帰りたい気持ちは誰にも負けない筈だったが、その江戸の町を見た途端に胸が悪くなった。
それだけではない、胃の辺りもぎゅっと締め付けられ、軽い吐き気までしてきた。
青い顔をして屈み込む清次に真っ先に気づいたのは、島でもずっと一緒だった安平だった。
「どうしたい、お江戸のこんな目と鼻の先まで来て船に酔ったとか言うんじゃねえだろうな?」
「いや、そうじゃねえ」
清次は整った顔を僅かに和らげ、片頬に笑みを作る。
「お江戸が見えたらな、何やら怖くなっちまって」
「怖い? わからねえな。これで天下晴れて自由の身になれる、っていうのによ」
そうだろうなと、清次も腹の中で思った。もう一度江戸の土を踏めたらその場で死んでも良いと、清次自身つい先刻まで思っていたのだ。
「ヤスさんには、迎えてくれるお人が江戸に大勢いるんだろ?」
「まあな」
その時のことを思い浮かべてか、安平は顎の辺りを締まりなく緩めた。
事実島に居た間も、安平には米やら味噌やら油やら様々なものが、江戸の縁者らから絶えず送られて来ていた。
そうした流人の縁者からの差し入れを、見届物という。
「おれは違うんだ、おれが帰っても喜んでくれる者なんざ誰も居やしねえ」
「そんなこたぁねえさ、清の字だって木の股から生まれたわけじゃあるめえ?」
「親兄弟も居るこたぁ居るが、親子の縁などとっくに切られてまさ」
三宅島に居た十二年の間、清次のもとには見届物どころか手紙の一通すら届いたためしのないことは、安平も知っている筈だ。
「そのまま島でくたばっちまえばいい。おれなんざ、皆にそう思われてるに違えねえのさ」
安平は一瞬言葉に詰まり、清次の肩に軽く手を置き慰め顔で囁くように語りかけた。
「まあそう言うな。血は水より濃い、って言うじゃねえか。船が着いてみりゃ親兄弟が揃って待っていて、涙のご対面というやつになるかも知れねえぜ?」
清次は唇を強く結び、安平の方には目を向けようともしない。
「
苦笑する安平に、清次の苛立ちはさらに募った。
「ヤスさんにはわからねえのだ」
御赦免を望まぬ流人など居ないが、大半はそのまま島で野垂れ死んでいた。
清次たち流人にとって、御赦免とは文字通り夢なのだ。
だからこそ島で思うのはただ江戸に帰ることだけで、その後のことなど殆ど何も考えてなかった。
その江戸が波の遥か向こうに見えたたった今、これから先もそこで生きて行かねばならぬ現実に気づいて、清次は膝の力が抜けるほど恐ろしくなった。
昔の
その清次の気持ちを、安平も何となく判ったのかどうか。
「まあな、世間ってぇやつは、一度でもぐれた者にゃ冷てえからな」
安平は一人で頷いた後で、清次の耳元に口を寄せた。
「もし戻ってどこにも行き場が無かったら、おれンとこに来て草鞋を脱げ。親分にも口をきいてやるからよ」
この安平はのっぺりとした顔で人当たりも良く、ちょっと見には堅気の職人か何かのようだ。しかし島に流されるまでは、本所の二ツ目橋から南を縄張りにする弥勒の三五郎一家のやくざだった。
黙って見返す清次に、安平は薄い唇を裂くように開いてにたりと笑いかけた。
「おめぇは
しかしそれこそ、清次が最も恐れていたことだった。
御赦免船などと言われるが、島の流人を江戸に帰す為だけに船を一艘仕立てるゆとりなどある筈も無かった。それで伊豆七島の産物を江戸に運ぶ、勘定奉行の支配下の春と夏と秋の年に三度の交易船に、流人らも便乗させていた。
島から戻る船が行き着く先は鉄砲洲の伊豆七島物産売捌所、普段は島会所と呼ばれている所だが、その前に永代橋の船番所に寄り、御赦免になった流人たちはそこで船を下ろされた。
永代橋は清次の記憶にあるより更に長く、遥かに高かった。そしてその下を、荷を山積みにした数え切れないほどの大小の船が行き交っている。
永代橋の上を行き交う人の数のあまりの多さに、清次は目眩すら覚えた。
知らせを受けて待っていたのだろう、船番所と道を隔てる柵の向こうの永代橋広小路には、御赦免になった流人の身内や縁者らしい者らが寄り集まって、船を下りる者たちの顔を食い入るように見つめている。
安平にはああ言ったものの、清次は我知らずその中に知った顔を目で捜していた。
昔の自分が馬鹿で屑でどうしようもない悪太郎で、いっそ死んでくれた方が皆の為と身内にも思われていることくらい、自分でもよくわかっている。わかってはいるのだが、もしや誰か迎えに来てくれるのではと期待してしまう気持ちはどうしようもない。
そしてなまじ望みを抱いてしまうから、後の落胆がより大きなものになる。
一緒に船を下りた者らは、船番所の柵の外の人だかりの中に見知った顔を見つけては、顔をくしゃくしゃにして手を振った。そして船手頭と南北両町奉行所から出向いた与力らが、解き放つ前に御赦免下知状に書かれているのが当人に相違ないかを確かめるのももどかしく、迎えに来た縁者のもとに駆け寄った。
再び生きて会えぬものと覚悟していたのだ、永代橋を行き交う者の目も恥じずに手を取り合い、あちこちで固く抱き合う姿が見られた。
おそらく母親なのだろう、髪に既に白いものが混じりかけている男の両頬を皺だらけの手で挟み、噎び泣きながらその顔を確かめる老婆もいた。
「兄貴、長らくお疲れさまでした、よくお帰りになりましたッ」
一目でその筋の者とわかる、弥勒の字を染め抜いた印半纏の若い者らが道端にずらりと並んで深々と頭を下げ、それに軽く頷きながら薄い笑みで応えているのはあの安平だ。
清次はそれらを、木偶のように突っ立ってただ眺めていた。
誰も来てくれやしねえって、ちゃんと覚悟してた筈じゃねえか。
いくら己にそう言い聞かせても、喉の奥から酸っぱいものが込み上げて来て胸が苦しくなってくる。
「うむ、何処なりとも行くが良い」
御赦免下知状を改めた与力に促されて、清次は柵の外の道にのろのろと出た。
広い道の向こうで組の若い衆に囲まれていた安平はその姿を目に留め、こっちへ来ねえと手を振った。
気づかぬふりをして逃げるように立ち去りかけた清次の前に、近くの町屋の影に身を潜めていた男が立ち塞がる。
「おい、どの面さらして戻って来やがったッ」
語気こそ鋭いものの、男は背丈も低いし顔立ちにもどこといった特徴もなく、折り畳んだ縹色の前掛けを手に持って、どこにでも居る冴えないお店者にしか見えなかった。年の頃は清次と同じで、三十を少し過ぎたといったところか。
その男に見覚えはまるで無かった、しかし人から恨まれる覚えなら幾らでもある清次だ。
島送りになる前のおれは、どうしようもなく非道い奴だった。その事はよくわかっているし深く恥じているから、清次は深く頭を下げた。
土下座して詫びろと言うならそうするし、それで少しでも気が済むなら殴ってくれても構わない。清次は本気でそのつもりでいた。
その清次に、男はすり足で歩み寄る。
「お上が赦したって関係ない、わたしは知るもんかッ」
食いしばった歯の間から声を絞り出し、折り畳んだ前掛けの間にスッと右の手を差し込んだ。
が、その中のものを抜き出す前に、気づいて様子を見ていた与力の一人が行く手を遮り、同時に男の利き手を抑えた。
続いて船番所からばらばら飛び出してきた他の与力や御船手組の侍に、男はたちまち囲まれて取り押さえられる。
その与力らの一人が、男の腕を捩り上げたまま振り返って清次に怒鳴った。
「馬鹿ッ、早う行かぬか!」
その鋭い声に、清次は背に鞭を当てられたように急ぎ足で人込みの中に姿を消した。