第17話
文字数 8,403文字
程なく年が明け、清次も伊勢崎屋の家族と新年を迎えた。
誰彼となくおめでとうと祝い合い、屠蘇を飲む。そして皆と笑顔で雑煮を食ううちに獅子舞の囃子が近づいて来るのが聞こえて来て、おれは何て幸せなのだろうと清次は心から思った。
こんな正月が迎えられようとは、島にいた頃には夢にも思っていなかった。
清次は遠慮して留守番をしていると言ったのだが、伊勢崎屋の家の者たちに、恵方詣に一緒に行こうと手を引かれるようにして連れて行かれる。
向かった先は南森下町の深川神明宮で、一行は新大橋の手前のまで大川に沿って行き、深川元町の角で折れて六間堀を渡って神明宮に向かったが、途中の万年橋を渡ったところでお美代がふと足を止めた。
「お願い、ちょっと待ってて」
それだけ言うとお美代は、橋の袂のあの小さな稲荷神社に小走りに駆けて行く。そして手を合わせ、何やら一心に祈り始めた。
あの時のことを思い出して清次もその後に続き、賽銭をおさめ鈴を鳴らして並んで手を合わせた。
その清次に顔を向け、お美代はちらりと笑いかける。
「何をお願いしたの?」
「お願いしたんじゃありやせん、ここでお嬢さんに引き合わせて下さったお礼を申し上げたんでさ」
眩しげな目を向ける清次に、お美代の笑顔はさらに明るくなった。
「同じだ、あたしも清さんと会わせてくれてありがとう、って言ってたの」
元日は店も閉めて身内だけでのんびりと過ごしたが、その身内の中に自分も数えられていることが、清次は嬉しくて幸せでならなかった。
この店の皆の為なら、どんな苦しい仕事だって笑ってやり通して見せられるぜ。
友五郎やお美代に勧められるまま酒を飲みお節料理をつつきながら、改めてそう思う清次だ。
ただ二日の年始の挨拶に森田屋は来ず、こちらからもあえて行かず、その事に伊勢崎屋の誰も触れようとはしなかった。
森田屋の仕事が無くなっても痛くも痒くもないとまでは言わないが、それくらいで屋台骨が揺らぐような伊勢崎屋ではない。
ただ暫く経つうち、友五郎はこれは容易なことではないぞと思い始めた。
伊勢崎屋の仕事は、年が明けてからは新川と新堀の河岸に続々と着く上方の新酒の荷揚げが多くなる。しかし長い付き合いのある酒問屋の中に、伊勢崎屋に荷を任せるのを渋る店が出てきたのだ。
伊丹屋藤兵衛もその一人で、挨拶に行った友五郎に、今年もお前さんのとこに荷を任せてもいいが条件があると言い出した。
「聞くところによると伊勢友さん、お前さんとこの人足には随分と質 の悪い奴がいるそうじゃないか。島帰りだなんて勘弁しておくれよ、そんな恐ろしい人間にうちの荷を触らせるのは」
「清次のことですかい? 奴なら大丈夫だ、誰よりよく働くし人柄も信用がおけると、この伊勢崎屋友五郎が太鼓判を押しまさ」
が、友五郎がそう言い切っても藤兵衛は頷こうとはしない。
「いや、それはどうだろうなあ」
「まさか伊丹屋さん、わっしの人を見る目が曇っているとでも?」
「そうは言わないが、清次って男がどんな酷いことをして来たか、わざわざ教えに来てくれたお人がいてね。話を聞いただけで、わたしは胸が悪くなってしまったよ」
「つまりわっしの言葉より、その誰だかが言うことの方を信じるって言うんですかい?」
「だって相手は、昔その清次をお縄にしたっていう御用聞きだよ、それに一緒に来たもう一人の若い人の話だって、とても嘘とは思えなかった」
あんまり酷い話で、わたしは思わず貰い泣きするところだった。藤兵衛はそう言うと、友五郎を責めるような目で見て首を振る。
「清次って奴とお前さんとこの娘は、近ごろ妙に良い仲だって言うじゃないか。それで森田屋さんとの縁談まで蹴ったんだってね」
いやそうじゃねえと言いかけて、友五郎は後の言葉を飲み込んだ。友五郎から見れば順序も中身も違うが、結果的にはそうとられても仕方ないのもわかる。
悔しいが、言えば言うほど言い訳がましく聞こえるだけと思って堪えている友五郎に、藤兵衛はさらに追い討ちをかけた。
「わたしだってそこまでは思っちゃないよ。けど伊勢友さんが贔屓にしてる島帰りはつい最近も押し込みを働いて、それを娘可愛さで目が眩んだ友五郎さんが金にものを言わせてもみ消した……って噂まであるくらいでね」
どうやら伊賀町の重蔵と堀川屋の佐吉は新川と新堀の酒問屋を片っ端から回ったようで、噂はたちまち河岸の問屋に広がって行った。これまで懇意にして来た幾つもの問屋から、友五郎は同じように清次を追い出すなり、仕事から外すなりするよう求められた。
「そんな物騒な奴に蔵の中まで見られて、うちまで押し込みでも入られちゃたまりませんからね」
友五郎はその度に、本当のことをぶちまけてしまいたくてならなかった。それを知れば男だろうが女だろうが、誰だって清次の男気に惚れてしまうに違いないと思うのだ。
しかしそれをすると、せっかく清次が体を張って守ろうとした徹太のこの先を台なしにしてしまう事になる。
だから友五郎は下っ腹に力を込めて、伊丹屋や他の問屋連中の言いたい放題に耐えた。
「おとっさんの言うことはわかるよ、けどおれは伊丹屋の親爺、どうにも許せねえやッ」
若い義太郎などは今にも伊丹屋に殴り込みでもかけかねない勢いで、おかげで友五郎の頭は逆に冷えてきた。
「いいんだ、まあそうかっかするなって」
「おとっさんは腹が立たねえのかい?」
「そりゃあ腸が煮え繰り返りそうさ」
「だったら……」
「まあ聞け、おれは今度のことは何も悪いことばかりじゃねえと気づいたのよ。上辺の付き合いしか出来ねえ当てにならない奴が誰で、心からおれを信じてくれているほんとの味方が誰か、おかげで白黒はっきりついたからな」
それに何軒もの顧客を失ったのはかなり痛手ではあったが、まだ伊勢崎屋の屋台骨が揺らぐというほどでは無い。
友五郎が差しで心を尽くして話せば、
「伊勢友さんがそこまで言うんだ、とりあえず信じて様子を見てみようじゃないか」
そう言ってくれる問屋の方が、全体で見れば明らかに多かった。
清次の働きぶりを見てくれさえすれば、重蔵や佐吉が言うような酷い奴じゃないと必ずわかって貰える筈だ。友五郎は心からそう信じていた。
とは言うものの、友五郎もただ皆の空気が変わるのを待っていたわけでは無い。ことの経緯は加賀町の与吉にも直ぐに知らせておいたし、自分でも重蔵や佐吉を見かけたら剣突の一つも食わせてやるつもりでいた。
話を聞かされた与吉も他所の目明かしに縄張りを踏み荒らされて面白い筈も無く、早速新川や新堀の河岸に足を運んで重蔵の野郎がうろついてないか見て回った。
その読み通り、与吉は新川の一ノ橋を南に渡って直ぐに、地廻りの酒を扱う問屋から出て来る重蔵を見た。
「おう伊賀町の、ちょいと待ってくんな」
「これはこれは、加賀町の親分じゃねえか」
大きな鼻の下の唇をねじ曲げるようにして笑うぎょろ目の重蔵に、与吉は思わず渋い顔になる。笑うと余計に人を不愉快にさせるような野郎など、与吉はこの重蔵の他に見たことが無い。
「なあ、ここはおめえさんの縄張りじゃねえだろう。おれ達にだって仁義ってもんがあるのだ、人の縄張りに土足で踏み込むような真似は止めて貰おうか」
「見てみろ」
重蔵は鼻で嗤うと懐を軽く叩き、着物の前も少し広げて十手を持っていないのを見せた。
「御用の筋で来て何かしたんなら、おめえさんに文句を言われても仕方ねえ。ただおれは、ちょいと世間話に来てるまでよ。それとも何かい、十手持ちはてめえの縄張りの外に一歩出るにも、いちいち土地 の親分さんに断りを入れにゃならねえ……って言うのかい?」
屁理屈とは思うが筋だけは通っているから、悔しいが与吉も直ぐには言い返せない。
それを見て取った重蔵は、厭らしいにやにや笑いを顔中に広げてさらに言った。
「縄張りだの仁義だのと言うがよ、そのおめえさんの縄張りの深川は永代橋の向こうで、この霊岸島は違う筈じゃあねえのかい?」
こちらの親分さんに仁義とやらは通してあるのかいと、重蔵は厭味な口調でねっとりと言う。
重蔵って奴は何てこう人の弱い尻ばかり突けるのだろうと、与吉も呆れるばかりだ。だがどれほど厭な野郎でも同じ人間なのだ、腹を割って話せば少しは気持ちが通じるのではと望みをかけてみる。
「なあ、昔はどうあろうと清次の奴は心を入れ替えて真人間になったのだ。もういい加減で許してやったらどうだ?」
が、重蔵は嘲るような笑みを浮かべて首を振る。
「真人間だと? こいつは笑わせる、おめえさん、十手を預かっていってぇ何年になるよ? 毒虫は死ぬまで毒虫で、見つけたら直ぐ踏み潰すのが世の為人の為だって、何でわからねえかな」
「そうか。どうあっても清次に付きまとうのを止めねえ、って言うのだな?」
答える代わりに唇をまた捩ってにたりとし、擦れ違いざまに肩を軽くぶつけて重蔵は一ノ橋の向こうに歩き去って行った。
清次を理由に幾つかの問屋から仕事を切られていることは、お美代も聞いて知っていた。
それだけに清次の帰りが普段よりちょっとでも遅くなると、お美代は堪らなく不安になった。自分が居てはお店に迷惑になると思い詰めて、またいつかのように伊勢崎屋から消えてしまおうとするのではと思うと、外に様子を見に行かずにはいられなくなる。
「あっしはちゃんと帰って来やす、それに夕暮れ時に外に出るのは物騒だからお止しなさい」
清次はそう窘めるのだが、お美代は聞かない。
「いいのよ、あたしが迎えに行きたいんだから。それに外に出るったって近所だし大丈夫よ、最近は日も前より長くなって来てるし」
そして日課のように迎えに出たある日、お美代は油堀が大川に注ぐ下ノ橋の袂に座り込んでいる清次を見た。
地べたに両手を付いて頭を下げている清次の前には、三十になるかならないかの冴えないお店者風の男がいて、近づくお美代に憐れむような目を向けた。
「あんたかい、この屑にたらし込まれてるお嬢さんってのは」
のっけからそんな風に言われれば、お美代だってかちんと来ない筈がない。
「言っておくけど清さんは屑なんかじゃないし、たらし込むだなんて厭らしい言い方しないで!」
いつも纏わりついているのはむしろ自分の方で、喜んでいいのかどうか、清次は自分に指一本触れようとしないと自信を持って言えるから、何だか余計に腹が立ってくる。
「あなたね、清さんを苛めて悪口を言い触らしてる底意地の悪い厭な人ってのは」
「お嬢さんは何も知らないからそんな事が言えるんだ、こいつは人間なんかじゃない、人を痛め付けることと女を手籠めにすることしか頭に無い人の皮を被った獣だよ」
「そんな事ないッ、清さんの良いとこ、あたしいっぱい知ってんだから!」
厭な事ばかり言う口元をひっぱたいてやりたいくらいの思いで、お美代は目の前の貧相な小男を睨みつけた。
その佐吉は屁とも思わぬ顔で、お美代の顔と体を無遠慮に眺め回す。
「なあ清次、死んだお志津もこのお嬢さんと同じくらいの年頃だったよなあ? そのわたしの妹に何をしたか、このお嬢さんにお前から話してやったらどうだい?」
「申し訳ねえッ、許してくれ!」
地べたに額を打ち付けた後、清次は必死の思いを籠めた目で佐吉を見上げた。
「それで許してくれるんなら、おれは死んだっていい」
お美代は一瞬息を飲み、佐吉はせせら笑って首を振った。
「馬鹿を言うんじゃないよ、それでお志津が生きて帰って来るのかい?」
「いや、それは……」
「わかるだろ? ただ死なれたくらいじゃ、あいこにもなりゃしないんだよ」
清次は低く呻いて頭を垂れる。
「ねえ、だったら一体どうしたら許してくれるってわけ?」
たまりかねて口を挟んだお美代に、佐吉は氷より冷たい声で即座に答えた。
「許すなんてどうされたって無理だね、こいつが死ぬまでずっと苦しむのがわたしの望みさ」
「苦しんでるわよッ」
その様子をお美代は直に見て知っているから、つい大声になる。
「後悔して苦しんで、ほんと死んじゃうんじゃないかと思ったんだから!」
「そりゃあ良かった」
人の温かさなど微塵もない冷えた目で、佐吉は肩を震わせて呻き続ける清次を見下ろした。
「けどまだ全然足りないよ、もっともっと苦しんでおくれな」
安彦 屋は十年来の付き合いの新堀河岸の醤油問屋で、重蔵らの厭がらせにもかかわらず前と同じように伊勢崎屋に荷を任せてくれていた。
その安彦屋の主と荷揚げの打ち合わせをして帰って来た友五郎は、店の中を見回して小首を傾げた。
「お美代は居ねえのかい?」
居合わせた者らは何となくにやつき、その皆に代わってお稲が御馳走様だと言いたげな顔で答える。
「例のお出迎えですよ。清さんが遅い、どうしたんだろう……って」
友五郎も苦笑いで応えるしかないが、振り返ると外はすっかり暗くなっていた。
迎えに出た者をさらに迎えに行くなど間の抜けた話だが、このまま放ってもおけまいと思いかけた頃、二人はようやく戻って来た。仲良く話し込んでいるうちに遅くなったのかと見れば、どうもそうでは無いようで、清次は肩を落としてひどく青い顔をしているし、お美代の方は何やら腹を立てているようだ。
「どうした、喧嘩でもしたのかい」
声をかけた友五郎を、お美代はものも言わずに店の隅に引っ張って行った。そして声を潜め、例の佐吉に絡まれて何を言われたか話した。
そうか、それでかと合点も行ったし、聞いているうちに友五郎も腹が立ってきた。おれがそこに居ればその野郎を叱り飛ばしてやったのだがと思いつつ、代わりに清次の肩を励ますように叩く。
「災難だったな清次、世の中にゃ馬鹿や頭のおかしい奴がいるものだからそう気に病むな」
が、清次は虚ろな目のまま首を振った。
「あの佐吉って人の言う通りでさ、やっぱりおれは生きてちゃいけなかったんだ。何であのままお奉行所に突き出して、テツの代わりに死なせてくれなかったんでさ」
「馬鹿野郎ッ、おめえの為にどれだけの人間が一生懸命になってると思ってんだ!」
友五郎に胸倉を掴まれて揺さぶられ、清次の体がゆらゆら傾く。
「わかってやす、ありがてえと思ってやす。けど昔のことを思うと、あっしなんか生きてちゃいけねえ屑野郎としか思えないんでさ」
「それは違うぜ清次、死んだ方がいい人間なんて、世の中に一人も居やしねえんだ」
そう言われて、清次はようやく目を上げた。
「本当にそう思いやすか? あっしなんかが生きてても、本当に構わねえんですかい?」
「当たり前だ」
合わせた目を逸らさずに、友五郎は力強く頷いた。
「過去 がどうあろうと、おめえは島で綺麗な体になって帰って来たんじゃねえか。何も恥じることはねえさ。おめえは今までみてえに、ただ懸命に働いていればいい」
「ほんとにそれでいいんですかい?」
「そうともさ、懸命に働くのが罪を償うってことなんだよ。そうすれば世の中の皆さんだって、いつか必ずわかってくださるさ」
おめえは胸を張って生きて構わねえのだ。清次の目の奥を見て、友五郎は力強くそう繰り返した。
「あの佐吉って野郎だって、おめえが汗を流して担いだ米や油やいろんなもんを食って生きてんだ。おめえは今だって、ちゃあんと世の中の役に立ってるんだぜ」
その友五郎の言葉に、清次はずっと歩き続けて来た暗い道の先にようやく灯火を見たように思った。そのせいかその夜はうなされる事も無く熟睡し、朝には言われたことを胸の中で繰り返しながら、これまで以上に働くつもりで河岸に向かった。
が、店に残ったお美代の表情はどうも冴えない。
「清さんが島送りになったわけって、前から噂はいろいろ耳にしてたんだけど」
お美代は周りに家族以外の者が居ない時を見計らって、友五郎に思い詰めたような目を向けた。
「ね、人を殺しただの女の人に酷いことしただのって、そんな事あるわけ無いよね?」
「うん、おれもずっとそう思ってたのだ。だってもし清次が本当に人殺しなら、野郎はまず間違いなく死罪になっている筈だからな」
話を傍らで聞いていたお稲も、あたしもそう思うと頷いた。
「それに清次はあれだけいい男なんだし、わざわざ手籠めになんかしなくたって、抱かれたいって女は掃いて捨てるほどいた筈だと思うけど」
あけすけな言い方に顔を顰めつつ、友五郎もお稲の言う通りだと思った。
「女の中にはさ、男なんかよりずっとしたたかなのがいるからね。自分から体で迫って一度でも手を出されたら、それを良いことに女房面してべったり離れない悪い女がさ」
大きく頷きながら、芸者上がりのおめえが言うと重みが違うと心で思いつつ口には出せない友五郎だ。
「佐吉とか言う人の妹ってのはさ、きっと望み通り清次に手を出されたんだけど女房にはして貰えなくて、それで悲観して……ってとこじゃないかしら」
「ただ兄貴にしてみりゃ妹は可愛いし、清次一人を悪者にして恨むしか無かったんだろうな」
父と義姉のその話を聞いて、お美代の顔にたちまち血の色が戻ってきた。
「そうよね、きっとそうに違いないわ」
お美代は何度も頷いて、晴れやかな顔で小女をお供にお茶の稽古に出掛けた。
そのお美代を見送った後で、お稲はどこか屈託ありげな顔を友五郎に向けた。
「でも、だとすると清次が島送りにされたわけって、何なんでしょうね?」
そいつはおれにもわからねえ。友五郎はそう断った後で、頭に浮かんだ事を思いつくままに喋った。
「ただ男ってやつは若いうちはとにかく苛々してて、しょっちゅう喧嘩ばかりしてるもんだからな。で、別に殺すつもりもなくただ殴ったら、たまたま当たりどころが悪くて相手が死んじまったみてえな、そんなところじゃねえかな」
「それはそうと、あの二人のことはどうするつもりです?」
「どうする、って?」
わからぬふりをしたものの、そのことを考えるのをずっと避け続けているのは友五郎自身もわかっていた。
「お美代ちゃんが清次にぞっこんなのは、誰の目にもはっきりしてるじゃありませんか」
「で、おめえは何を言いてえ?」
「このまま放っておいてごらんなさい、二人の仲は抜き差しならないものになっちまいますよ」
「そん時は仕方ねえ、因果を含めて野郎にゃ出てって貰うさ」
「そんな事をしてごらんなさい、若い娘なんて特に頭に血が上りやすいから、駆け落ちだの身投げなどされかねませんよ?」
「脅かしっこ無しだぜ、おい」
「玄人の女は肌を許すも何をするのも計算ずくだから、案外わかりやすいものだし打つ手もあるってものです。けど恋に目が眩んだ生娘は、いざとなると何をするかわからないから怖いですよ」
「じゃ、おれにどうしろって言うんだ?」
「どうって、それはお義父 さんが決めることだけれど」
子供のように膨れっ面をする友五郎に苦笑しつつ、お稲は言うべきことはずばりと言った。
「このまま行けば、いずれ夫婦 にするしか無くなるんじゃないですかねえ」
「夫婦だと? おいッ」
「御不満なのはわかりますけれど、父 無し子を孕まれたり駆け落ちされたりするよりまだましでしょう?」
「それはそうだが、野郎は島帰りだぜ?」
「あたしも元は芸者ですけれどね」
言い籠められる形で、友五郎は低く唸った。
店の直ぐ前の仙台堀のちょうど向こうは伊勢崎町で、だから友五郎も土地の者と思われがちだが、実は生まれは上州の伊勢崎近くの駒方村だ。
友五郎はずっと、娘はそれなりの大店に嫁がせたいと思ってきた。だが貧乏百姓の家に生まれて裸一貫から身を起こした己を考えてみれば、家柄だの何だのと言う方が滑稽なのかも知れない。
清次の凄さは友五郎もよくわかっているし、清次のような男が身内になり、義太郎の片腕となって支えてくれれば伊勢崎屋はこの先も万々歳だとわかる。それに可愛い一人娘のお美代をずっと手元に置いておけるというのも、考えてみれば悪くはないように思えてきた。
ただ清次が島帰りだという事に目を瞑れば、であるが。
そもそも口入れ屋など出入りしているのは荒っぽい人間ばかりだし、義太郎はもちろん友五郎だって若い時分には散々暴れもしてきたのだ。だからあまりこだわることもあるまいとは思うものの、いざ娘の婿にするとなると踏ん切りがなかなかつかぬ。
その逡巡を見て取ったお稲に、
「どうです、加賀町の親分さんにお願いして、ほんとのところはどうなのか調べてもらったらどうでしょう?」
そう言われて友五郎は直ぐに頷いた。
「うん、そうだな、話はそれからだ」
島に流された事情によっては、お稲の言う通りにしても良い気になりかけている友五郎だ。或いはお美代にはどれだけ泣かれようと、因果を含めて清次には店から消えて貰うか。
それにもし与吉に助力を乞うなら、清次の為に調べてやりたいことが他に一つあった。
誰彼となくおめでとうと祝い合い、屠蘇を飲む。そして皆と笑顔で雑煮を食ううちに獅子舞の囃子が近づいて来るのが聞こえて来て、おれは何て幸せなのだろうと清次は心から思った。
こんな正月が迎えられようとは、島にいた頃には夢にも思っていなかった。
清次は遠慮して留守番をしていると言ったのだが、伊勢崎屋の家の者たちに、恵方詣に一緒に行こうと手を引かれるようにして連れて行かれる。
向かった先は南森下町の深川神明宮で、一行は新大橋の手前のまで大川に沿って行き、深川元町の角で折れて六間堀を渡って神明宮に向かったが、途中の万年橋を渡ったところでお美代がふと足を止めた。
「お願い、ちょっと待ってて」
それだけ言うとお美代は、橋の袂のあの小さな稲荷神社に小走りに駆けて行く。そして手を合わせ、何やら一心に祈り始めた。
あの時のことを思い出して清次もその後に続き、賽銭をおさめ鈴を鳴らして並んで手を合わせた。
その清次に顔を向け、お美代はちらりと笑いかける。
「何をお願いしたの?」
「お願いしたんじゃありやせん、ここでお嬢さんに引き合わせて下さったお礼を申し上げたんでさ」
眩しげな目を向ける清次に、お美代の笑顔はさらに明るくなった。
「同じだ、あたしも清さんと会わせてくれてありがとう、って言ってたの」
元日は店も閉めて身内だけでのんびりと過ごしたが、その身内の中に自分も数えられていることが、清次は嬉しくて幸せでならなかった。
この店の皆の為なら、どんな苦しい仕事だって笑ってやり通して見せられるぜ。
友五郎やお美代に勧められるまま酒を飲みお節料理をつつきながら、改めてそう思う清次だ。
ただ二日の年始の挨拶に森田屋は来ず、こちらからもあえて行かず、その事に伊勢崎屋の誰も触れようとはしなかった。
森田屋の仕事が無くなっても痛くも痒くもないとまでは言わないが、それくらいで屋台骨が揺らぐような伊勢崎屋ではない。
ただ暫く経つうち、友五郎はこれは容易なことではないぞと思い始めた。
伊勢崎屋の仕事は、年が明けてからは新川と新堀の河岸に続々と着く上方の新酒の荷揚げが多くなる。しかし長い付き合いのある酒問屋の中に、伊勢崎屋に荷を任せるのを渋る店が出てきたのだ。
伊丹屋藤兵衛もその一人で、挨拶に行った友五郎に、今年もお前さんのとこに荷を任せてもいいが条件があると言い出した。
「聞くところによると伊勢友さん、お前さんとこの人足には随分と
「清次のことですかい? 奴なら大丈夫だ、誰よりよく働くし人柄も信用がおけると、この伊勢崎屋友五郎が太鼓判を押しまさ」
が、友五郎がそう言い切っても藤兵衛は頷こうとはしない。
「いや、それはどうだろうなあ」
「まさか伊丹屋さん、わっしの人を見る目が曇っているとでも?」
「そうは言わないが、清次って男がどんな酷いことをして来たか、わざわざ教えに来てくれたお人がいてね。話を聞いただけで、わたしは胸が悪くなってしまったよ」
「つまりわっしの言葉より、その誰だかが言うことの方を信じるって言うんですかい?」
「だって相手は、昔その清次をお縄にしたっていう御用聞きだよ、それに一緒に来たもう一人の若い人の話だって、とても嘘とは思えなかった」
あんまり酷い話で、わたしは思わず貰い泣きするところだった。藤兵衛はそう言うと、友五郎を責めるような目で見て首を振る。
「清次って奴とお前さんとこの娘は、近ごろ妙に良い仲だって言うじゃないか。それで森田屋さんとの縁談まで蹴ったんだってね」
いやそうじゃねえと言いかけて、友五郎は後の言葉を飲み込んだ。友五郎から見れば順序も中身も違うが、結果的にはそうとられても仕方ないのもわかる。
悔しいが、言えば言うほど言い訳がましく聞こえるだけと思って堪えている友五郎に、藤兵衛はさらに追い討ちをかけた。
「わたしだってそこまでは思っちゃないよ。けど伊勢友さんが贔屓にしてる島帰りはつい最近も押し込みを働いて、それを娘可愛さで目が眩んだ友五郎さんが金にものを言わせてもみ消した……って噂まであるくらいでね」
どうやら伊賀町の重蔵と堀川屋の佐吉は新川と新堀の酒問屋を片っ端から回ったようで、噂はたちまち河岸の問屋に広がって行った。これまで懇意にして来た幾つもの問屋から、友五郎は同じように清次を追い出すなり、仕事から外すなりするよう求められた。
「そんな物騒な奴に蔵の中まで見られて、うちまで押し込みでも入られちゃたまりませんからね」
友五郎はその度に、本当のことをぶちまけてしまいたくてならなかった。それを知れば男だろうが女だろうが、誰だって清次の男気に惚れてしまうに違いないと思うのだ。
しかしそれをすると、せっかく清次が体を張って守ろうとした徹太のこの先を台なしにしてしまう事になる。
だから友五郎は下っ腹に力を込めて、伊丹屋や他の問屋連中の言いたい放題に耐えた。
「おとっさんの言うことはわかるよ、けどおれは伊丹屋の親爺、どうにも許せねえやッ」
若い義太郎などは今にも伊丹屋に殴り込みでもかけかねない勢いで、おかげで友五郎の頭は逆に冷えてきた。
「いいんだ、まあそうかっかするなって」
「おとっさんは腹が立たねえのかい?」
「そりゃあ腸が煮え繰り返りそうさ」
「だったら……」
「まあ聞け、おれは今度のことは何も悪いことばかりじゃねえと気づいたのよ。上辺の付き合いしか出来ねえ当てにならない奴が誰で、心からおれを信じてくれているほんとの味方が誰か、おかげで白黒はっきりついたからな」
それに何軒もの顧客を失ったのはかなり痛手ではあったが、まだ伊勢崎屋の屋台骨が揺らぐというほどでは無い。
友五郎が差しで心を尽くして話せば、
「伊勢友さんがそこまで言うんだ、とりあえず信じて様子を見てみようじゃないか」
そう言ってくれる問屋の方が、全体で見れば明らかに多かった。
清次の働きぶりを見てくれさえすれば、重蔵や佐吉が言うような酷い奴じゃないと必ずわかって貰える筈だ。友五郎は心からそう信じていた。
とは言うものの、友五郎もただ皆の空気が変わるのを待っていたわけでは無い。ことの経緯は加賀町の与吉にも直ぐに知らせておいたし、自分でも重蔵や佐吉を見かけたら剣突の一つも食わせてやるつもりでいた。
話を聞かされた与吉も他所の目明かしに縄張りを踏み荒らされて面白い筈も無く、早速新川や新堀の河岸に足を運んで重蔵の野郎がうろついてないか見て回った。
その読み通り、与吉は新川の一ノ橋を南に渡って直ぐに、地廻りの酒を扱う問屋から出て来る重蔵を見た。
「おう伊賀町の、ちょいと待ってくんな」
「これはこれは、加賀町の親分じゃねえか」
大きな鼻の下の唇をねじ曲げるようにして笑うぎょろ目の重蔵に、与吉は思わず渋い顔になる。笑うと余計に人を不愉快にさせるような野郎など、与吉はこの重蔵の他に見たことが無い。
「なあ、ここはおめえさんの縄張りじゃねえだろう。おれ達にだって仁義ってもんがあるのだ、人の縄張りに土足で踏み込むような真似は止めて貰おうか」
「見てみろ」
重蔵は鼻で嗤うと懐を軽く叩き、着物の前も少し広げて十手を持っていないのを見せた。
「御用の筋で来て何かしたんなら、おめえさんに文句を言われても仕方ねえ。ただおれは、ちょいと世間話に来てるまでよ。それとも何かい、十手持ちはてめえの縄張りの外に一歩出るにも、いちいち
屁理屈とは思うが筋だけは通っているから、悔しいが与吉も直ぐには言い返せない。
それを見て取った重蔵は、厭らしいにやにや笑いを顔中に広げてさらに言った。
「縄張りだの仁義だのと言うがよ、そのおめえさんの縄張りの深川は永代橋の向こうで、この霊岸島は違う筈じゃあねえのかい?」
こちらの親分さんに仁義とやらは通してあるのかいと、重蔵は厭味な口調でねっとりと言う。
重蔵って奴は何てこう人の弱い尻ばかり突けるのだろうと、与吉も呆れるばかりだ。だがどれほど厭な野郎でも同じ人間なのだ、腹を割って話せば少しは気持ちが通じるのではと望みをかけてみる。
「なあ、昔はどうあろうと清次の奴は心を入れ替えて真人間になったのだ。もういい加減で許してやったらどうだ?」
が、重蔵は嘲るような笑みを浮かべて首を振る。
「真人間だと? こいつは笑わせる、おめえさん、十手を預かっていってぇ何年になるよ? 毒虫は死ぬまで毒虫で、見つけたら直ぐ踏み潰すのが世の為人の為だって、何でわからねえかな」
「そうか。どうあっても清次に付きまとうのを止めねえ、って言うのだな?」
答える代わりに唇をまた捩ってにたりとし、擦れ違いざまに肩を軽くぶつけて重蔵は一ノ橋の向こうに歩き去って行った。
清次を理由に幾つかの問屋から仕事を切られていることは、お美代も聞いて知っていた。
それだけに清次の帰りが普段よりちょっとでも遅くなると、お美代は堪らなく不安になった。自分が居てはお店に迷惑になると思い詰めて、またいつかのように伊勢崎屋から消えてしまおうとするのではと思うと、外に様子を見に行かずにはいられなくなる。
「あっしはちゃんと帰って来やす、それに夕暮れ時に外に出るのは物騒だからお止しなさい」
清次はそう窘めるのだが、お美代は聞かない。
「いいのよ、あたしが迎えに行きたいんだから。それに外に出るったって近所だし大丈夫よ、最近は日も前より長くなって来てるし」
そして日課のように迎えに出たある日、お美代は油堀が大川に注ぐ下ノ橋の袂に座り込んでいる清次を見た。
地べたに両手を付いて頭を下げている清次の前には、三十になるかならないかの冴えないお店者風の男がいて、近づくお美代に憐れむような目を向けた。
「あんたかい、この屑にたらし込まれてるお嬢さんってのは」
のっけからそんな風に言われれば、お美代だってかちんと来ない筈がない。
「言っておくけど清さんは屑なんかじゃないし、たらし込むだなんて厭らしい言い方しないで!」
いつも纏わりついているのはむしろ自分の方で、喜んでいいのかどうか、清次は自分に指一本触れようとしないと自信を持って言えるから、何だか余計に腹が立ってくる。
「あなたね、清さんを苛めて悪口を言い触らしてる底意地の悪い厭な人ってのは」
「お嬢さんは何も知らないからそんな事が言えるんだ、こいつは人間なんかじゃない、人を痛め付けることと女を手籠めにすることしか頭に無い人の皮を被った獣だよ」
「そんな事ないッ、清さんの良いとこ、あたしいっぱい知ってんだから!」
厭な事ばかり言う口元をひっぱたいてやりたいくらいの思いで、お美代は目の前の貧相な小男を睨みつけた。
その佐吉は屁とも思わぬ顔で、お美代の顔と体を無遠慮に眺め回す。
「なあ清次、死んだお志津もこのお嬢さんと同じくらいの年頃だったよなあ? そのわたしの妹に何をしたか、このお嬢さんにお前から話してやったらどうだい?」
「申し訳ねえッ、許してくれ!」
地べたに額を打ち付けた後、清次は必死の思いを籠めた目で佐吉を見上げた。
「それで許してくれるんなら、おれは死んだっていい」
お美代は一瞬息を飲み、佐吉はせせら笑って首を振った。
「馬鹿を言うんじゃないよ、それでお志津が生きて帰って来るのかい?」
「いや、それは……」
「わかるだろ? ただ死なれたくらいじゃ、あいこにもなりゃしないんだよ」
清次は低く呻いて頭を垂れる。
「ねえ、だったら一体どうしたら許してくれるってわけ?」
たまりかねて口を挟んだお美代に、佐吉は氷より冷たい声で即座に答えた。
「許すなんてどうされたって無理だね、こいつが死ぬまでずっと苦しむのがわたしの望みさ」
「苦しんでるわよッ」
その様子をお美代は直に見て知っているから、つい大声になる。
「後悔して苦しんで、ほんと死んじゃうんじゃないかと思ったんだから!」
「そりゃあ良かった」
人の温かさなど微塵もない冷えた目で、佐吉は肩を震わせて呻き続ける清次を見下ろした。
「けどまだ全然足りないよ、もっともっと苦しんでおくれな」
その安彦屋の主と荷揚げの打ち合わせをして帰って来た友五郎は、店の中を見回して小首を傾げた。
「お美代は居ねえのかい?」
居合わせた者らは何となくにやつき、その皆に代わってお稲が御馳走様だと言いたげな顔で答える。
「例のお出迎えですよ。清さんが遅い、どうしたんだろう……って」
友五郎も苦笑いで応えるしかないが、振り返ると外はすっかり暗くなっていた。
迎えに出た者をさらに迎えに行くなど間の抜けた話だが、このまま放ってもおけまいと思いかけた頃、二人はようやく戻って来た。仲良く話し込んでいるうちに遅くなったのかと見れば、どうもそうでは無いようで、清次は肩を落としてひどく青い顔をしているし、お美代の方は何やら腹を立てているようだ。
「どうした、喧嘩でもしたのかい」
声をかけた友五郎を、お美代はものも言わずに店の隅に引っ張って行った。そして声を潜め、例の佐吉に絡まれて何を言われたか話した。
そうか、それでかと合点も行ったし、聞いているうちに友五郎も腹が立ってきた。おれがそこに居ればその野郎を叱り飛ばしてやったのだがと思いつつ、代わりに清次の肩を励ますように叩く。
「災難だったな清次、世の中にゃ馬鹿や頭のおかしい奴がいるものだからそう気に病むな」
が、清次は虚ろな目のまま首を振った。
「あの佐吉って人の言う通りでさ、やっぱりおれは生きてちゃいけなかったんだ。何であのままお奉行所に突き出して、テツの代わりに死なせてくれなかったんでさ」
「馬鹿野郎ッ、おめえの為にどれだけの人間が一生懸命になってると思ってんだ!」
友五郎に胸倉を掴まれて揺さぶられ、清次の体がゆらゆら傾く。
「わかってやす、ありがてえと思ってやす。けど昔のことを思うと、あっしなんか生きてちゃいけねえ屑野郎としか思えないんでさ」
「それは違うぜ清次、死んだ方がいい人間なんて、世の中に一人も居やしねえんだ」
そう言われて、清次はようやく目を上げた。
「本当にそう思いやすか? あっしなんかが生きてても、本当に構わねえんですかい?」
「当たり前だ」
合わせた目を逸らさずに、友五郎は力強く頷いた。
「
「ほんとにそれでいいんですかい?」
「そうともさ、懸命に働くのが罪を償うってことなんだよ。そうすれば世の中の皆さんだって、いつか必ずわかってくださるさ」
おめえは胸を張って生きて構わねえのだ。清次の目の奥を見て、友五郎は力強くそう繰り返した。
「あの佐吉って野郎だって、おめえが汗を流して担いだ米や油やいろんなもんを食って生きてんだ。おめえは今だって、ちゃあんと世の中の役に立ってるんだぜ」
その友五郎の言葉に、清次はずっと歩き続けて来た暗い道の先にようやく灯火を見たように思った。そのせいかその夜はうなされる事も無く熟睡し、朝には言われたことを胸の中で繰り返しながら、これまで以上に働くつもりで河岸に向かった。
が、店に残ったお美代の表情はどうも冴えない。
「清さんが島送りになったわけって、前から噂はいろいろ耳にしてたんだけど」
お美代は周りに家族以外の者が居ない時を見計らって、友五郎に思い詰めたような目を向けた。
「ね、人を殺しただの女の人に酷いことしただのって、そんな事あるわけ無いよね?」
「うん、おれもずっとそう思ってたのだ。だってもし清次が本当に人殺しなら、野郎はまず間違いなく死罪になっている筈だからな」
話を傍らで聞いていたお稲も、あたしもそう思うと頷いた。
「それに清次はあれだけいい男なんだし、わざわざ手籠めになんかしなくたって、抱かれたいって女は掃いて捨てるほどいた筈だと思うけど」
あけすけな言い方に顔を顰めつつ、友五郎もお稲の言う通りだと思った。
「女の中にはさ、男なんかよりずっとしたたかなのがいるからね。自分から体で迫って一度でも手を出されたら、それを良いことに女房面してべったり離れない悪い女がさ」
大きく頷きながら、芸者上がりのおめえが言うと重みが違うと心で思いつつ口には出せない友五郎だ。
「佐吉とか言う人の妹ってのはさ、きっと望み通り清次に手を出されたんだけど女房にはして貰えなくて、それで悲観して……ってとこじゃないかしら」
「ただ兄貴にしてみりゃ妹は可愛いし、清次一人を悪者にして恨むしか無かったんだろうな」
父と義姉のその話を聞いて、お美代の顔にたちまち血の色が戻ってきた。
「そうよね、きっとそうに違いないわ」
お美代は何度も頷いて、晴れやかな顔で小女をお供にお茶の稽古に出掛けた。
そのお美代を見送った後で、お稲はどこか屈託ありげな顔を友五郎に向けた。
「でも、だとすると清次が島送りにされたわけって、何なんでしょうね?」
そいつはおれにもわからねえ。友五郎はそう断った後で、頭に浮かんだ事を思いつくままに喋った。
「ただ男ってやつは若いうちはとにかく苛々してて、しょっちゅう喧嘩ばかりしてるもんだからな。で、別に殺すつもりもなくただ殴ったら、たまたま当たりどころが悪くて相手が死んじまったみてえな、そんなところじゃねえかな」
「それはそうと、あの二人のことはどうするつもりです?」
「どうする、って?」
わからぬふりをしたものの、そのことを考えるのをずっと避け続けているのは友五郎自身もわかっていた。
「お美代ちゃんが清次にぞっこんなのは、誰の目にもはっきりしてるじゃありませんか」
「で、おめえは何を言いてえ?」
「このまま放っておいてごらんなさい、二人の仲は抜き差しならないものになっちまいますよ」
「そん時は仕方ねえ、因果を含めて野郎にゃ出てって貰うさ」
「そんな事をしてごらんなさい、若い娘なんて特に頭に血が上りやすいから、駆け落ちだの身投げなどされかねませんよ?」
「脅かしっこ無しだぜ、おい」
「玄人の女は肌を許すも何をするのも計算ずくだから、案外わかりやすいものだし打つ手もあるってものです。けど恋に目が眩んだ生娘は、いざとなると何をするかわからないから怖いですよ」
「じゃ、おれにどうしろって言うんだ?」
「どうって、それはお
子供のように膨れっ面をする友五郎に苦笑しつつ、お稲は言うべきことはずばりと言った。
「このまま行けば、いずれ
「夫婦だと? おいッ」
「御不満なのはわかりますけれど、
「それはそうだが、野郎は島帰りだぜ?」
「あたしも元は芸者ですけれどね」
言い籠められる形で、友五郎は低く唸った。
店の直ぐ前の仙台堀のちょうど向こうは伊勢崎町で、だから友五郎も土地の者と思われがちだが、実は生まれは上州の伊勢崎近くの駒方村だ。
友五郎はずっと、娘はそれなりの大店に嫁がせたいと思ってきた。だが貧乏百姓の家に生まれて裸一貫から身を起こした己を考えてみれば、家柄だの何だのと言う方が滑稽なのかも知れない。
清次の凄さは友五郎もよくわかっているし、清次のような男が身内になり、義太郎の片腕となって支えてくれれば伊勢崎屋はこの先も万々歳だとわかる。それに可愛い一人娘のお美代をずっと手元に置いておけるというのも、考えてみれば悪くはないように思えてきた。
ただ清次が島帰りだという事に目を瞑れば、であるが。
そもそも口入れ屋など出入りしているのは荒っぽい人間ばかりだし、義太郎はもちろん友五郎だって若い時分には散々暴れもしてきたのだ。だからあまりこだわることもあるまいとは思うものの、いざ娘の婿にするとなると踏ん切りがなかなかつかぬ。
その逡巡を見て取ったお稲に、
「どうです、加賀町の親分さんにお願いして、ほんとのところはどうなのか調べてもらったらどうでしょう?」
そう言われて友五郎は直ぐに頷いた。
「うん、そうだな、話はそれからだ」
島に流された事情によっては、お稲の言う通りにしても良い気になりかけている友五郎だ。或いはお美代にはどれだけ泣かれようと、因果を含めて清次には店から消えて貰うか。
それにもし与吉に助力を乞うなら、清次の為に調べてやりたいことが他に一つあった。