第19話

文字数 9,118文字

「お嬢さん大変だ、清次の兄ィがッ」
 通っている八名川町の常磐津の師匠の家を出て何歩も歩かないところで呼び止められて、振り向くと大人しげな男が顔を青くして肩で息をついていた。
 男に見覚えは無かったが、尻ばしょりして鉢巻きも締めているしで、お美代はうちで使っている人足の誰かと思い込んだ。それに何より、清次の名を出されて動転して我を忘れた。
「えっ、何があったの、清さんがどうかしたのッ」
「揚げた四斗樽をいつも通り運んでたんでやすが、蔵ン中で積んだ樽が崩れて清次の兄ィが下敷きになっちまって」
 聞いたお美代の顔もたちまち青くなる。
「それで清さんは? 大丈夫なのよね?」
「それが……」
 目を伏せて言い淀む男の胸倉を掴まぬばかりの勢いで、お美代は男に詰め寄った。
「教えて、何を聞いても驚かないからはっきり言って!」
「じゃあ言いやすが、幾つも続けざまにあの重い酒樽が転がって来て、お医者が言うには胸が潰れかかってて、もしかしたら助からねえかも……って」
「どこ? ねえ清さんは今どこにいるの?」
「実はね、清次の兄ィもお嬢さんに一目会いてえ……って譫言のように言ってて、それであっしがここまで駆けて来たんでさ。ご案内しやす」
「わかった、連れてって」
 即座に頷いたお美代を連れて男は河岸のある南に向かいかけた。が、ふと思い出したように振り返って、お美代に付き従う供の小女を見た。
「姉さんは一足先に店に走って、旦那にもこの事を知らせてくんな」
 そうしておくれとお美代にも頷かれ、小女は伊勢崎屋の方に駆けて行く。
 男とお美代も早足でその後に続くが、八名川町を少し離れれた辺りで道は御籾蔵に突き当たり、その角を曲がって間もなくのところで、見るからにやくざとわかる柄の悪い男達に行く手を遮られた。
「よう伊勢崎屋のお嬢さん、ちょいとおれっちと付き合って貰おうか」
 中でも一番人相の良くない細い一重の厭な目をした男が、長脇差に手を掛けながら凄む。
 慌てて町屋のある六間堀の方に踵を返すと、今度はその先をお美代を連れに来た例の男に遮られた。
 先程までの大人しげな顔を冷たい能面のそれに変えて、男は懐から匕口を抜いた。そしてその切っ先を、お美代の両の胸の間に突き付ける。
「ちょっとでも声を立ててみろ、ぶすりと行くぜ」
 御籾蔵と大身旗本の広い屋敷に挟まれたこの道は、細い上に人通りは昼間でも殆どない。そして先に店に向かわせた小女も、気付かずに今ではずっと先の灰会所の辺りまで行ってしまっている。
「悪いなお嬢さん、そういうこったから暫く付き合って貰うぜ」
 男はお美代を後ろ手に縛り上げ猿轡も噛ませた。そして用意させていた駕籠に押し込むと、伊勢崎屋や河岸とは真反対の北の方に向かった。

 小女が着いてすぐ、伊勢崎屋は大騒ぎになった。
 河岸で荷崩れがあったなどという話は誰も聞いておらず、義太郎が永代橋の向こうまで駆けて行って確かめてもみたが、荷揚げは何事もなくいつも通りに進んでいて、当の清次もぴんぴんしている。
 となると、知らせに来た人足は誰で、お美代はどこに連れて行かれたのかということになる。
 義太郎と一緒に清次も店に戻って来たが、お美代は相変わらず帰って来ないままだ。
 お美代を呼びに来た男の人相を小女から聞いて、清次はひどく厭な予感がした。
「確かなことはまだ言えやせんが、あっしと島で一緒だった安平みてえな気がするんでさ」
「安平って、あの三五郎一家のかい?」
 友五郎に尋ねられて、清次は暗い顔で頷く。
「見かけはおとなしそうな優男だが、中身は蝮の方がまだましなくらいの物騒な野郎でさ」
「そのやくざが、何でお美代をかどわかさなきゃならないのッ」
 普段は大人しくて居るか居ないかわからないような友五郎の女房が金切り声を上げ、清次はそのお照の前でがっくり膝をつく。
「わからねえ、わからねえがきっとあっしのせいだ!」
 そこに隣の永堀町の煙草屋の小僧がやって来て、清次って人にこれを渡してくれと頼まれたと、小さく折り畳んだ紙と赤い玉飾りのついた簪を差し出した。
「あッ、お美代のだ!」
 お照はその簪を両手で握り締めて泣き出し、そして友五郎も、清次が広げた手紙を横合いから手を伸ばして引ったくるように取る。さらに義太郎も首を伸ばして、書いてあることを覗き込んだ。
 娘は本所二ツ目の藤堂佐渡守下屋敷裏の、宮内彦次郎の屋敷の土蔵に預かっている。返して欲しければ清次一人で迎えに来い。妙な真似をしたら娘は二度と戻らねえと思え。
 厠の落とし紙に使うようなごわごわとした粗末な紙に、のたくる蚯蚓に似た汚い字でそう書いてあった。
「誰かッ、与吉親分を呼んで来ておくれ!」
「いけないよおっかさん、そんなことをしたらお美代が殺されちまう!」
「そうだよ、加賀町の親分が何とかしてくれようったって、お侍の屋敷には手は出せねえ」
「じゃあどうしたらいいって言うの!」
「お目付だ、与吉親分から松井の旦那に話して貰って、お奉行所からお目付に言って貰うしかねえだろう」
「冗談じゃねえ、そんな悠長なことをしてる間にお美代がどうかされちまうッ」
 家の者たちが血相を変えて言い合っている時に、清次はすっと座を立って台所に向かった。そして包丁の中で一番長いのを取ると晒しを巻いて、裏の勝手口を引き開けた。
「ちょいと、どこへ行こうってんだいッ」
 気づいて声をかけたお稲に、目だけ妙に光らせた清次は僅かに笑みを浮かべて頷いた。
「お嬢さんはこのあっしが、命に換えても連れて帰って来まさ」
 そして止める間もなく、日が落ちて暗くなりかけている外に姿を消した。

「おい姉ちゃん、おれっちといいことしようぜ、な?」
 黴臭い土蔵の中に放り込まれたお美代の着物の裾から覗けている足に、与太者の一人がにやつきながら手を伸ばした。縛られたままで猿轡まで噛まされているお美代は、くぐもった呻き声を上げながら体をよじるしか出来ない。
 その与太者の頭を、人足の姿から元のやくざの格好に戻った安平が平手で叩いた。
「がっつくんじゃねえ、手籠めにするのは清次が来るまで待てと、何度も言って聞かせてるじゃねえか」
「安平の兄貴、清次の野郎はほんとに生かして帰してやるんで?」
 お美代の体を嘗め回すように見ながら尋ねた松蔵に、安平は即座に頷いた。
「おうよ。(ぱら)しちまうと却って後で面倒だと、前におめえにも話したろ?」
 そして松蔵さえぞくりとするような冷たい顔で薄く笑う。
「考えてもみろ、てめえの女が手籠めにされるのを、何も出来ねえでただ見てなきゃなんねえんだぜ。それぐれえなら、おれだったら殺される方がずっとましだと思うがな?」
 その為に顔見知りの与太者を三人ほど集め、小遣いも与えて後でお美代を好きに犯し抜かさせる約束で、常磐津の師匠の家から帰るところを攫う手伝いもさせた。
 惚れた大事な女を助けられねえでいたのを死ぬまで悔やませるのが、おれの意趣返しよ。安平はそう言うと、煙管を出してのんびりと煙草を吸い始めた。
 その安平の足元の土蔵の床下を掘り抜いた秘密の穴蔵では、阿芙蓉の粉に魂を抜かれた者達が今も良い夢を見ている筈で、下から漏れ出す阿芙蓉の甘ったるい臭いがここにも僅かに漂っている。
 そうだ、娘にこの粉を吸わせて阿芙蓉に溺れさせてやるのも面白(おもしれ)えと安平が思い始めた頃、土蔵の引き戸が叩かれた。
「おれだ、清次だ。言われた通り一人で来たぜ」
 抜いた長脇差を構えて引き戸を細く開け、清次が本当に一人なのを確かめて中に入れる。
「さ、約束通りお嬢さんを返して貰おうか」
 刀を突き付けられながら凄い目で睨み返す清次に、安平は愛想の良いとも言えるくらいの笑みを浮かべて頷いた。
「返してやるとも、ただしおれたちみんなの用が済んだらな?」
 そして背後の与太者に、構わねえから娘をひん剥いちまえと声をかけた。
 その一瞬つい娘の方を振り向いてしまい、安平は清次の手が懐に入るのを見逃した。
「あッ」
 お美代の帯に手をかけた与太者が、ひとっ飛びに宙を飛んで来た清次に蹴り飛ばされて仰向けに転がった。
 その与太者に構わず、清次は懐の包丁で縛られていた紐を切りお美代を自由にする。
 安平は舌打ちし、松蔵や仲間に目で合図して清次を取り囲んだ。
「諦めろ。五人に一人じゃ、どう見たっておめえに勝ち目はねえ」
 しかし刀や匕口に囲まれながら清次は首を振り、お美代を背の後ろに庇う。
「お嬢さんは、あっしが命に換えても逃がして見せまさ」
「そんなの駄目ッ」
 お美代は自由になった手で猿轡を外し、いやいやをして清次の背にしがみついた。自分を逃がして代わりにここで死ぬつもりでいることぐらい、お美代にもわかる。
「あたしならいいの、野良犬に噛まれたと思って我慢するから死んじゃ駄目!」
「いけねえ、それくれえなら死んだ方がましだッ」
 愁嘆場はもう沢山だ。
 そう呟くと、安平は同じように長脇差を構える松蔵に目配せをした。そして二人で同時に斬り込もうとした瞬間、開け放たれたままの戸口から風より速い黒い影が飛び込んできた。
 次の瞬間、松蔵は血の吹き出す脇腹を押さえ、ぎゃッと叫びながら埃だらけの床に転がった。その凄まじい斬り込みに、安平の方は一歩も動けずにいた。
 動けなかったのは清次も同じで、それが誰か気づいてようやく声だけかける。
「先生、何だってこんなとこに……」
 その平松祐二郎は目を安平に据えたまま、構えも微塵も崩さずにさも厭そうに答えた。
「これも渡世の義理ってやつだ。お前なんか生きようが死のうが知ったことではない、ただ伊勢崎屋の娘を助けに来たのよ」

 あの野郎め、お美代の為に死ぬつもりに違えねえ。清次が出て行ったと聞いて、友五郎はすぐに察した。
 そう察して見過ごしに出来るような友五郎なら、裸一貫から一代で伊勢崎屋を出せるまでになる筈がない。
 友五郎は奥の座敷に飛び込むと押し入れを引き開け、柳行李の中の道中差を帯に差し込んだ。そして手文庫の中の切り餅を一つ引っ掴んで懐にねじ込む。
「どうするんだい、おとっさんッ」
 袖を掴んで引き留めようとする義太郎の手を振り切り、
「心配すんな、おれが必ず二人とも生きたまんま連れて帰るから」
 友五郎はそう言い捨てると、血走らせた目を剥いて外の道に飛び出した。
 おとっさん、まさかそのお武家の屋敷に乗り込む気じゃねえか。その時には親父を一人で死なせやしねえと、義太郎も慌ててその後をついて行った。本所二ツ目と言えば、貧乏旗本や碌でも無い御家人くずれの屋敷が寄り集まっている空気の良くないところだということくらい、義太郎もよく知っている。
 案の定、友五郎は大川に沿って新大橋の手前まで駆けて行き、深川元町の角を曲がった。が、本所二ツ目に行くなら渡る筈の猿子橋は渡らずに、そのまま六間堀に沿って北に上がる。
 後に続いて来ている息子に気づいているのかいないのか、友五郎は一度も振り向かずに駆けに駆け、六間堀町の豊島屋の中に飛び込んだ。
「豊島屋の親分さん、わっしだ、今川町の友五郎だッ」
 この豊島屋は友五郎と同業で、豊甚の通り名で世に知られている。家業柄、友五郎も堅気とは言い切れないでもない。しかしこの豊甚の方がより灰色でやくざに近いだけに、別にいがみ合っているわけでもないが何となく反りの合わないところがあった。
「おや、これは伊勢友さんじゃねえか」
 うちにわざわざ足を運んで下さるとはお珍しいとか何とか、豊島屋が作り笑顔を浮かべて言うお義理の挨拶の言葉を遮って、友五郎はお美代が攫われたことを手短に話し、安平がよこしてきた書付を甚三郎の目の前に広げた。
「この通りだ豊島屋さん、わっしを助けてくれねえか」
 居合わせた豊島屋の子分どもも見ているのも構わずに、友五郎は豊甚に深々と頭を下げた。そして店の外でうろうろしている義太郎を初めて振り返って、おめえも一緒にお願えしねえかと叱りつける。
 顔に浮かべている笑みはそのままに、豊甚は僅かに眉を寄せて小首を傾げて話を聞いた。
「おおよその事情はわかったが、伊勢友さんはわっしにどうしろとおっしゃるんで?」
「こちらにいらっしゃる腕利きの先生を、お一人で構わねえから貸していただけねえかと」
 言われて豊甚は、友五郎の腰の道中差をじろりとひと睨みする。
「わっしが厭だと言ったら、友五郎さん、あんた一人で斬り込むつもりだね?」
 友五郎は答えないが、豊甚の方も返事を期待していたわけでは無かった。
 それまでの作り笑いを、豊甚は不意に本物の笑顔に変えて頷いた。
「話も聞いて頭も下げられた上で断ったとあっちゃ、この豊島屋の男が立たねえや。ようがす」
 豊甚は今でこそ脂ぎった小太りの親爺になり果てているが、これでも昔はかなりの男前だったという。
 その豊甚に呼ばれて、店の奥からのっそり出て来たのが平松祐二郎だった。
「西野先生はあいにく住んでいるのが別なところでね、呼んで来るのに時がかかってはまずかろう?」
 それに西野先生には鬼より怖いご新造さんが居て、先生が用心棒の真似をするのを良い顔しねえのだと、豊甚は言わぬでも良いことを付け加えた。
 その豊甚の前に、友五郎は持って来た切り餅を差し出した。
「礼金だが、これで足りるだろうか。足りなけれは義太郎に直ぐに持って来させるが」
「こんな時はお互い様だ、事情を知って足元を見るようなこたぁあしねえよ」
 言いながら豊甚は、切り餅をそのまま平松に渡した。
「それじゃあ豊島屋さんの口利き料がねえ」
「いいってことよ。そいつは一つ貸し、ってことにしとこうぜ」
 こいつは後でかなり高くつくことになるかも知れねえぞとは思ったが、今はお美代と清次を助け出すのが第一だということは、友五郎もよくわかっている。
 その頼みの綱の平松祐二郎だが、凄腕の用心棒という評判とは裏腹にまるで頼りなさげな小男で、しかも溜め息などつきながらさも面倒臭そうに大刀を腰に差す始末だ。
 友五郎の視線の先を追った豊甚は、気持ちはわかるぜと言いたげな顔でにたりと笑った。
「まあ祐さんに任せとけって。この先生が刀を抜いたら最後、死骸がごろごろ……ってことになるから」

 安平は長いこと島にいたから平松祐二郎の顔すら知らず、これが噂の平松先生だとも気づかなかった。
 ただ刀を構えて向き合っただけで、これはただの食い詰め浪人とは違うとすぐにわかった。
「なあお武家さん、あっしがここで手を引いたらこのまま逃がしてくれやすかい?」
 悔しいが、意趣を返すより自分が死なない方が大事なことぐらい安平にもわかる。
 しかし平松は血の溢れ出す脇腹を押さえて呻いている松蔵に目を落とし、楽しげにすら見える冷えた笑みを浮かべて首を振る。
「仲間を見捨ててお前だけ逃げようってのかい? そいつは虫が良すぎるってもんだ」
「そうですかい、お武家さんももうちっと物分かりが良くならねえと、早死にすることになりやすぜ」
 相手は一人だし頭数はこちらの方がずっと多いのだから、安平は勝ち目は充分にあると思っていた。
「おい」
 安平は周りでうろうろしている与太者たちに平松の背後に回るよう顎で示し、自身も腰を落として長脇差を前に構えた。皆で取り囲んで前と後ろから挟み撃ちにすれば、いくら腕利きの侍でも一たまりもない筈だ。
 が、平松はむざむざ囲まれるのを待ってなどいなかった。殆ど無造作とも言えるくらいの素早さで前に出て、正面の安平に凄い突きを食らわす。
「あッ」
 その突きの鋭さに安平は思わず後ろに飛びのき、そのまま尻餅をついて転がった。
 平松はその安平には構わず、空を切った刀を残心の形から左手一本で後ろに薙いだ。向けられた平松の背に釣られるように前に出た与太者の一人が、その刀に胴を抉られて悲鳴を上げる。
 残る二人が死に物狂いで突き出した匕口も、平松は剣舞でも見せるように軽く躱した。さらに躱しながら同時に斬り返し、二人をたちまち血まみれに切り刻んだ。
 瞬く間と言えば大袈裟になる。しかし安平が起き上がって刀を構え直すまでに、与太者らは一人残らず床に転がって呻いていた。
「さ、掛かっておいで」
 平松も刀を構え直し、優しげにすら見える顔で微笑む。
 それにしても妙な構えだった。刀を腰の高さで体の脇に真横に構え、切っ先を後ろに返して柄頭を前に向けている。
 これを脇構え若しくは陰剣と言うのだが、お美代を庇うように抱いて目を丸くして見ている清次は勿論、安平も知る由もない。
 刃を後ろに隠して刀の柄だけ向けるようなその構えには、威圧感など欠片も無かった。凄みも気合もまるで感じられず、勝ったつもりで油断して隙だらけでいるように見えた。
 死ぬ気で諸手突きで掛かれば、何とかなるかも知らねえ。そう思って、安平は渾身の力を込めて前に飛んだ。
 が、突き出した刃が届く寸前、平松の体がゆらりと揺れて目の前から消えた。同時にひやりとする刃の感触と焼け付くような痛みを下っ腹に感じて、安平は体をくの字に折った。
 まだまだだ。喉の奥から漏れかかる呻き声を噛み殺し、安平は刀を構え直した。こんな所でまだ死にたくねえと、刀を前に突き出し体ごとぶつかって行った。
 脇腹、続いて肩先、さらに高股。向かって行く度に見えない所から出て来る刃に体のどこかを切り裂かれ、安平が意識を無くして倒れ臥した時には文字通り血達磨になっていた。
 凄まじいばかりのその剣捌きに、清次は本当に恐ろしい人とはどんなものかを見せつけられるような思いだった。そして世の中に怖い者など居ないつもりで暴れていたあの頃、こんな人と出合わずに済んだ幸運を心の底から噛み締めていた。
 血で汚れた刀を懐紙で拭いながら、平松は殆ど動かなくなった安平の体を冷たい目で見下ろした。
「こんな野郎でも斬ったら可哀想だ、許して生き直させてやろうだとか、お前は今でも思ってるかい?」
 まだ震えているお美代を強く抱き締めていた清次は、その問いに最後まで答えられなかった。
 我が身を振り返れば、どんな悪い奴だっていつか悔やむ時が来るだろうし、その気になれば堅気に戻れるのだと信じたかった。だが安平がお美代にしようとしたことを思うと、ざまあ見ろ、これで良いんだと思ってしまう気持ちを、清次はどうしようも無かった。

 その頃になると、土蔵の持ち主の宮内の家の者も賊に押し込まれでもしたかのように騒ぎ始めた。が、蔵の中にごろごろ転がる死人やまだ死にきれずに呻いている者を見て、当主らしい不精髭だらけの初老の侍は息を呑んでその場にへたり込んだ。
 抜き身の刀をまだ手に下げたままその男を見下ろして、平松はその男に何の温かみもない静かな声をかけた。
「いくら暮らし向きが厳しいにしても、こいつはかなり不味いと思いますよ宮内殿」
 今は勘当になってはいるものの、平松祐二郎の生家はここから目と鼻の先と言っても良い津軽越中守の上屋敷の並びで、高六百石の立派な役方のお旗本だ。さらに親戚筋には御先手組頭で度々加役も仰せつかっている、火付盗賊改の華岡孫兵衛などという恐ろしい者もいた。
 ちなみにこの火盗改は、武家だろうが寺社だろうがお構い無しに踏み込むことができる。
 平松はその華岡孫兵衛に直ぐに使いをやり、宮内の破れ屋敷に駆けつけて来た火付盗賊改方の与力や同心たちの手で、やがて土蔵の下に隠されていた阿片窟も暴かれた。
 平松に切り刻まれた安平は間もなく死んだが、より不運だったのは命を取り留めた松蔵の方だったかも知れぬ。運び込まれた火盗改の牢で手荒な痛め吟味を受け、苦しみ抜いた末に知っていることをすべて申し上げさせられる羽目になり、そしてその供述により弥勒の三五郎を始めとする一家の者は、一人残らず火盗改の者たちの手で斬り捨てられるか縛られるかした。
 破れ屋敷の主の宮内彦次郎もやがて目付から切腹を仰せつけられ、江戸の者たちの体と心を蝕みかけていた阿芙蓉の件は瓢箪から駒で落着を見た。ただこの件をずっと追いかけていた町奉行所の者たちは、火盗の奴らに美味いところだけ横合いから引っ攫われたと、ひどく面白くない様子ではあったが。
「松井の旦那もそりゃあもうひでぇおかんむりよ。気持ちはおれも同じだが、一件は落着したしお美代ちゃんも清次も無事だしで、まあ終わり良ければすべて良しとせにゃならねえだろうな」
 事の次第を友五郎に話した後で、与吉はそう締めくくった。
 あの平松祐二郎だが、勘当というのは建て前で実は御公儀の上の方のさるお方の内意を受け、御定法では裁けぬ悪い奴を斬って回っているのだと囁く者が、ごく一部にだがいるようだった。安平らを斬った後の平松の処置や火盗の動きの速さを見れば、その噂もあながち出鱈目とは言えなそうだ。
 知らなかったとは言え、その平松先生を自分が引っ張り出したせいでこうなったとわかるだけに、友五郎は何となく居心地が悪い。
 そうと察した与吉は、にっと笑って友五郎の肩を叩いた。
「いいのだ、気にするな。友五郎さんは親として当然のことをしたまでよ」
 そして同じ笑顔のまま、少し声を落として友五郎の耳に顔を寄せた。
「それはそうと伊賀町の重蔵の方だが、何とかなりそうだぜ」
「本当かい?」
 思わず身を乗り出す友五郎に、与吉は笑顔のまま今度は少し悪い表情で頷いた。実は何日も前から四ツ谷や麹町に人をやって、重蔵に常日頃からあくどく金をせびり取られて困っているという口書きを、主立つ商人らからそっと集めて回っていた。
「重蔵め、土地(ところ)の商人にゃかなり恨まれているようでな、集めた口書きの数はもうかなりの数になったぜ」
「そいつはありがてえ」
「これをお奉行所に差し出してみろ、間違えなく重蔵の尻に火がつくぜ」
「人を縛って来た当人が、今度はお縄になりかねねえ……ってわけだな」
 ただでさえ恨まれやすい御用聞きが牢に放り込まれた日には、ただ殴る蹴るどころの話ではない。御馳走と称して山盛りの糞を食わせる、睾丸を蹴り潰すなど、目を覆うような虐待の揚げ句に苛め殺されてしまうのが常だった。
「そうなりてえかと話したらあの重蔵がどんな面をしやがるか、今から楽しみだぜ」
 互いの顔を見合い、二人はひとしきり笑い合った。
「で、友五郎さんの方はどうなってるよ?」
「こっちもうまく行きそうだ。清次の兄ィの為だって、テツの野郎なんか特に張り切ってら」
 徹太の押し込みの罪を自ら被って出ようとしたあの時以来、徹太は犬ころのように清次を慕ってついて回っていた。
「うまく片付くといいなあ。何たってお美代ちゃんと清次は間もなく祝言なんだろ?」
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登場人物紹介

清次……三宅島から戻って来た島帰りの男。昔は四ッ谷の狼とも呼ばれたかなりの悪だったらしいが、今は売られた喧嘩すら買わず、堅気になろうと懸命に働く。三十過ぎくらいの、渋い良い男。

安平……同じ三宅島に流されていたやくざだが、一見すると人当たりは良い。しかし芯は冷たい根っからのやくざ者。

松蔵……元は清次の子分で、悪だった清次に憧れていた。今は本物のやくざになり安平の弟分で、堅気になろうとしている清次に失望している。

伊勢崎屋友五郎……口入れ屋の主。田舎から出て来て一代で店を持つに至る、それだけの男だから仕事には厳しいが、人情に厚い義理堅い男。

お美代……友五郎の娘で伊勢崎屋のお嬢さん。たまたま行き倒れていた清次を拾う。最初から清次に好意的で周囲が心配するほど良くなついている。

森田屋幸助……お美代と兄妹同然に育ち、今は許嫁の間柄。最初は気にしないでいたが、次第にお美代と清次の仲が気になってくる。

徹太……伊勢崎屋の人足で最も若い、威勢の良い者。それだけに、自分の男を見せつけようと、島帰りという清次に無闇に突っかかって喧嘩を仕掛ける。

重蔵……かつて清次をお縄にした岡っ引き。清次を目の敵にして、清次が赦されて戻って来た今も散々嫌がらせをしている。

佐吉……堀川屋という袋物屋で働く真面目なお店者だが、わけあって清次を深く恨み、何度も清次の前に姿を現す。

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