第11話

文字数 7,309文字

 清次は今日も河岸に出て荷を揚げ続けたが、その顔色は近頃の徹太より悪かった。
 伊賀町の重蔵親分の顔を見た瞬間、清次は肥桶の中のものを頭からぶっかけられるような思いだった。それで消せるものなら、この手で脳天をかち割ってしまいたいほど厭で醜い昔の己の姿が一度に脳裏に蘇ってきて、ただ息をするのさえ苦しかった。
 お上がお赦しになったんだからもう胸張って、どこを歩いたっていいんだから。
 伊勢崎屋のお嬢さんは、こんな自分の手まで握ってそう言ってくれた。
 だがそれはお美代が昔の清次を知らないからで、自分の罪が一生消えるものではないことは、清次自身が最もよくわかっている。
 また来るぜ。
 去り際に、重蔵は確かにそう言った。
 重蔵が鮫の親分あるいは鮫重という別名で知られているのは、ただ縄張りが鮫ヶ橋の一帯だからでなく、一度狙った相手に食いついたら死んでも離さないねちっこい男だからだ。
 あれはただの捨て台詞なんかじゃねえ、鮫の親分は間違いなくまたここに来る。
 かつて散々追い回されてお縄にされた清次には、そのことがよくわかっていた。
 このままでは伊勢崎屋の皆に迷惑をかけるばかりだ。そうわかってはいたが、餌を恵んで貰っている野良犬のようにこの店から離れられずにいる。
 出て行けと言われないのを良いことにまだ伊勢崎屋に腰を据えたままでいる自分に、清次は吐き気を催すほど厭な気持ちになった。
 心を入れ替えるとか何とか言いながら、結局おめえはおめえの昔の悪行を無かった事にしてえだけじゃねえのか。
 どこでもいい、この深川を離れておれのことを知る者が誰もいない場所に行こう。清次がまず思ったのはそのことだったが、それは昔の自分からただ逃げているだけだとすぐに気づいた。
 考えてみれば清次は、あの佐吉という男に何の償いもしていなかった。
 償うと言っても殆ど何も出来ないことも、よくわかっている。清次が昔しでかした過ちは取り返しのつかない事だし、せめて金で償おうにも清次は文無しも同然だ。
 他の多くの人足と違って清次は住み込みだから、衣食住すべて世話になっている代わりに日当は出ない。ただそれでは湯屋にも行けないし、屋台の寿司や天麩羅もつまめないのは不自由だろうと、友五郎が時々くれる小遣い銭が懐にある全てだ。
 清次に出来ることと言えばただ謝ることぐらいで、それであの男の気が済むならどれだけ殴られても蹴られても構わない。
 伊勢崎屋と深川を離れるのは、それからだ。
 そう肚を決めると気持ちが少しだけ楽になって、余計な考えは頭から追い払うように仕事に身を入れて重い荷を担いだ。
 が、その邪魔をするかのようにまた男が二人、河岸を行き交う人足たちを肩で押しのけて近づいて来たのは、冬の日が大川の向こうに傾きかけた時だった。
「おい清次、おれだ、待ちくたびれて来ちまったぜ」

 肩をぶつけられても、何しろ相手は帯に長脇差をねじ込んだ弥勒の三五郎一家のやくざだ。普段は口より手の方が早い人足らも、膨れっ面はしても文句は誰も言わない。
「おいおい、お化けでも見たような面すんなって」
 よく知らぬ者には優しげにも見える例の笑みを顔中に浮かべて、安平は清次の背をポンと一つ叩いた。そして従えて来た背後の松蔵に一瞬目を向ける。
「話は松の野郎から聞いたが、この目で見るまでは信じられなかったぜ。まさかおめえほどの男が、なあ……」
 言いながら安平は、重たい油樽と皆の肌に流れる汗に、汚いものでも眺めるような目を向ける。
「言ったじゃねえか、行く所が無きゃおれンとこに来いって」
「ヤスさん、おれはこの仕事に何の不足もねえんだ」
「気は確かか、日が暮れるまでこんなクソみてぇなもん運んでよ、いってぇ幾らになるってんだ?」
 清次は一度目を閉じて息を吸い、一旦下に置いた油樽をまた担ぎ上げた。
「悪いがおれは、まだ仕事の途中なんで」
 言い捨てて立ち去ろうとする清次を睨んで、松蔵は思わず長脇差の鞘口を握る。
「おい、安平兄ィに何て言い草だッ」
 が、清次が身構える前に、安平がまあ待てと手で制した。
「わかった、積もる話は仕事が終わるまで待とうじゃねえか」
「なあヤスさん、松にも話したが、おれは本当に足を洗ったんだ」
「そうかも知れねえ。だとしても一度ちゃんと話をする義理くれえあるだろ、え?」

「黒江町の久中橋近くに真砂屋って船宿があらあ。そこで待ってるぜ」
 安平はそう言い捨て、周りの人足を睨みつけて凄んでいる松蔵を連れて引き上げた。
「おい何してやがる、仕事はどうしたッ」
 猪吉の怒鳴り声に皆はまた荷を担ぎ始めたが、目はどうしても清次の方に集まる。その視線を痛いほど感じながら、清次もまた黙々と仕事を続けた。
 安平らが来た時には既に夕七ツ(午後四時)近くになっていて、何となくざわついた空気のままその日の仕事が終わった。
 さて伊勢崎屋に戻ろうと集まりかけた皆をかき分けるようにして、清次は猪吉の前に行き黙って頭を下げた。
「……行くのか?」
「へい」
 腹を括って覚悟を決めたような顔で頷いた清次を、猪吉は柄にもなく痛ましげな目で見た。
「本気で堅気になる気なら、行かねえ方が利口だと思うぜ」
「けどそれじゃ、伊勢崎屋の皆さんに迷惑がかかりやす」
 相手はやくざだから、行かねば顔を潰されたと店や河岸に若い衆を連れて乗り込んで来かねない。
「一家の身内になる気はねえって、差しで話してちゃんとわかって貰って来やす」
「出来るのか?」
「出来る出来ないじゃねえんです、誠心誠意話してそう納得して貰うしかありやせん」
「馬鹿言うな、相手はその誠心誠意が通じるような奴らじゃねえだろうがッ」
 が、清次は唇に僅かな笑みを浮かべるともう一度頭を下げ、皆に背を向け油堀に沿って黒江町の方に歩き出した。

 黒江町は富ヶ岡八幡宮の一ノ鳥居にも近い賑やかな所で、久中橋の殆ど袂の真砂屋もすぐにわかった。
 障子戸を引き開けると、一目で玄人上がりとわかる色っぽい大年増が清次の顔を見て目を見張り、あらいらっしゃいと凄い流し目を送った。
 が、おかみがそれ以上何か言う前に、階段の上から松蔵が顔を出して手招きをする。
「おう兄ィ、こっちだ。早く上がってくんな」
 二間ある二階のうち、障子を開け放つと川が見える良い方の奥の部屋に安平は腰を据えていた。
 先ほどのおかみが酒と肴を運んで来ると、
「後はいいから、呼ぶまで下に行ってな」
 安平は相変わらずにやつきながら、おかみの丸い尻をひと撫でしてからその上の背を押す。
 清次の咎めるような目に、安平は笑ったまま構わねえのだと首を振った。
「すぐ裏手にお大名の下屋敷があって、ここの亭主は太一って言うんだが、その下屋敷の賭場ででかい借りを作っちまってな」
 その賭場が松蔵も始終顔を出している、弥勒の三五郎一家の賭場であることは言うまでもない。
「だからこの真砂屋は、一家のものみてえなものなのだ」
 そして安平は意味ありげな下卑た笑みを浮かべ、階段の方に目を向けた。
「ここのおかみはお高って言うんだが、何なら抱かせてやってもいいんだぜ?」
「いや、その気はねえよ」
(かて)えこと言うなって。まさか女が嫌いになった、ってわけじゃねえんだろ?」
「そういうわけじゃねえが、おれは人の女房に手は出したかねえ」
「おれはちゃんと見てたんだ、お高の奴、おめえが来た時早速色目を使ってたじゃねえか。あの(あま)だって厭じゃねえさ」
 しかし清次は硬い笑みを浮かべて首を振る。
「そうかい、まあ一杯やろうぜ」
 安平はそれまでの愛想笑いを苦笑に変えて銚子を差し出したが、清次は目の前の杯を取ろうともしない。
「飲むのはいいが、その前に一つはっきりさせておかねばならねえことがあるんだ」
 清次の目を覗き込む安平の顔から、表情がスッと抜け落ちる。
 その安平から目を逸らさずに、清次は肚に力を入れて話を続けた。
「おれは実は、島から帰って何日か後にヤスさんから聞かされた弥勒寺の辺りに行きかけたのだ」
「ほう?」
「帰ってみりゃあ親兄弟はいねえし、親類からも世間からも爪弾きだ。一人で生きて行こうにも、仕事も住む所も見つからねえでおけらになっちまってな」
 あの時の辛さは、清次は今も忘れてなかった。無一文になった後は本当に物乞いをするしかなくなり、飢えの苦しみに恥も外聞もなく橋の袂に座り込んだ。
 その清次を足蹴にし、酷い罵声を浴びせて追い立てたのは、ずっと前からそこでそれで生きていた本物の物乞いだった。
 てめえ誰に断ってここで座ってやがる、お頭に断りなしに物乞いの真似なんざしようってんなら、簀巻きにして川に叩っ込んでやる。
 欠けた歯の間から臭い息と唾を吐きながら、元からの物乞いはそうがなった。
 物乞いにも縄張りがあり頭分もいて、その許しが無ければ人さまの情けを乞うことすらできないのだと、清次はその時まで知らずにいた。
「ヤスさんに言われたことが、この頭の片隅に残ってたんだろうな。やくざになる気は毛頭なかったのに、腹が減り過ぎて夢ン中を歩くようにふらふらしているうちに、気がついたらおれは、弥勒の親分さんの家の前に立っていた」
 なら何で入って来なかったのだとも尋ねずに、安平は表情の無い顔のまま清次を凝視し続ける。
「おれはそこで改めて思ったのだ、世間さまに顔向け出来ねえようなことは、もう二度としたくねえ……ってな。それでそのまま飢えて死んでもいいつもりでいたところを、伊勢崎屋さんに拾われてこうして生きているのだが」
 一言一言を噛み締めるように語った後で、清次は安平の蜥蜴を思わせる目を真っすぐに見返した。
「だからヤスさん、悪いがおれは死んでもやくざになる気はねえ」
「おい兄ィ!」
 目を吊り上げて膝を立てかける松蔵を、安平は軽く首を振って制す。
「なあ清次、おれは別におめえに一家の身内になれって言いに来たのではねえのだ。いや、むしろならねえでくれた方がいい」
 訝しげな目をする清次に、安平は温かみのまるで無い笑みを浮かべた。
「おめえはこれまで通り、堅気の暮らしを続けてくれて構わねえ。ただ月に一度か二度届くこのくれえの荷をそっと受け取って……」
 言いながら、安平は両手の指で宙に菓子折りほどの大きさの四角を作った。
「それを内緒でおれに渡してくれればいいのだ。それさえしてくれりゃあ、その度に十両おめえに手間を出そうってんだ、悪い話じゃねえだろう?」
 悪いどころの話では無かった。独り者なら楽に一年は暮らせようっていう金を、たったそれだけの事で出そうというのだ。
「申し訳ねえがその話、聞かなかった事にさせて下せえ」
「おめえは馬鹿か。ただちょいとした荷物を右から左に運ぶだけで、使うのに困るくれえの金が濡れ手に粟で懐に入ろうってんだぜ?」
「いや、馬鹿じゃねえから受けられねえんで。だって、どう考えても話がうま過ぎら」
 はっきり言わないが安平が漏らしたことだけで、清次に手伝わせたいのはかなり危ない仕事だろうと直ぐに推察がつく。
「その内緒の荷物の中身は聞きたくねえし言わねえでもらいてえが、やばい話に一枚噛まされて、揚げ句に三尺高いところに首を晒される羽目になるのは真っ平御免なんで」
 安平の口元の笑みはそのままだが、目の中の険は隠しようもない。
「なあ清の字よ、恩着せがましい言い方はしたかねえが、島で腹を空かせてたおめえに度々飯を食わせてやったのは、いってぇ誰だった?」
「忘れちゃねえさ、おれが島で死なずに済んだのはヤスさんのおかげだ」
「だったら今度は、おめえがおれを()けてくれるよな?」
 清次は一瞬目を閉じ、深く息を吸って両手をついた。
「済まねえ、受けた恩は重々わかっちゃいるが、それだけは出来ねえ」
「おい」
 安平はその清次に顔を近づけて、囁くような低い声で続けた。
「このおれの頼みを、どうあっても聞けねえって言うのか?」
「お天道様に恥じるようなことはもう死んでもしねえって、おれは決めたのだ」
 頭を下げ続ける清次を脇でずっと睨みつけていた松蔵が、ものも言わずに長脇差を引っ掴んだ。

 猪吉から話を聞いた後、友五郎は行灯の火を睨んで太い息を吐いた。
「そいつはうまくねえな」
「申し訳ありやせん、親分」
「おめえを責めてるわけじゃねえのだ、猪吉。三五郎一家の奴ら、清次をよっぽど身内にしてえようだと思ってな」
「へい。松蔵が連れて来た兄貴分ってのがまた、初めて見る顔でしたが何かこう、蛇みてえな厭な野郎で」
「鮫だの蛇だのって、帰らずの森の底無し沼じゃあるめえし、清次の周りにゃ何でこう剣呑な奴らばっかりうろつくのだろうな」
「笑い事じゃありやせんぜ、ああいう質の悪いのに二人掛かりで膝詰め談判されちゃ、帰るつもりでも帰れるもんじゃありやせん」
「……帰って来るから」
 二人の話を小耳に挟んだお美代が、友五郎の袖をぐいと掴んで黒々とした強い目で見上げる。
「清さんがやくざになんて、なるわけないんだから」
「あっしもそう思いやすよ、お嬢さん。清次の野郎はきっぱり断る肚で行ったと思いやす、だから……」
 猪吉はその後を言い淀んで、助けを求めるような目を友五郎に向ける。
 何を言いたいかは、友五郎もすぐに察した。相手は何しろやくざだ、簡単に納得して諦めるとは思えない。それで清次に強く断られて面子を潰されたと感じたら、あの松蔵や蛇に似た兄貴分がどう出るかと思うだけで背筋が寒くなる。
 清次が帰らずにそのままやくざになるのと、死骸にされて帰って来るのと。どちらの方がまだましなのか、自分でもよくわからない友五郎だ。
「ま、一晩待っても帰って来ねえようなら、明日の朝一番に加賀町の与吉親分に話をしてみようじゃねえか」
 友五郎はとりあえずそう決めて猪吉を家に帰し、お美代には台所に行って手伝いでもしてろと言いつけた。
 だが出来た晩飯を前にして箸を動かしていても、その味がさっぱりわからなかった。明日の朝などでは六日の菖蒲というやつで、とうに後の祭りになっているのではないか。友五郎はそんな厭な気がしてならなかった。
 気持ちはお美代も同じようで、食べる間も友五郎の顔を睨んでばかりいた。
 やがて音を立てて箸を置き、
「おとっさんッ」
 決して大きくはないが鋭い声を上げた。
「……確か黒江町の真砂屋って言ってたな」
 友五郎が頷いて立ち上がりかけたその時、伊勢崎屋の勝手口の向こうから遠慮がちな声がかけられた。
「ただ今帰って参りやした」

「松ッ、てめえはすっこんでろ!」
 長脇差を引っ掴んだ松蔵に、安平は清次が身構えるより早く鋭い声を飛ばした。
「けど兄貴……」
 まだ何か言いかける松蔵を目で制し、安平は口元にだけ笑みを浮かべた。
「清次、おめえがそこまで肚を決めてんなら、もう何も言えねえ」
「わかっていただけやしたか」
 両手を畳についたまま、清次は信じられないと言いたげな顔で目を上げる。
「その代わり、今ここで耳にした事は全部忘れるこった」
「わかってまさ」
「もしここでの話がちょっとでも漏れたらな、その時はおめえだけじゃねえ、おめえからちょっとでも話を聞かされた相手も一人残らずこの世から居なくなることになるぜ?」
「へい、肝に銘じておきやす」
 清次はもう一度頭を下げ、安平は元の笑顔で頷いた。
「もう帰っていいぜ」
 階段に向かう清次の背を松蔵はまだ睨みつけていて、安平の目配せ一つで直ぐに飛び出して行ける構えで長脇差の鞘を握り締めている。
「行かせちまって本当にいいんですかい?」
 囁かれた安平は笑顔のまま頷いて、清次が真砂屋を出るのを待ってから口を開いた。
「よく覚えとけ、人を殺めるのはそう難しいことじゃねえ。それよりずっと厄介なのは、殺っちまった後の死骸をどうするかよ」
 この江戸には狭い土地に多くの家が立ち並び、何十万もの人がひしめき合いながら暮らしている。人に知られることなく死骸を隠しておける場所など、そもそもある筈も無かった。
 かと言って、どこぞの寺の前に放り出すなり、町を縦横に走る川や堀に放り込むなりすれば、まず間違いなく誰かの目に付く。そして同心が出張って来て、目明かしやその子分の下っ引きどもが聞き込みに町中を駆け回る騒ぎになる。
「考えてもみろ、おれとおめえが清次ンとこに行ったのを、河岸の人足ども大勢に見られてんだ。斬られて死んでる野郎が見つかりでもしてみろ、おれ達はたちまち捕り方に追っかけ回されるはめにならあな」
「言われてみればその通りでさ、あっしは本当にまだまだだ」
 肩を落として項垂れる松蔵を、安平は表情を緩め慰め顔で見やった。
「まあそう気にするな。偉そうな事を言ったが、おれだって本音は清の野郎を死なせたくなくて、あれこれ理屈をこねてただけなのかも知れねえ。何たって奴は、島で長いこと苦楽を共にしてきた仲間だからなあ」
「わかりやす。今はあんなでも、昔はあっしの自慢の兄貴分だったんだ」
 柄にもなくしんみりしかけた松蔵だが、すぐに獣じみた強い光がその目に戻る。
「けどだから余計に、可愛さ余って何とか……って気持ちにもなりやせんかい?」
 安平もまた、例の笑みを浮かべたまま冷たい目で頷いた。
「だから次は容赦しねえさ。もし野郎が何か妙な動きをしやがったら、そン時には……」
 素人はただカッとして人を殺した挙げ句に、その後でどうしようか慌てることになるから駄目なのだ。初めからそのつもりで、死骸をどう片付けるかもよく考え抜いた上でやれば、人を殺してもそう容易く捕まるものではないことを安平は知っている。
 例えばだ、この真砂屋の猪牙に野郎の死骸を乗せ、店の行李だの筵だので隠して主の太一に漕がせて仙台堀に出る。そしてずっと東の砂村新田の方まで行けば、一橋家の下屋敷の隣に十万坪と呼ばれるただっ広い葦原がある。
 だが今は、あの阿芙蓉の取引の期日が迫っていた。考えなければならない事は山ほどあるし、岡っ引きの目を引くような揉め事は、今は出来る限り起こしたくない。
 だから安平は、清次のことは放っておけと松蔵に言いつけた。
「ずっと、って意味じゃねえ。今は、ってことだ。わかるな?」
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登場人物紹介

清次……三宅島から戻って来た島帰りの男。昔は四ッ谷の狼とも呼ばれたかなりの悪だったらしいが、今は売られた喧嘩すら買わず、堅気になろうと懸命に働く。三十過ぎくらいの、渋い良い男。

安平……同じ三宅島に流されていたやくざだが、一見すると人当たりは良い。しかし芯は冷たい根っからのやくざ者。

松蔵……元は清次の子分で、悪だった清次に憧れていた。今は本物のやくざになり安平の弟分で、堅気になろうとしている清次に失望している。

伊勢崎屋友五郎……口入れ屋の主。田舎から出て来て一代で店を持つに至る、それだけの男だから仕事には厳しいが、人情に厚い義理堅い男。

お美代……友五郎の娘で伊勢崎屋のお嬢さん。たまたま行き倒れていた清次を拾う。最初から清次に好意的で周囲が心配するほど良くなついている。

森田屋幸助……お美代と兄妹同然に育ち、今は許嫁の間柄。最初は気にしないでいたが、次第にお美代と清次の仲が気になってくる。

徹太……伊勢崎屋の人足で最も若い、威勢の良い者。それだけに、自分の男を見せつけようと、島帰りという清次に無闇に突っかかって喧嘩を仕掛ける。

重蔵……かつて清次をお縄にした岡っ引き。清次を目の敵にして、清次が赦されて戻って来た今も散々嫌がらせをしている。

佐吉……堀川屋という袋物屋で働く真面目なお店者だが、わけあって清次を深く恨み、何度も清次の前に姿を現す。

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