第8話
文字数 5,715文字
またか。
預けた囚人が死んだと小伝馬町の牢屋敷から知らせが来て、この半年だけで何人になるか、四ツ谷を回る北の同心中野為二郎は指を折って数えた。
牢屋は宿屋とは違うし、新入りの囚人を迎えるのは牢名主以下の鬼より恐ろしい面々だ。その牢名主に気に入られず、酷い折檻の揚げ句に殺されてしまう者もいることは、為二郎ら奉行所の者も薄々承知だ。
だがそれにしても妙だった。
牢内で殺されるのは、他の囚人に恨まれる理由がある者が殆どだ。例えば、悪事が露見してお縄になった岡っ引きだとか。
しかしここのところ死んでいるのは、出来心で人さまの物や財布につい手を出してしまったような者ばかりで、殆どは職もあり身元も確かだった。
そう言えば為二郎が使っている伊賀町の重蔵が捕らえたこそ泥も、小伝馬町に送られて間もなく死んでしまった。
そのこそ泥を引っ立てて来た時に重蔵が言っていた気になることも思い出し、為二郎は小伝馬町に出向いていろいろ確かめてみようと決めた。
北町奉行所から小伝馬町の牢屋敷までは、目と鼻の先とは言わぬが割合に近い。呉服橋御門を出て一石橋を渡り、外濠に沿って進み竜閑橋の手前で右手に折れて本銀町の賑やかなところを行けばすぐだ。
最も新しい死人の出た二間牢の牢名主は初めて見る顔だったが、鎌鼬の定吉などという二つ名を持つ男だけに、牢同心に拷問蔵に引き出されても不精髭だらけの顎の下あたりを指の先で掻きながらそっぽを向いていた。
ただ為二郎はこの拷問蔵に入る時、壁に並ぶ笞や抱かせる石、それに天井から下がる海老責めの鉤をちらりと見やった時の、定吉の目の中の微かな揺らぎを見逃さなかった。
「ま、座れ」
為二郎は自分のすぐ前を目で示し、牢同心や下男らには外に出てもらう。そして来る途中に見かけた店で買った金鍔焼を三つ、懐から出して定吉の前に並べた。
「遠慮は要らねえ、食いな」
定吉はその金鍔焼に目を落とし、喉が鳴るのも聞こえたが手は出さぬ。
「……旦那はいってえ、何をお聞きになりてえんで?」
「塩町の桶屋の三次だよ」
死んだと知らせがあったばかりの男の名をぶつけてみたが、やや黄ばんだ目で見返したまま定吉は何も言わぬ。
「三次だけじゃねえ、あんな堅気のおとなしい奴らを、なぜ殺す必要があったのだ?」
「殺 めただなんて、滅相もねえ。急な病でぽっくり逝っちまったんでさ。何なら、医者に確かめて下せえ」
「そうだろうな、医者もそう言うだろうさ」
牢屋敷の囚人を看る医者などいい加減なもので、牢内で誰がどう死のうが鳩尾の辺りを形だけ探って、なるほど病死に間違い無しと頷いてしまう。さらに牢を出る際には牢名主からそれなりの金を握らされていることも、為二郎も既に承知だ。
「おれはな、おめえらがしたことを咎め立てしようってんじゃねえんだ。牢内には牢内の掟ってものがあるだろうし、な?」
柔らかく言いながら、為二郎は定吉の目を真っすぐに見て続ける。
「ただどう見ても人に憎まれそうもねえ奴らが続けて死んでるわけが知りてえ、それだけよ」
その為二郎の目の中を覗き込んでいた定吉だが、ふと肩の力を抜いてすぐ前に並んだ金鍔焼に手を伸ばす。そして三つともたちまち平らげて、指先についた餡を嘗めながらぼそりと呟いた。
「……寝られねえんでさ」
「寝られねえ?」
「考えてもみて下せえ、狭い牢屋に、むさ苦しい野郎どもが何十人って押し込められてんだ。寝返りひとつ打てねえでただでさえ寝苦しくてならねえところに、騒いだり暴れたりして、折角の寝入りばなを起こしやがる奴がいてみなせえ」
「あの三次も暴れたのかい?」
直ぐには信じられないでいる為二郎に、定吉は大袈裟に思えるくらい大きく頷く。
「へえ、そりゃあもう酷 えもんでさ」
牢に放り込まれた時からがたがた震え続けで妙な汗もかいていたのは、ただ怯えているせいかと思っていた。しかし腹まで下して夜も雪隠に通い続けて人の足や体を踏むし、揚げ句に泣き出したりここから出してくれなどと騒ぎ出す始末だ。
それで寄ってたかって殺しちまったかと、為二郎は胸の中で呟いた。
「近ごろはどうもね、見かけは大人しそうでもここが……」
言いながら、定吉は頭の横で人差し指をくるくると回す。
「いかれちまってる奴が少なくねえようで」
「ふうむ……」
眉を寄せて唸る為二郎に、定吉はさらに言った。
「あの三次って奴も、薬がどうのこうのとよくわからねえことを喚いて逆上 せちまって、まるでキ印でさ」
定吉の言うことをそのまま信じたわけではないが、為二郎は妙な胸騒ぎがしてならなかった。
これはもっと確かな医者に、例えば無駄足になっても小石川の養生所まで足を伸ばして、中山源庵先生に話をしてみようと為二郎は決めた。
顔こそ酷い有り様だが、その翌日も何事も無かったかのように黙々と仕事にかかる清次を見て、こいつは本当に大した野郎かも知れねえと、伊勢崎屋の人足らはますます思った。
中でも皆が特にそう思わされたのは、朝に徹太と顔を合わせた時のことだった。
昨日あんな事があった後でしかも和解もしていないままだから、また一悶着あってもおかしくはない。だからいざとなったら止めにゃあならねえと、誰も口には出さなかったが皆その腹積もりをしていた。
徹太はそんな中で店に現れたのだが、清次はごく僅かに微笑んでお早うとだけ言い、返事もせずにむくれたままでいる徹太には構わずに仕事の準備にかかった。
根に持って突っ掛かるでも、目も合わせず口もきかないでもなく。
かと言って機嫌を取るでも、妙に下手に出て近づこうとするでもなく。
「こりゃまた随分さっぱり、あっさりしてるじゃねえか」
思わず囁いた人足の一人に、もう一人も頷き返す。
「金持ち喧嘩せず、って言うがなかなか凄えや」
むしろ無視を決め込んでそっぽを向いている徹太の方が、普段以上に餓鬼くさく小さく見えてしまう。
しかし当の清次は皆にどう思われようが気にもせず、今日も油樽を運び続けた。
むしろ清次は、今日の徹太の様子が気になってならなかった。
ありゃあおれにまだ腹を立ててるんじゃねえ、何かひどく気に病んでることがあって頭が一杯……って面だ。
ほんの小僧っ子のうちにぐれ始めて、今の徹太と同じ年頃には比べものならないような本物の悪になっていた清次だ。出来ることなら自分と同じ間違いを犯す前に真っ当な道に引き戻してやりたいし、相談にも乗ってやりたいと思った。
だが今また意見がましいことを言えば、徹太のような奴は余計に意固地になるだけと思い直して、いつもの痛みを堪えるような顔で、喉元まで出かかった言葉を腹の底に押し込んだ。
その清次を、森田屋の幸助が何とも言えぬ複雑な顔で見詰めていた。
清次らが今日荷揚げしているのは森田屋の油で、だから幸助は手代だけに任せずに自分も立ち会うことにした。
「ほう、商 いに熱心なのは良いことだ」
息子の申し出を聞いて森田屋の主は芯から嬉しげな顔をしたが、幸助の本当の目当ては清次の顔を見ることだった。
お美代が言う清さんが誰なのか、尋ねてみるまでもなくすぐにわかった。すらりと背が高く、それに何より男でも見惚れるくらい良い顔をしている。
と言っても遊冶郎のようななよなよした色男ではなく、体は細身だが着物の下の筋肉は針金を縒り上げたようで、幸助にはとても持てぬ重い油樽を楽々と担ぎ上げている。
鷹のようだ。清次の姿を見て幸助は、まずそう思った。
鋭い目で周囲の何もかもを見下ろし、どんな小さな獲物も見逃さぬ猛禽。
大店 の跡取りとは言え、幸助も蔵の町とも言える大川端の佐賀町で育ったのだ。勇み肌で荒っぽい荷揚げ人足など、ほんの子供の頃から見慣れている。
だがその幸助の目にも、清次の周りに漂う空気は他の皆とはまるで違うように見えた。
トンビの群れの中にいる本物の鷹。ちょうどそんな感じだ。
川面を冷たい風が吹き抜ける中、懸命に働いているのもわかる。わかるが幸助は、清次を直に見てみてどうにも言いようのない厭な気持ちになった。
新大橋にも両国にも近い松島町は元は武家の組屋敷で、吉宗公の頃にようやく町屋になったところだ。だから今でも四方を大名屋敷や旗本屋敷に囲まれ、近くの浜町河岸の賑やかさとは別世界の離れ小島のような存在だ。
お里がその松島町のさらに奥まった裏店の上がり口から声をかけた時、母のお登与は枕屏風の向こうでまだ床についていた。清次がお縄になった時に心ノ臓の発作で倒れて以来、すっかり体が弱くなって今も寝たり起きたり半病人の有り様だ。
父の九助も指物師を続けてはいるが、目も衰え指先も震えて、昔のように根を詰めた仕事は難しくなっている。
だから自分が頑張らねばとわかってはいるのだが、お里も店の仕事が忙しくてなかなか様子も見に来られないでいる。
お里は返事も待たずに中に上がり込み、寝所から体を起こそうとするお登与を押し止どめて枕元の湯飲みの茶を入れ替えかけた。
その袖を掴んで、お登与は思い詰めた目を娘に向けた。
「大丈夫かい、清次はあんたンとこに顔を出したりしちゃいないだろうね?」
「心配しないで、あたしがあんな所にいるなんて、兄さんだって気づきゃあしないだろうし」
笑ってそうは言うものの、お里の顔色もどこか冴えない。住んでいた四ツ谷の家は黙って引き払って来たものの、何しろ客商売だし、店も広小路に近い両国の賑やかなところだから、いつあの無頼の兄に見つかってしまうかと、毎日肝を冷やし続けているお里だ。
「……そうかい、ならいいのだけれど」
一応は頷いて見せたものの、お登与も胸の動悸を抑え切れずにいる。
ずっと黙って箪笥にする板に向かっていた久助も鉋をかける手をふと止めて、誰とは無しに呟いた。
「あんな奴でもおれの子だし可哀想だとは思うが、何でそのまんま島に置いといて下さらなかったんだろう……って、お上のご沙汰を恨みに思っちまう」
「それは言いっこなしよ、おとっさん」
片頬に寂しい笑顔を浮かべるお里だが、実は心の中では気持ちは同じだ。清次がお縄になって罪状が知れ渡った後、家族の皆まで世間から爪弾きにされ、幼い頃からの友達にも鬼の身内といじめ抜かれたあの時の苦しさと辛さは骨の髄まで染み込んでいる。
その後おっかさんが倒れたのも自分が水茶屋に奉公しなければならなくなったのも、すべてあの与太者の兄のせいなのだ。
だから大横丁の長吉伯父から、清次が舞い戻って来てお前たちを捜していやがったと知らされた時には、胸を冷たい鉤爪でぎゅっと掴まれたような気持ちになった。
その恨む気持ちや不安を振り払うように、お里はくるくると立ち働いた。まず久助とお登与の汚れ物を井戸端で洗いながら、近所のおかみさん連中に親が世話になっている礼を言い、今後のことも頼む。そして部屋を掃き柱や床は艶拭きし、少し早めだが夕食の下拵えもするうちに、夕七ツ(午後四時)の鐘の音が聞こえてきた。
「もういいよ、お前は早く店にお帰り」
「でも」
やり残したことを捜して部屋の中を見回すお里に、お登与は帰るよう再び促した。
「来てくれるのは嬉しいさ、でも長岡屋のおかみさんはきつい人だし、お前がまた叱られると思うとあたしも辛いんだよ」
そう言われてしまうと、もう何も言えなくなってしまうお里だ。事実月に何度か、そう忙しくない時に店を空けてこうして親を見舞いに行くだけで、お里は散々厭味を言われていた。
しかし久助の稼ぎだけではどうにもならないお登与の薬礼を助けてくれているのは長岡屋で、それにまずこの松島町の家を見つけて請人になってくれているのも長岡屋だ。
長岡屋の機嫌を損ねでもしたら、お里と二親は明日から路頭に迷うしか無い。
その長岡屋に、もしあの兄さんが因縁をつけにでも来たりしたらと思うだけで、お里は生きた心地もしなくなる。
そん時はいっそ、この手で兄さんを殺してしまおうかしら……。
自分にはとてもそんな度胸など無いし、ただ頭で思うだけだとわかってはいる。しかし久助の仕事道具の鑿だの錐だのを見ているうちに、ついそんな気持ちになりかけてしまうお里だ。
清次だけなく猪吉もまた、徹太の様子がどうも変なのに気づいていた。
何かと人に突っ掛かりたがるのは、まあいい。強がって突っ張りたい年頃のことは、猪吉にも身に覚えがある。
それでも弱いもの苛めをしようってなら許しちゃおけないが、自分より上背のある島帰りに喧嘩を売っているのだから、むしろ骨のある奴と言うべきなのかも知れない。
ただ近頃は弥勒の三五郎一家のやくざとも係わり合っているらしいのが、どうも気に入らない。
仕事の後で一言意見しておくつもりで、猪吉は大急ぎで帰り支度をしている徹太に声をかけた。
「おいテツ」
が、ちょっと来ねえとも言わぬうちに、
「小頭すまねえ、話はまた後でッ」
そうまくし立てるが早いか、徹太は今日の分の日当を引っ掴んで伊勢崎屋の外に駆け出して行く。
「何だテツの野郎、惚れた女の所にすっ飛んでくみてえだな」
笑いながら言う誰かの声に、猪吉は本当にそうなら良いのだがと思いながら眉を顰めた。
そして清次もまるで同じことを思いながら、徹太が見る見る遠ざかり松永橋の向こうに姿を消した後も、物思わし気な目でその方の紺に近い暗い空をじっと見ていた。
家のある伊沢町を避けて少し遠回りをして、いつの間にか通い慣れた賭場に急ぐ。今夜こそ勝たねばと思い詰めるあまり、徹太は己がひどく血走った目をしているのにまるで気づかずにいた。
徹太は夕べもついてなかった。松蔵が木札を回してくれるのに甘えて、あと一番、次に勝てば借りなど綺麗に返せるからとずるずる勝負を続けるうちにますます負けが込んで、気がつけば賭場から借りた金は目を回すくらいの額になっていた。
土下座して詫びたところで、長屋暮らしの二親にそれだけの金がある筈も無く、このままでは親兄弟皆に泣きを見せることになる。だから今夜こそ勝つか死ぬしかないと、それくらいの気持ちで門前仲町の隣の、松平加賀守の下屋敷の賭場に向かっていた。
預けた囚人が死んだと小伝馬町の牢屋敷から知らせが来て、この半年だけで何人になるか、四ツ谷を回る北の同心中野為二郎は指を折って数えた。
牢屋は宿屋とは違うし、新入りの囚人を迎えるのは牢名主以下の鬼より恐ろしい面々だ。その牢名主に気に入られず、酷い折檻の揚げ句に殺されてしまう者もいることは、為二郎ら奉行所の者も薄々承知だ。
だがそれにしても妙だった。
牢内で殺されるのは、他の囚人に恨まれる理由がある者が殆どだ。例えば、悪事が露見してお縄になった岡っ引きだとか。
しかしここのところ死んでいるのは、出来心で人さまの物や財布につい手を出してしまったような者ばかりで、殆どは職もあり身元も確かだった。
そう言えば為二郎が使っている伊賀町の重蔵が捕らえたこそ泥も、小伝馬町に送られて間もなく死んでしまった。
そのこそ泥を引っ立てて来た時に重蔵が言っていた気になることも思い出し、為二郎は小伝馬町に出向いていろいろ確かめてみようと決めた。
北町奉行所から小伝馬町の牢屋敷までは、目と鼻の先とは言わぬが割合に近い。呉服橋御門を出て一石橋を渡り、外濠に沿って進み竜閑橋の手前で右手に折れて本銀町の賑やかなところを行けばすぐだ。
最も新しい死人の出た二間牢の牢名主は初めて見る顔だったが、鎌鼬の定吉などという二つ名を持つ男だけに、牢同心に拷問蔵に引き出されても不精髭だらけの顎の下あたりを指の先で掻きながらそっぽを向いていた。
ただ為二郎はこの拷問蔵に入る時、壁に並ぶ笞や抱かせる石、それに天井から下がる海老責めの鉤をちらりと見やった時の、定吉の目の中の微かな揺らぎを見逃さなかった。
「ま、座れ」
為二郎は自分のすぐ前を目で示し、牢同心や下男らには外に出てもらう。そして来る途中に見かけた店で買った金鍔焼を三つ、懐から出して定吉の前に並べた。
「遠慮は要らねえ、食いな」
定吉はその金鍔焼に目を落とし、喉が鳴るのも聞こえたが手は出さぬ。
「……旦那はいってえ、何をお聞きになりてえんで?」
「塩町の桶屋の三次だよ」
死んだと知らせがあったばかりの男の名をぶつけてみたが、やや黄ばんだ目で見返したまま定吉は何も言わぬ。
「三次だけじゃねえ、あんな堅気のおとなしい奴らを、なぜ殺す必要があったのだ?」
「
「そうだろうな、医者もそう言うだろうさ」
牢屋敷の囚人を看る医者などいい加減なもので、牢内で誰がどう死のうが鳩尾の辺りを形だけ探って、なるほど病死に間違い無しと頷いてしまう。さらに牢を出る際には牢名主からそれなりの金を握らされていることも、為二郎も既に承知だ。
「おれはな、おめえらがしたことを咎め立てしようってんじゃねえんだ。牢内には牢内の掟ってものがあるだろうし、な?」
柔らかく言いながら、為二郎は定吉の目を真っすぐに見て続ける。
「ただどう見ても人に憎まれそうもねえ奴らが続けて死んでるわけが知りてえ、それだけよ」
その為二郎の目の中を覗き込んでいた定吉だが、ふと肩の力を抜いてすぐ前に並んだ金鍔焼に手を伸ばす。そして三つともたちまち平らげて、指先についた餡を嘗めながらぼそりと呟いた。
「……寝られねえんでさ」
「寝られねえ?」
「考えてもみて下せえ、狭い牢屋に、むさ苦しい野郎どもが何十人って押し込められてんだ。寝返りひとつ打てねえでただでさえ寝苦しくてならねえところに、騒いだり暴れたりして、折角の寝入りばなを起こしやがる奴がいてみなせえ」
「あの三次も暴れたのかい?」
直ぐには信じられないでいる為二郎に、定吉は大袈裟に思えるくらい大きく頷く。
「へえ、そりゃあもう
牢に放り込まれた時からがたがた震え続けで妙な汗もかいていたのは、ただ怯えているせいかと思っていた。しかし腹まで下して夜も雪隠に通い続けて人の足や体を踏むし、揚げ句に泣き出したりここから出してくれなどと騒ぎ出す始末だ。
それで寄ってたかって殺しちまったかと、為二郎は胸の中で呟いた。
「近ごろはどうもね、見かけは大人しそうでもここが……」
言いながら、定吉は頭の横で人差し指をくるくると回す。
「いかれちまってる奴が少なくねえようで」
「ふうむ……」
眉を寄せて唸る為二郎に、定吉はさらに言った。
「あの三次って奴も、薬がどうのこうのとよくわからねえことを喚いて
定吉の言うことをそのまま信じたわけではないが、為二郎は妙な胸騒ぎがしてならなかった。
これはもっと確かな医者に、例えば無駄足になっても小石川の養生所まで足を伸ばして、中山源庵先生に話をしてみようと為二郎は決めた。
顔こそ酷い有り様だが、その翌日も何事も無かったかのように黙々と仕事にかかる清次を見て、こいつは本当に大した野郎かも知れねえと、伊勢崎屋の人足らはますます思った。
中でも皆が特にそう思わされたのは、朝に徹太と顔を合わせた時のことだった。
昨日あんな事があった後でしかも和解もしていないままだから、また一悶着あってもおかしくはない。だからいざとなったら止めにゃあならねえと、誰も口には出さなかったが皆その腹積もりをしていた。
徹太はそんな中で店に現れたのだが、清次はごく僅かに微笑んでお早うとだけ言い、返事もせずにむくれたままでいる徹太には構わずに仕事の準備にかかった。
根に持って突っ掛かるでも、目も合わせず口もきかないでもなく。
かと言って機嫌を取るでも、妙に下手に出て近づこうとするでもなく。
「こりゃまた随分さっぱり、あっさりしてるじゃねえか」
思わず囁いた人足の一人に、もう一人も頷き返す。
「金持ち喧嘩せず、って言うがなかなか凄えや」
むしろ無視を決め込んでそっぽを向いている徹太の方が、普段以上に餓鬼くさく小さく見えてしまう。
しかし当の清次は皆にどう思われようが気にもせず、今日も油樽を運び続けた。
むしろ清次は、今日の徹太の様子が気になってならなかった。
ありゃあおれにまだ腹を立ててるんじゃねえ、何かひどく気に病んでることがあって頭が一杯……って面だ。
ほんの小僧っ子のうちにぐれ始めて、今の徹太と同じ年頃には比べものならないような本物の悪になっていた清次だ。出来ることなら自分と同じ間違いを犯す前に真っ当な道に引き戻してやりたいし、相談にも乗ってやりたいと思った。
だが今また意見がましいことを言えば、徹太のような奴は余計に意固地になるだけと思い直して、いつもの痛みを堪えるような顔で、喉元まで出かかった言葉を腹の底に押し込んだ。
その清次を、森田屋の幸助が何とも言えぬ複雑な顔で見詰めていた。
清次らが今日荷揚げしているのは森田屋の油で、だから幸助は手代だけに任せずに自分も立ち会うことにした。
「ほう、
息子の申し出を聞いて森田屋の主は芯から嬉しげな顔をしたが、幸助の本当の目当ては清次の顔を見ることだった。
お美代が言う清さんが誰なのか、尋ねてみるまでもなくすぐにわかった。すらりと背が高く、それに何より男でも見惚れるくらい良い顔をしている。
と言っても遊冶郎のようななよなよした色男ではなく、体は細身だが着物の下の筋肉は針金を縒り上げたようで、幸助にはとても持てぬ重い油樽を楽々と担ぎ上げている。
鷹のようだ。清次の姿を見て幸助は、まずそう思った。
鋭い目で周囲の何もかもを見下ろし、どんな小さな獲物も見逃さぬ猛禽。
だがその幸助の目にも、清次の周りに漂う空気は他の皆とはまるで違うように見えた。
トンビの群れの中にいる本物の鷹。ちょうどそんな感じだ。
川面を冷たい風が吹き抜ける中、懸命に働いているのもわかる。わかるが幸助は、清次を直に見てみてどうにも言いようのない厭な気持ちになった。
新大橋にも両国にも近い松島町は元は武家の組屋敷で、吉宗公の頃にようやく町屋になったところだ。だから今でも四方を大名屋敷や旗本屋敷に囲まれ、近くの浜町河岸の賑やかさとは別世界の離れ小島のような存在だ。
お里がその松島町のさらに奥まった裏店の上がり口から声をかけた時、母のお登与は枕屏風の向こうでまだ床についていた。清次がお縄になった時に心ノ臓の発作で倒れて以来、すっかり体が弱くなって今も寝たり起きたり半病人の有り様だ。
父の九助も指物師を続けてはいるが、目も衰え指先も震えて、昔のように根を詰めた仕事は難しくなっている。
だから自分が頑張らねばとわかってはいるのだが、お里も店の仕事が忙しくてなかなか様子も見に来られないでいる。
お里は返事も待たずに中に上がり込み、寝所から体を起こそうとするお登与を押し止どめて枕元の湯飲みの茶を入れ替えかけた。
その袖を掴んで、お登与は思い詰めた目を娘に向けた。
「大丈夫かい、清次はあんたンとこに顔を出したりしちゃいないだろうね?」
「心配しないで、あたしがあんな所にいるなんて、兄さんだって気づきゃあしないだろうし」
笑ってそうは言うものの、お里の顔色もどこか冴えない。住んでいた四ツ谷の家は黙って引き払って来たものの、何しろ客商売だし、店も広小路に近い両国の賑やかなところだから、いつあの無頼の兄に見つかってしまうかと、毎日肝を冷やし続けているお里だ。
「……そうかい、ならいいのだけれど」
一応は頷いて見せたものの、お登与も胸の動悸を抑え切れずにいる。
ずっと黙って箪笥にする板に向かっていた久助も鉋をかける手をふと止めて、誰とは無しに呟いた。
「あんな奴でもおれの子だし可哀想だとは思うが、何でそのまんま島に置いといて下さらなかったんだろう……って、お上のご沙汰を恨みに思っちまう」
「それは言いっこなしよ、おとっさん」
片頬に寂しい笑顔を浮かべるお里だが、実は心の中では気持ちは同じだ。清次がお縄になって罪状が知れ渡った後、家族の皆まで世間から爪弾きにされ、幼い頃からの友達にも鬼の身内といじめ抜かれたあの時の苦しさと辛さは骨の髄まで染み込んでいる。
その後おっかさんが倒れたのも自分が水茶屋に奉公しなければならなくなったのも、すべてあの与太者の兄のせいなのだ。
だから大横丁の長吉伯父から、清次が舞い戻って来てお前たちを捜していやがったと知らされた時には、胸を冷たい鉤爪でぎゅっと掴まれたような気持ちになった。
その恨む気持ちや不安を振り払うように、お里はくるくると立ち働いた。まず久助とお登与の汚れ物を井戸端で洗いながら、近所のおかみさん連中に親が世話になっている礼を言い、今後のことも頼む。そして部屋を掃き柱や床は艶拭きし、少し早めだが夕食の下拵えもするうちに、夕七ツ(午後四時)の鐘の音が聞こえてきた。
「もういいよ、お前は早く店にお帰り」
「でも」
やり残したことを捜して部屋の中を見回すお里に、お登与は帰るよう再び促した。
「来てくれるのは嬉しいさ、でも長岡屋のおかみさんはきつい人だし、お前がまた叱られると思うとあたしも辛いんだよ」
そう言われてしまうと、もう何も言えなくなってしまうお里だ。事実月に何度か、そう忙しくない時に店を空けてこうして親を見舞いに行くだけで、お里は散々厭味を言われていた。
しかし久助の稼ぎだけではどうにもならないお登与の薬礼を助けてくれているのは長岡屋で、それにまずこの松島町の家を見つけて請人になってくれているのも長岡屋だ。
長岡屋の機嫌を損ねでもしたら、お里と二親は明日から路頭に迷うしか無い。
その長岡屋に、もしあの兄さんが因縁をつけにでも来たりしたらと思うだけで、お里は生きた心地もしなくなる。
そん時はいっそ、この手で兄さんを殺してしまおうかしら……。
自分にはとてもそんな度胸など無いし、ただ頭で思うだけだとわかってはいる。しかし久助の仕事道具の鑿だの錐だのを見ているうちに、ついそんな気持ちになりかけてしまうお里だ。
清次だけなく猪吉もまた、徹太の様子がどうも変なのに気づいていた。
何かと人に突っ掛かりたがるのは、まあいい。強がって突っ張りたい年頃のことは、猪吉にも身に覚えがある。
それでも弱いもの苛めをしようってなら許しちゃおけないが、自分より上背のある島帰りに喧嘩を売っているのだから、むしろ骨のある奴と言うべきなのかも知れない。
ただ近頃は弥勒の三五郎一家のやくざとも係わり合っているらしいのが、どうも気に入らない。
仕事の後で一言意見しておくつもりで、猪吉は大急ぎで帰り支度をしている徹太に声をかけた。
「おいテツ」
が、ちょっと来ねえとも言わぬうちに、
「小頭すまねえ、話はまた後でッ」
そうまくし立てるが早いか、徹太は今日の分の日当を引っ掴んで伊勢崎屋の外に駆け出して行く。
「何だテツの野郎、惚れた女の所にすっ飛んでくみてえだな」
笑いながら言う誰かの声に、猪吉は本当にそうなら良いのだがと思いながら眉を顰めた。
そして清次もまるで同じことを思いながら、徹太が見る見る遠ざかり松永橋の向こうに姿を消した後も、物思わし気な目でその方の紺に近い暗い空をじっと見ていた。
家のある伊沢町を避けて少し遠回りをして、いつの間にか通い慣れた賭場に急ぐ。今夜こそ勝たねばと思い詰めるあまり、徹太は己がひどく血走った目をしているのにまるで気づかずにいた。
徹太は夕べもついてなかった。松蔵が木札を回してくれるのに甘えて、あと一番、次に勝てば借りなど綺麗に返せるからとずるずる勝負を続けるうちにますます負けが込んで、気がつけば賭場から借りた金は目を回すくらいの額になっていた。
土下座して詫びたところで、長屋暮らしの二親にそれだけの金がある筈も無く、このままでは親兄弟皆に泣きを見せることになる。だから今夜こそ勝つか死ぬしかないと、それくらいの気持ちで門前仲町の隣の、松平加賀守の下屋敷の賭場に向かっていた。