第21話
文字数 12,212文字
その頃、佐吉の妹のお志津はまだ十六で、四ツ谷の新伝馬町の団子屋に奉公していた。櫻屋は店は小さいし仕事も忙しいが、主人もおかみさんも良い人で、お志津は辛いとも思わず日々働いていた。
その櫻屋の主人に、お志津は用事を言いつけられた。
「赤坂の田町二丁目に泉屋って店があるんだが、ちょいと届け物をしてくれねえか」
赤坂田町と言えば目と鼻の先とまでは言えないが、女の足でも半刻もかかるとは思えない。
二つ返事で頷くお志津に櫻屋の主人はにこりとして、店で一番売れているみたらし団子を五串ほど取って竹の皮に包んだ。そして泉屋に届ける荷物とは別に持たせた。
「使いの帰りにおとっさんのとこにちょいと寄って、こいつを食いながら話でもして来な。兄さんだけでなくお前も奉公に出ちまってるから、源造さんはずっと一人なんだろ? 毎日さぞ寂しかろうよ」
お志津は顔を輝かせて一つ頭を下げ、表の道に踊るように飛び出して行った。
そのお志津の後ろ姿を見送る櫻屋の主人に、店の奥で餡を練っていた女房が声をかけた。
「美人ってのとはちょいと違うけれど可愛いし、よく働くし親孝行だしで、お志津ちゃんはほんとに良い子だよ」
お志津の父の源造は愛染門前町の裏店に住む鋳掛屋で、毎日重い道具を天秤棒で担いで近くの町々を回っては、鍋や釜を直して暮らしを立てていた。
お志津と佐吉の母親は二人がまだ幼い頃に急な病で死んでいて、後添えを世話しようという人も居ないでも無かった。だがそうした話は全て断って、源造は男手一つで二人の子をを育て上げた。
「もしこいつらが継子苛めにでも遭わされたら、あの世で女房に申し訳が立たねえ」
そう言うのを、お志津も耳にしたことがある。
馬鹿が付くほど正直で、貧乏くじを引きがちなものだから、稼ぎの方はあまり良くなく暮らしも楽では無かったが、お志津はそんな父親が大好きだった。
その父に自分が売っている自慢の団子を食べさせることができると思うと嬉しくて、お志津の足は自然と早くなる。それで赤坂にも程なく着いたのだが、着いた先で泉屋を見つけるのに少し手間取ったのと、櫻屋を出る時に既に日は傾きかけていたのとで、用を済ませた頃には既に辺りはかなり暗くなっていた。
外濠に沿って紀伊国坂を上り、喰違見付の前の火除地に出たお志津は少し考えた。このまま真っすぐ四ツ谷御門の近くまで行き、甲州街道を少し進み櫻屋の直ぐ側まで戻ってから天王横丁を上っても良いが、それだと少しばかり遠回りになる。
それでお志津は紀伊家の上屋敷の角で曲がり、四ツ谷仲町と侍屋敷の間の細い坂道を行くことにした。
微禄の旗本や御家人の屋敷が並ぶ間の細い道を何度か曲がり、鉄砲坂を上るとその先は鮫ヶ橋だ。そこがあまり空気の良くないところだということは知っていたし、少し厭な気はしたが、おとっさんに少しでも早く会いたい気持ちの方が先に立った。
それにそもそもお志津が生まれて育った愛染門前町だって、鮫ヶ橋谷町のすぐ隣だ。だからお志津にしてみれば、只っ広いのに妙に人気が無くて首縊りも時々出る喰違見付の辺りの方が、お化けでも出そうでむしろ気味が悪いくらいだった。
わざわざ遠回りして甲州街道から行ったところで、その先の天王横丁が狭くて暗い裏通りなのは変わらない。
だったら、どうせ同じことじゃないの。
お志津は自分にそう言い聞かせて、土産の団子を手に鮫ヶ橋へ向かう細い坂道を上って行った。
「どうしやす清次の兄ィ、また助平親爺でもとっ捕まえて引っぱたいてやりやすか?」
前髪を落としてまだ間もない松蔵だが、伝法な物言いから荒くれた態度まで既に一端の悪になり切っていた。
その松蔵の肩にもたれるようにして、清次は低く含み笑いを漏らした。
「それも悪かぁねえが、今夜は娘っ子の方をとっ捕まえてえ気分だぜ」
親爺なら実は昨夜締め上げたばかりだから、懐の方はまだ充分に温かい。
「兄貴もお盛んだ。いつも思ってんだが、兄貴にゃいってえ女が何人いるんでさ」
昨夜も捕まえた親爺を散々いたぶった後、巻き上げた金で朝まで女と遊び惚けていたことを松蔵は知っている。そして昼間はずっと寝て過ごして、日が落ちる頃に起き出して何がしたいと言い出すかと思えば、また女が欲しいとくる。
「兄貴がもてるのはよくわかってるが、そう女を取っ替え引っ替えしてちゃ、いつか誰かに刺されても知りやせんぜ?」
松蔵のやっかみ半分の忠告を、こちらも二十を少し過ぎたばかりの清次は馬鹿めと軽く笑い飛ばす。
「おめえも男ならわかるだろ、女なんざいくら居ても足りるもんじゃねえや。おれは殆ど毎晩ヤってるが、今だってもう金玉が張り裂けそうだぜ」
言いながら清次は、猥らな笑みを浮かべて右の手で股の辺りを一擦りして見せた。
「じゃ、これからどの女のとこに行きやすか」
「いや、みんな飽きちまった」
「え、もうですかい?」
「仕方ねえだろ、誘えばすぐ股を開くような女なんざ、抱いたってちっとも面白くねえや」
そんな女にまだ出逢ったことなど無い松蔵には羨まし過ぎる話だが、清次は時々真顔でそういう事を言った。そして言い出したら清次が次に何をするかも、松蔵はよく承知していた。
「みんな行くぜ、さあ狩りだ」
その清次の掛け声に、松蔵を含めたぐれた仲間達が一斉におうと応じた。
お志津は鉄砲坂の突き当たりを右に折れ、団子の包みを胸に抱くようにして道なりに愛染院の方に進んだ。そして御持組の組屋敷の前も過ぎさらに一丁ほど進んだ辺りで、西念寺と真成院の間の暗がりから湧き出して来た男たちに取り囲まれた。
「どこへ行くんだ姉ちゃん、おれっちと遊ぼうや」
踵を返して逃げる前に腕を掴まれ、鳩尾に拳を叩き込まれて上げかけた悲鳴も途切れてしまう。
息も出来ずにただ喘ぐお志津を、男たちは鮫ヶ橋の暗い裏路地に引きずって行った。お志津が大事に持って来た櫻屋の団子も地べたに落ちて男達の足に踏みにじられたが、その事に誰も気が付かぬ。
饐えた汗の臭いのする埃っぽい荒屋に、お志津は突き飛ばされるように押し込まれた。畳も無く板の間にただ筵が敷いてあるだけの部屋に入るなり、頭株らしい背の高い痩せた男がものも言わずにお志津を押し倒して帯に手をかけた。
驚きと恐怖で頭が働かずにいたお志津だが、
「あっ、厭ッ」
身をもがき、両手を突っ張って男から逃れようとした。
その途端、目が眩むような猛烈な平手打ちが続けざまに頬を襲った。
二発、そして三発。殴られる度にお志津の首は大きくねじれ、頭の後ろが床板にぶつかった。
気が遠くなりかけて体の力が抜け、ぐったりしかけたお志津を見下ろして、背の高い頭株の男が下卑た笑い声を上げた。
「やっと大人しくなりやがった」
そして何のためらいも無く、お志津の上にのしかかってきた。
女はみんな、おれに抱かれる為に生きている。
清次はその頃、本気でそんな風に思っていた。
と言うより、ただ体の中から突き上げるような欲望に動かされ、熱く猛る己の男のものを女の中に埋めることしか頭に無かった。
何より清次は女にもてた。松蔵にも言ったように抱いて欲しがる女は掃いて捨てるほどいたし、だから女は誰だっておれに抱かれりゃ最後は喜ぶくらいに思っていた。
清次はお志津の帯を引きちぎるように解き、着物と肌襦袢の前を開けた。そしてこぼれ出た白い双乳にむしゃぶりつき、口と手でなぶる。
まだ堅い小ぶりな乳房を握り潰すように揉みしだき、目尻から涙の粒を流しながら背筋を反らして痛みを堪えるお志津の桜色の乳首を、清次は歯型が残るほど強く噛む。さらに腰巻きも剥ぎ取ると、脚を大きく割らせてその間に己のものを押し当てた。
「やだ、やだッ」
お志津は譫言のように繰り返しながら首を振り続けたが、清次は構わず狭くきつい谷間に侵入した。
「痛ッ、痛い、痛い助けてッ」
体を捩らせて泣き声を上げるお志津を、清次はもう一度引っぱたいた。
「うるせえッてんだよ!」
そして一気に根元まで押し込むと、体をぶつけるように力の限り腰を動かす。
散々尻を振って男の精を出し切った後、清次は己のものを懐紙で拭いながら松蔵を振り返って笑った。
「おい、この姉ちゃんのお初を頂いてやったぜ」
そして裸のままぐったりして泣き続けているお志津を松蔵に譲り、今度は仲間たちが犯すのを見る方に回った。
この夜清次が連れていた仲間は、松蔵も含めて四人ほどいた。清次はその仲間の腰つきを笑ったり、こんな体位も試してみねえと冷やかしたりしていたが、最後の一人が終わる頃にまた激しい欲望が蘇って来るのを感じた。そして更にもう一度、仲間たちとお志津を嬲り尽くした。
気がつくと狭い部屋には汗と男の精の臭いが濃く満ちていて、娘は泣くことすら止め、虚ろな目を宙に向けて手と足を大きく広げたままでいた。
「臭えな、おい」
清次は顔を顰めて娘を獣の死骸か何かのように家の外に放り出し、裸の体の上に着物を放り投げた。
「姉ちゃん、もう用はねえから早く帰んな」
破けて皺だらけの着物を体に巻き付けて、愛染門前町の長屋にお志津が這うようにして帰って来たのは、それから小半時ほど後のことだった。
「お志津ッ」
障子戸を引き開けるなりものも言わずに中に倒れ込んだお志津を、源造は両腕に抱き抱えた。
何があったのかは、聞くまでもなくすぐにわかった。しかし男親の悲しさで、こんな時はどうしてやれば良いかまるでわからぬ。
それで娘の名を呼びながらただ抱き締めていると、お志津は今どこでそこに居るのが誰なのかもわからぬ様子で、
「いや、もう堪忍して」
弱々しい手で父の胸を押し返そうとしながら譫言のように呟いた。
「お志津、おとっさんだお志津ッ」
哀れな娘の背と乱れた髪を撫でながら、ただそう繰り返す源造の悲痛な声は、長屋の薄い壁越しに隣近所にも届いた。
程なく右隣の喜久次とお阿佐の夫婦が出て来て、開け放たれたままの戸口から顔を覗かせた。
「源造さん、いってえどうしたって……」
しかしその喜久次も、その後の言葉を呑み込んで目を背けた。
この右隣の夫婦は源造ともほぼ同年代で、源造が妻を亡くしてからは何くれとなく一家の面倒を見てくれていた。源造が男手一つで娘を何とか育て上げられたのも、特にお阿佐の助けがあったからと言っても良かった。
そのお阿佐は断りも無しに中に上がり込み、
「いいから、あたしに任せときな」
源造にそう頷いて見せ、亭主の喜久次には外に出て誰も近づけないよう見張っているよう言いつけた。
お阿佐がお志津を布団に寝かせて湯を沸かし、枕屏風の向こうで娘の肌を拭い始めたのを見た途端、源造は目が眩むような怒りに駆られて外に飛び出した。
そして天王横丁の坂を駆け下り、甲州街道を渡った向こうの伊賀町の重蔵の家の戸を激しく叩いた。
「親分さん、お願えだッ。畜生どもをぶち殺して下せえ!」
皆がそろそろ床に就き、町々の木戸も閉めようという頃に引っ張り出されて、重蔵は初めのうち不機嫌でろくに口もきかなかった。一方の源造も元来口下手な上に動転しているから、話すことも殆ど要領を得ない。
が、愛染門前町の源造の長屋に着いてお志津の姿を見た途端、重蔵の顔色が一変した。
土地 では鮫だの鰐だのと恐がられている十手持ちの親分だが、実はこの重蔵にも十四歳になる娘がいた。だからお志津のことも他人事とは思えず、どうしても我が身に置き換えて考えてしまう。
枕屏風越しに見えるお志津の方はなるべく目を向けないようにして、重蔵は柄にもなく優しげな声をかけ、お志津が途中で泣いて言葉を詰まらせても根気よく話を聞き出した。
お志津の枕元から立ち上がった時、重蔵はただでさえぎょろりとした目に異様な光を浮かべていた。そしてどすの利いた低い声で、見ていろと呟いた。
「清次か、清次の兄ィって呼ばれる奴でこんな非道い真似が出来るのは、あの野郎しか居ねえ」
「待ってろ、野郎はおれが必ずお縄にしてやらあ」
そう勢い込んで出て行った重蔵は、思い当たる清次のねぐらを順繰りに当たった。そして幾人もいる情婦のうちの一人のところで、酒を食らって共寝をしている枕元に踏み込んで縄をかけた。
その清次が西念寺横丁近くの番屋にしょっぴかれて行った頃には、佐吉も知らせを受けて妹のところに駆けつけていた。佐吉の奉公先の麹町十三丁目の堀川屋は天王横丁を下りきった先の甲州街道沿いにあり、源造の長屋から三丁も離れていない。
清次が捕らえられたところで、お志津の心と体が元通りになるわけはない。ただこんな惨いことをした鬼畜には、少なくともそれに相応しい厳しいお裁きが下されるものと、佐吉も源造も信じて疑わなかった。
清次は翌朝を待って呉服橋御門内の北町奉行所の仮牢に放り込まれたが、調べに当たった吟味方の与力にお志津を手籠めにした覚えなどないと言い張った。
「ならばその方、その娘を見たことも無ければ指一本触れたことも無いと申すか?」
「いえ、お志津って娘といいことをしたのは本当でさ」
「何ッ、おのれ上役人を愚弄するかッ!」
「とんでもござんせん、あっしはただ手籠めにはしてねえと申し上げてるんで。娘と乳繰り合いはしたが、あれはお互い納得ずくのことなんでさ」
「ふざけた事を申すな、納得ずくなら何故娘があれほど酷く殴られておるのだッ」
青筋を立てた与力に怒鳴りつけられても、清次は傲然と顔を上げ薄笑いすら浮かべてすらすら答えた。
「娘と情を通じたのも手を上げたのも間違いありやせんが、その順序が違うんでさ」
実はあのお志津って娘には勝手に惚れられてつきまとわれて困っていたのだと、清次はぬけぬけと言ってのけた。
「それで一度でいいから抱いてくれろ、そしたら諦めるからと言われやしてねえ。そこまで言われりゃあっしだって男だ、据え膳食わぬは何とやらでつい手を出しちまったんでさ」
旦那も男なら気持ちはわかるでしょうと、清次はにたりと笑う。
「それで抱いてやった途端、約束なんて忘れた顔して夫婦になれだの何だの言いやがったもんだから、つい頭に来て引っぱたいちまったんでさ」
聞いているだけでも腸が煮え繰り返るような物言いだが、殴って手籠めにしたのか、ことが済んだ後に痴情の縺れで手を上げたのか、確かなことは当人同士にしかわからぬのも事実だ。
「よかろう、百歩どころか千歩譲って仮にそうだとしよう。だがお互い納得ずくの情交にしては、その方の女の扱いは手荒過ぎるのではないか?」
お志津の体を清めた隣家のお阿佐の申し立ててによると、肩やら乳房やら腿やらあちこちに噛んだ跡や痣が幾つもあっただけでなく、女陰も酷く裂けて血がなかなか止まらぬ状態だったという。
そのことを告げても、清次は与力の白いものが混じりかけた頭を眺めてへらへら笑うばかりだ。
「そうでしたかい、それは気が付かねえで申し訳ない事をしやした。ただあっしはまだ若いんでね、女とことをする時にゃ、つい激しくなっちまうんでさ。それに女の中には、そういう方が好きってのもおりやしてねえ」
ああ言えばこう言うで、よくここまで抜け抜けと白を切れるものだと呆れるばかりだ。
しかしどれだけ諭して叱りつけ、時には殴りつけても、清次はその嘘話を繰り返した。そしてそう言い張って少しも動じない様子を見るうち、与力ももしやという気持ちを捨て切れなくなってきた。
それにこの清次は男から見れば胃の腑がむかむかするほど厭な野郎だが、女には背筋がぞくりとするような色男に見えるのだろうということもわかる。
さらに清次がお縄になったと聞いて、清次の仲間や情婦やらが次々に奉行所にやって来た。そして清次の申し開きを裏付けることを口々に言い立てた。
「手籠めにしただなんてとんでもありやせん、清次の兄貴はもててもてて困ってるくれえなのに、何であんな小便臭い小娘になんざ手を出さなきゃならねえんでさ」
「そうでさ、あの娘の方から抱いてくれって言って来たんでさ」
「へい、あの娘っ子が清次の兄ィに付き纏ってたのはほんとの事でさ。度々追っかけ回されて兄貴が煩がってたのを、あっしもこの目で見ておりやす」
「あの小娘はとんだ食わせ者の泥棒猫ですよ、体で誘って清さんと夫婦になろうなんて、いけ図々しいったらありゃしない」
「女のあたしがこう言っちゃ何ですが、一度男と女の関係になったら相手の弱みを握ったつもりになって、手籠めにされたの何だのと後で騒ぐのは、あばずれ女がよく使う手ですよ」
櫻屋の夫婦は話を聞いてお志津の為に我が事のように悲しみ、そして清次にひどく腹を立てた。
「馬鹿馬鹿しい、あんな良い子が清次みてえな屑に惚れるわけありませんや。第一ね、あの悪たれがうちの店に来たことも無ければ、お志津が清次の噂をするのを聞いたことだってただの一度もありません」
だが櫻屋の夫婦の申し立ても、清次の仲間や情婦たちの言うことはまるで嘘だという確かな証にはならなかった。
吟味方の与力だけでなく、北町奉行もこの件をどう裁くかひどく困った。
奉行や与力の心証としては、清次は限りなく黒に近い。しかし清次がお志津を攫って手籠めにしたのを見たという者も、誰一人として居ないのが現実だ。
清次に手籠めにされたという証は、お志津自身の言葉の他には何も無い。
重蔵が縄をかけた時に清次と一緒だった女も、呼ばれた奉行所で吟味方の与力に皮肉を込めた口調でこうも言った。
「女に手籠めにされたと言われれば、男はそれだけで縛られちまうんですかねえ」
だから奉行は、確かにわかっている事だけでこの件の裁きをつけるしか無かった。
清次はお志津を殴り怪我をさせた。その事だけは間違いないし、清次自身も認めている。だから奉行はお白州で清次の日頃の不行跡を激しく叱責し、それと併せて重敲を言い渡した。
手籠めがあったか無かったかについては、奉行もあえて触れぬ。
敲は伝馬町の牢屋敷の門前で行われ、箒尻で軽敲なら五十、重敲では百回背中を打たれる。そして打ち終わると膏薬を塗られ、後はどこなりとも立ち去ることが許される。
たったそれだけで清次がお解き放ちになって元の鮫ヶ橋に舞い戻って来たと聞いて、源造や佐吉たちの気持ちが納まるわけがない。
「何故なんです親分さん、そんな馬鹿な話があって良いもんなんですか、ねえッ」
涙を浮かべ胸倉を掴まぬばかりの源造に、重蔵も苦い顔で目を逸らす。
「納得出来ねえのはおれも同じよ。だがな、あの事は忘れるのがお志津ちゃんの為と思って堪えろ」
「このまま泣き寝入りしろって言うんですかい? わかんねえ、何でそれがお志津の為なんですッ」
このお裁きに納得出来ずにいたのは、清次をお縄にした重蔵も同じだ。ただ抱え主の同心の中野為二郎からお奉行さまの真意を聞かされて、そうするしか無かったのだと苦い思いで心を抑えつけた。
「冷てえことを言うようだが、清次がした事を暴き立ててどうなるよ? お志津ちゃんが手籠めにされたって、ただ世間に触れて回るようなものだぜ」
源造の顔が怒りで赤く染まるが、ぐっと詰まって返す言葉も見つからずにいる。
「わかるだろ? ほんとのことを明らかにしたって、世間から妙な目で見られてお志津ちゃんの傷が深くなるだけで、何の得にもならねえのだ。まあ、あの糞野郎の罪は少し重くなるだろうが、ただそれだけだ。女を手籠めにしたところで死罪にゃあならねえし、お志津ちゃんが元の体になるわけでもねえ」
「頭ではわかるが納得できねえ、理不尽過ぎらあ」
小刻みに震える源造の肩に、重蔵がそっと手をかける。
「おれもそう思うが、それが世の中ってもんなんだ。よく言われるこったが、お志津ちゃんの先のことを考えれば、野良犬に噛まれたと思って一日も早く忘れるの一番なのよ」
まだ十六という若さもあってか、お志津の体の傷は程なく癒えた。が、心の方はそうは行かなかった。
櫻屋の夫婦も心配して長屋まで見舞いにも来てくれたし、体が良くなったらまた店に戻って来て欲しいとも言ってくれた。その気持ちはお志津もありがたいと思ったし、早く店に戻らなければと自分でも思っていた。
だがどうしても駄目だった。店に戻るには両側を寺に挟まれた天王横丁を下って行かねばならないが、細い裏道を歩くだけでお志津は足が竦んで震えが止まらなくなった。
そんな思いをして櫻屋まで着いても、今度は店で客の相手をするのさえ恐ろしくてならない自分に気づいた。
店の前は甲州街道で、日が暮れるまで人通りが絶えない。もしその中にあの男がいて、店の中にぬっと顔を出したらと思うだけで、その場にしゃがみ込みたくなってしまう。それだけではなく、店にただ男の客が入って来ただけで肌が粟立ち気分が悪くなった。
それで櫻屋の夫婦に断りを言って逃げるように父の裏長屋に帰り、以来お志津は愛染門前町の九尺二間の狭い部屋から殆ど出られなくなった。
そんな娘が源造は哀れでならず、しかし口下手ゆえにどう慰めたら良いかもわからなくて、一日も早く心が癒えるのを祈りつつ、ただ好きにさせておくしか出来なかった。
その源造は鋳掛屋だから昼間はあちこちの町を歩き回って鍋や釜を直していて、日が暮れるまでは部屋に居るのはお志津一人ということになる。その間、お志津は掃除や洗濯や繕い物などをして時を過ごしていたが、障子戸を締め切った暗い部屋の中に座り込んでただぼうっとしている事の方が少なくなかった。
隣の喜久次とお阿佐の夫婦など、同じ長屋の者たちがみな自分に気遣って優しく接してくれているのはよくわかったし、ありがたいとも思っていた。
しかし薄い壁越しに聞こえてくる話し声から、自分が悪い男達に慰みものにされたことが皆に知れ渡り、噂話の格好のねたにされていることもすっかりわかってしまった。
それでお志津は長屋の人の前に出るのさえ恐くなり、外に出ることがますます出来なくなった。
このままで良いなどと、お志津自身も思っていなかった。いつまでも部屋でぐずぐすしていてはおとっさんの迷惑になるし、一日も早く櫻屋に戻らねばと思ってはいる。だがただそう思うだけで、どうしても部屋から出られない自分がもどかしく、お志津は自分を責めるようになった。
一日の仕事を終えて長屋に帰って来た源造は、暗い部屋の隅で声を殺して泣いているお志津の姿を見ることが幾度もあった。
「ごめ……ごめんねおとっさん、あたしこんな駄目で、汚くって、迷惑ばっかり……」
「何を言うんだ、おめえは良い子だ、汚かなんかねえ」
そう繰り返しながら娘を抱き寄せて背を撫でる源造の声も、次第に涙声になっていった。
時がすべて解決してくれる、いつかお志津の心も癒えるだろう。そんな源造の願いとは裏腹に、お志津は体の具合まで悪くなってきているようだった。
「おとっさんごめんね、何か気持ちが悪くて、だるくって」
そう言って昼の間もずっと寝込んでいる日が増えてきた。
事実、顔色もひどく悪くて食欲もまるで無く、食べ物の匂いを嗅いだだけで吐き気まで催してしまう始末だ。
日に何度も厠に通って嘔吐を繰り返しているお志津を見て、その意味に最初に気づいたのは隣のお阿佐だった。
「お志津ちゃん、あんたまさかお腹に……」
いつ、どうして出来た子か、確かめるまでもなかった。
青ざめて殆ど気を失いかけたお志津を部屋に抱え込み、お阿佐はずっと側にいて慰めたり励ましたりし続けた。
が、お阿佐にだって亭主や子供は居るし、飯の支度もしなければならかった。それで日が傾く頃に、間もなく源造も帰って来るだろうと隣の自分の部屋に戻った。
やがて帰って来た源造が部屋の中で見たのは、剃刀で喉を切り裂き、血の海の中で冷たくなっているお志津の姿だった。
物言わぬ娘を抱きかかえたまま、源造はずっと魂が抜けたようになっていた。隣のお阿佐がお志津に経帷子を着せて布団に寝かせた後も、その枕元に座り込んだまま虚ろな目をして、誰に何を話しかけられてもろくに返事すらできぬ有り様だった。
それで佐吉が喪主の代わりを務め、大家や長屋の者たちの手を借りながら妹の通夜と葬儀を執り行うしかなかった。
佐吉自身も込み上げてくる涙を拳で何度も拭いながら、葬儀の段取りを決め酒や料理も手配して、妹を送る為にやっとの思いで立ち働いていた。だから源造の姿がいつの間にか消えていたことに、葬儀が一段落して弔問に来てくれた者たちの大半が帰るまで気がつかなかった。
伝馬町の牢を解き放たれた清次は、舞い戻った鮫ヶ橋で元のやくざな暮らしに戻っていた。幾人も居る女のところを気が向くままに転々として、前と同じように遊ぶ金が足りなくなれば暗がりで小金の有りそうな者を殴って財布を取り上げ、好い女がいれば手籠めにしてでもものにする。
だから鮫ヶ橋北町の桜川が流れ出す辺りで、いつもの仲間ととぐろを巻いて馬鹿話をしている時、目を血走らせた妙な親爺に鬼だの人殺しだのと喚かれても、何の事だかさっぱりわからなかった。
着ているものも襤褸に近いし金も無さそうで、殴っても手がくたびれるだけと見た清次は、その親爺の足元に唾を吐いた。
「うるせえんだよとっつぁん、痛い目を見ねぇうちに失せやがれ」
しかし親爺は瘧がついたように肩を震わせ、喚くのを止めようとしない。
「お志津のことを忘れたか、てめえが三月前に手籠めにしやがったのはおれの娘だッ」
清次は目を斜め上の方に向け少し考えて、ようやく合点がいった顔で頷いた。
「そうかい、あの娘はとっつぁんの子か。まだ小娘だったが、おれに女にされて泣いて喜んでたよなあ?」
そして仲間たちを振り返り、下卑た笑い声を上げた。
源造は怒りに震える手で懐から墨痕もまだ新しい白木の位牌を出し、娘が自害したこととその腹に子が出来ていたことを呻くような声で告げた。
「この人殺しめ、てめえのせいでお志津はッ」
が、清次は顔色一つ変えずにせせら笑う。
「は? とっつぁん馬鹿か。人殺しはてめぇの娘の方よ、てめぇで勝手におっ死 んだ上に、腹ン中のてめぇの子まで殺しやがって」
さらに突き付けた位牌を無造作に払い落とされ、源造は言葉にならぬ喚き声を上げて殴りかかった。
無我夢中で繰り出した源造の最初の一発を、清次はあえて避けなかった。そして源造に頬を殴られてもびくともせずに受け止め、殆ど同時に渾身の力を込めた拳を源造の鳩尾に叩き込んだ。
ぐはッと妙な呻き声を上げながら、源造は体を二つに折り曲げた。その前にのめって低く下がった顔を、今度は膝で思い切り蹴り上げると、源造の痩せた体は軽く後ろに吹っ飛んだ。
蛙のように引っ繰り返ったその時、源造は頭を酷く打って既に気が遠くなりかけていた。
その源造の側に、清次が大股で歩み寄る。
「いいか、先に手を出したのはてめぇだからな」
言うが早いか、清次は源造を思い切り蹴った。
こんな貧相な親爺に嘗められて因縁をつけられたことに、清次は腹が立ってならなかった。
女を抱きたくなる時にもそうだが、体の奥深いところから沸き上がって来る自分では制御出来ない激しいものに突き動かされて、清次は頭と言わず胴と言わず源造の体の至る所を蹴飛ばし、そして踏み付けた。
襤褸屑のように蹴り転がされる度に源造は呻いたが、その声も次第に低く小さくなって行く。
「なあ兄貴、やべぇよ。このとっつぁん死んじまうって」
その時も一緒だった松蔵に後ろから羽交い締めにされて、清次はようやく我に返った。
源造は地べたに胎児のように丸まったまま、顔中を血だらけにして今では殆ど身動きもしていない。
が、清次は松蔵を肘で振り払い、もう一度足を伸ばして腰の少し上の辺りを思い切り踏み付けた。何かが折れて潰れるような鈍い厭な音がすると同時に、断末魔の獣に似た凄まじい悲鳴が源造の口から漏れた。
「本当にやべぇって、もう行こうぜ」
居ても立っても居られずに周囲を見回して焦る松蔵に、清次はへらへら笑ってようやく頷いた。
「大丈夫だって、あれだけ声が出りゃ死にゃあしねえさ」
確かに源造は死にはしなかった。しかしそれは文字通りただ生きていたというだけの話で、ある意味では死ぬより辛い結果が待ち受けていた。
悲鳴を聞き、清次らが立ち去るのを確かめてから外に出て来た近くの者に助けられた源造だが、頭を酷く打った上にさらに蹴られたせいで、どこの誰でどうしたのだと尋ねられても、舌が縺れて言葉がうまく出て来ない。
だから愛染門前町の長屋にも直ぐには知らせが届かず、佐吉が散々捜し回ってようやく見つけ出した時には、源造は四丁も離れた南寺町の本性寺前の番屋に担ぎ込まれて、晒しでぐるぐる巻きにされて寝かされていた。
源造は痣だらけにされ肋骨も何本かへし折られていた上に、背骨を踏み砕かれて腰から下がまるで動かなくなっていた。さらに頭の傷のせいでただ言葉が出ないだけでなく、ものを考えたり理解する力も五つか六つくらいの子供と変わらぬくらいになっていた。
せいじ、おに、ころして。
寝床から肘だけでもがくように這い出し、回らぬ舌でようやくそれだけ言って縋り付く源造に、重蔵も鬼の目に涙で頬を濡らしながら頷く。
「待ってろとっつぁん。おれが必ず引っ捕らえて、野郎の首を鈴ヶ森に梟してやらあ」
重蔵は子分たちを一人残らず繰り出して鮫ヶ橋を隈無く捜させ、そしてたちまち清次をお縄にして奉行所の牢に叩き込んだ。
前とは違い、清次に源造が痛め付けられるのを近くの者らが幾人も見ていたから、今度は言い逃れもならなかった。
しかしそれでも清次は死罪にならなかった。
怪我がどんなに酷かろうと、源造はまだ生きていた。
そして理由はどうあれ、初めに手を出したのは源造だった。
吟味方の与力も奉行も清次のしたことをひどく憎んだが、これでは法度をどう解釈しようと死罪には出来なかった。人に怪我をさせて死罪になるのは、その相手が主筋の場合だけなのだ。
だから奉行は清次を散々叱りつけた上で、この上もなく苦い顔で遠島を申し渡した。
「憎んでも余りある奴だが、古の聖人も罪を憎んで人を憎まずと云う。その方はまだ若いのだ、島で己の罪を悔いて人の心を取り戻すがよい」
その櫻屋の主人に、お志津は用事を言いつけられた。
「赤坂の田町二丁目に泉屋って店があるんだが、ちょいと届け物をしてくれねえか」
赤坂田町と言えば目と鼻の先とまでは言えないが、女の足でも半刻もかかるとは思えない。
二つ返事で頷くお志津に櫻屋の主人はにこりとして、店で一番売れているみたらし団子を五串ほど取って竹の皮に包んだ。そして泉屋に届ける荷物とは別に持たせた。
「使いの帰りにおとっさんのとこにちょいと寄って、こいつを食いながら話でもして来な。兄さんだけでなくお前も奉公に出ちまってるから、源造さんはずっと一人なんだろ? 毎日さぞ寂しかろうよ」
お志津は顔を輝かせて一つ頭を下げ、表の道に踊るように飛び出して行った。
そのお志津の後ろ姿を見送る櫻屋の主人に、店の奥で餡を練っていた女房が声をかけた。
「美人ってのとはちょいと違うけれど可愛いし、よく働くし親孝行だしで、お志津ちゃんはほんとに良い子だよ」
お志津の父の源造は愛染門前町の裏店に住む鋳掛屋で、毎日重い道具を天秤棒で担いで近くの町々を回っては、鍋や釜を直して暮らしを立てていた。
お志津と佐吉の母親は二人がまだ幼い頃に急な病で死んでいて、後添えを世話しようという人も居ないでも無かった。だがそうした話は全て断って、源造は男手一つで二人の子をを育て上げた。
「もしこいつらが継子苛めにでも遭わされたら、あの世で女房に申し訳が立たねえ」
そう言うのを、お志津も耳にしたことがある。
馬鹿が付くほど正直で、貧乏くじを引きがちなものだから、稼ぎの方はあまり良くなく暮らしも楽では無かったが、お志津はそんな父親が大好きだった。
その父に自分が売っている自慢の団子を食べさせることができると思うと嬉しくて、お志津の足は自然と早くなる。それで赤坂にも程なく着いたのだが、着いた先で泉屋を見つけるのに少し手間取ったのと、櫻屋を出る時に既に日は傾きかけていたのとで、用を済ませた頃には既に辺りはかなり暗くなっていた。
外濠に沿って紀伊国坂を上り、喰違見付の前の火除地に出たお志津は少し考えた。このまま真っすぐ四ツ谷御門の近くまで行き、甲州街道を少し進み櫻屋の直ぐ側まで戻ってから天王横丁を上っても良いが、それだと少しばかり遠回りになる。
それでお志津は紀伊家の上屋敷の角で曲がり、四ツ谷仲町と侍屋敷の間の細い坂道を行くことにした。
微禄の旗本や御家人の屋敷が並ぶ間の細い道を何度か曲がり、鉄砲坂を上るとその先は鮫ヶ橋だ。そこがあまり空気の良くないところだということは知っていたし、少し厭な気はしたが、おとっさんに少しでも早く会いたい気持ちの方が先に立った。
それにそもそもお志津が生まれて育った愛染門前町だって、鮫ヶ橋谷町のすぐ隣だ。だからお志津にしてみれば、只っ広いのに妙に人気が無くて首縊りも時々出る喰違見付の辺りの方が、お化けでも出そうでむしろ気味が悪いくらいだった。
わざわざ遠回りして甲州街道から行ったところで、その先の天王横丁が狭くて暗い裏通りなのは変わらない。
だったら、どうせ同じことじゃないの。
お志津は自分にそう言い聞かせて、土産の団子を手に鮫ヶ橋へ向かう細い坂道を上って行った。
「どうしやす清次の兄ィ、また助平親爺でもとっ捕まえて引っぱたいてやりやすか?」
前髪を落としてまだ間もない松蔵だが、伝法な物言いから荒くれた態度まで既に一端の悪になり切っていた。
その松蔵の肩にもたれるようにして、清次は低く含み笑いを漏らした。
「それも悪かぁねえが、今夜は娘っ子の方をとっ捕まえてえ気分だぜ」
親爺なら実は昨夜締め上げたばかりだから、懐の方はまだ充分に温かい。
「兄貴もお盛んだ。いつも思ってんだが、兄貴にゃいってえ女が何人いるんでさ」
昨夜も捕まえた親爺を散々いたぶった後、巻き上げた金で朝まで女と遊び惚けていたことを松蔵は知っている。そして昼間はずっと寝て過ごして、日が落ちる頃に起き出して何がしたいと言い出すかと思えば、また女が欲しいとくる。
「兄貴がもてるのはよくわかってるが、そう女を取っ替え引っ替えしてちゃ、いつか誰かに刺されても知りやせんぜ?」
松蔵のやっかみ半分の忠告を、こちらも二十を少し過ぎたばかりの清次は馬鹿めと軽く笑い飛ばす。
「おめえも男ならわかるだろ、女なんざいくら居ても足りるもんじゃねえや。おれは殆ど毎晩ヤってるが、今だってもう金玉が張り裂けそうだぜ」
言いながら清次は、猥らな笑みを浮かべて右の手で股の辺りを一擦りして見せた。
「じゃ、これからどの女のとこに行きやすか」
「いや、みんな飽きちまった」
「え、もうですかい?」
「仕方ねえだろ、誘えばすぐ股を開くような女なんざ、抱いたってちっとも面白くねえや」
そんな女にまだ出逢ったことなど無い松蔵には羨まし過ぎる話だが、清次は時々真顔でそういう事を言った。そして言い出したら清次が次に何をするかも、松蔵はよく承知していた。
「みんな行くぜ、さあ狩りだ」
その清次の掛け声に、松蔵を含めたぐれた仲間達が一斉におうと応じた。
お志津は鉄砲坂の突き当たりを右に折れ、団子の包みを胸に抱くようにして道なりに愛染院の方に進んだ。そして御持組の組屋敷の前も過ぎさらに一丁ほど進んだ辺りで、西念寺と真成院の間の暗がりから湧き出して来た男たちに取り囲まれた。
「どこへ行くんだ姉ちゃん、おれっちと遊ぼうや」
踵を返して逃げる前に腕を掴まれ、鳩尾に拳を叩き込まれて上げかけた悲鳴も途切れてしまう。
息も出来ずにただ喘ぐお志津を、男たちは鮫ヶ橋の暗い裏路地に引きずって行った。お志津が大事に持って来た櫻屋の団子も地べたに落ちて男達の足に踏みにじられたが、その事に誰も気が付かぬ。
饐えた汗の臭いのする埃っぽい荒屋に、お志津は突き飛ばされるように押し込まれた。畳も無く板の間にただ筵が敷いてあるだけの部屋に入るなり、頭株らしい背の高い痩せた男がものも言わずにお志津を押し倒して帯に手をかけた。
驚きと恐怖で頭が働かずにいたお志津だが、
「あっ、厭ッ」
身をもがき、両手を突っ張って男から逃れようとした。
その途端、目が眩むような猛烈な平手打ちが続けざまに頬を襲った。
二発、そして三発。殴られる度にお志津の首は大きくねじれ、頭の後ろが床板にぶつかった。
気が遠くなりかけて体の力が抜け、ぐったりしかけたお志津を見下ろして、背の高い頭株の男が下卑た笑い声を上げた。
「やっと大人しくなりやがった」
そして何のためらいも無く、お志津の上にのしかかってきた。
女はみんな、おれに抱かれる為に生きている。
清次はその頃、本気でそんな風に思っていた。
と言うより、ただ体の中から突き上げるような欲望に動かされ、熱く猛る己の男のものを女の中に埋めることしか頭に無かった。
何より清次は女にもてた。松蔵にも言ったように抱いて欲しがる女は掃いて捨てるほどいたし、だから女は誰だっておれに抱かれりゃ最後は喜ぶくらいに思っていた。
清次はお志津の帯を引きちぎるように解き、着物と肌襦袢の前を開けた。そしてこぼれ出た白い双乳にむしゃぶりつき、口と手でなぶる。
まだ堅い小ぶりな乳房を握り潰すように揉みしだき、目尻から涙の粒を流しながら背筋を反らして痛みを堪えるお志津の桜色の乳首を、清次は歯型が残るほど強く噛む。さらに腰巻きも剥ぎ取ると、脚を大きく割らせてその間に己のものを押し当てた。
「やだ、やだッ」
お志津は譫言のように繰り返しながら首を振り続けたが、清次は構わず狭くきつい谷間に侵入した。
「痛ッ、痛い、痛い助けてッ」
体を捩らせて泣き声を上げるお志津を、清次はもう一度引っぱたいた。
「うるせえッてんだよ!」
そして一気に根元まで押し込むと、体をぶつけるように力の限り腰を動かす。
散々尻を振って男の精を出し切った後、清次は己のものを懐紙で拭いながら松蔵を振り返って笑った。
「おい、この姉ちゃんのお初を頂いてやったぜ」
そして裸のままぐったりして泣き続けているお志津を松蔵に譲り、今度は仲間たちが犯すのを見る方に回った。
この夜清次が連れていた仲間は、松蔵も含めて四人ほどいた。清次はその仲間の腰つきを笑ったり、こんな体位も試してみねえと冷やかしたりしていたが、最後の一人が終わる頃にまた激しい欲望が蘇って来るのを感じた。そして更にもう一度、仲間たちとお志津を嬲り尽くした。
気がつくと狭い部屋には汗と男の精の臭いが濃く満ちていて、娘は泣くことすら止め、虚ろな目を宙に向けて手と足を大きく広げたままでいた。
「臭えな、おい」
清次は顔を顰めて娘を獣の死骸か何かのように家の外に放り出し、裸の体の上に着物を放り投げた。
「姉ちゃん、もう用はねえから早く帰んな」
破けて皺だらけの着物を体に巻き付けて、愛染門前町の長屋にお志津が這うようにして帰って来たのは、それから小半時ほど後のことだった。
「お志津ッ」
障子戸を引き開けるなりものも言わずに中に倒れ込んだお志津を、源造は両腕に抱き抱えた。
何があったのかは、聞くまでもなくすぐにわかった。しかし男親の悲しさで、こんな時はどうしてやれば良いかまるでわからぬ。
それで娘の名を呼びながらただ抱き締めていると、お志津は今どこでそこに居るのが誰なのかもわからぬ様子で、
「いや、もう堪忍して」
弱々しい手で父の胸を押し返そうとしながら譫言のように呟いた。
「お志津、おとっさんだお志津ッ」
哀れな娘の背と乱れた髪を撫でながら、ただそう繰り返す源造の悲痛な声は、長屋の薄い壁越しに隣近所にも届いた。
程なく右隣の喜久次とお阿佐の夫婦が出て来て、開け放たれたままの戸口から顔を覗かせた。
「源造さん、いってえどうしたって……」
しかしその喜久次も、その後の言葉を呑み込んで目を背けた。
この右隣の夫婦は源造ともほぼ同年代で、源造が妻を亡くしてからは何くれとなく一家の面倒を見てくれていた。源造が男手一つで娘を何とか育て上げられたのも、特にお阿佐の助けがあったからと言っても良かった。
そのお阿佐は断りも無しに中に上がり込み、
「いいから、あたしに任せときな」
源造にそう頷いて見せ、亭主の喜久次には外に出て誰も近づけないよう見張っているよう言いつけた。
お阿佐がお志津を布団に寝かせて湯を沸かし、枕屏風の向こうで娘の肌を拭い始めたのを見た途端、源造は目が眩むような怒りに駆られて外に飛び出した。
そして天王横丁の坂を駆け下り、甲州街道を渡った向こうの伊賀町の重蔵の家の戸を激しく叩いた。
「親分さん、お願えだッ。畜生どもをぶち殺して下せえ!」
皆がそろそろ床に就き、町々の木戸も閉めようという頃に引っ張り出されて、重蔵は初めのうち不機嫌でろくに口もきかなかった。一方の源造も元来口下手な上に動転しているから、話すことも殆ど要領を得ない。
が、愛染門前町の源造の長屋に着いてお志津の姿を見た途端、重蔵の顔色が一変した。
枕屏風越しに見えるお志津の方はなるべく目を向けないようにして、重蔵は柄にもなく優しげな声をかけ、お志津が途中で泣いて言葉を詰まらせても根気よく話を聞き出した。
お志津の枕元から立ち上がった時、重蔵はただでさえぎょろりとした目に異様な光を浮かべていた。そしてどすの利いた低い声で、見ていろと呟いた。
「清次か、清次の兄ィって呼ばれる奴でこんな非道い真似が出来るのは、あの野郎しか居ねえ」
「待ってろ、野郎はおれが必ずお縄にしてやらあ」
そう勢い込んで出て行った重蔵は、思い当たる清次のねぐらを順繰りに当たった。そして幾人もいる情婦のうちの一人のところで、酒を食らって共寝をしている枕元に踏み込んで縄をかけた。
その清次が西念寺横丁近くの番屋にしょっぴかれて行った頃には、佐吉も知らせを受けて妹のところに駆けつけていた。佐吉の奉公先の麹町十三丁目の堀川屋は天王横丁を下りきった先の甲州街道沿いにあり、源造の長屋から三丁も離れていない。
清次が捕らえられたところで、お志津の心と体が元通りになるわけはない。ただこんな惨いことをした鬼畜には、少なくともそれに相応しい厳しいお裁きが下されるものと、佐吉も源造も信じて疑わなかった。
清次は翌朝を待って呉服橋御門内の北町奉行所の仮牢に放り込まれたが、調べに当たった吟味方の与力にお志津を手籠めにした覚えなどないと言い張った。
「ならばその方、その娘を見たことも無ければ指一本触れたことも無いと申すか?」
「いえ、お志津って娘といいことをしたのは本当でさ」
「何ッ、おのれ上役人を愚弄するかッ!」
「とんでもござんせん、あっしはただ手籠めにはしてねえと申し上げてるんで。娘と乳繰り合いはしたが、あれはお互い納得ずくのことなんでさ」
「ふざけた事を申すな、納得ずくなら何故娘があれほど酷く殴られておるのだッ」
青筋を立てた与力に怒鳴りつけられても、清次は傲然と顔を上げ薄笑いすら浮かべてすらすら答えた。
「娘と情を通じたのも手を上げたのも間違いありやせんが、その順序が違うんでさ」
実はあのお志津って娘には勝手に惚れられてつきまとわれて困っていたのだと、清次はぬけぬけと言ってのけた。
「それで一度でいいから抱いてくれろ、そしたら諦めるからと言われやしてねえ。そこまで言われりゃあっしだって男だ、据え膳食わぬは何とやらでつい手を出しちまったんでさ」
旦那も男なら気持ちはわかるでしょうと、清次はにたりと笑う。
「それで抱いてやった途端、約束なんて忘れた顔して夫婦になれだの何だの言いやがったもんだから、つい頭に来て引っぱたいちまったんでさ」
聞いているだけでも腸が煮え繰り返るような物言いだが、殴って手籠めにしたのか、ことが済んだ後に痴情の縺れで手を上げたのか、確かなことは当人同士にしかわからぬのも事実だ。
「よかろう、百歩どころか千歩譲って仮にそうだとしよう。だがお互い納得ずくの情交にしては、その方の女の扱いは手荒過ぎるのではないか?」
お志津の体を清めた隣家のお阿佐の申し立ててによると、肩やら乳房やら腿やらあちこちに噛んだ跡や痣が幾つもあっただけでなく、女陰も酷く裂けて血がなかなか止まらぬ状態だったという。
そのことを告げても、清次は与力の白いものが混じりかけた頭を眺めてへらへら笑うばかりだ。
「そうでしたかい、それは気が付かねえで申し訳ない事をしやした。ただあっしはまだ若いんでね、女とことをする時にゃ、つい激しくなっちまうんでさ。それに女の中には、そういう方が好きってのもおりやしてねえ」
ああ言えばこう言うで、よくここまで抜け抜けと白を切れるものだと呆れるばかりだ。
しかしどれだけ諭して叱りつけ、時には殴りつけても、清次はその嘘話を繰り返した。そしてそう言い張って少しも動じない様子を見るうち、与力ももしやという気持ちを捨て切れなくなってきた。
それにこの清次は男から見れば胃の腑がむかむかするほど厭な野郎だが、女には背筋がぞくりとするような色男に見えるのだろうということもわかる。
さらに清次がお縄になったと聞いて、清次の仲間や情婦やらが次々に奉行所にやって来た。そして清次の申し開きを裏付けることを口々に言い立てた。
「手籠めにしただなんてとんでもありやせん、清次の兄貴はもててもてて困ってるくれえなのに、何であんな小便臭い小娘になんざ手を出さなきゃならねえんでさ」
「そうでさ、あの娘の方から抱いてくれって言って来たんでさ」
「へい、あの娘っ子が清次の兄ィに付き纏ってたのはほんとの事でさ。度々追っかけ回されて兄貴が煩がってたのを、あっしもこの目で見ておりやす」
「あの小娘はとんだ食わせ者の泥棒猫ですよ、体で誘って清さんと夫婦になろうなんて、いけ図々しいったらありゃしない」
「女のあたしがこう言っちゃ何ですが、一度男と女の関係になったら相手の弱みを握ったつもりになって、手籠めにされたの何だのと後で騒ぐのは、あばずれ女がよく使う手ですよ」
櫻屋の夫婦は話を聞いてお志津の為に我が事のように悲しみ、そして清次にひどく腹を立てた。
「馬鹿馬鹿しい、あんな良い子が清次みてえな屑に惚れるわけありませんや。第一ね、あの悪たれがうちの店に来たことも無ければ、お志津が清次の噂をするのを聞いたことだってただの一度もありません」
だが櫻屋の夫婦の申し立ても、清次の仲間や情婦たちの言うことはまるで嘘だという確かな証にはならなかった。
吟味方の与力だけでなく、北町奉行もこの件をどう裁くかひどく困った。
奉行や与力の心証としては、清次は限りなく黒に近い。しかし清次がお志津を攫って手籠めにしたのを見たという者も、誰一人として居ないのが現実だ。
清次に手籠めにされたという証は、お志津自身の言葉の他には何も無い。
重蔵が縄をかけた時に清次と一緒だった女も、呼ばれた奉行所で吟味方の与力に皮肉を込めた口調でこうも言った。
「女に手籠めにされたと言われれば、男はそれだけで縛られちまうんですかねえ」
だから奉行は、確かにわかっている事だけでこの件の裁きをつけるしか無かった。
清次はお志津を殴り怪我をさせた。その事だけは間違いないし、清次自身も認めている。だから奉行はお白州で清次の日頃の不行跡を激しく叱責し、それと併せて重敲を言い渡した。
手籠めがあったか無かったかについては、奉行もあえて触れぬ。
敲は伝馬町の牢屋敷の門前で行われ、箒尻で軽敲なら五十、重敲では百回背中を打たれる。そして打ち終わると膏薬を塗られ、後はどこなりとも立ち去ることが許される。
たったそれだけで清次がお解き放ちになって元の鮫ヶ橋に舞い戻って来たと聞いて、源造や佐吉たちの気持ちが納まるわけがない。
「何故なんです親分さん、そんな馬鹿な話があって良いもんなんですか、ねえッ」
涙を浮かべ胸倉を掴まぬばかりの源造に、重蔵も苦い顔で目を逸らす。
「納得出来ねえのはおれも同じよ。だがな、あの事は忘れるのがお志津ちゃんの為と思って堪えろ」
「このまま泣き寝入りしろって言うんですかい? わかんねえ、何でそれがお志津の為なんですッ」
このお裁きに納得出来ずにいたのは、清次をお縄にした重蔵も同じだ。ただ抱え主の同心の中野為二郎からお奉行さまの真意を聞かされて、そうするしか無かったのだと苦い思いで心を抑えつけた。
「冷てえことを言うようだが、清次がした事を暴き立ててどうなるよ? お志津ちゃんが手籠めにされたって、ただ世間に触れて回るようなものだぜ」
源造の顔が怒りで赤く染まるが、ぐっと詰まって返す言葉も見つからずにいる。
「わかるだろ? ほんとのことを明らかにしたって、世間から妙な目で見られてお志津ちゃんの傷が深くなるだけで、何の得にもならねえのだ。まあ、あの糞野郎の罪は少し重くなるだろうが、ただそれだけだ。女を手籠めにしたところで死罪にゃあならねえし、お志津ちゃんが元の体になるわけでもねえ」
「頭ではわかるが納得できねえ、理不尽過ぎらあ」
小刻みに震える源造の肩に、重蔵がそっと手をかける。
「おれもそう思うが、それが世の中ってもんなんだ。よく言われるこったが、お志津ちゃんの先のことを考えれば、野良犬に噛まれたと思って一日も早く忘れるの一番なのよ」
まだ十六という若さもあってか、お志津の体の傷は程なく癒えた。が、心の方はそうは行かなかった。
櫻屋の夫婦も心配して長屋まで見舞いにも来てくれたし、体が良くなったらまた店に戻って来て欲しいとも言ってくれた。その気持ちはお志津もありがたいと思ったし、早く店に戻らなければと自分でも思っていた。
だがどうしても駄目だった。店に戻るには両側を寺に挟まれた天王横丁を下って行かねばならないが、細い裏道を歩くだけでお志津は足が竦んで震えが止まらなくなった。
そんな思いをして櫻屋まで着いても、今度は店で客の相手をするのさえ恐ろしくてならない自分に気づいた。
店の前は甲州街道で、日が暮れるまで人通りが絶えない。もしその中にあの男がいて、店の中にぬっと顔を出したらと思うだけで、その場にしゃがみ込みたくなってしまう。それだけではなく、店にただ男の客が入って来ただけで肌が粟立ち気分が悪くなった。
それで櫻屋の夫婦に断りを言って逃げるように父の裏長屋に帰り、以来お志津は愛染門前町の九尺二間の狭い部屋から殆ど出られなくなった。
そんな娘が源造は哀れでならず、しかし口下手ゆえにどう慰めたら良いかもわからなくて、一日も早く心が癒えるのを祈りつつ、ただ好きにさせておくしか出来なかった。
その源造は鋳掛屋だから昼間はあちこちの町を歩き回って鍋や釜を直していて、日が暮れるまでは部屋に居るのはお志津一人ということになる。その間、お志津は掃除や洗濯や繕い物などをして時を過ごしていたが、障子戸を締め切った暗い部屋の中に座り込んでただぼうっとしている事の方が少なくなかった。
隣の喜久次とお阿佐の夫婦など、同じ長屋の者たちがみな自分に気遣って優しく接してくれているのはよくわかったし、ありがたいとも思っていた。
しかし薄い壁越しに聞こえてくる話し声から、自分が悪い男達に慰みものにされたことが皆に知れ渡り、噂話の格好のねたにされていることもすっかりわかってしまった。
それでお志津は長屋の人の前に出るのさえ恐くなり、外に出ることがますます出来なくなった。
このままで良いなどと、お志津自身も思っていなかった。いつまでも部屋でぐずぐすしていてはおとっさんの迷惑になるし、一日も早く櫻屋に戻らねばと思ってはいる。だがただそう思うだけで、どうしても部屋から出られない自分がもどかしく、お志津は自分を責めるようになった。
一日の仕事を終えて長屋に帰って来た源造は、暗い部屋の隅で声を殺して泣いているお志津の姿を見ることが幾度もあった。
「ごめ……ごめんねおとっさん、あたしこんな駄目で、汚くって、迷惑ばっかり……」
「何を言うんだ、おめえは良い子だ、汚かなんかねえ」
そう繰り返しながら娘を抱き寄せて背を撫でる源造の声も、次第に涙声になっていった。
時がすべて解決してくれる、いつかお志津の心も癒えるだろう。そんな源造の願いとは裏腹に、お志津は体の具合まで悪くなってきているようだった。
「おとっさんごめんね、何か気持ちが悪くて、だるくって」
そう言って昼の間もずっと寝込んでいる日が増えてきた。
事実、顔色もひどく悪くて食欲もまるで無く、食べ物の匂いを嗅いだだけで吐き気まで催してしまう始末だ。
日に何度も厠に通って嘔吐を繰り返しているお志津を見て、その意味に最初に気づいたのは隣のお阿佐だった。
「お志津ちゃん、あんたまさかお腹に……」
いつ、どうして出来た子か、確かめるまでもなかった。
青ざめて殆ど気を失いかけたお志津を部屋に抱え込み、お阿佐はずっと側にいて慰めたり励ましたりし続けた。
が、お阿佐にだって亭主や子供は居るし、飯の支度もしなければならかった。それで日が傾く頃に、間もなく源造も帰って来るだろうと隣の自分の部屋に戻った。
やがて帰って来た源造が部屋の中で見たのは、剃刀で喉を切り裂き、血の海の中で冷たくなっているお志津の姿だった。
物言わぬ娘を抱きかかえたまま、源造はずっと魂が抜けたようになっていた。隣のお阿佐がお志津に経帷子を着せて布団に寝かせた後も、その枕元に座り込んだまま虚ろな目をして、誰に何を話しかけられてもろくに返事すらできぬ有り様だった。
それで佐吉が喪主の代わりを務め、大家や長屋の者たちの手を借りながら妹の通夜と葬儀を執り行うしかなかった。
佐吉自身も込み上げてくる涙を拳で何度も拭いながら、葬儀の段取りを決め酒や料理も手配して、妹を送る為にやっとの思いで立ち働いていた。だから源造の姿がいつの間にか消えていたことに、葬儀が一段落して弔問に来てくれた者たちの大半が帰るまで気がつかなかった。
伝馬町の牢を解き放たれた清次は、舞い戻った鮫ヶ橋で元のやくざな暮らしに戻っていた。幾人も居る女のところを気が向くままに転々として、前と同じように遊ぶ金が足りなくなれば暗がりで小金の有りそうな者を殴って財布を取り上げ、好い女がいれば手籠めにしてでもものにする。
だから鮫ヶ橋北町の桜川が流れ出す辺りで、いつもの仲間ととぐろを巻いて馬鹿話をしている時、目を血走らせた妙な親爺に鬼だの人殺しだのと喚かれても、何の事だかさっぱりわからなかった。
着ているものも襤褸に近いし金も無さそうで、殴っても手がくたびれるだけと見た清次は、その親爺の足元に唾を吐いた。
「うるせえんだよとっつぁん、痛い目を見ねぇうちに失せやがれ」
しかし親爺は瘧がついたように肩を震わせ、喚くのを止めようとしない。
「お志津のことを忘れたか、てめえが三月前に手籠めにしやがったのはおれの娘だッ」
清次は目を斜め上の方に向け少し考えて、ようやく合点がいった顔で頷いた。
「そうかい、あの娘はとっつぁんの子か。まだ小娘だったが、おれに女にされて泣いて喜んでたよなあ?」
そして仲間たちを振り返り、下卑た笑い声を上げた。
源造は怒りに震える手で懐から墨痕もまだ新しい白木の位牌を出し、娘が自害したこととその腹に子が出来ていたことを呻くような声で告げた。
「この人殺しめ、てめえのせいでお志津はッ」
が、清次は顔色一つ変えずにせせら笑う。
「は? とっつぁん馬鹿か。人殺しはてめぇの娘の方よ、てめぇで勝手におっ
さらに突き付けた位牌を無造作に払い落とされ、源造は言葉にならぬ喚き声を上げて殴りかかった。
無我夢中で繰り出した源造の最初の一発を、清次はあえて避けなかった。そして源造に頬を殴られてもびくともせずに受け止め、殆ど同時に渾身の力を込めた拳を源造の鳩尾に叩き込んだ。
ぐはッと妙な呻き声を上げながら、源造は体を二つに折り曲げた。その前にのめって低く下がった顔を、今度は膝で思い切り蹴り上げると、源造の痩せた体は軽く後ろに吹っ飛んだ。
蛙のように引っ繰り返ったその時、源造は頭を酷く打って既に気が遠くなりかけていた。
その源造の側に、清次が大股で歩み寄る。
「いいか、先に手を出したのはてめぇだからな」
言うが早いか、清次は源造を思い切り蹴った。
こんな貧相な親爺に嘗められて因縁をつけられたことに、清次は腹が立ってならなかった。
女を抱きたくなる時にもそうだが、体の奥深いところから沸き上がって来る自分では制御出来ない激しいものに突き動かされて、清次は頭と言わず胴と言わず源造の体の至る所を蹴飛ばし、そして踏み付けた。
襤褸屑のように蹴り転がされる度に源造は呻いたが、その声も次第に低く小さくなって行く。
「なあ兄貴、やべぇよ。このとっつぁん死んじまうって」
その時も一緒だった松蔵に後ろから羽交い締めにされて、清次はようやく我に返った。
源造は地べたに胎児のように丸まったまま、顔中を血だらけにして今では殆ど身動きもしていない。
が、清次は松蔵を肘で振り払い、もう一度足を伸ばして腰の少し上の辺りを思い切り踏み付けた。何かが折れて潰れるような鈍い厭な音がすると同時に、断末魔の獣に似た凄まじい悲鳴が源造の口から漏れた。
「本当にやべぇって、もう行こうぜ」
居ても立っても居られずに周囲を見回して焦る松蔵に、清次はへらへら笑ってようやく頷いた。
「大丈夫だって、あれだけ声が出りゃ死にゃあしねえさ」
確かに源造は死にはしなかった。しかしそれは文字通りただ生きていたというだけの話で、ある意味では死ぬより辛い結果が待ち受けていた。
悲鳴を聞き、清次らが立ち去るのを確かめてから外に出て来た近くの者に助けられた源造だが、頭を酷く打った上にさらに蹴られたせいで、どこの誰でどうしたのだと尋ねられても、舌が縺れて言葉がうまく出て来ない。
だから愛染門前町の長屋にも直ぐには知らせが届かず、佐吉が散々捜し回ってようやく見つけ出した時には、源造は四丁も離れた南寺町の本性寺前の番屋に担ぎ込まれて、晒しでぐるぐる巻きにされて寝かされていた。
源造は痣だらけにされ肋骨も何本かへし折られていた上に、背骨を踏み砕かれて腰から下がまるで動かなくなっていた。さらに頭の傷のせいでただ言葉が出ないだけでなく、ものを考えたり理解する力も五つか六つくらいの子供と変わらぬくらいになっていた。
せいじ、おに、ころして。
寝床から肘だけでもがくように這い出し、回らぬ舌でようやくそれだけ言って縋り付く源造に、重蔵も鬼の目に涙で頬を濡らしながら頷く。
「待ってろとっつぁん。おれが必ず引っ捕らえて、野郎の首を鈴ヶ森に梟してやらあ」
重蔵は子分たちを一人残らず繰り出して鮫ヶ橋を隈無く捜させ、そしてたちまち清次をお縄にして奉行所の牢に叩き込んだ。
前とは違い、清次に源造が痛め付けられるのを近くの者らが幾人も見ていたから、今度は言い逃れもならなかった。
しかしそれでも清次は死罪にならなかった。
怪我がどんなに酷かろうと、源造はまだ生きていた。
そして理由はどうあれ、初めに手を出したのは源造だった。
吟味方の与力も奉行も清次のしたことをひどく憎んだが、これでは法度をどう解釈しようと死罪には出来なかった。人に怪我をさせて死罪になるのは、その相手が主筋の場合だけなのだ。
だから奉行は清次を散々叱りつけた上で、この上もなく苦い顔で遠島を申し渡した。
「憎んでも余りある奴だが、古の聖人も罪を憎んで人を憎まずと云う。その方はまだ若いのだ、島で己の罪を悔いて人の心を取り戻すがよい」