第5話
文字数 8,198文字
出来ることと言えば力仕事の他に何も無い清次だったが、友五郎は使い道に心当たりが無いでもなかった。
この時代、内陸を除き荷は殆ど船で運ばれるのが普通で、最大消費地である江戸にも、全国のありとあらゆるものが船で運び込まれていた。
深川の小名木川の河口近くから大川の永代橋にかけては、その船で運ばれて来た荷の為の蔵が所狭しと並んでいる。
同じ口入れ屋でも六間堀町の豊島屋の方は、本所に近いこともあり、武家に出入りして渡り中間の世話をするのを主な生業にしている。それに対し小名木川と永代橋の間辺りに店を構える伊勢崎屋は、船で着いた荷を川べりの蔵に揚げる人足を多く出していた。
また豊島屋甚三郎が豊甚の名で通っているのと同様に、友五郎の方は伊勢友とも呼ばれている。
店があるのは仙台堀沿いの今川町だが、すぐ隣の佐賀町には油問屋や干鰯問屋の他に数多くの米問屋が軒を連ねていた。そして今はちょうど穫れた米が江戸に運び込まれる時期で、人手なら一人でも多く欲しいところだ。
それを考えりゃあ、渡りに船とも言えるのだが。
とは思うものの、あの野郎のことを思うとどうも気掛かりでならなかった。
豊甚のところの渡り中間ほどではないが、伊勢崎屋の荷揚げ人足にも昔はぐれていたような気の荒い者は少なくない。ただそれでも、島送りになるほど強かな奴は居なかった。
ちょっとでも揉め事を起こすようであれば、お美代がどう言おうが叩き出してやる。お美代には甘く、何かねだられるといつも折れてばかりの友五郎だが、今度ばかりはそう心に決めていた。
清次が荷揚げの仕事を始めたのは、その次の日からだった。
「本当に大丈夫なの、無理しちゃ駄目よ?」
お美代は眉を寄せて清次の顔を覗き込んだが、清次は笑って首を振った。
「心配いりやせん、別に病気したってわけじゃありやせんから」
ただ腹が減って死にそうになっていただけで、今としては何もせず只飯を食っている方が落ち着かなかった。それにきつい仕事をするのは、島で慣れっこになっている。
そうは思ってはいたものの、清次は己の体力がどれだけ落ちていたか甘く見過ぎていた。
河岸に着いた船に山積みされている米俵を、川縁の蔵に担ぎ揚げるのが任された仕事だが、その米俵は一つで十六貫(約六十キロ)はある。その肩にずしりと堪える重みで、ただ担ぎ上げただけで背が反り返りそうになった。
他の荷揚げ人足は慣れたもので、重い米俵をひょいと担ぎ上げて苦もなく運んで行く。なのに清次は幾つも運ばないうちに、足元が怪しくなりかけてきた。
あの新顔の野郎は、島帰りの札付きなんだと。
一緒に働く人足たちは既にその事を知っていて、皆の反応は真っ二つに分かれた。
まず女房や子供がいて真っ当に生きている連中は、毒虫を避けるように清次の側から離れた。一方、独り身の若い者に多いちょいとぐれかけた連中は、一端の者を気取って肩を怒らせ目を剥きつつ、話しかける機会を窺うように周囲をうろついた。
「おい、さっさと仕事にかからねえかッ」
小頭の猪吉に叱り付けられて、皆はようやく動き出す。
差配を任されていた猪吉は少し腹の出かけた愛想の欠片も無い四十男で、何が白くないのか、二六時中眉間に皺を寄せ口をへの字に曲げたままでいる。
その猪吉は、清次の足つきに真っ先に気づいた。
「もっと腰を入れて担げ、荷を落としでもしたら承知しねえぞッ」
「申し訳ありやせんッ」
清次は頭を下げ、歯を食いしばって力を入れ直した。
が、気持ちに体力の方がついて来ず、どう頑張っても他の人足より遅れ気味になる。
人足の中に、徹太というやっと前髪が取れたばかりの若い者がいて、子供のような顔立ちなのに向こう意気がいやに強かった。
この徹太は朝からずっと清次の様子を窺っていたが、何を思ってか米俵を担ぐと清次の後についた。そしてたちまち追いついて、前の清次の背を肘でどんと押した。
「とろとろしてんじゃねえ、この鈍間め!」
清次は前にのめってたたらを踏み、危ういところで堪えて振り返った。
猪吉がそれを見逃す筈もなく、しかし口から出かけた怒声を喉元で堪えて清次がどう出るか凝視した。
見られているとも気づかずに、清次は体をぶつけてきた若造に頭を下げた。
「悪かった、済まねえ」
「気をつけやがれッ」
徹太は清次の爪先に唾を吐きつけ、どうだ見たかと得意げな顔で人足仲間を見回しながら去って行く。
それでも清次は顔色一つ変えるでもなく、担いでいた米俵を黙って蔵に運び込んだ。
「ふうん……」
それをじっと眺めていた猪吉は、いつもねじ曲げている唇の片方を僅かに緩めた。
その時には周りの少なからぬ者が徹太のしたことに気づいて、はらはらしながら様子を窺っていた。鼻垂れ小僧め、わざわざ薮の蛇をつつくような真似をしやがって、だがあんな馬鹿でも怪我をする前に止めに入ってやらにゃあ可哀想だと思いながら。
が、その小僧っ子に清次がただ怒鳴られるままになっているのを見て、周囲の者らの清次を見る目に残っていた畏れの色が侮蔑に変わった。
しかし清次はそれにも気づかぬ様子で、背や腰にずしりと重い米俵を船から陸へとただひたすら担ぎ揚げ続けた。
船は次から次へと着いて河岸に艫綱を結い、担ぎ上げるべき荷は少しも減らぬように思えた。やがて清次は殆ど何も考えられなくなり、船から陸へ渡された板とその先の蔵の他は目にも映らなくなっていた。
深川八幡の鐘がようやく四ツ(午前十時)を告げると、猪吉が相変わらず渋面のまま唸るような声を上げた。
「よぉし、一息入れろい」
伊勢崎屋の人足は川縁にしゃがみ込み、煙草を吸い仲間と無駄口を叩き合っては賑やかな笑い声を上げた。
が、清次は疲れ果ててその余裕もなく、倒れるように大川端に寝転がった。その清次の着物は、秋も終わりに近いと言うのに汗で濡れて絞れるほどになっている。
その清次を徹太が目敏く見つけ、ずかずかと歩み寄るなりすぐ側で仁王立ちになった。
「おい八丈」
黙って目を閉じたままの清次に、徹太の声が苛ついてくる。
「おめぇだよ、さっさと返事くらいしやがれ」
軽くだが肩の辺りを蹴られて、清次はようやく瞼を開けた。
「おれかい? おれは清次ってんだ」
清次は苦笑いしながらゆっくり体を起こしたが、徹太は喧嘩腰を崩さない。
「あ? 文句あんのか、この島帰りの屑野郎が」
「そうじゃねえ、島帰りには違いねえが、おれが流されてたのは三宅島さ」
徹太は一瞬戸惑った表情を浮かべたが、何か面子を潰されたように感じてさらに不機嫌になる。
「それがどうだってんだ、同じようなもんじゃねえか。てめぇの呼び名なんざ八丈で充分だ」
さらに何か言いかけた徹太の目に、蔵の並ぶ道を近づいて来るお美代の姿が目に飛び込んできた。店の小女に菓子の包みと茶をいれた土瓶を持たせてやって来たそのお美代は、綺麗な眉を吊り上げてきつい目で睨んでいる。
徹太はそそくさとその場を離れたが、その際も捨て台詞を吐いて行くのを忘れなかった。
「ちょっとお嬢さんに目をかけられてるからってなあ、いい気になりやがんなよ」
持って来た菓子を人足に配るのは連れて来た小女に任せ、お美代は落雁を二つ手に清次の側にやって来た。
その一つを清次に差し出しながら、お美代は徹太の背をまだ睨むのを止めない。
「何て厭な子なんだろ」
二人は殆ど同じ年頃だろうに、そんな言い方をするお美代が清次は何だか少しおかしい。
その清次の微苦笑を、お美代は少し違うようにとった。
「あんな言い方されて腹が立たないの? あたしは厭だ、後でおとっさんに叱ってもらうんだから」
「いや、そいつはいけない、それじゃああいつはもっとつむじを曲げちまう」
「そうなの?」
納得が行きかねる顔のお美代に、清次はどこか痛むのを堪えるような笑みを浮かべた。
「あの年頃の男ってのは、皆あんなもんでさ」
ふうんと一旦頷いた後で、お美代は清次に悪戯っぽい目を向ける。
「じゃ、清さんも昔はあんなだったの?」
「いや、あんなのはまだ可愛いって思えるくらい、箸にも棒にもかからねえ悪餓鬼だったんでさ」
その頃のことは思い出すだけで胸が苦しくなるから、昔のことをさらに聞かれる前に話を少しずらす。
「こんなあっしみたいな奴を、お嬢さんは怖くないんですかい?」
「ううん、ちっとも」
殆ど間をおかずに答えた後で、言って良いのか暫く逡巡した後でこうも付け加えた。
「怖いんじゃなくて、何かただ凄く悲しそうで辛そうに見えるんだけど、どうしてだろ?」
昼飯と八ツ(午後二時)の休みを挟んで、清次はその後も日が暮れるまで米俵を運び続けた。
ただへとへとなどというものじゃない、疲れ過ぎて頭も心も無い木偶のように動いているような有り様だった。その着物の背には、繰り返し濡れては乾いた汗が塩の粒になって浮いている。
お美代に睨まれたからか、友五郎や義太郎も時折様子を見に来ていたせいか、徹太がその後絡みに来るようなことは無かった。その代わりにというわけでもなかろうが、猪吉が殆ど付ききりで怒鳴り上げた。
猪吉は相手が誰だろうと遠慮なく怒鳴りつけたが、清次には特に酷かった。
「おら清次、しゃんとやがれッ」
「清次てめぇ、怠けてっと勘弁しねぇぞ!」
ただ怒鳴るだけでなく、猪吉は清次の背や尻を平手で打ちもした。
それでも七ツ半(午後五時)の仕事じまいまで、清次は音を上げずに働き続けた。
死ぬほど苦しかったが、辛いとは感じなかった。
体はどれだけ辛くても、心の方は痛くも苦しくなかった。
仕事がきついおかげで何も考えられないのは、何て幸せなのだろうと心から思う。
何てこった、ここは極楽じゃねえか。
伊勢崎屋に帰る前にまず湯屋に寄って、くたびれ切った体を熱い湯に浸した時、頭の芯までじいんと痺れるような心地良さに、清次は思わずそう呟いた。
店に帰り友五郎に挨拶してお稲から日当を受け取ると、九尺二間の狭い裏長屋でも帰る家のある者は皆に別れを告げてそれぞれの家族の許に向かった。
猪吉も二部屋あるやや広い長屋の家に帰りかけたが、ふとその足を止めて店に引き返して来た。そして清次を人気の無い店の裏に引っ張って行き、抑えた低い声で脅しつけるように囁いた。
「おい、間違ってもお嬢さんに変な気を起こすんじゃねえぞ。おめぇは知らねえだろうが、お嬢さんには立派な許婚が居るんだ」
その猪吉の目を真っすぐに見返して、清次は即座に頷いた。
「念には及びませんや、そんな大それた真似は決していたしやせん」
清次の目には、お美代はこんな屑野郎を救ってくれた情け深い天女のように見えていた。その天女さま相手に、惚れた腫れたなどといった浮ついた気持ちを抱けるわけも無い。
だから猪吉の言う立派な許婚が誰なのか、清次は聞こうとも思わなかった。
山盛りの白い飯に根深葱と浅蜊の味噌汁、それに香の物と目刺しの夕餉を平らげた後、清次をこれから何処に寝泊まりさせるかで少し揉めた。
「まさか元の万年橋の稲荷をねぐらにして、そこから通って来いとも言えねえしなあ」
いくら行き倒れて死にそうだったからとは言え、こんな得体の知れない野郎を拾って来てしまった娘が、友五郎はまた少し忌ま忌ましくなってくる。
清次を暫く使ってみる肚は決めたものの、よし請人にもなってやろうじゃないかとまでは、とても思えぬ友五郎だ。が、どんなあばら家でも請人が立てられぬ者に部屋を借す大家など誰も居ないし、だとすれば店のどこかで寝かせるしか無い。
手っ取り早いのは、住み込みで奉公している若い者らと一緒に店の二階に寝かせることだ。
しかしそれは、既に二階で寝ている者たちが厭がった。
「そいつはご勘弁を。上もどこもいっぱいで、こいつを寝かしたら別の誰かがはみ出しちまいまさ」
実はそれは嘘で、布団を詰めて敷けば一人分の寝場所くらい何とかなるだろうことは、友五郎にもわかっていた。どこの馬の骨とも知れぬ島帰りに隣に寝られるのは気味が悪いのだろうと、おおよその見当がつくだけに無理は言えない。
とは言うものの、昨夜までと同じ階段の下のままでは通るのに邪魔だし、第一夜中に厠に立つ時に躓きでもしたら危なくて仕方がない。しかし下の主人一家の部屋になど、もっと寝かせられない。
どうしたものかと、友五郎は義太郎と顔を見合わせて難しい顔で唸るばかりだ。お美代も何とかしてあげたいと思い、気の毒げな目を清次に向けるが、よかったらあたしとおっかさんの部屋でとまでは、さすがに言えない。
「あの、莚を貸して戴けやせんか」
困り顔の友五郎に、遠慮がちに声をかけたのは清次だった。
「莚って、うちを出てって橋の下かどっかで寝よう……って言うのかい?」
「そうじゃねえんで。あっしの寝るとこなんざ、莚さえありゃあ土間で充分でさ」
言いながら清次は、店の三和土 をちらりと見やる。
「おいおい、お薦さんじゃあるめえし、うちで働こうって奴にそんなみっともない真似させられるかい!」
「そんなつもりじゃありやせん、だって屋根は瓦だし壁も土だ」
「何だと、うちを馬鹿にしてるのかッ」
気の短い義太郎など腹を立てかけたが、清次は真顔だ。
島の流人で畳のあるまともな家で暮らせていたのは、安平のように江戸から見届物が充分に送られていた一握りの者だけだった。清次を含めそれ以外の殆どの流人に宛てがわれていたのは、今時どこの田舎でもお目にかかれないような、文字通りの掘っ建て小屋だ。
柱は切り出したままの皮付きの丸太で、屋根は草葺きで壁も束ねた草だった。そして戸口代わりの莚を持ち上げると中は土間だけで、清次ら流人はそこに直に寝草を敷いて寝ていた。
「本当かい、そりゃ馬小屋より酷えな」
つい思ったままを口にした後でばつの悪い顔になる友五郎だが、清次は大真面目に頷いた。
「全くその通りでさ」
だからこの伊勢崎屋の土間ですら、清次には立派な御殿のように見えた。
「そうか、そいつは苦労したな。だがそれも身から出た錆、ってやつだぜ?」
目と声を和らげつつ、訓戒めいた言葉を付け加えるのも忘れない友五郎に、清次は素直に頭を下げた。
「へい、重々承知しておりやす」
しかしいくら清次が土間に莚でも構わなくとも、伊勢崎屋にも店の面子がある。友五郎は清次の寝場所を、三和土と帳場の間の上がり框に決めた。
「おう、邪魔するぜ」
暖簾を跳ね上げるようにして店に入って来た男を見て、主の徳兵衛は一瞬だが顔が歪むのを抑えられなかった。
堀川屋の自慢は京から仕入れている袋物で、店に来る客も大半は女だ。そこに怖い顔の十手持ちの親分が来ようものなら、せっかく来てくれた女客がみな逃げてしまう。
伊賀町の重蔵はこの一帯を縄張りにしている岡っ引きだが、それを承知の上で年に何度か用も無いのに店に顔を出し、幾らか金を包んでそっと渡すまで腰を据えているのだから質が悪い。
しかし徳兵衛も商人だからしょっぱい面をすぐに笑顔に作り替え、懐紙に小粒金を手早く包む。
が、重蔵は軽く手を上げて首を振った。
「今日来たのはそっちの用じゃねえ、ちょいと佐吉と話がしてえのさ」
「え……うちの佐吉が、また何か?」
喉の奥が引きつって妙な掠れ声になるのが、徳兵衛は自分でもわかった。おとなしくて真面目な奴と思っていたのに、まさか仇討ちのような真似をしでかそうとは思ってもいなかった。
「いやいや、そうじゃねえ。あんな事があった後だから気を落としてねえか、ただちょいと気になったのよ」
重蔵は笑いながらそう言うが、鮫の親分の通り名も持つこの男が柄にもなく愛想良くしているだけに、余計に不安になってくる。
「それで佐吉だが、ちょいと借りるが良いかい?」
瞬き一つしない目に見詰められたままにたりと笑いかけられて、胃の辺りがきゅっと縮んで冷たくなってくるのがわかる。しかし嫌だと言うわけにも行かず、徳兵衛は店の隅で同じように青い顔をしている佐吉に頷いて見せた。
「少し歩くぜ」
そう言ったきり振り向きもせず歩く重蔵の後を、しょっぴかれて行く咎人のように佐吉はとぼとぼとついて歩いた。
何を言われるかは、どうせわかっている。
あの後も徳兵衛にはくどくど叱られたし、店の用で他出する時にも、敵を捜しに行こうなんて考えるんじゃないよと釘を刺された。
この親分にも、きっと同じように叱られるんだろうが……。
だとしても佐吉は、あの野郎をこのままで済ますつもりは金輪際なかった。
重蔵は甲州街道が御城の外濠に突き当たる辺りで足を止め、近くの四ツ谷御門を背に向き直った。
「ずばり聞くぜ、おめえ、清次の野郎の居所を捜してんだろ?」
問われた佐吉は、徳兵衛にいつもしているように即座に首を振る。
「滅相もありません、あれからすっかり心を入れ替えまして、意趣返しだなんて恐ろしい考えはきっぱり捨てました」
「おい佐吉、おれをぽんつくの昼行灯と虚仮にするつもりなら、そりゃあ悪い思案ってもんだぜ」
薄くせせら笑って重蔵は、佐吉の鳩尾の辺りを小突いた。
「おめえ、野郎の親が住んでた町や、大横丁の奴の伯父ンとこに行ったろうが」
「いえ、あの、それは……」
「野郎が昔とぐろを巻いてた鮫ヶ橋の辺りを、おめえが度々うろついてんのもわかってんだよ」
佐吉は咄嗟に言い訳も思いつかずに青ざめるが、重蔵はさらに責めるではなく長い息を吐いて暗く淀んだ濠の水に目を落とした。
「あれからもう十二年になるか」
「まだ十二年、でございますよ。何年経とうと忘れられるもんじゃありません」
押し殺した低い声で呻くように言う佐吉に、重蔵はわかるぜと頷いた。
「こんなお役目だ、おれも与太者やあぶれ者はいやンなるほど見てきたがな、清次の野郎のしやがった事は今も忘れられねえ」
胸の奥からこみ上げてくる思いが言葉にならず、佐吉は歯を食いしばり頬を細かく震わせる。
「あの時おれは、野郎は死罪になるもんとてっきり思い込んでいたのだ」
しかしお上は、その清次に慈悲をかけて一命を救ってしまった。まだ若年でもあり、立ち直る見込みがあるからと。
「何故なんです、生かしとくならどうして、せめて死んで骨になるまで島に捨てて置いちゃ下さらなかったんでしょう」
堪え切れぬ涙を拳で拭う佐吉を見ていられなくて、重蔵はまた堀に目を落とした。
「おれもそう思ったさ、島送りに御赦免なんざあっちゃいけねえのに……ってな」
御赦免には実は、流す先の島の事情もあった。
何しろどの島も、元から住んでいる者たちすら食うものがろくに無い有り様なのだ。江戸で出た科人をそのまま送り込まれていたら、島の者たちまで飢えて死んでしまいかねない。
だから伊豆の各島に流す罪人は、その島に住む者の数の一割までという不文律がある。
さらに流罪とはそもそも無期限で、何年辛抱すれば赦されるというものではない。
言い換えれば、新たに遠島に処すことができるのは、島で野垂れ死にした流人の数だけということだ。
だが近頃の江戸では罪を犯す者が絶えず、遠島に処すべき者の方が、流された先の島で死ぬ者より明らかに多いのが現状だ。だから上さまの代替わりや法事などの機に、御赦免の名を借りて古い流人を減らし、新たな科人を流す余地を作っていた。
そのあたりの事情は薄々察している重蔵だが、お上のご政道に異を唱えることになるから佐吉には漏らせぬ。
代わりに重蔵は、佐吉の肩を抱くようにしてその耳元に囁きかけた。
「おれだって自慢できるような良い人間じゃねえさ、そのことはよくわかってら。だが清次だけは許しちゃおけねえ、あの野郎がこのお江戸で同じ息を吸ってるってだけで我慢ならねえ……って思ってるのよ」
四ツ谷 では鮫の親分とも呼ばれている十手持ちの顔を、佐吉は目と口の両方を開けてしげしげと見詰めた。
「手前がしようとしていることを、親分は目を瞑っていて下さるんで?」
肩に手を置いたまま佐吉の目を真っすぐに見返して、重蔵は大きく頷いた。
「それだけじゃねえ。このおれが、おめえを助 けてやろうじゃねえか」
そして佐吉を店に戻す前に、重蔵はこうも言った。
「清次の野郎がどこに潜り込こうが、このおれが必ず捜し出してやる。だからそれまで、おめえは堀川屋でおとなしく待ってろ」
この時代、内陸を除き荷は殆ど船で運ばれるのが普通で、最大消費地である江戸にも、全国のありとあらゆるものが船で運び込まれていた。
深川の小名木川の河口近くから大川の永代橋にかけては、その船で運ばれて来た荷の為の蔵が所狭しと並んでいる。
同じ口入れ屋でも六間堀町の豊島屋の方は、本所に近いこともあり、武家に出入りして渡り中間の世話をするのを主な生業にしている。それに対し小名木川と永代橋の間辺りに店を構える伊勢崎屋は、船で着いた荷を川べりの蔵に揚げる人足を多く出していた。
また豊島屋甚三郎が豊甚の名で通っているのと同様に、友五郎の方は伊勢友とも呼ばれている。
店があるのは仙台堀沿いの今川町だが、すぐ隣の佐賀町には油問屋や干鰯問屋の他に数多くの米問屋が軒を連ねていた。そして今はちょうど穫れた米が江戸に運び込まれる時期で、人手なら一人でも多く欲しいところだ。
それを考えりゃあ、渡りに船とも言えるのだが。
とは思うものの、あの野郎のことを思うとどうも気掛かりでならなかった。
豊甚のところの渡り中間ほどではないが、伊勢崎屋の荷揚げ人足にも昔はぐれていたような気の荒い者は少なくない。ただそれでも、島送りになるほど強かな奴は居なかった。
ちょっとでも揉め事を起こすようであれば、お美代がどう言おうが叩き出してやる。お美代には甘く、何かねだられるといつも折れてばかりの友五郎だが、今度ばかりはそう心に決めていた。
清次が荷揚げの仕事を始めたのは、その次の日からだった。
「本当に大丈夫なの、無理しちゃ駄目よ?」
お美代は眉を寄せて清次の顔を覗き込んだが、清次は笑って首を振った。
「心配いりやせん、別に病気したってわけじゃありやせんから」
ただ腹が減って死にそうになっていただけで、今としては何もせず只飯を食っている方が落ち着かなかった。それにきつい仕事をするのは、島で慣れっこになっている。
そうは思ってはいたものの、清次は己の体力がどれだけ落ちていたか甘く見過ぎていた。
河岸に着いた船に山積みされている米俵を、川縁の蔵に担ぎ揚げるのが任された仕事だが、その米俵は一つで十六貫(約六十キロ)はある。その肩にずしりと堪える重みで、ただ担ぎ上げただけで背が反り返りそうになった。
他の荷揚げ人足は慣れたもので、重い米俵をひょいと担ぎ上げて苦もなく運んで行く。なのに清次は幾つも運ばないうちに、足元が怪しくなりかけてきた。
あの新顔の野郎は、島帰りの札付きなんだと。
一緒に働く人足たちは既にその事を知っていて、皆の反応は真っ二つに分かれた。
まず女房や子供がいて真っ当に生きている連中は、毒虫を避けるように清次の側から離れた。一方、独り身の若い者に多いちょいとぐれかけた連中は、一端の者を気取って肩を怒らせ目を剥きつつ、話しかける機会を窺うように周囲をうろついた。
「おい、さっさと仕事にかからねえかッ」
小頭の猪吉に叱り付けられて、皆はようやく動き出す。
差配を任されていた猪吉は少し腹の出かけた愛想の欠片も無い四十男で、何が白くないのか、二六時中眉間に皺を寄せ口をへの字に曲げたままでいる。
その猪吉は、清次の足つきに真っ先に気づいた。
「もっと腰を入れて担げ、荷を落としでもしたら承知しねえぞッ」
「申し訳ありやせんッ」
清次は頭を下げ、歯を食いしばって力を入れ直した。
が、気持ちに体力の方がついて来ず、どう頑張っても他の人足より遅れ気味になる。
人足の中に、徹太というやっと前髪が取れたばかりの若い者がいて、子供のような顔立ちなのに向こう意気がいやに強かった。
この徹太は朝からずっと清次の様子を窺っていたが、何を思ってか米俵を担ぐと清次の後についた。そしてたちまち追いついて、前の清次の背を肘でどんと押した。
「とろとろしてんじゃねえ、この鈍間め!」
清次は前にのめってたたらを踏み、危ういところで堪えて振り返った。
猪吉がそれを見逃す筈もなく、しかし口から出かけた怒声を喉元で堪えて清次がどう出るか凝視した。
見られているとも気づかずに、清次は体をぶつけてきた若造に頭を下げた。
「悪かった、済まねえ」
「気をつけやがれッ」
徹太は清次の爪先に唾を吐きつけ、どうだ見たかと得意げな顔で人足仲間を見回しながら去って行く。
それでも清次は顔色一つ変えるでもなく、担いでいた米俵を黙って蔵に運び込んだ。
「ふうん……」
それをじっと眺めていた猪吉は、いつもねじ曲げている唇の片方を僅かに緩めた。
その時には周りの少なからぬ者が徹太のしたことに気づいて、はらはらしながら様子を窺っていた。鼻垂れ小僧め、わざわざ薮の蛇をつつくような真似をしやがって、だがあんな馬鹿でも怪我をする前に止めに入ってやらにゃあ可哀想だと思いながら。
が、その小僧っ子に清次がただ怒鳴られるままになっているのを見て、周囲の者らの清次を見る目に残っていた畏れの色が侮蔑に変わった。
しかし清次はそれにも気づかぬ様子で、背や腰にずしりと重い米俵を船から陸へとただひたすら担ぎ揚げ続けた。
船は次から次へと着いて河岸に艫綱を結い、担ぎ上げるべき荷は少しも減らぬように思えた。やがて清次は殆ど何も考えられなくなり、船から陸へ渡された板とその先の蔵の他は目にも映らなくなっていた。
深川八幡の鐘がようやく四ツ(午前十時)を告げると、猪吉が相変わらず渋面のまま唸るような声を上げた。
「よぉし、一息入れろい」
伊勢崎屋の人足は川縁にしゃがみ込み、煙草を吸い仲間と無駄口を叩き合っては賑やかな笑い声を上げた。
が、清次は疲れ果ててその余裕もなく、倒れるように大川端に寝転がった。その清次の着物は、秋も終わりに近いと言うのに汗で濡れて絞れるほどになっている。
その清次を徹太が目敏く見つけ、ずかずかと歩み寄るなりすぐ側で仁王立ちになった。
「おい八丈」
黙って目を閉じたままの清次に、徹太の声が苛ついてくる。
「おめぇだよ、さっさと返事くらいしやがれ」
軽くだが肩の辺りを蹴られて、清次はようやく瞼を開けた。
「おれかい? おれは清次ってんだ」
清次は苦笑いしながらゆっくり体を起こしたが、徹太は喧嘩腰を崩さない。
「あ? 文句あんのか、この島帰りの屑野郎が」
「そうじゃねえ、島帰りには違いねえが、おれが流されてたのは三宅島さ」
徹太は一瞬戸惑った表情を浮かべたが、何か面子を潰されたように感じてさらに不機嫌になる。
「それがどうだってんだ、同じようなもんじゃねえか。てめぇの呼び名なんざ八丈で充分だ」
さらに何か言いかけた徹太の目に、蔵の並ぶ道を近づいて来るお美代の姿が目に飛び込んできた。店の小女に菓子の包みと茶をいれた土瓶を持たせてやって来たそのお美代は、綺麗な眉を吊り上げてきつい目で睨んでいる。
徹太はそそくさとその場を離れたが、その際も捨て台詞を吐いて行くのを忘れなかった。
「ちょっとお嬢さんに目をかけられてるからってなあ、いい気になりやがんなよ」
持って来た菓子を人足に配るのは連れて来た小女に任せ、お美代は落雁を二つ手に清次の側にやって来た。
その一つを清次に差し出しながら、お美代は徹太の背をまだ睨むのを止めない。
「何て厭な子なんだろ」
二人は殆ど同じ年頃だろうに、そんな言い方をするお美代が清次は何だか少しおかしい。
その清次の微苦笑を、お美代は少し違うようにとった。
「あんな言い方されて腹が立たないの? あたしは厭だ、後でおとっさんに叱ってもらうんだから」
「いや、そいつはいけない、それじゃああいつはもっとつむじを曲げちまう」
「そうなの?」
納得が行きかねる顔のお美代に、清次はどこか痛むのを堪えるような笑みを浮かべた。
「あの年頃の男ってのは、皆あんなもんでさ」
ふうんと一旦頷いた後で、お美代は清次に悪戯っぽい目を向ける。
「じゃ、清さんも昔はあんなだったの?」
「いや、あんなのはまだ可愛いって思えるくらい、箸にも棒にもかからねえ悪餓鬼だったんでさ」
その頃のことは思い出すだけで胸が苦しくなるから、昔のことをさらに聞かれる前に話を少しずらす。
「こんなあっしみたいな奴を、お嬢さんは怖くないんですかい?」
「ううん、ちっとも」
殆ど間をおかずに答えた後で、言って良いのか暫く逡巡した後でこうも付け加えた。
「怖いんじゃなくて、何かただ凄く悲しそうで辛そうに見えるんだけど、どうしてだろ?」
昼飯と八ツ(午後二時)の休みを挟んで、清次はその後も日が暮れるまで米俵を運び続けた。
ただへとへとなどというものじゃない、疲れ過ぎて頭も心も無い木偶のように動いているような有り様だった。その着物の背には、繰り返し濡れては乾いた汗が塩の粒になって浮いている。
お美代に睨まれたからか、友五郎や義太郎も時折様子を見に来ていたせいか、徹太がその後絡みに来るようなことは無かった。その代わりにというわけでもなかろうが、猪吉が殆ど付ききりで怒鳴り上げた。
猪吉は相手が誰だろうと遠慮なく怒鳴りつけたが、清次には特に酷かった。
「おら清次、しゃんとやがれッ」
「清次てめぇ、怠けてっと勘弁しねぇぞ!」
ただ怒鳴るだけでなく、猪吉は清次の背や尻を平手で打ちもした。
それでも七ツ半(午後五時)の仕事じまいまで、清次は音を上げずに働き続けた。
死ぬほど苦しかったが、辛いとは感じなかった。
体はどれだけ辛くても、心の方は痛くも苦しくなかった。
仕事がきついおかげで何も考えられないのは、何て幸せなのだろうと心から思う。
何てこった、ここは極楽じゃねえか。
伊勢崎屋に帰る前にまず湯屋に寄って、くたびれ切った体を熱い湯に浸した時、頭の芯までじいんと痺れるような心地良さに、清次は思わずそう呟いた。
店に帰り友五郎に挨拶してお稲から日当を受け取ると、九尺二間の狭い裏長屋でも帰る家のある者は皆に別れを告げてそれぞれの家族の許に向かった。
猪吉も二部屋あるやや広い長屋の家に帰りかけたが、ふとその足を止めて店に引き返して来た。そして清次を人気の無い店の裏に引っ張って行き、抑えた低い声で脅しつけるように囁いた。
「おい、間違ってもお嬢さんに変な気を起こすんじゃねえぞ。おめぇは知らねえだろうが、お嬢さんには立派な許婚が居るんだ」
その猪吉の目を真っすぐに見返して、清次は即座に頷いた。
「念には及びませんや、そんな大それた真似は決していたしやせん」
清次の目には、お美代はこんな屑野郎を救ってくれた情け深い天女のように見えていた。その天女さま相手に、惚れた腫れたなどといった浮ついた気持ちを抱けるわけも無い。
だから猪吉の言う立派な許婚が誰なのか、清次は聞こうとも思わなかった。
山盛りの白い飯に根深葱と浅蜊の味噌汁、それに香の物と目刺しの夕餉を平らげた後、清次をこれから何処に寝泊まりさせるかで少し揉めた。
「まさか元の万年橋の稲荷をねぐらにして、そこから通って来いとも言えねえしなあ」
いくら行き倒れて死にそうだったからとは言え、こんな得体の知れない野郎を拾って来てしまった娘が、友五郎はまた少し忌ま忌ましくなってくる。
清次を暫く使ってみる肚は決めたものの、よし請人にもなってやろうじゃないかとまでは、とても思えぬ友五郎だ。が、どんなあばら家でも請人が立てられぬ者に部屋を借す大家など誰も居ないし、だとすれば店のどこかで寝かせるしか無い。
手っ取り早いのは、住み込みで奉公している若い者らと一緒に店の二階に寝かせることだ。
しかしそれは、既に二階で寝ている者たちが厭がった。
「そいつはご勘弁を。上もどこもいっぱいで、こいつを寝かしたら別の誰かがはみ出しちまいまさ」
実はそれは嘘で、布団を詰めて敷けば一人分の寝場所くらい何とかなるだろうことは、友五郎にもわかっていた。どこの馬の骨とも知れぬ島帰りに隣に寝られるのは気味が悪いのだろうと、おおよその見当がつくだけに無理は言えない。
とは言うものの、昨夜までと同じ階段の下のままでは通るのに邪魔だし、第一夜中に厠に立つ時に躓きでもしたら危なくて仕方がない。しかし下の主人一家の部屋になど、もっと寝かせられない。
どうしたものかと、友五郎は義太郎と顔を見合わせて難しい顔で唸るばかりだ。お美代も何とかしてあげたいと思い、気の毒げな目を清次に向けるが、よかったらあたしとおっかさんの部屋でとまでは、さすがに言えない。
「あの、莚を貸して戴けやせんか」
困り顔の友五郎に、遠慮がちに声をかけたのは清次だった。
「莚って、うちを出てって橋の下かどっかで寝よう……って言うのかい?」
「そうじゃねえんで。あっしの寝るとこなんざ、莚さえありゃあ土間で充分でさ」
言いながら清次は、店の
「おいおい、お薦さんじゃあるめえし、うちで働こうって奴にそんなみっともない真似させられるかい!」
「そんなつもりじゃありやせん、だって屋根は瓦だし壁も土だ」
「何だと、うちを馬鹿にしてるのかッ」
気の短い義太郎など腹を立てかけたが、清次は真顔だ。
島の流人で畳のあるまともな家で暮らせていたのは、安平のように江戸から見届物が充分に送られていた一握りの者だけだった。清次を含めそれ以外の殆どの流人に宛てがわれていたのは、今時どこの田舎でもお目にかかれないような、文字通りの掘っ建て小屋だ。
柱は切り出したままの皮付きの丸太で、屋根は草葺きで壁も束ねた草だった。そして戸口代わりの莚を持ち上げると中は土間だけで、清次ら流人はそこに直に寝草を敷いて寝ていた。
「本当かい、そりゃ馬小屋より酷えな」
つい思ったままを口にした後でばつの悪い顔になる友五郎だが、清次は大真面目に頷いた。
「全くその通りでさ」
だからこの伊勢崎屋の土間ですら、清次には立派な御殿のように見えた。
「そうか、そいつは苦労したな。だがそれも身から出た錆、ってやつだぜ?」
目と声を和らげつつ、訓戒めいた言葉を付け加えるのも忘れない友五郎に、清次は素直に頭を下げた。
「へい、重々承知しておりやす」
しかしいくら清次が土間に莚でも構わなくとも、伊勢崎屋にも店の面子がある。友五郎は清次の寝場所を、三和土と帳場の間の上がり框に決めた。
「おう、邪魔するぜ」
暖簾を跳ね上げるようにして店に入って来た男を見て、主の徳兵衛は一瞬だが顔が歪むのを抑えられなかった。
堀川屋の自慢は京から仕入れている袋物で、店に来る客も大半は女だ。そこに怖い顔の十手持ちの親分が来ようものなら、せっかく来てくれた女客がみな逃げてしまう。
伊賀町の重蔵はこの一帯を縄張りにしている岡っ引きだが、それを承知の上で年に何度か用も無いのに店に顔を出し、幾らか金を包んでそっと渡すまで腰を据えているのだから質が悪い。
しかし徳兵衛も商人だからしょっぱい面をすぐに笑顔に作り替え、懐紙に小粒金を手早く包む。
が、重蔵は軽く手を上げて首を振った。
「今日来たのはそっちの用じゃねえ、ちょいと佐吉と話がしてえのさ」
「え……うちの佐吉が、また何か?」
喉の奥が引きつって妙な掠れ声になるのが、徳兵衛は自分でもわかった。おとなしくて真面目な奴と思っていたのに、まさか仇討ちのような真似をしでかそうとは思ってもいなかった。
「いやいや、そうじゃねえ。あんな事があった後だから気を落としてねえか、ただちょいと気になったのよ」
重蔵は笑いながらそう言うが、鮫の親分の通り名も持つこの男が柄にもなく愛想良くしているだけに、余計に不安になってくる。
「それで佐吉だが、ちょいと借りるが良いかい?」
瞬き一つしない目に見詰められたままにたりと笑いかけられて、胃の辺りがきゅっと縮んで冷たくなってくるのがわかる。しかし嫌だと言うわけにも行かず、徳兵衛は店の隅で同じように青い顔をしている佐吉に頷いて見せた。
「少し歩くぜ」
そう言ったきり振り向きもせず歩く重蔵の後を、しょっぴかれて行く咎人のように佐吉はとぼとぼとついて歩いた。
何を言われるかは、どうせわかっている。
あの後も徳兵衛にはくどくど叱られたし、店の用で他出する時にも、敵を捜しに行こうなんて考えるんじゃないよと釘を刺された。
この親分にも、きっと同じように叱られるんだろうが……。
だとしても佐吉は、あの野郎をこのままで済ますつもりは金輪際なかった。
重蔵は甲州街道が御城の外濠に突き当たる辺りで足を止め、近くの四ツ谷御門を背に向き直った。
「ずばり聞くぜ、おめえ、清次の野郎の居所を捜してんだろ?」
問われた佐吉は、徳兵衛にいつもしているように即座に首を振る。
「滅相もありません、あれからすっかり心を入れ替えまして、意趣返しだなんて恐ろしい考えはきっぱり捨てました」
「おい佐吉、おれをぽんつくの昼行灯と虚仮にするつもりなら、そりゃあ悪い思案ってもんだぜ」
薄くせせら笑って重蔵は、佐吉の鳩尾の辺りを小突いた。
「おめえ、野郎の親が住んでた町や、大横丁の奴の伯父ンとこに行ったろうが」
「いえ、あの、それは……」
「野郎が昔とぐろを巻いてた鮫ヶ橋の辺りを、おめえが度々うろついてんのもわかってんだよ」
佐吉は咄嗟に言い訳も思いつかずに青ざめるが、重蔵はさらに責めるではなく長い息を吐いて暗く淀んだ濠の水に目を落とした。
「あれからもう十二年になるか」
「まだ十二年、でございますよ。何年経とうと忘れられるもんじゃありません」
押し殺した低い声で呻くように言う佐吉に、重蔵はわかるぜと頷いた。
「こんなお役目だ、おれも与太者やあぶれ者はいやンなるほど見てきたがな、清次の野郎のしやがった事は今も忘れられねえ」
胸の奥からこみ上げてくる思いが言葉にならず、佐吉は歯を食いしばり頬を細かく震わせる。
「あの時おれは、野郎は死罪になるもんとてっきり思い込んでいたのだ」
しかしお上は、その清次に慈悲をかけて一命を救ってしまった。まだ若年でもあり、立ち直る見込みがあるからと。
「何故なんです、生かしとくならどうして、せめて死んで骨になるまで島に捨てて置いちゃ下さらなかったんでしょう」
堪え切れぬ涙を拳で拭う佐吉を見ていられなくて、重蔵はまた堀に目を落とした。
「おれもそう思ったさ、島送りに御赦免なんざあっちゃいけねえのに……ってな」
御赦免には実は、流す先の島の事情もあった。
何しろどの島も、元から住んでいる者たちすら食うものがろくに無い有り様なのだ。江戸で出た科人をそのまま送り込まれていたら、島の者たちまで飢えて死んでしまいかねない。
だから伊豆の各島に流す罪人は、その島に住む者の数の一割までという不文律がある。
さらに流罪とはそもそも無期限で、何年辛抱すれば赦されるというものではない。
言い換えれば、新たに遠島に処すことができるのは、島で野垂れ死にした流人の数だけということだ。
だが近頃の江戸では罪を犯す者が絶えず、遠島に処すべき者の方が、流された先の島で死ぬ者より明らかに多いのが現状だ。だから上さまの代替わりや法事などの機に、御赦免の名を借りて古い流人を減らし、新たな科人を流す余地を作っていた。
そのあたりの事情は薄々察している重蔵だが、お上のご政道に異を唱えることになるから佐吉には漏らせぬ。
代わりに重蔵は、佐吉の肩を抱くようにしてその耳元に囁きかけた。
「おれだって自慢できるような良い人間じゃねえさ、そのことはよくわかってら。だが清次だけは許しちゃおけねえ、あの野郎がこのお江戸で同じ息を吸ってるってだけで我慢ならねえ……って思ってるのよ」
四ツ
「手前がしようとしていることを、親分は目を瞑っていて下さるんで?」
肩に手を置いたまま佐吉の目を真っすぐに見返して、重蔵は大きく頷いた。
「それだけじゃねえ。このおれが、おめえを
そして佐吉を店に戻す前に、重蔵はこうも言った。
「清次の野郎がどこに潜り込こうが、このおれが必ず捜し出してやる。だからそれまで、おめえは堀川屋でおとなしく待ってろ」