第13話
文字数 9,032文字
「おっと、怪しい者じゃあねえ。おれはお上から十手を預かってる伊賀町の重蔵って者よ」
げじげじ眉にぎょろ目で鼻は不格好に大きく、男はそう名乗らねばどこのやくざの親分さんかと思うような悪相だった。
思わず庇うようにお美代の前に出る幸助だが、当のお美代は怯えるどころかきつい目で重蔵を睨み返している。
「話は聞いてるわ。河岸にまで清さんを苛めに来た厭な親分さんって、貴方ね」
「これはご挨拶だ」
重蔵は苦笑いしたが、幸助にはただ唇をひん曲げただけにしか見えなかった。
「で、四ツ谷辺りの親分さんが、こんな遠くまでわざわざ何の御用です?」
お美代を背後に庇う姿勢を崩さぬ幸助を見て、重蔵はまた唇の端を曲げた。
「あんたは森田屋の跡取り息子だね? ちょうどいいや、あんたの嫁になろうって娘が贔屓にしてる清次がどんな野郎か、よく聞いておいた方がいい」
「いえそれには及びません、島帰りだという話も聞いておりますし、改心して真面目に働いている様子もこの目で見ておりますので」
幸助の言葉にお美代も大きく頷くが、重蔵はわざとらしく首を振りながら、馬鹿な奴めと言いたげに嗤った。
「あんたらはどっちも、何もわかっちゃねえんだな」
「わかってるわよッ、清さんがほんとは良い人なんだって、ちゃんとわかってるんだから!」
「じゃあ聞くが、その清さんが何で島に送られたか、お嬢さんは知ってるのかい?」
「え、それは……」
尋ねられてお美代は返事に詰まった。友五郎からは奴が自分から喋るまで無理に尋ねるなと言われているし、清次も昔のことを思い出すとひどく辛そうにするから、確かなことはまだ殆ど何も知らないでいる。
「知らねえなら聞かせてやろう、四ツ谷の鮫ヶ橋ってのは貧乏長屋と地獄宿しかねえようなえらく柄の悪い町なのだが、清次ってのはそこでただ遊ぶ金欲しさでさんざ人を痛め付けるわ、女は好き放題に手籠めにするわで、鮫ヶ橋でも札付きの悪だったのよ」
「嘘ッ」
「嘘じゃねえさ、何しろ野郎をお縄にして島に送ったのは、このおれなんだからな。てめえの言うことを聞かねえ者は死ぬほど殴る蹴る、好 い女は犯し抜くで、ちょうどお嬢さんと同じくらいの年頃のお志津って娘なんざ、地獄の苦しみを見せられた揚げ句に、可哀想に本当にあの世に行っちまった」
「そんな筈ないッ、清さんがそんな人の筈ないんだから!」
お美代が知っているのは誰に何と言われても口答え一つせず、誰より精を出して懸命に働く清次だ。
「人? おれに言わせりゃ野郎は人間なんかじゃねえ、人の皮を被った獣さね」
親分さんなんか、皮も中身も丸ごと獣じゃないの。胸の中でそう思いはしたが、いくら頭に血が上っているお美代でもさすがにそこまでは言えない。
そのお美代の代わりに、幸助がこの厭な目明かしを追い払う役を買って出た。清次の肩を持ちたいのではないが、自分だって頼りになる男なのだとここで示さねばと、勇気を振るってこの悪漢面の親分に口答えした。
「過去 はどうでも、今は真面目に身を粉にして働いている。それで良いじゃありませんか」
「なるほど。小さな親切、大きなお世話……ってか?」
重蔵は目を剥き、また口元をねじ曲げて厭な笑い方をする。
「そうは申しませんが、親分さんのおっしゃる昔の罪は島で償って来たんだ。もう放っておいてやって下さい、お願いだ」
「償う?甘 えな。良い人間ばっかりに囲まれて幸せに育ってよ、理屈や綺麗事がそのまんま通ると信じてるお嬢ちゃんやお坊ちゃんにゃ、死んでも赦されねえ罪があるって事が肌でわからねえんだ」
そう言い捨てると、重蔵は幸助よりお美代に意味ありげな目を向けて二人に背を向けた。
事の次第を口早にまくし立てた後、松蔵は目を血走らせて安平のすぐ前に膝を進めた。
「野郎め、夕べのことを早速お上に御注進に及びやがったんじゃないですかい?」
「そうさなあ」
安平は含み笑いに近い笑みを浮かべて、煙管に煙草を詰める。
「どうしやす? 斬れと言われれば、今からだって行って来やすぜ」
「そう慌てんな。清の奴がもし本当におれ達を売りやがったんなら、捕り方がとうにここに乗り込んで来てるだろうさ」
「あ、なある……」
松蔵は一度は腑に落ちたという顔で頷きはしたものの、すぐにまた首を傾げた。
「でも、だとすると何で与吉は張り込んでたんでやしょうね?」
「さあな。縄張りン中に舞い込んで来た島帰りがどうしてるか、ちょいと気になったのかも知れねえし、それとも他の誰かを張ってたのかも知らねえ」
「じゃ、清の兄ィは喋らねえって、当てにしてていいんですかい?」
答える前に、安平は否定とも肯定とも取れる微妙な唸り方をした。
「ま、どっちにしろ用心はしておくに越したことはねえな。松、おめえも暫くは、清次ンとこには近寄らねえようにしておくこった」
頷いて黒江町の真砂屋を出た松蔵は、殆ど裏と言っても良い松平加賀守の下屋敷に向かった。そしてそこの賭場の代貸に、徹太の借金が程よいくらいに膨らんでいると知らされた。
遠ざかるその頑丈な背中を睨んで、お美代は目を怒らせて大きく息を吸った。
そして胸の中の息を吐き出しながら、ほんっとにと呟く。
「ほんっとに、ほんっとに、ほんっとに厭な奴ッ」
「まあ目明かしなんて、多かれ少なかれあんなものさ。いちいち腹を立てるだけ損だよ」
幸助にそう慰められても、お美代の頬はまだ膨れたままだ。
「でも、加賀町の与吉親分はあんなじゃないわ」
「確かにそれはその通りだ」
与吉も金を受け取らぬわけでは無いが、十手をちらつかせて無理にせびり取るような事はしない。それにその金の使い道も殆どが探索や抱えている子分の為で、自身の懐の肥やしにするつもりはないのがわかるから、友五郎や幸助の父も含め出す方はみな町の為の出費のうちと思って渡している。
近くにはもう一人、摩利支天の権三という十手持ちがいるが、こちらの方は重蔵に似たり寄ったりの悪玉で、弥勒の三五郎一家に金ですっかり骨を抜かれているという噂もある。
しかし幸助もお美代も、岡っ引きの評判をする為に会っているわけではない。海辺橋近くの茶店で団子を食べながら、近所の同年代の誰それの噂話などをするうちにお美代の機嫌も直ってきた。
そのお美代を今川町の伊勢崎屋まで送り、堀を一つ隔てた佐賀町の森田屋の暖簾を潜った幸助は、思いもよらぬ顔に迎えられた。
「よお若旦那、待ちくたびれたぜ」
仙台堀で別れた筈の重蔵が店の上がり框に座り込んでいて、その脇で幸助の二親が青い顔をしている。
「ここのお店の売り物をどんな野郎が担いでいるのか、旦那とおかみさんにも教えといてやろうと思ってなあ」
目をぎょろりと光らせ、唇をねじ曲げて例の底意地の悪い笑みを浮かべた。
「話はさっき充分聞きました、帰って下さいッ」
幸助は思わず怒鳴っていたが、重蔵が何か言うより先に父の森田屋彦右衛門が渋い顔で首を振った。
「親分さんは四ツ谷からわざわざ足を運んで下さったのだ、話ぐらい仕舞いまで聞いても罰は当たらないよ」
「流石は旦那だ、話がわからあ」
重蔵はにたりとして、仕事をしているふりをしながら聞き耳を立てている店の番頭や手代たちを見回す。
「この森田屋さんに嫁に入ろう……ってお嬢さんにどんな悪い虫がついてるか、知りたくねえならおれは、このまま帰っても構わねえのだよ?」
「いやいや、信じる信じないはともかくとして、お話はとりあえず伺っておきましょう」
「おとっさん!」
「それにしても島帰りの怖い人と気安くしてるなんて、お美代ちゃんは一体どうしちまったんだろう」
溜め息を漏らして額の辺りに手を当てる母親の方に、重蔵はしたり顔で身を乗り出す。
「それがさ、野郎はどうしようもない悪なんだが、男っ振りだけは役者顔負けに良いのよ。残念だが若い娘っ子は、野郎の面にころッと参っちまう。清さんは悪い人なんかじゃないの、ほんとは優しくて良い人なの……ってな」
声音を使い、気味の悪いしなまで作って見せた後、重蔵は今度は父親の彦右衛門に目を向けた。
「もしもの話だが、あの伊勢崎屋のお嬢さんを嫁に貰った後で生まれた子が、若旦那にまるで似てねえ……なんて話になってからじゃ、ほんとに洒落にもなりませんぜ?」
「親分さんいい加減に……」
今度ばかりは誰に止められても聞かないつもりで、幸助は重蔵の襟首を掴みかけた。
その手を重蔵は振りほどこうともせずに、幸助の目の奥をじっと覗き込む。
「なあ若旦那、正直なところどうよ。そんなこたぁ絶対ある筈ねえって、心の底から言えるかい?」
ない、と幸助は直ぐには答えられなかった。
清次に良い感情を抱いたことは、幸助は実は一度たりとも無かった。
ただ清次が島帰りだから、そして面が良いから気に入らないというような幼稚な反感とは違う。雌の本能をぞくりとさせる、目に見えぬ危険な雄の魅力を全身から発しているのを、幸助は肌で感じるのだ。
どれだけ真面目に働いていようが、あの男が尋常な者ではないのは目付きだけでも充分過ぎるほどわかる。河岸の荷揚げ人足と言えば荒っぽいのが当たり前だが、それでも清次と比べれば狼と飼い犬くらいに違う。
その狼をうちのポチか何かのように可愛がっているお美代に、幸助はただ許婚として面白くないという段階を越えた、胸を締め付けられるような不安を抱き続けていた。
にもかかわらず繰り返し聞かされる清次の話に笑顔で耳を傾けていたのは、ただお美代の機嫌を損ねない為だった。そしてその中には、たかが人足風情に嫉妬する器の小さな男と思われたくないという気持ちも含まれている。
襟首を掴む手の力が気づかぬうちに緩み、重蔵は薄笑いを浮かべながら幸助の指を一本ずつ外した。
「若旦那もどうやら、おわかりになったようだね」
幸助は直ぐにはものも言えず、母親もただおろおろするばかりだ。その中で父親の彦右衛門だけが冷静なままでいて、作り笑顔で考えながら言葉を返す。
「親分さんのおっしゃる事を疑うわけではありません、ですが伊勢友さんとは長い付き合いです。確かな証しも無しに、伊勢友さんが寄越してくれている者のことをどうこう言うわけには……」
「それはおれもよくわかるぜ。真実はどうなのか、森田屋さんも人をやって得心が行くまで調べてみるといい」
そう頷いた重蔵は、太々しいくらい自信ありげだ。
「清次が生まれたのは四ツ谷仲町だが、野郎が昔どんなだったか知ってる者は、鮫ヶ橋の辺りにも掃いて捨てるほどいらあな。土地の者に片っ端から聞いてみりゃ、おれが言ったことが嘘かどうかよくわからあ」
言い捨てるようにそう告げると、重蔵は上がり框から勢い良く立ち上がって戸口から出かけた。
彦右衛門は慌てて小粒銀を幾つか懐紙に包み、重蔵の後を追いかけてその袂の中に押し込もうとする。
「また親分さんのお手を煩わせるようなことがありましたら、その際は何分とも……」
が、重蔵はその彦右衛門の手を押し返した。
「誤解して貰っちゃ困る、おれは何も小遣い銭が欲しくってこんな真似をしてるんじゃねえのだ」
そんな綺麗事をおっしゃらずとも。
そう言いたげな彦右衛門の顔を、重蔵は例のぎょろ目で真っすぐに見返した。
「ただ野郎の化けの皮にうまうまと騙されちまってる皆に、本当のことを知っておいて貰いてえだけよ」
その森田屋の油樽を、清次は体中の力を振り絞って担いでいた。
島から戻って、今日ほど嬉しいことはねえ。清次は心からそう思った。こんな世間様に顔向け出来ないような事ばかりして来た自分を、仲間として受け入れてくれた河岸の皆にはどれだけ感謝してもしきれない思いだ。
懸命に働けば、いつかきっとわかって貰える。それは再び闇の世界に堕ちたくない気持ちが抱かせた願望であって、現実はそんなに甘いものではないと心の底ではわかっていた。
それだけに、よお清次と皆が親しげに声をかけてくれるようになった今が、何だか夢でも見てるくらいに嬉しい。
八ツ時にお美代が皆に持って来てくれた差し入れは例の海辺橋近くの茶店の団子で、からめられた甘辛い醤油餡は疲れた体に堪えられないほど旨かった。
「幸助さんと食べたらとっても美味しくて、だからみんなにも……って思ったの」
そう話すお美代を、古顔で気安い仲の人足らは遠慮なく冷やかす。
「おや、今日も森田屋の若旦那とご一緒でやしたか。そいつは重ねて御馳走様で」
「じゃあこいつは幸せの御裾分け、ってやつだ」
幸せの御裾分けか。誰かが言ったその言葉を、清次は胸の奥で噛み締めるように繰り返した。
この深川に流れ着いてから、清次は伊勢崎屋には世話になりっ放しだが、誰に一番恩があると言えば間違いなくお美代だ。あの日万年橋の袂の稲荷で行き倒れていたのを、もし見つけて拾ってくれていなければ、清次は間違いなくあの世とやらに行っていた筈だ。
その後もお美代には勿体ないくらい優しくされてばかりで、この観音さまのような伊勢崎屋のお嬢さまの幸せを、清次は心から願わずにいられない。
七ツ半になれば仕事も終わり、皆で湯屋に行き疲れた体をほぐす。湯など島にいた頃には考えられない贅沢だし、湯の中で目を閉じてぼうっとしていれば、ここは極楽かと思うほどだ。そして伊勢崎屋に帰れば、旨い飯と温かい寝床が待っている。
おれはもう、これ以上何も要らねえ。その時、清次は心からそう思っていた。
その日、湯屋に一緒に行った中には徹太もいて、周りの仲間に良いようにからかわれていた。
「おや、今日は遊びに行かねえのかい?」
「いくら若 えったって、さすがに体が続かねえか」
「いや、続かねえのは懐の方かも知れねえぞ」
仲間の殆どが年上だから遠慮もあろうが、うるせえやと言い返す声にもどこか普段の元気が無い。
博打で一儲けしようなどと思うのは、笊で水を汲もうとするようなものだ。その誰にでもわかりそうな事に、徹太は今になってようやく気づいた。
しかし賭場で作った借りは、既に目眩がするほどの額になっていて、それをどう返したら良いか見当もつかないでいる徹太だ。しかも借りている相手は高利貸よりもっと怖いやくざで、拝み倒したところでどうにかなる筈がない。
だから皆が旨い旨いと言いながら食っていた八ツ時の団子も、実は徹太は味すら何もわからぬまま、ただにちゃにちゃ噛んでいた。
今もこうして皆と湯屋に行きぐずくずしているのも、賭場の者に借金を催促されるのが怖いからだ。
湯屋の二階は広い座敷になっていて、将棋盤もあるし小女が茶や饅頭も持って来てくれるから、時間はかなり潰せる。しかし仲間にはそれぞれ帰るところがあって、あの清次でさえ何が楽しいのか伊勢崎屋にいそいそと帰って行った。
口うるさい二親や妙に出来の良い弟の居る家になど帰りたくもないが、仲間が皆いなくなると妙に寂しくて、徹太は仕方なく伊沢町の長屋に帰った。
湯屋を出ると外はすっかり暗くなっていたが、慣れた道だからどうということもない。西支川に沿って千鳥橋と縁橋を続けて渡り、表通りから長屋の入り口へひょいと曲がろうとした時、物陰から伸びてきた太い腕に首根っこをぐいと掴まれた。
「あ、松蔵の兄ィ……」
思わず震え声になる徹太の首を肩ごと抱え込んだまま、松蔵は強い力で引きずって行く。
「四の五の言わねえでとっとと来やがれ」
考えてみれば弥勒の三五郎一家の賭場は伊沢町と目と鼻の先で、徹太が引きずって行かれかけている久中橋を渡ればすぐだ。一家の若い者が、今までこうしてやって来なかった方がおかしいと言えるかも知れない。
門前仲町近くの賑やかな所だし、まだ宵の口だから人通りも少なくないが、やくざと一目でわかる男に引きずられて行く徹太を気の毒そうに見る者はいても、あえて助けようとする者は誰もいない。
賭場の奥の狭い部屋に、徹太は背中を一突きされて押し込まれた。中には松蔵の弟分の若い者が三人ばかりとぐろを巻いていて、転がり込んで来た徹太を寄ってたかって押さえ付けた。
後ろ手に捩り上げられた腕の痛みに、徹太は思わず前屈みになり呻き声を上げる。
その鼻先に、松蔵は賭場の木札 を回す度に書かせた証文の束を突き付けた。
「おい、この借りをどう返 すんだ? まさか返しもしねえで尻 を捲ろう、ってんじゃねえだろうなあ、え?」
「とんでもねえ、まさかそんな……」
首を激しく振る徹太の目の前で、松蔵は突き付けたままの証文をぽんと叩く。
「締めてざっと三十両にならあ。で、こいつをどう返してくれる、ってんだ?」
「嘘だ、おれはそんなに借りてねえ!」
「馬鹿かてめえは、借りた金には利子ってもんがつくんだよ」
項垂れる徹太の頬を、松蔵は証文の束で打った。
「本当は三十両と一分二朱になるのだが、知らぬ顔じゃねえからこれでも端数を切ってやってんだぜ?」
「お願 えだ、今は文無しだからどうしようもねえが、次は必ず勝つんで木札を回してやって下せえ」
「ふざけんな、客が勝つまで金を貸してやる賭場がどこにあるってんだ、また貸して欲しけりゃ、その前にまず借りた分を耳を揃えて返しやがれッ」
「なら暫く待って下せえ、借りた金は働いてちょっとずつでも必ず……」
幸い徹太は二親と暮らしているから、荷揚げで稼いだ金をそっくり返しても食うには困らない。おれはまだ若いのだし、痛いが良い勉強をしたと思って二年か三年死ぬ気で辛抱すれば、きっと何とかなる。頭の中で徹太は必死に算段をした。
「待たねえでもねえが、その待つ間にもまた利子が付くのだぜ?」
今さら気づいたかのように目を見張る徹太を、松蔵は蔑むというより憐れみに近い眼差しで見下ろした。
「うちの利息は十日で一割だ。ぽんつくなおめえにもわかるように言ってやるが、おめえはその度に三両ずつ払わなきゃなんねえ」
松蔵の言う利子を一日分に直せば千二百文になるが、ちなみに徹太が河岸で汗を滝のように流してようやく手にしている日銭は、その何分の一にしかならない。
「てめえ、払えるのか?」
松蔵は薄笑いを浮かべながら目を覗き込むが、答えは言うまでもなくわかっていた。
項垂れて返事も出来ずにいる徹太に、松蔵は優しげにも聞こえる声をかけた。
「てめえ一人じゃどう足掻いても無理だ。身内に助 けて貰わにゃ、どうにもならねえだろ」
「身内ったって、兄貴も知っての通り裏長屋の貧乏人ばかりだ、頭を下げ回って掻き集めたって二分の金もありゃしねえ」
日ごろは煙たい二親だけでなく、近くの町に住む伯父伯母の顔まで思い浮かべながらしょんぼり答える徹太の肩に、松蔵はにやつきながら腕を回す。
「とぼけんな、てめえにゃ器量良しの姉ちゃんがいるじゃねえか。ほら、雑司ケ谷の吉野って料理茶屋で働いてる、お柾ちゃんとかいう……」
「ちょ、待っておくんなせえ、姉ちゃんは関係ねえだろ!」
「甘ったれたこと抜かすんじゃねえッ、てめえが払わねえなら姉ちゃんが払うしかねえんだよ」
「兄貴酷えや、兄貴がおれにこんなことをするなんて思ってもなかった」
「何寝ぼけたことを言ってやがる、てめえが初めて賭場の金を借りた時、おれは止めておけと確かに言ったぜ?」
考えてみれば確かにその通りで、こうなるまで博打にのめり込んだのを松蔵のせいにするのはお門違いと徹太にもわかる。
徹太の表情が変わるのを見て、松蔵の顔のにやにや笑いがさらに大きくなった。
「なあ、雑司ケ谷のすぐ隣の音羽にゃ、坂下の与次郎さんっていうご同業の親分さんがいるんだが、うちの親分とも顔見知りの仲だ。てめえが払わねえって言うんなら、この借用書、与次郎親分に買い取って貰っても良いんだぜ?」
おめえの姉ちゃんみてえな上玉なら、三十どころか五十両でも喜んで融通してくれるだろうぜ。そう囁く松蔵の声を、徹太は虚ろな目で遥か遠くの微かな声のように聞いた。
同じ頃、賭場と殆ど背中合わせとも言える黒江町の真砂屋では、安平が苦汁の決断を迫られていた。
間近に迫っている阿芙蓉の取引に、この真砂屋の太一を使う他に道は無いと頭ではわかっている。何しろ太一は船頭から身を起こして船宿の主になった男だから、猪牙くらい今でも器用に操れた。だから長崎から来る船にそっと漕ぎ寄せ、約束の金と引き換えに阿芙蓉を受け取って来るくらい難無くこなせるに違いない。
ただ同じ危ない橋を渡る仲間として太一を信じられるかと言うと、安平はどうにも頷きかねた。
何しろ隣の賭場で博打に嵌まった挙げ句、借金の質 の代わりに店を一家の良いようにさせているような男なのだ。信じて頼る気になれる男かと言われれば、清次とは比べものにならない。
もしも清次が仲間になると言ってくれさえすれば、太一などすぐにでも追い出して真砂屋の主に据えてやるのだが。そしてこの船宿を隠れ蓑に、清次と安平が組んでこの仕事に当たれば何もかも巧く行くだろうにと思うと、今でも腹立たしくてならない。
しかし清次にその気がまるで無い以上、今さら何を言っても繰り言でしかないことも、安平はよくわかっていた。
幸い、太一は女房のお高にぞっこん惚れ込んでいた。だから取引に出している間はお高の身柄を質に押さえておけば、裏切るような真似はするまいと自分に言い聞かせるようにして、安平は悩むのを止めて肚を決めた。
それから暫く、本当に何もない穏やかな日が続いた。
冬も本番でかなり寒くはあるが、重い荷を担ぐきつい仕事には丁度良いくらいだ。そして伊賀町の重蔵や佐吉、それに弥勒の三五郎一家のやくざも、あれ以来河岸に姿を見せることもなかった。
河岸で清次を無視したり八丈などと呼んだりする者は今では殆どなくなり、清次とか清の兄ィとか呼んで普通に話しかけてくれる。
ただお美代に遠慮してのことではあるまいが、清次を清さんと呼んでいるのは、今もまだお美代一人だけだ。
気になると言えば、徹太の元気が相変わらず無いままなことくらいか。ただ時折ぼんやりとはしているものの、仕事には欠かさず来ていたし、働いた後も遊びに行きもせずに真っすぐ帰っているようだったから、皆はテツめ気の毒に女にでも振られたかくらいに思っていた。
そんなある夕方、森田屋に呼ばれていた友五郎が日焼けした顔を怒りで赤黒くして帰って来た。
「見損なった。彦右衛門さんがあんな話のわからねえ、器の小せえ男だとは思っても無かったぜ」
げじげじ眉にぎょろ目で鼻は不格好に大きく、男はそう名乗らねばどこのやくざの親分さんかと思うような悪相だった。
思わず庇うようにお美代の前に出る幸助だが、当のお美代は怯えるどころかきつい目で重蔵を睨み返している。
「話は聞いてるわ。河岸にまで清さんを苛めに来た厭な親分さんって、貴方ね」
「これはご挨拶だ」
重蔵は苦笑いしたが、幸助にはただ唇をひん曲げただけにしか見えなかった。
「で、四ツ谷辺りの親分さんが、こんな遠くまでわざわざ何の御用です?」
お美代を背後に庇う姿勢を崩さぬ幸助を見て、重蔵はまた唇の端を曲げた。
「あんたは森田屋の跡取り息子だね? ちょうどいいや、あんたの嫁になろうって娘が贔屓にしてる清次がどんな野郎か、よく聞いておいた方がいい」
「いえそれには及びません、島帰りだという話も聞いておりますし、改心して真面目に働いている様子もこの目で見ておりますので」
幸助の言葉にお美代も大きく頷くが、重蔵はわざとらしく首を振りながら、馬鹿な奴めと言いたげに嗤った。
「あんたらはどっちも、何もわかっちゃねえんだな」
「わかってるわよッ、清さんがほんとは良い人なんだって、ちゃんとわかってるんだから!」
「じゃあ聞くが、その清さんが何で島に送られたか、お嬢さんは知ってるのかい?」
「え、それは……」
尋ねられてお美代は返事に詰まった。友五郎からは奴が自分から喋るまで無理に尋ねるなと言われているし、清次も昔のことを思い出すとひどく辛そうにするから、確かなことはまだ殆ど何も知らないでいる。
「知らねえなら聞かせてやろう、四ツ谷の鮫ヶ橋ってのは貧乏長屋と地獄宿しかねえようなえらく柄の悪い町なのだが、清次ってのはそこでただ遊ぶ金欲しさでさんざ人を痛め付けるわ、女は好き放題に手籠めにするわで、鮫ヶ橋でも札付きの悪だったのよ」
「嘘ッ」
「嘘じゃねえさ、何しろ野郎をお縄にして島に送ったのは、このおれなんだからな。てめえの言うことを聞かねえ者は死ぬほど殴る蹴る、
「そんな筈ないッ、清さんがそんな人の筈ないんだから!」
お美代が知っているのは誰に何と言われても口答え一つせず、誰より精を出して懸命に働く清次だ。
「人? おれに言わせりゃ野郎は人間なんかじゃねえ、人の皮を被った獣さね」
親分さんなんか、皮も中身も丸ごと獣じゃないの。胸の中でそう思いはしたが、いくら頭に血が上っているお美代でもさすがにそこまでは言えない。
そのお美代の代わりに、幸助がこの厭な目明かしを追い払う役を買って出た。清次の肩を持ちたいのではないが、自分だって頼りになる男なのだとここで示さねばと、勇気を振るってこの悪漢面の親分に口答えした。
「
「なるほど。小さな親切、大きなお世話……ってか?」
重蔵は目を剥き、また口元をねじ曲げて厭な笑い方をする。
「そうは申しませんが、親分さんのおっしゃる昔の罪は島で償って来たんだ。もう放っておいてやって下さい、お願いだ」
「償う?
そう言い捨てると、重蔵は幸助よりお美代に意味ありげな目を向けて二人に背を向けた。
事の次第を口早にまくし立てた後、松蔵は目を血走らせて安平のすぐ前に膝を進めた。
「野郎め、夕べのことを早速お上に御注進に及びやがったんじゃないですかい?」
「そうさなあ」
安平は含み笑いに近い笑みを浮かべて、煙管に煙草を詰める。
「どうしやす? 斬れと言われれば、今からだって行って来やすぜ」
「そう慌てんな。清の奴がもし本当におれ達を売りやがったんなら、捕り方がとうにここに乗り込んで来てるだろうさ」
「あ、なある……」
松蔵は一度は腑に落ちたという顔で頷きはしたものの、すぐにまた首を傾げた。
「でも、だとすると何で与吉は張り込んでたんでやしょうね?」
「さあな。縄張りン中に舞い込んで来た島帰りがどうしてるか、ちょいと気になったのかも知れねえし、それとも他の誰かを張ってたのかも知らねえ」
「じゃ、清の兄ィは喋らねえって、当てにしてていいんですかい?」
答える前に、安平は否定とも肯定とも取れる微妙な唸り方をした。
「ま、どっちにしろ用心はしておくに越したことはねえな。松、おめえも暫くは、清次ンとこには近寄らねえようにしておくこった」
頷いて黒江町の真砂屋を出た松蔵は、殆ど裏と言っても良い松平加賀守の下屋敷に向かった。そしてそこの賭場の代貸に、徹太の借金が程よいくらいに膨らんでいると知らされた。
遠ざかるその頑丈な背中を睨んで、お美代は目を怒らせて大きく息を吸った。
そして胸の中の息を吐き出しながら、ほんっとにと呟く。
「ほんっとに、ほんっとに、ほんっとに厭な奴ッ」
「まあ目明かしなんて、多かれ少なかれあんなものさ。いちいち腹を立てるだけ損だよ」
幸助にそう慰められても、お美代の頬はまだ膨れたままだ。
「でも、加賀町の与吉親分はあんなじゃないわ」
「確かにそれはその通りだ」
与吉も金を受け取らぬわけでは無いが、十手をちらつかせて無理にせびり取るような事はしない。それにその金の使い道も殆どが探索や抱えている子分の為で、自身の懐の肥やしにするつもりはないのがわかるから、友五郎や幸助の父も含め出す方はみな町の為の出費のうちと思って渡している。
近くにはもう一人、摩利支天の権三という十手持ちがいるが、こちらの方は重蔵に似たり寄ったりの悪玉で、弥勒の三五郎一家に金ですっかり骨を抜かれているという噂もある。
しかし幸助もお美代も、岡っ引きの評判をする為に会っているわけではない。海辺橋近くの茶店で団子を食べながら、近所の同年代の誰それの噂話などをするうちにお美代の機嫌も直ってきた。
そのお美代を今川町の伊勢崎屋まで送り、堀を一つ隔てた佐賀町の森田屋の暖簾を潜った幸助は、思いもよらぬ顔に迎えられた。
「よお若旦那、待ちくたびれたぜ」
仙台堀で別れた筈の重蔵が店の上がり框に座り込んでいて、その脇で幸助の二親が青い顔をしている。
「ここのお店の売り物をどんな野郎が担いでいるのか、旦那とおかみさんにも教えといてやろうと思ってなあ」
目をぎょろりと光らせ、唇をねじ曲げて例の底意地の悪い笑みを浮かべた。
「話はさっき充分聞きました、帰って下さいッ」
幸助は思わず怒鳴っていたが、重蔵が何か言うより先に父の森田屋彦右衛門が渋い顔で首を振った。
「親分さんは四ツ谷からわざわざ足を運んで下さったのだ、話ぐらい仕舞いまで聞いても罰は当たらないよ」
「流石は旦那だ、話がわからあ」
重蔵はにたりとして、仕事をしているふりをしながら聞き耳を立てている店の番頭や手代たちを見回す。
「この森田屋さんに嫁に入ろう……ってお嬢さんにどんな悪い虫がついてるか、知りたくねえならおれは、このまま帰っても構わねえのだよ?」
「いやいや、信じる信じないはともかくとして、お話はとりあえず伺っておきましょう」
「おとっさん!」
「それにしても島帰りの怖い人と気安くしてるなんて、お美代ちゃんは一体どうしちまったんだろう」
溜め息を漏らして額の辺りに手を当てる母親の方に、重蔵はしたり顔で身を乗り出す。
「それがさ、野郎はどうしようもない悪なんだが、男っ振りだけは役者顔負けに良いのよ。残念だが若い娘っ子は、野郎の面にころッと参っちまう。清さんは悪い人なんかじゃないの、ほんとは優しくて良い人なの……ってな」
声音を使い、気味の悪いしなまで作って見せた後、重蔵は今度は父親の彦右衛門に目を向けた。
「もしもの話だが、あの伊勢崎屋のお嬢さんを嫁に貰った後で生まれた子が、若旦那にまるで似てねえ……なんて話になってからじゃ、ほんとに洒落にもなりませんぜ?」
「親分さんいい加減に……」
今度ばかりは誰に止められても聞かないつもりで、幸助は重蔵の襟首を掴みかけた。
その手を重蔵は振りほどこうともせずに、幸助の目の奥をじっと覗き込む。
「なあ若旦那、正直なところどうよ。そんなこたぁ絶対ある筈ねえって、心の底から言えるかい?」
ない、と幸助は直ぐには答えられなかった。
清次に良い感情を抱いたことは、幸助は実は一度たりとも無かった。
ただ清次が島帰りだから、そして面が良いから気に入らないというような幼稚な反感とは違う。雌の本能をぞくりとさせる、目に見えぬ危険な雄の魅力を全身から発しているのを、幸助は肌で感じるのだ。
どれだけ真面目に働いていようが、あの男が尋常な者ではないのは目付きだけでも充分過ぎるほどわかる。河岸の荷揚げ人足と言えば荒っぽいのが当たり前だが、それでも清次と比べれば狼と飼い犬くらいに違う。
その狼をうちのポチか何かのように可愛がっているお美代に、幸助はただ許婚として面白くないという段階を越えた、胸を締め付けられるような不安を抱き続けていた。
にもかかわらず繰り返し聞かされる清次の話に笑顔で耳を傾けていたのは、ただお美代の機嫌を損ねない為だった。そしてその中には、たかが人足風情に嫉妬する器の小さな男と思われたくないという気持ちも含まれている。
襟首を掴む手の力が気づかぬうちに緩み、重蔵は薄笑いを浮かべながら幸助の指を一本ずつ外した。
「若旦那もどうやら、おわかりになったようだね」
幸助は直ぐにはものも言えず、母親もただおろおろするばかりだ。その中で父親の彦右衛門だけが冷静なままでいて、作り笑顔で考えながら言葉を返す。
「親分さんのおっしゃる事を疑うわけではありません、ですが伊勢友さんとは長い付き合いです。確かな証しも無しに、伊勢友さんが寄越してくれている者のことをどうこう言うわけには……」
「それはおれもよくわかるぜ。真実はどうなのか、森田屋さんも人をやって得心が行くまで調べてみるといい」
そう頷いた重蔵は、太々しいくらい自信ありげだ。
「清次が生まれたのは四ツ谷仲町だが、野郎が昔どんなだったか知ってる者は、鮫ヶ橋の辺りにも掃いて捨てるほどいらあな。土地の者に片っ端から聞いてみりゃ、おれが言ったことが嘘かどうかよくわからあ」
言い捨てるようにそう告げると、重蔵は上がり框から勢い良く立ち上がって戸口から出かけた。
彦右衛門は慌てて小粒銀を幾つか懐紙に包み、重蔵の後を追いかけてその袂の中に押し込もうとする。
「また親分さんのお手を煩わせるようなことがありましたら、その際は何分とも……」
が、重蔵はその彦右衛門の手を押し返した。
「誤解して貰っちゃ困る、おれは何も小遣い銭が欲しくってこんな真似をしてるんじゃねえのだ」
そんな綺麗事をおっしゃらずとも。
そう言いたげな彦右衛門の顔を、重蔵は例のぎょろ目で真っすぐに見返した。
「ただ野郎の化けの皮にうまうまと騙されちまってる皆に、本当のことを知っておいて貰いてえだけよ」
その森田屋の油樽を、清次は体中の力を振り絞って担いでいた。
島から戻って、今日ほど嬉しいことはねえ。清次は心からそう思った。こんな世間様に顔向け出来ないような事ばかりして来た自分を、仲間として受け入れてくれた河岸の皆にはどれだけ感謝してもしきれない思いだ。
懸命に働けば、いつかきっとわかって貰える。それは再び闇の世界に堕ちたくない気持ちが抱かせた願望であって、現実はそんなに甘いものではないと心の底ではわかっていた。
それだけに、よお清次と皆が親しげに声をかけてくれるようになった今が、何だか夢でも見てるくらいに嬉しい。
八ツ時にお美代が皆に持って来てくれた差し入れは例の海辺橋近くの茶店の団子で、からめられた甘辛い醤油餡は疲れた体に堪えられないほど旨かった。
「幸助さんと食べたらとっても美味しくて、だからみんなにも……って思ったの」
そう話すお美代を、古顔で気安い仲の人足らは遠慮なく冷やかす。
「おや、今日も森田屋の若旦那とご一緒でやしたか。そいつは重ねて御馳走様で」
「じゃあこいつは幸せの御裾分け、ってやつだ」
幸せの御裾分けか。誰かが言ったその言葉を、清次は胸の奥で噛み締めるように繰り返した。
この深川に流れ着いてから、清次は伊勢崎屋には世話になりっ放しだが、誰に一番恩があると言えば間違いなくお美代だ。あの日万年橋の袂の稲荷で行き倒れていたのを、もし見つけて拾ってくれていなければ、清次は間違いなくあの世とやらに行っていた筈だ。
その後もお美代には勿体ないくらい優しくされてばかりで、この観音さまのような伊勢崎屋のお嬢さまの幸せを、清次は心から願わずにいられない。
七ツ半になれば仕事も終わり、皆で湯屋に行き疲れた体をほぐす。湯など島にいた頃には考えられない贅沢だし、湯の中で目を閉じてぼうっとしていれば、ここは極楽かと思うほどだ。そして伊勢崎屋に帰れば、旨い飯と温かい寝床が待っている。
おれはもう、これ以上何も要らねえ。その時、清次は心からそう思っていた。
その日、湯屋に一緒に行った中には徹太もいて、周りの仲間に良いようにからかわれていた。
「おや、今日は遊びに行かねえのかい?」
「いくら
「いや、続かねえのは懐の方かも知れねえぞ」
仲間の殆どが年上だから遠慮もあろうが、うるせえやと言い返す声にもどこか普段の元気が無い。
博打で一儲けしようなどと思うのは、笊で水を汲もうとするようなものだ。その誰にでもわかりそうな事に、徹太は今になってようやく気づいた。
しかし賭場で作った借りは、既に目眩がするほどの額になっていて、それをどう返したら良いか見当もつかないでいる徹太だ。しかも借りている相手は高利貸よりもっと怖いやくざで、拝み倒したところでどうにかなる筈がない。
だから皆が旨い旨いと言いながら食っていた八ツ時の団子も、実は徹太は味すら何もわからぬまま、ただにちゃにちゃ噛んでいた。
今もこうして皆と湯屋に行きぐずくずしているのも、賭場の者に借金を催促されるのが怖いからだ。
湯屋の二階は広い座敷になっていて、将棋盤もあるし小女が茶や饅頭も持って来てくれるから、時間はかなり潰せる。しかし仲間にはそれぞれ帰るところがあって、あの清次でさえ何が楽しいのか伊勢崎屋にいそいそと帰って行った。
口うるさい二親や妙に出来の良い弟の居る家になど帰りたくもないが、仲間が皆いなくなると妙に寂しくて、徹太は仕方なく伊沢町の長屋に帰った。
湯屋を出ると外はすっかり暗くなっていたが、慣れた道だからどうということもない。西支川に沿って千鳥橋と縁橋を続けて渡り、表通りから長屋の入り口へひょいと曲がろうとした時、物陰から伸びてきた太い腕に首根っこをぐいと掴まれた。
「あ、松蔵の兄ィ……」
思わず震え声になる徹太の首を肩ごと抱え込んだまま、松蔵は強い力で引きずって行く。
「四の五の言わねえでとっとと来やがれ」
考えてみれば弥勒の三五郎一家の賭場は伊沢町と目と鼻の先で、徹太が引きずって行かれかけている久中橋を渡ればすぐだ。一家の若い者が、今までこうしてやって来なかった方がおかしいと言えるかも知れない。
門前仲町近くの賑やかな所だし、まだ宵の口だから人通りも少なくないが、やくざと一目でわかる男に引きずられて行く徹太を気の毒そうに見る者はいても、あえて助けようとする者は誰もいない。
賭場の奥の狭い部屋に、徹太は背中を一突きされて押し込まれた。中には松蔵の弟分の若い者が三人ばかりとぐろを巻いていて、転がり込んで来た徹太を寄ってたかって押さえ付けた。
後ろ手に捩り上げられた腕の痛みに、徹太は思わず前屈みになり呻き声を上げる。
その鼻先に、松蔵は賭場の
「おい、この借りをどう
「とんでもねえ、まさかそんな……」
首を激しく振る徹太の目の前で、松蔵は突き付けたままの証文をぽんと叩く。
「締めてざっと三十両にならあ。で、こいつをどう返してくれる、ってんだ?」
「嘘だ、おれはそんなに借りてねえ!」
「馬鹿かてめえは、借りた金には利子ってもんがつくんだよ」
項垂れる徹太の頬を、松蔵は証文の束で打った。
「本当は三十両と一分二朱になるのだが、知らぬ顔じゃねえからこれでも端数を切ってやってんだぜ?」
「お
「ふざけんな、客が勝つまで金を貸してやる賭場がどこにあるってんだ、また貸して欲しけりゃ、その前にまず借りた分を耳を揃えて返しやがれッ」
「なら暫く待って下せえ、借りた金は働いてちょっとずつでも必ず……」
幸い徹太は二親と暮らしているから、荷揚げで稼いだ金をそっくり返しても食うには困らない。おれはまだ若いのだし、痛いが良い勉強をしたと思って二年か三年死ぬ気で辛抱すれば、きっと何とかなる。頭の中で徹太は必死に算段をした。
「待たねえでもねえが、その待つ間にもまた利子が付くのだぜ?」
今さら気づいたかのように目を見張る徹太を、松蔵は蔑むというより憐れみに近い眼差しで見下ろした。
「うちの利息は十日で一割だ。ぽんつくなおめえにもわかるように言ってやるが、おめえはその度に三両ずつ払わなきゃなんねえ」
松蔵の言う利子を一日分に直せば千二百文になるが、ちなみに徹太が河岸で汗を滝のように流してようやく手にしている日銭は、その何分の一にしかならない。
「てめえ、払えるのか?」
松蔵は薄笑いを浮かべながら目を覗き込むが、答えは言うまでもなくわかっていた。
項垂れて返事も出来ずにいる徹太に、松蔵は優しげにも聞こえる声をかけた。
「てめえ一人じゃどう足掻いても無理だ。身内に
「身内ったって、兄貴も知っての通り裏長屋の貧乏人ばかりだ、頭を下げ回って掻き集めたって二分の金もありゃしねえ」
日ごろは煙たい二親だけでなく、近くの町に住む伯父伯母の顔まで思い浮かべながらしょんぼり答える徹太の肩に、松蔵はにやつきながら腕を回す。
「とぼけんな、てめえにゃ器量良しの姉ちゃんがいるじゃねえか。ほら、雑司ケ谷の吉野って料理茶屋で働いてる、お柾ちゃんとかいう……」
「ちょ、待っておくんなせえ、姉ちゃんは関係ねえだろ!」
「甘ったれたこと抜かすんじゃねえッ、てめえが払わねえなら姉ちゃんが払うしかねえんだよ」
「兄貴酷えや、兄貴がおれにこんなことをするなんて思ってもなかった」
「何寝ぼけたことを言ってやがる、てめえが初めて賭場の金を借りた時、おれは止めておけと確かに言ったぜ?」
考えてみれば確かにその通りで、こうなるまで博打にのめり込んだのを松蔵のせいにするのはお門違いと徹太にもわかる。
徹太の表情が変わるのを見て、松蔵の顔のにやにや笑いがさらに大きくなった。
「なあ、雑司ケ谷のすぐ隣の音羽にゃ、坂下の与次郎さんっていうご同業の親分さんがいるんだが、うちの親分とも顔見知りの仲だ。てめえが払わねえって言うんなら、この借用書、与次郎親分に買い取って貰っても良いんだぜ?」
おめえの姉ちゃんみてえな上玉なら、三十どころか五十両でも喜んで融通してくれるだろうぜ。そう囁く松蔵の声を、徹太は虚ろな目で遥か遠くの微かな声のように聞いた。
同じ頃、賭場と殆ど背中合わせとも言える黒江町の真砂屋では、安平が苦汁の決断を迫られていた。
間近に迫っている阿芙蓉の取引に、この真砂屋の太一を使う他に道は無いと頭ではわかっている。何しろ太一は船頭から身を起こして船宿の主になった男だから、猪牙くらい今でも器用に操れた。だから長崎から来る船にそっと漕ぎ寄せ、約束の金と引き換えに阿芙蓉を受け取って来るくらい難無くこなせるに違いない。
ただ同じ危ない橋を渡る仲間として太一を信じられるかと言うと、安平はどうにも頷きかねた。
何しろ隣の賭場で博打に嵌まった挙げ句、借金の
もしも清次が仲間になると言ってくれさえすれば、太一などすぐにでも追い出して真砂屋の主に据えてやるのだが。そしてこの船宿を隠れ蓑に、清次と安平が組んでこの仕事に当たれば何もかも巧く行くだろうにと思うと、今でも腹立たしくてならない。
しかし清次にその気がまるで無い以上、今さら何を言っても繰り言でしかないことも、安平はよくわかっていた。
幸い、太一は女房のお高にぞっこん惚れ込んでいた。だから取引に出している間はお高の身柄を質に押さえておけば、裏切るような真似はするまいと自分に言い聞かせるようにして、安平は悩むのを止めて肚を決めた。
それから暫く、本当に何もない穏やかな日が続いた。
冬も本番でかなり寒くはあるが、重い荷を担ぐきつい仕事には丁度良いくらいだ。そして伊賀町の重蔵や佐吉、それに弥勒の三五郎一家のやくざも、あれ以来河岸に姿を見せることもなかった。
河岸で清次を無視したり八丈などと呼んだりする者は今では殆どなくなり、清次とか清の兄ィとか呼んで普通に話しかけてくれる。
ただお美代に遠慮してのことではあるまいが、清次を清さんと呼んでいるのは、今もまだお美代一人だけだ。
気になると言えば、徹太の元気が相変わらず無いままなことくらいか。ただ時折ぼんやりとはしているものの、仕事には欠かさず来ていたし、働いた後も遊びに行きもせずに真っすぐ帰っているようだったから、皆はテツめ気の毒に女にでも振られたかくらいに思っていた。
そんなある夕方、森田屋に呼ばれていた友五郎が日焼けした顔を怒りで赤黒くして帰って来た。
「見損なった。彦右衛門さんがあんな話のわからねえ、器の小せえ男だとは思っても無かったぜ」