第20話
文字数 3,591文字
佐吉の奉公している堀川屋の様子が、何日か前からどうも妙なことになっていた。
堀川屋は袋物屋だから、男も来ないでは無いが店の客はやはり女が多い。ところが近頃は男の、それも人足か馬方かというような柄の良くない汗臭いのが絶えずやって来るようになった。
それでも煙草入れの安いやつでも買って行くならまだ良い、しかし近頃店に来る男らは上がり框に腰を据えて商品を汚い手でいじり回すばかりで、何一つ買って帰った試しが無かった。それどころか店に来る女の客に厭らしいことを言ってからかったり、尻の一つも撫でたりするから、馴染みの客がすっかり寄り付かなくなって商売は上がったりだった。
たまりかねた店の主の徳兵衛が幾許かの金を握らせ、
「今日のところは、どうかこれでお引き取りを」
耳元でそう囁くと、男たちは目を三角にしてその金を投げ返した。
「おいてめえッ、おれっちをゆすりたかり扱いすんのかッ」
ただ喚くだけでなく、商品を並べた台を蹴り上げたり、棚の上の物を叩き落としたりして暴れる。
「また来るぜ」
京から仕入れた自慢の手提 や紙入れが散らばる店の中で呆然とする徳兵衛と佐吉を残して、男たちはせせら笑いながらようやく出て入った。
そして言葉通りに、男たちはまた次の日もやって来ては店の商いの邪魔をする。
「もう勘弁して下さい、貴方がたは手前どもに何の恨みがあるって言うんです」
涙顔でそう尋ねる徳兵衛に、男たちはにたりとして佐吉を指さした。
「恨みがあんのは旦那じゃねえ、こいつの方よ」
「佐吉、お前この人たちに一体何をしたんだい?」
徳兵衛に凄い目で睨まれても、男たちのどの顔にも見覚えのない佐吉はただ首を捻るばかりだ。
「おいおい、てめえのした事を忘れて貰っちゃ困るぜ。おめえが清次の兄ィとうちの店にしてる厭がらせは、これと同じことだぜ」
「おれだ、居るか?」
声を掛けると同時に、伊賀町の重蔵は長屋の障子戸をがらりと引き開けた。
これは親分さん。佐吉が振り返って頭を下げる前に、寝たきりの源造がもがくように半身を起こし、枕屏風の端から目だけ出して言葉にならぬ唸り声を上げた。
「いいんだ、とっつぁんは寝てな」
重蔵はその悪相に似合わぬ作り笑顔を浮かべ、上がるぜと言うが早いか狭い部屋を殆ど一跨ぎにして源造の枕元に屈み込んだ。
「おれはおめえの息子とは仲良しだ、何も心配するこたぁねえ」
小さな子供でもあやすような口調で言いながら、重蔵は佐吉の父親の布団を掛け直す。
源造は皺の寄った顔を綻ばせて頷き、間もなく軽い鼾まじりの寝息を立て始めた。
「いつも済みません、親分」
佐吉が詫びるのを首を振って遮り、重蔵は逆に気の毒そうな目を向ける。
「聞いたぜ、堀川屋に暇を出されたそうだな」
「ええ、まあ」
何とか笑みだけは浮かべたが、声に苦い響きが籠もるのはどうにもならない。
「伊勢崎屋の奴らの仕業なんだってな、え?」
表情を読まれぬよう、仄暗い行灯から顔を背けるようにして佐吉は頷いた。
「気持ちはわかるし気の毒だと思うが、これ以上店の商 いに差し障りが出るような真似をされては困る。旦那様にそう叱られました」
実際には、徳兵衛はもっと激しい言葉で佐吉を罵った。
「あれほど言ったじゃないかッ、仇討ちだなんて馬鹿なことは二度と考えるなと。だいたいねえ、不具のおとっさんを抱えてるお前を気の毒に思えばこそ、これまでだって随分と便宜を図ってやってきたつもりだよ。なのにお前はその恩を仇で返して、この堀川屋を潰す気かい!」
さらに伊勢崎屋の主だという恰幅の良い男まで店にやって来て、清次のことはもう忘れてやってくれと言った。
「佐吉さんって言ったな、おめえさんが清次を憎むのもわかるが、人を憎む気持ちはまた別の憎しみしか生まねえんだよ。おめえさんの恨む気持ちが、清次を兄貴みえに慕ってるうちの若え連中の恨みを生んだんだって、今度のことでよくわかったろ?」
だから過ぎたことは忘れて前を向いて生きろ、でないとおめえさんも決して幸せにはならねえぜ。
肩に手をかけられ情の籠もる声でそう諭されても、佐吉はどうしても頷くことが出来なかった。
「許すことも、忘れることもわたしには死ぬまで出来ません」
佐吉がそう答えると、堀川屋の主は首を振りながら溜め息をついた。
「なら仕方ない、お前には今日限りで暇を出すしか無いね」
「畜生め、おれが助け舟を出してやれればいいのだが、悔しいが今度ばかりはそうも行かねえのよ」
そう言うだけでなく重蔵がいつになく肩を落としているのに、佐吉は漸く気づいた。
「もしや親分さんの方にも、何か迷惑が行ったんで?」
「おれの同業の加賀町の与吉……って言ってもおめえは知らねえだろうが、野郎め、何とお奉行所の旦那方まで動かしやがった」
つい先日、重蔵がついている同心の中野為二郎に呼ばれて役宅に顔を出すと、伊勢崎屋の清次にはもう金輪際構うなと言われた。
「中野の旦那に文句つけて来やがったのは、加賀町の親分ですかい、それとも伊勢崎屋ですかい?」
「うむ、まあ両方だろうな」
それがしの縄張りで貴公の手の者が出過ぎた真似をしているようだが、どういう事だろうか。中野にそう言って来たのは、同じ同心で深川を廻る松井孝之助だが、話の内容から文句の出所は松井の配下の加賀町の与吉だとすぐに見当がついた。
それでも二人の奉行所が同じなら、なあなあで話を済ませることも出来たろう。しかし松井孝之助が属しているのは南町奉行所で、中野為二郎の方は北だ。
「あちらの奉行所を通してねじ込まれりゃあ、おれだって頭を下げざるを得ねえや。手の者によく目が届かず申し訳ない、今後さような真似をさせぬよう、しかと言って聞かせます……ってな」
「ですが旦那……」
「わかってる、清次の野郎のしでかした事はおれだってよく覚えてるさ。御赦免になって野郎がこのお江戸でのうのうと暮らしてると思うと、おれだって胸糞が悪いぜ」
「でしたら」
今暫くお目こぼしをと言いかけた重蔵を遮って、中野は眉間に皺を寄せて唸るような声を上げた。
「十手持ちなんてみんなそんなもんだが、おめえも叩けば埃が出る体だろ?」
重蔵に十手をちらつかされ度々金子をねだり取られて迷惑している由の、与吉が四ツ谷や麹町界隈の商人から集めたかなりの数の口書きが、既に松井の手元にも届けられているという。
「おめえが清次にちょっかいを出すのを今後一切止めるならよし、でなければ……」
「わっしをお縄にする、って言うんですかい?」
重蔵に睨むように見られて、中野は目を逸らして頷いた。
「縄張りの商人連中から袖の下を取ってるのは何もおめえばっかりじゃねえことぐれえ、奉行所の者は誰だってわかってるさ。松井さんのとこの与吉だって、いろんな所から金を取ってるに違えねえのだ。ただ口書きまで取って訴え出られちゃ、お上としても何とかして見せなきゃ示しがつかねえ」
「みんなやってるって承知の上で、わっしだけ咎めようってんですかい?」
「平たく言えばそうなるが、向こうだってそのてめえらの弱い尻もわかってら。だからいざとなったらこれを出しますよと、まずはやんわりと脅しをかけてこっちの出方を見よう……ってとこよ」
そして中野は、今度のことは運と相手が悪かったと思って堪えろと言った。
「そんな事にはまずならねえと思うが、もしお前が牢に入れられたらどうなるか、お前だって知らぬわけでもあるまい?」
「済まねえ。今度の事はおれがけしかけたも同然なのに、おめえにとっちゃ、登った後で梯子を外されるようなもんになっちまった。だがおれは、情けねえがここで手を引かざるを得ないのよ」
僅かに口を開けて眠り続ける父親の脇で体を縮めて座っている佐吉に、重蔵は膝を正して深く頭を下げた。
「とんでもない、親分さんには本当に良くして戴きました。あの鬼畜生に恨み言の一つも言えたのだって親分さんのお陰と、今だって感謝しているんですよ」
「嘘でもそう言って貰えると気が楽になるぜ」
重蔵はもう一度頭を下げると、持って来た徳利を佐吉の目の前に置いた。
「取り敢えず今夜は飲もうや、おれにはこんな事しかできねえで申し訳ねえが」
「ありがたい、戴きます」
僅かに笑みを浮かべて燗をつける火を熾そうとした佐吉に首を振り、重蔵はおれなら湯飲みが一つあればいいと言った。
「無作法を承知で言うが、今夜は冷やで飲みてえ気分でな」
「さようですか、でしたらわたしも」
並べた湯飲みに互いに注ぎ合って、微かに揺れる暗い灯の下で黙って冷えた酒を水のように飲む。その酒は喉の奥にさらさらと流れ、落ちた先の胃を熱く焼いた。
湯飲みから唇を離して長い長い息を吐いた後、佐吉は独り言のように呟いた。
「お志津が清次の野郎に非道い目に遭わされて、襤褸屑みたいになって帰って来たのは、ちょうどこんな肌寒い夜でしたよ」
堀川屋は袋物屋だから、男も来ないでは無いが店の客はやはり女が多い。ところが近頃は男の、それも人足か馬方かというような柄の良くない汗臭いのが絶えずやって来るようになった。
それでも煙草入れの安いやつでも買って行くならまだ良い、しかし近頃店に来る男らは上がり框に腰を据えて商品を汚い手でいじり回すばかりで、何一つ買って帰った試しが無かった。それどころか店に来る女の客に厭らしいことを言ってからかったり、尻の一つも撫でたりするから、馴染みの客がすっかり寄り付かなくなって商売は上がったりだった。
たまりかねた店の主の徳兵衛が幾許かの金を握らせ、
「今日のところは、どうかこれでお引き取りを」
耳元でそう囁くと、男たちは目を三角にしてその金を投げ返した。
「おいてめえッ、おれっちをゆすりたかり扱いすんのかッ」
ただ喚くだけでなく、商品を並べた台を蹴り上げたり、棚の上の物を叩き落としたりして暴れる。
「また来るぜ」
京から仕入れた自慢の
そして言葉通りに、男たちはまた次の日もやって来ては店の商いの邪魔をする。
「もう勘弁して下さい、貴方がたは手前どもに何の恨みがあるって言うんです」
涙顔でそう尋ねる徳兵衛に、男たちはにたりとして佐吉を指さした。
「恨みがあんのは旦那じゃねえ、こいつの方よ」
「佐吉、お前この人たちに一体何をしたんだい?」
徳兵衛に凄い目で睨まれても、男たちのどの顔にも見覚えのない佐吉はただ首を捻るばかりだ。
「おいおい、てめえのした事を忘れて貰っちゃ困るぜ。おめえが清次の兄ィとうちの店にしてる厭がらせは、これと同じことだぜ」
「おれだ、居るか?」
声を掛けると同時に、伊賀町の重蔵は長屋の障子戸をがらりと引き開けた。
これは親分さん。佐吉が振り返って頭を下げる前に、寝たきりの源造がもがくように半身を起こし、枕屏風の端から目だけ出して言葉にならぬ唸り声を上げた。
「いいんだ、とっつぁんは寝てな」
重蔵はその悪相に似合わぬ作り笑顔を浮かべ、上がるぜと言うが早いか狭い部屋を殆ど一跨ぎにして源造の枕元に屈み込んだ。
「おれはおめえの息子とは仲良しだ、何も心配するこたぁねえ」
小さな子供でもあやすような口調で言いながら、重蔵は佐吉の父親の布団を掛け直す。
源造は皺の寄った顔を綻ばせて頷き、間もなく軽い鼾まじりの寝息を立て始めた。
「いつも済みません、親分」
佐吉が詫びるのを首を振って遮り、重蔵は逆に気の毒そうな目を向ける。
「聞いたぜ、堀川屋に暇を出されたそうだな」
「ええ、まあ」
何とか笑みだけは浮かべたが、声に苦い響きが籠もるのはどうにもならない。
「伊勢崎屋の奴らの仕業なんだってな、え?」
表情を読まれぬよう、仄暗い行灯から顔を背けるようにして佐吉は頷いた。
「気持ちはわかるし気の毒だと思うが、これ以上店の
実際には、徳兵衛はもっと激しい言葉で佐吉を罵った。
「あれほど言ったじゃないかッ、仇討ちだなんて馬鹿なことは二度と考えるなと。だいたいねえ、不具のおとっさんを抱えてるお前を気の毒に思えばこそ、これまでだって随分と便宜を図ってやってきたつもりだよ。なのにお前はその恩を仇で返して、この堀川屋を潰す気かい!」
さらに伊勢崎屋の主だという恰幅の良い男まで店にやって来て、清次のことはもう忘れてやってくれと言った。
「佐吉さんって言ったな、おめえさんが清次を憎むのもわかるが、人を憎む気持ちはまた別の憎しみしか生まねえんだよ。おめえさんの恨む気持ちが、清次を兄貴みえに慕ってるうちの若え連中の恨みを生んだんだって、今度のことでよくわかったろ?」
だから過ぎたことは忘れて前を向いて生きろ、でないとおめえさんも決して幸せにはならねえぜ。
肩に手をかけられ情の籠もる声でそう諭されても、佐吉はどうしても頷くことが出来なかった。
「許すことも、忘れることもわたしには死ぬまで出来ません」
佐吉がそう答えると、堀川屋の主は首を振りながら溜め息をついた。
「なら仕方ない、お前には今日限りで暇を出すしか無いね」
「畜生め、おれが助け舟を出してやれればいいのだが、悔しいが今度ばかりはそうも行かねえのよ」
そう言うだけでなく重蔵がいつになく肩を落としているのに、佐吉は漸く気づいた。
「もしや親分さんの方にも、何か迷惑が行ったんで?」
「おれの同業の加賀町の与吉……って言ってもおめえは知らねえだろうが、野郎め、何とお奉行所の旦那方まで動かしやがった」
つい先日、重蔵がついている同心の中野為二郎に呼ばれて役宅に顔を出すと、伊勢崎屋の清次にはもう金輪際構うなと言われた。
「中野の旦那に文句つけて来やがったのは、加賀町の親分ですかい、それとも伊勢崎屋ですかい?」
「うむ、まあ両方だろうな」
それがしの縄張りで貴公の手の者が出過ぎた真似をしているようだが、どういう事だろうか。中野にそう言って来たのは、同じ同心で深川を廻る松井孝之助だが、話の内容から文句の出所は松井の配下の加賀町の与吉だとすぐに見当がついた。
それでも二人の奉行所が同じなら、なあなあで話を済ませることも出来たろう。しかし松井孝之助が属しているのは南町奉行所で、中野為二郎の方は北だ。
「あちらの奉行所を通してねじ込まれりゃあ、おれだって頭を下げざるを得ねえや。手の者によく目が届かず申し訳ない、今後さような真似をさせぬよう、しかと言って聞かせます……ってな」
「ですが旦那……」
「わかってる、清次の野郎のしでかした事はおれだってよく覚えてるさ。御赦免になって野郎がこのお江戸でのうのうと暮らしてると思うと、おれだって胸糞が悪いぜ」
「でしたら」
今暫くお目こぼしをと言いかけた重蔵を遮って、中野は眉間に皺を寄せて唸るような声を上げた。
「十手持ちなんてみんなそんなもんだが、おめえも叩けば埃が出る体だろ?」
重蔵に十手をちらつかされ度々金子をねだり取られて迷惑している由の、与吉が四ツ谷や麹町界隈の商人から集めたかなりの数の口書きが、既に松井の手元にも届けられているという。
「おめえが清次にちょっかいを出すのを今後一切止めるならよし、でなければ……」
「わっしをお縄にする、って言うんですかい?」
重蔵に睨むように見られて、中野は目を逸らして頷いた。
「縄張りの商人連中から袖の下を取ってるのは何もおめえばっかりじゃねえことぐれえ、奉行所の者は誰だってわかってるさ。松井さんのとこの与吉だって、いろんな所から金を取ってるに違えねえのだ。ただ口書きまで取って訴え出られちゃ、お上としても何とかして見せなきゃ示しがつかねえ」
「みんなやってるって承知の上で、わっしだけ咎めようってんですかい?」
「平たく言えばそうなるが、向こうだってそのてめえらの弱い尻もわかってら。だからいざとなったらこれを出しますよと、まずはやんわりと脅しをかけてこっちの出方を見よう……ってとこよ」
そして中野は、今度のことは運と相手が悪かったと思って堪えろと言った。
「そんな事にはまずならねえと思うが、もしお前が牢に入れられたらどうなるか、お前だって知らぬわけでもあるまい?」
「済まねえ。今度の事はおれがけしかけたも同然なのに、おめえにとっちゃ、登った後で梯子を外されるようなもんになっちまった。だがおれは、情けねえがここで手を引かざるを得ないのよ」
僅かに口を開けて眠り続ける父親の脇で体を縮めて座っている佐吉に、重蔵は膝を正して深く頭を下げた。
「とんでもない、親分さんには本当に良くして戴きました。あの鬼畜生に恨み言の一つも言えたのだって親分さんのお陰と、今だって感謝しているんですよ」
「嘘でもそう言って貰えると気が楽になるぜ」
重蔵はもう一度頭を下げると、持って来た徳利を佐吉の目の前に置いた。
「取り敢えず今夜は飲もうや、おれにはこんな事しかできねえで申し訳ねえが」
「ありがたい、戴きます」
僅かに笑みを浮かべて燗をつける火を熾そうとした佐吉に首を振り、重蔵はおれなら湯飲みが一つあればいいと言った。
「無作法を承知で言うが、今夜は冷やで飲みてえ気分でな」
「さようですか、でしたらわたしも」
並べた湯飲みに互いに注ぎ合って、微かに揺れる暗い灯の下で黙って冷えた酒を水のように飲む。その酒は喉の奥にさらさらと流れ、落ちた先の胃を熱く焼いた。
湯飲みから唇を離して長い長い息を吐いた後、佐吉は独り言のように呟いた。
「お志津が清次の野郎に非道い目に遭わされて、襤褸屑みたいになって帰って来たのは、ちょうどこんな肌寒い夜でしたよ」