第6話

文字数 6,255文字

 いつものように、幸助とお美代は川縁の道をゆっくりと歩いていた。
 そろそろ冬支度をしようかという頃だが、今日はよく晴れて日差しも暖かく、川面を渡る風も心地良かった。
 二人は殆ど袖が触れ合うくらい寄り添って喋り合っているが、妙な目で眺めたり冷やかしたりする者は殆どいなかった。と言うのは、お美代と一緒の男が佐賀町の油問屋森田屋の跡取りの幸助で、お美代の昔からの許婚だと皆が知っているからだ。
 別にどこへ行くというのでもなく、ただ足とその日の気分に任せて一緒に歩きながら他愛もないことを喋るだけで、二人は充分に楽しかった。
 浮世絵に描かれるような綺麗どころとは違うが、伊勢崎屋のお美代と言えばこの辺りでも知られた可愛い娘だし、幸助の方も大人し過ぎて少し頼りないと見る者もいるが、人柄と育ちの良さが姿形にも現れている。
 そんな似合いの二人が睦まじくしているのを、近くの町の者らもずっと温かく見守っていた。
 二人が歩くのは決まって川縁の道で、仙台堀沿いに大横川の方に向かうか、大川に沿って新大橋の先の方まで行くかのどちらかにすることが多かった。
 連れ立って歩く間、話すのはたいていお美代で、幸助はそれを微笑んで頷きながら聞いていた。
 女のお喋りを煩がる男は少なくないが、幸助は違った。お美代が柔らかな声で話す日常のあれこれを、幸助は心から楽しいと思って聞いていた。
 ただ最近は、お美代のお喋りを聞く度に心の中が妙にざわつくことが増えた。
「あのね、清さんがね……」
「それでね、清さんってね……」
 その得体の知れぬ男の名前を、幸助は今日だけでも何度聞かされたかわからない。
 伊勢崎屋は何しろ口入れ屋だから、荒っぽい男がごく当たり前に出入りしているのは幸助も重々承知している。今は稼業に精を出してはいるが、お美代の兄の義太郎ですら、昔は半ばぐれて一端の侠客気取りでいたのだ。
 だとしても、その男の名を呼ぶお美代の口ぶりを聞く度に、幸助は何とはなしに厭な気分になる。
 行き倒れていたのを助けたのはわかるし、可哀想な人がいれば放っておけないところもまたお美代らしいと思う、思うがしかし……。
「でもお美代ちゃん、その人は島帰りなんだろう? わたしは心配だよ」
「え? 仕事もすごく一生懸命だし、うちの皆の中で誰より真面目なんだから」
「その人のこと、お美代ちゃんはすごく気に入ってるみたいだね」
「うん。あの日、清さんに気が付いて本当に良かったよ」
 そして万年橋の袂の稲荷神社で死にかけていた清次を見つけた時の話を、お美代は飽きもせずにまた繰り返す。
「おいおい、まさかその清さんとやらに惚れちまったとか言い出さないでおくれよ?」
「やだぁ、惚れるだなんて、もう何言ってんの、おっかしい!」
 お美代は転げるように笑い出し、幸助さんたら……と軽くぶつ真似もする。
 その曇りひとつ無い笑顔に安堵すると同時に、冗談めかしつつお美代の話に出て来るその男に嫉妬しかけていた己を幸助は恥じた。考えてみれば相手はたかが伊勢崎屋の荷揚げ人足で、お美代にしてみれば家で新しく飼い始めた犬くらいのものだろう。
 お美代ちゃんに笑われないような、もっと器の大きな男にならないといけないな。
 足に纏わりつく子猫のように前になり後になりして楽しげに歩くお美代を眺めながら、幸助はそう思った。

 その清次は、今日もまた米を船から担ぎ揚げていた。
 清次が伊勢崎屋で働きだしてから、そろそろ半月になる。
 清次は元々体は丈夫だったし、島でもきつい仕事に慣れていた。だから伊勢崎屋で三度の飯を腹一杯食い、温かな布団で眠るうちに、体力をみるみる取り戻した。
 いや、島でろくに食えずにいた頃より体に筋肉がつき、さらに逞しくなってきたくらいだ。
 清次は今や、他の者たちに遅れることなく重い荷を担いで歩けるようになっていた。
「何もたもたしてんだ八丈、きりきりしゃんと動きやがれッ」
 小頭の猪吉は相変わらず清次ばかり怒鳴り上げるが、その猪吉ですら清次が人並み以上に働けているのを、心の中では認めざるを得ないでいる。
 が、だからと言って褒めて信じて、仲間のうちに加えてやろうという気持ちになったわけではない。
 島帰りだから八丈。
 最初にそう呼び始めたのは徹太だが、わかりやすいし覚えやすいから、周りの者らもみな清次をそう呼ぶようになった。そしてそのせいで伊勢崎屋の人足は、うちのお嬢さんのお気に入りの清さんが清太だか何だったか、本当の名前をいつの間にか忘れてしまっていた。
 男同士など、まあそんなものではある。綺麗な女の名前は一度聞けば忘れっこないが、野郎の名など親しい仲間でもない限りどうでもいい、他の奴と区別さえ出来れはそれで構わないのだ。
 猪吉は忘れてはいなかったが、あえて皆に倣って八丈と呼ぶようにしたのは、清次に己の身の程を忘れさせないつもりを込めてだ。
 どうでも構やしねえ。
 八丈と皆に呼ばれてることを、清次自身はそう思っていた。島帰りなのは間違いないし、八丈島だろうが三宅島だろうが、皆にとっては同じなのだろうから、いちいち言い直したりもしない。
 徹太は相変わらずで、昼飯時や四ツと八ツの休みの時には何かと清次に絡んできた。
「おい八丈、てめぇ、何をやらかして島送りになった?」
 川縁に腰を下ろして弁当をつかう清次を、徹太はすぐ脇で仁王立ちになって見下ろす。
 それは皆も気になっていたことだから、周りにいた者らは飯を掻っ込む箸を止めて聞き耳を立てた。
「まるで自慢にならねえし、今ンなってみりゃあ馬鹿過ぎて恥ずかしくってならねえが……悪いことはまあ一通り、ってとこだ」
「まあ一通り、たぁ何でえ。言ってみねえ、ゆすりたかりか、それとも騙りでもしたか」
 答える前に、清次は永代橋の向こうの海に浮かぶ佃島よりさらに遠くの空と海に目をやり、口元に苦い笑みを浮かべた。
「金の為なら何でもやったさ。小金を持ってそうな親爺を捜しちゃあ、因縁つけてゆすったりな。何しろ昔は気が短くてカッとしやすくて、人さまに怪我をさせたことも一度や二度じゃねえ」
 今思い返してみれば、本当にどうしようもない馬鹿だった。
 清次は切々とした声でそう付け加えたが、徹太は背をのけ反らせてげらげら笑った。
「そうかい、そいつは(こえ)えや」
 周りの皆も、同じように声を合わせて笑う。
 徹太は鼻っ柱こそ強いが取り柄と言えばそれだけで、前髪を落とした今も路地裏のいたずら小僧のような幼顔だから、凄んでもあまり怖いようには見えない。年も清次の半分くらいだし、背丈も三寸近く低かった。
 今みなが目にしているのは、その小僧っ子にすら大人しく絡まれたままでいる腑抜け野郎だ。だから当の清次の前でもお構いなしに、にやつきながら勝手なことを言い合う。
「見栄張ってら。金も力もねえくせに、なあ?」
「あの面でどっかの女房でもたぶらして、そいつがばれて亭主と揉めた揚げ句に怪我でもさせた……ってとこじゃねえか」
「いやいや、喧嘩の相手ってのは、傷ものにした娘の親父かも知れねえぜ」
「ともかくだ、女房持ちや年頃の娘がいる奴ぁ、奴を近づけねえよう気をつけた方が良いかもな」
「確かに面だけは、どっかの役者みてぇだしなあ」
「そう言や、富蔵にも妹がいたじゃねえか」
「おいおい、こいつと同じ面のおかめだぜ。誰が手を出すよ、八丈だってお断りさね」
「うるせえ、鬼も十八番茶も出花、蓼食う虫も好き好きって知らねえか」
「おい、おきみちゃんに誰か言い付けてやれ。おめえに惚れる奴がいたらそいつはとんだ下手物食いだって、当の兄貴が認めてた……ってな」
 皆に肴にされ笑われても怒るでもなく、清次はまた何か痛みを堪えるような苦しげな顔で大川の水面に目を落とした。
 その程度のことでお仕置きになったんだったら、どれだけ気が楽か知れねえ。
 誰にも聞かれぬよう胸の奥で、清次はそう呟いた。

 その後も日が暮れるまで米俵を運び続けたが、清次は汗の最後の一滴まで絞り出すように懸命に働いた。
 疲れてくたくたになりさえすれば、何も考えられなくなる。
 思い出すだけで苦しくなってくるあのことを思い出さないでいられるのは、疲れ果てて何も考えられないでいる時だけだ。
 そして仕事が終われば、熱い湯と温かい飯と気持ちの良い布団が待っている。
 これ以上の幸せなんて、おれにはありゃあしねえんだ。
 決して無理にそう思い込もうとしているわけでなく、清次は心からそう思っていた。

 佐賀町の河岸で荷を上げている人足の多くは伊勢崎屋の指図で働いてはいるが、伊勢崎屋の奉公人とは少し違う。だから徹太も親の住む伊沢町の長屋から通って来ていたのだが、それが良くなかった。
 徹太のような元気盛りのいい若い者が、長屋の狭い部屋で二親と鼻を突き合わせていたって面白い筈がない。しかも伊勢崎屋に顔を出して一日働けば、夕方にはそれなりの銭が貰えるから、どうしたって真っすぐ帰る気にはなれなくなる。
 飲む打つ買うは既に一通りやってみた徹太だが、ろくに金も無い若造だから、居酒屋で安酒をひっかけたり、お天道様の下ではとても見る気になれないような安女郎とちょんの間遊びをするくらいのものだ。
 ただ近頃ではちょいと背伸びをして、松平加賀守の下屋敷で開かれている賭場に足を運ぶようになっていた。そこは門前仲町のすぐ隣の賑やかなところだけあって、客は一癖も二癖もありそうな遊び人が多いし、胴元も壷振りも弥勒の三五郎一家の本物のやくざだ。
 ただここに出入りしているだけで、徹太は一端の遊び人のような気分になれた。その場に漂う怪しげな空気も次の賽の目に命を賭けるような緊張感も、仲間内での小博打とはまるで違う。
 が、徹太の懐の僅かな銭など、忽ちすられて無くなってしまう。
「おう、テツか。おけらにされちまったのかい?」
 帰ればお袋にまた小言を聞かされるんだろうなと、渋々腰を上げかけた徹太に薄く笑いながら声をかけたのは、三五郎一家の松蔵だった。
 松蔵はこの賭場に詰めている一家の若い者の兄貴株なのだが、徹太を妙に気に入って顔を見れば声も掛けてくれていた。
「へえ、今日はどうも良い目が出やせんで」
「そいつは気の毒したな。ま、帰る前に気分直しに一杯やって行け」
 松蔵は長火鉢の向こうで煙管をふかしてる代貸に軽く頭を下げ、徹太を隣の部屋に連れて行った。そして徹太にぐい飲みを押し付け、徳利の酒を手ずからなみなみと注いでくれる。
 初めて飲む冷や酒に、若い上にまだそう飲み慣れていない徹太はたちまち酔った。そして松蔵のような兄ィが良くしてくれるからつい気が大きくなって、河岸で自分がどれだけ睨みを効かせてるかを武勇伝にして話してしまう。
「うちの新顔に八丈から帰って来たばかりの奴がいましてね、こいつが島帰りのくせにてんで意気地の無い野郎で、あっしに睨まれただけで下を向いちまう有り様でさ」
「ま、島帰りって言っても色々だ。八丈の流人なんざ、そんなもんかも知らねえな」
「へ? 遠島って言ったら八丈島じゃねえんで?」
「テツよ、おめえ何も知らねえんだな」
 松蔵は苦笑した後で、ちょっとぐれてる程度の若造はそんなものだろうと思い直して教えてやる。
「八丈ってのはなあ、ご政道に非難めいた物言いをして、お上のお怒りに触れた学者先生や戯作者なんかが流されることが多いのよ」
 江戸で罪を犯して遠島と決まった者が流されるのは、八丈島、新島、そして三宅島と決まっている。
 中でも八丈島には比較的平地があり、少ないながらも米が穫れて食糧事情は一番ましだった。しかし江戸から最も遠い上に、黒瀬川と呼ばれる黒潮の激流にも隔てられている。
 それとは反対に江戸に最も近い新島には、身元の確かな堅気の職人や百姓などが流されることが多かった。
「でな、箸にも棒にもかからねえ本物の悪が流されるのが三宅島よ」
「へええ、そうだったんで」
「うちの一家の安平さんってお人もな、ついこないだ三宅島から帰ったばかりよ」
 松蔵はふと遠い目をして、手酌で自分のぐい飲みも満たす。
「そう言や、ちょうどおれがおめえくらいの頃の兄貴分に、四ツ谷の狼って呼ばれるくれえ凄い奴がいたんだが、その兄ィも三宅島に流されちまってなあ」
 徹太も徹太でかなり酔っていたが、そのぼんやりした頭にふと清次の顔が浮かんできた。
 確か奴は、おれが流されたのは八丈島じゃねえとか何とか()かしちゃなかったか?
 だが自分に馬鹿にされ、皆に笑われても文句一つ言えないでいるあの情けない姿は、松蔵の言うような凄い筋金入りとはどうしても重ならない。
 違えねえ、野郎はやっぱり八丈よ。
 徹太はそれ以上考えるのを止めて、ぐい飲みに残る酒を水のように呷った。

 まさか清さんとやらに惚れちまったとか……。
 昼間、幸助がそんな変なことを言い出すものだから、お美代はその夜なかなか寝付けなかった。
 稼業柄、店にはいつも若い男がごろごろしていたから、お美代は出入りする人足を男と思ったことも無かった。
 うちの若い衆、ただそれだけである。
 しかもお美代は、困った人を見かけたら助けるのが当たり前と思って育ってもきていた。
 だから清次を助けて気に掛けるのも、お美代の中では病気で寝込んでいる町内の顔見知りのお婆さんを気遣うのとまるで同じだった。
 幸助さんたら、何ばかな事を言い出すんだろ。
 その時は笑い飛ばしたものの、暗く静まり返った中で横になっていると、襖の向こうの上がり框で寝ているだろう清次のことが、妙に気になってならない。
 ほんっと、そんなつもりじゃ全然ないのに……。
 胸の中でそう呟きながら寝返りばかり打ち続けてなかなか眠れず、翌朝もまだ暗いうちに目が覚めてしまった。
 お美代の眠りを覚ましたのは、店の三和土の方から聞こえる妙な物音と声だった。
 ぶつぶつ唸る念仏のような声と、繰り返し何かを打ちつける鈍い音に、お美代は初め夜具を頭から引っ被って耳を塞いでいた。が、本物の押し込みだったらもっと怖いと思い直して、そっと起きて襖を目の幅だけ開けた。
 うちにはおとっさんも兄さんも居るんだ、いざとなったら大声を出せばいいんだから。頭の中でそう繰り返し、激しく鼓動する胸を押さえながら襖の細い隙間に目を押し当てた。
 お美代がその向こうに見たのは、壁の柱に顔を押し付けるようにしている清次だった。
「くそ、くそ、くそっ」
 清次はただ呻くだけでなく、額を繰り返し柱に打ち付けていた。鈍く響き続けるその音は、お美代の耳にもはっきりと聞こえる。
「死にてえ」
 絞り出すような苦しげな声に、思わず襖をがらりと引き開けて駆け寄ろうとしかけたお美代の腕を、誰かが強い力で引っ張った。
 驚いて振り向くと、人差し指を唇に押し当てた友五郎が厳しい顔で首を振る。
「お……」
 が、友五郎はおとっさんと最後まで言わせずに、何も言うんじゃねえと耳元で囁いて後ろに引きずって行く。
 どうして? 声には出さず唇だけで尋ねたお美代に、友五郎も微かにしか聞こえない圧し殺した声で答えた。
「よっぽど辛い思いをしたのだろうよ。野郎が自分から話そうって気になるまで、知らん顔をしていてやるのが親切ってもんだ」
「だって……」
 おとっさんは心配じゃないのとふくれるお美代に、友五郎は重ねて放っておいてやれと言い付けた。
「誰だって、人に話せねえことの一つや二つはあらあな。それがわからねえうちは、まだまだ餓鬼だってことだ」
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登場人物紹介

清次……三宅島から戻って来た島帰りの男。昔は四ッ谷の狼とも呼ばれたかなりの悪だったらしいが、今は売られた喧嘩すら買わず、堅気になろうと懸命に働く。三十過ぎくらいの、渋い良い男。

安平……同じ三宅島に流されていたやくざだが、一見すると人当たりは良い。しかし芯は冷たい根っからのやくざ者。

松蔵……元は清次の子分で、悪だった清次に憧れていた。今は本物のやくざになり安平の弟分で、堅気になろうとしている清次に失望している。

伊勢崎屋友五郎……口入れ屋の主。田舎から出て来て一代で店を持つに至る、それだけの男だから仕事には厳しいが、人情に厚い義理堅い男。

お美代……友五郎の娘で伊勢崎屋のお嬢さん。たまたま行き倒れていた清次を拾う。最初から清次に好意的で周囲が心配するほど良くなついている。

森田屋幸助……お美代と兄妹同然に育ち、今は許嫁の間柄。最初は気にしないでいたが、次第にお美代と清次の仲が気になってくる。

徹太……伊勢崎屋の人足で最も若い、威勢の良い者。それだけに、自分の男を見せつけようと、島帰りという清次に無闇に突っかかって喧嘩を仕掛ける。

重蔵……かつて清次をお縄にした岡っ引き。清次を目の敵にして、清次が赦されて戻って来た今も散々嫌がらせをしている。

佐吉……堀川屋という袋物屋で働く真面目なお店者だが、わけあって清次を深く恨み、何度も清次の前に姿を現す。

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