第3話

文字数 6,077文字

 仕事場に行く途中の船大工が見つけた死骸は、既に万年橋のたもと近くの自身番に運び込まれていた。
「済みません、こんな朝早くっからお呼び立てしちまって」
 深川を受け持つ定町廻りの同心松井孝之助を迎えて頭を下げたのは、土地(ところ)の御用聞きの佐賀町の与吉だ。
 孝之助は尖った顎を引いて軽く頷くと、十手の先で筵を持ち上げる。
「これかい、小名木川に浮いてた土左衛門ってのは」
 身投げかなどと尋ねるほど、孝之助は盆暗ではない。自分が町を廻るまで待たずに下っ引きを八丁堀の役宅まで寄越したからには、きっと何かあるに違いなかった。
 与吉が孝之助から十手を預かって、もう十数年になる。与吉は小太りで顔はごつごつと角張り、孝之助は背が高く細面と見かけは正反対だが、気持ちも息もよく合っていた。
 孝之助は死んだ男の顔を眺めて首を捻り、続いて垢じみた着物の襟を広げて低く唸った。
「仏さんはまだ新しいようだが、それにしても痩せてるな」
「へえ、食うものにも事欠いてたようで、懐にも何も入ってませんでした」
「それにわからねえのがこれだ」
 孝之助が十手で指した先を見て、与吉も頷いた。死んだ痩せた男の肌一面に、青い斑のような妙なものが浮いている。
「しかもどうもね、弱って行き倒れて川に落ちて死んだ……ってわけでも無いようで」
 目で尋ねた孝之助に、与吉は太い眉を寄せて頷いた。
「この仏さん、水を殆ど飲んで無かったんでさ」
 死骸を川から引き揚げた時、与吉は抜かりなくその事も確かめていた。
「どこか別の場所で死んで、後で放り込まれたか」
「普通に死んだのなら、普通に葬ってやればいい。そうでしょう?」
 頷いた孝之助は、再び死骸を凝視する。
「それにしても、こんな痣はおれも見たことがねえ」
「あっしもそれが気になってるんでさ。最初は殴られたり蹴られたりしたのかと思いやしたが、どうもそうして出来たのとは違うようで」
 さらに死骸には、首を締められたような痕も無かった。
「こいつは養生所の医者(せんせい)に見せた方が良さそうだ。もし流行り病か何かだったら、ことだからな」
「旦那ぁ、脅かしっこ無しでさ」
 既に死骸のあちこちを触っていた与吉は、今更ながら死んだ男の側から身を退いた。

「働きてえ? そりゃあ構わねえが」
 言いながら口入れ屋の主は、清次の人相風体をうろんな目で見回した。
 清次も昔は洒落者で通っていて、市川某といった人気役者と同じ柄のものを、金に糸目をつけずに手に入れていた。が、その自慢の着物も長い島暮らしの見る影もなく襤褸になり、今の身なりは物乞いと大して変わらない。
「で、おめぇさん、親兄弟は何処で何をしてる? 請人(うけにん)はちゃんと立てられるんだろうな?」
 が、その親兄弟の行方も判らないままだし、ましてや身元を引き受けようと言う者がいる筈もない。
 答えられずにうなだれる清次を見る口入れ屋の主の目が、更に険しくなる。
「何だお前、無宿者かい」
「ですが体は丈夫ですし、身を粉にして働きやすんで、どうか使ってやっておくんなさい」
 清次は腰を折って深く頭を下げたが、口入れ屋の主は野良犬でも追い払うように手を振った。
「駄目だ駄目だ、(けえ)ってくんな。うちの出入り先は、皆ちゃんとした所ばかりなのだ。何処の馬の骨とも知れねえ奴なんざ使えねえや」
 まただった。今日だけでも両手の指で数える程の店を回り続けたが、何処でも同じようににべも無く断られ続けた。
 その後も、日が落ちるまであちこちの店を回り続けたが、清次を使ってやろうと言ってくれる所は何処にも無かった。
 疲れた足を引きずりながら、昨夜と同じ馬喰町の外れの古びた旅籠に帰った。足も重いが気持ちはさらに重く、胸が潰れてしまいそうなほど苦しくなってくる。
 その宿に泊まる客はいかにも田舎出の、それも物見遊山ではなく公事(くじ)などよんどころない事情で止む無く出て来たような百姓ばかりだったが、それでも宿代に一晩二百文も取られた。そして仕事と行くあてが見つからないままなら、明日もまた二百文の金が出ることになる。
 お縄になる前は、清次の懐には常に小判の一枚や二枚は入っていた。しかしそんなものは、伝馬町の牢に放り込まれた時に牢名主にそっくり取り上げられてしまっていた。
 島送りになると決まると、二千文のお手当銭がお上のお慈悲で与えられる。さらにその中から四百文ほど遣って、島に送られる前の晩に好きな酒や食べ物を頼んで取り寄せて貰うことも許されていた。
 あの頃の清次は金の有り難みなどまるで感じていなかったから、これが江戸の名残と、許された限度まで飲み食いしてしまった。その時の己を思い切り殴りつけてやりたい気持ちになるが、今さらどうしようもない。
 ただ幸いと言うべきか、島では残りのお手当銭が減ることは殆ど無かった。
 何しろあちらでは米はもちろん芋や雑穀すらろくに穫れず、元からの島民ですら本土からのお救い米でようやく生きている有り様だった。そんなすべてが無い無い尽くしの島だから、そもそも銭を遣うべき店すら無かった。
 島の暮らしでものを言うのはまず物で、銭を必要とするのは本土の商人と取引をするごく一部の者だけだ。
 一方、江戸では銭が無ければどうにもならないが、生きて行く最低限の銭を稼ぐのに困ることは無い筈だった。
 少なくとも、当人に働く意志さえあれば。
 例えば江戸では、どこの町角でも棒手振の姿を見ぬことが無い。魚に野菜、浅蜊や蜆、豆腐や納豆といった日々欠かせぬものから、冷たい水や虫やシャボン玉などまで、ありとあらゆるものを担いで売り歩いている。
 その日に売る分を仕入れるだけの金すら無くとも、朝に百文借りて日暮れまでに百一文にして返せば良い、俗に烏金という貧乏人相手の金貸しもいる。
 長屋だって月に三百文も出せば九尺二間の人並みの部屋が借りられるし、それも払えぬなら日々十文ずつの日払いで貸してくれる所もあった。
 だから田舎から殆ど無一文で出て来て、裏長屋の棒手振から始めて表通りに店を持つまでになった者も、この江戸では決して珍しくなかった。
 ただそれにはまず身元が確かで、請人と呼ばれる保証人を立てられないことには話にならない。
 大横丁の長吉伯父や浜町堀の叔母の顔が頭を過りもするが、
「てめぇが舞い戻って来やがったってだけで、どれだけ迷惑なのかわからねえのか!」
 長吉伯父のあの罵声を思い出すと、請人を頼みに行こうなどと、とても思えなかった。
 おれは御赦免船に乗っちゃいけなかったのだ、あのまま島でくたばっちまえば良かったのだ。
 おとっさんやおっかさんの顔を一目でも見て詫びたくて江戸に帰って来てしまったことを、清次は胸を掻き毟りたいほど悔いた。
 宿代の二百文には朝と夜の飯も含まれているが、懐に残る銭はあと千文で、昼の間は何も食わずに我慢するとしても、数日も経たぬうちに尽き果てて、後は物乞いでもするしかなくなるだろう。
 昔は四ツ谷の狼とも呼ばれ、どんな修羅場でも怖いと思ったことの無い清次だ。しかし今も記憶に鮮やかに残るその時のことを思うと、これまでに経験したことのないほど怖くなった。
 旅籠のある馬喰町は両国広小路のすぐそばで、そこに架かる両国橋を渡れば本所深川だ。
「もし行き場が無かったらおれンとこに来い、おめぇのような男なら大歓迎だ」
 そう囁いた安平の声が、頭の中に繰り返し蘇ってくる。
「駄目だ、駄目だ、駄目だッ」
 ただ首を振るだけでなく思わず唸るような声も出していて、公事で甲斐の谷村から来ている相客の百姓が怯えた目を向けたが、清次はそのことにすら気づかずにいた。

 その安平は、門前仲町の妓楼に昨夜から居続けだった。
 御赦免を祝う宴の席には、一家の主立つ者がずらりと居並び、親分の三五郎が自ら手を取って安平を上座に座らせた。そして二の膳、三の膳まで並べた目を剥くような御馳走で安平をもてなした。
「さあ遠慮なくやってくんな、島じゃあろくなもんを食えなかったろう?」
 通り名とは違って普段は大江山の鬼より恐ろしげな顔の弥勒の三五郎が、満面に笑みを浮かべて安平の杯に酒を注ぐ。
 さらに三五郎は安平の手に、
「当座の小遣いだ、取っておけ」
 そう囁きながらずしりと重い袱紗の包みを押し付けた。
 手触りから切り餅二つと察して、安平は一瞬息を呑んだ。
「そんな、戴けやせんよこんな……」
「いいってことよ、おめぇのしてくれたこたぁ忘れちゃいねえぜ」
 三五郎の住まいは深川の弥勒寺裏で、弥勒の三五郎の通り名もそこから来ていた。ただ同じ深川の清住町にも吉蔵というやくざが一家を構えていて、かつてはその清住の吉蔵一家の勢いに圧されがちだった。
 その吉蔵一家との出入りで三五郎が相手方の若いのを斬って死なせた時、あっしがやりましたと奉行所に名乗り出て、身代わりに島に送られたのが安平だ。
 だから島にいる安平のもとには見届物が絶えず届いていたのだが、小遣いに五十両とはいささか多過ぎはしまいか。
 しかし三五郎は躊躇う安平の懐にその金をねじ込んで、さらにこうも言った。
「無くなったら言えよ、金なら幾らでもあるのだ」
 訝しく思いながら勧められるまま酒を飲み、三五郎が厠に立った隙に、安平は昔の兄貴分の金六にそれとなく尋ねてみた。
「近頃はどうやら、かなり景気が良いようじゃありませんか」
「そう言や、お前は知らないんだったな。何しろ今じゃ、この深川一帯は全部親分のものなんだぜ」
「そいつは凄え、あの吉蔵一家を片付けちまったんですかい?」
 驚く安平に、金六はしたり顔でにやっと笑う。
「吉蔵の馬鹿め、調子に乗っててめぇの墓穴をてめぇで掘りやがったのよ」
「と言いますってぇと?」
「六間堀町の豊甚は、おめぇも知ってるだろ?」
 安平は即座に頷いた。金六が言う豊甚は正しくは豊島屋甚三郎という口入れ屋で、やくざでは無いが堅気とも違うといった種類の男だ。
「吉蔵は豊甚とも揉めてな、擦った揉んだの揚げ句に豊甚の店に殴り込みをかけやがったのよ」
「あいたた、そいつは馬鹿過ぎて吉蔵が気の毒になって来まさあ」
 少しも気の毒では無さそうに言う安平に、金六も似たような顔で頷いた。
「何しろ豊甚は本所の貧乏旗本や御家人くずれンとこに出入りしてるからな、店にゃ二六時中、たちの悪いごろんぼ侍がとぐろを巻いてらあ」
 案の定吉蔵は豊甚に飼われていた凄い旦那方に返り討ちに遭って、子分共々斬られて死んでしまったのだという。
 おかげで吉蔵一家の縄張りはそっくり弥勒の三五郎親分のものになったのだが、
「それこそ棚ぼた、ってやつだ」
 二人が笑い合っているところに、厠から三五郎が戻って来た。
「まあそんなところだが、それだけじゃねえ。おれたちゃ今、それこそ金の成る木ってやつを掴みかけてるのよ」
 口元には笑みを浮かべたまま、三五郎は怖いような鋭い目で安平を見据えた。
「そのことについちゃ追々話して聞かせるが、おめぇにはおれの片腕ンなって()けて貰うつもりよ」
「へい、存分に追い使ってやって下せえ」
 間髪を入れずに頷いた安平に、三五郎は満足げに相好を崩した。
「その前にまず飲んで食って、腰が抜けるまで女を抱いて島の垢を落とすこった」
 島で過ごした年月は決して楽では無かったが、安平は他の流人とは較べられぬほど良い暮らしをしていた。何しろまともな島民ですらただ飢えずに生きて行くだけで精一杯な中で、安平のところには食い切れぬほどの米だの味噌だの小豆だのが届いていたのだ。
 酒こそ飲め無かったものの、安平は島では食うだけでなく女にも不自由していなかった。畳敷きの部屋が二間もある家を借り、島の娘を水汲女と称して妾に迎え入れてもいた。
 とは言うものの、安平もまだ三十を幾つか過ぎたばかりだ。女の体に飽きるということは無い。
 昨夜は久しぶりに白く柔らかい肌にむしゃぶりつき、江戸の女の味を心行くまで堪能した。しかし朝になってみると、島に残して来た女の浅黒い肌と引き締まった体が妙に恋しくてならなくなった。
 島で一緒だった清次のやつは今頃どうしているかなどということは、頭の片隅にも浮かびはしない。
 気にかかっている事と言えば、三五郎が漏らした金の成る木のことくらいだ。
 と言っても不安な気持ちは欠片も無く、どんなお宝を掴んだのだろうと思い巡らせ、親分の片腕として一家を仕切る己の姿を思い浮かべて、ただわくわくしていた。

「きりきり歩きやがれ、この盗っ人め」
 縄尻を強く握り、もう一方の手で捕らえた男の痩せた背を小突きながら、重蔵は濃い眉を寄せて首を傾げた。
 殺しや押し込みをしでかすような凶賊と違い、掏摸や掻っ払いを働く小悪党など掃いて捨てるほどいるし何も珍しくない。ただ最近の掏摸や掻っ払いには、どうもそれらしくない輩が増えているような気がしてならないのだ。
 四ツ谷で長く岡っ引きをしている重蔵だからわかるのだが、科人(とがにん)って奴は皆それらしい顔をしているものだ。
 人殺しはどんなに愛想良くしても目だけは蛇のように冷たいし、火付けは普段から陰気で人の顔もまともに見られないような、じめっとした嫌われ者が多い。そして掏摸や掻っ払いは目も身のこなしもこそこそ落ち着かないから、人さまのものに手を出す前にそれとわかるものだ。
 だが重蔵がたった今お縄にしたばかりの巾着切りは、見るからにおとなしげな顔の堅気の職人風の若造だった。
 それが法蔵寺横丁の八百屋の店先で、店の親父と話し込んでいた近所の女房の懐にいきなり手を突っ込み、女房が悲鳴を上げるのも構わず巾着をひっ掴んで逃げたのだという。
 が、後を追いかけた店の親父にとっ捕まって番屋に突き出され、そこで重蔵に縄をかけられたというわけだ。
 それにしたって、酷ぇもんだ。男の背をもう一度とんと突きながら、重蔵は苦い顔で首を振る。
 そもそも巾着切りにはそれを職と心得ている玄人が多いもので、人さまの懐に無造作に手を突っ込むとは芸が無さすぎる。
 しかも男は色も生っ白くてひょろりとしているが、どう見てもまだ三十前だ。なのに還暦に手が届こうという八百屋のとっつぁんに追いつかれ、さらに投げ飛ばされて取り押さえられたというのだ。
「あっしゃ昔っから相撲が強かったんだ、今だってその辺の(わけ)ぇ者なんかにゃ負けやしねぇよ」
 とっつぁんは鼻高々だが、だとしてもだらし無いにも程があるだろう。
 それがこの男だけなら、若いのに呆れた奴がいたものだと笑い話にして済ませられる。しかしここのところ、この手の掏摸や引ったくりを他でも御用にしていることが妙に気になる。
「ちょいと中野の旦那にも話してみるか」
 捕らえた男の背をまた手荒く押しながら、重蔵は誰とはなしに呟いた。
 中野の旦那とは、重蔵が出入りしている北の定町廻りの同心、中野為次郎のことである。
 だがこんなどじでへまな奴などより、重蔵にはもっと気掛かりなことがあった。
 あの野郎が、島から帰って来やがった。
 あの畜生にも劣る奴が同じお江戸の空の下にいると思うだけで、重蔵は腹が煮えくり返った。
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登場人物紹介

清次……三宅島から戻って来た島帰りの男。昔は四ッ谷の狼とも呼ばれたかなりの悪だったらしいが、今は売られた喧嘩すら買わず、堅気になろうと懸命に働く。三十過ぎくらいの、渋い良い男。

安平……同じ三宅島に流されていたやくざだが、一見すると人当たりは良い。しかし芯は冷たい根っからのやくざ者。

松蔵……元は清次の子分で、悪だった清次に憧れていた。今は本物のやくざになり安平の弟分で、堅気になろうとしている清次に失望している。

伊勢崎屋友五郎……口入れ屋の主。田舎から出て来て一代で店を持つに至る、それだけの男だから仕事には厳しいが、人情に厚い義理堅い男。

お美代……友五郎の娘で伊勢崎屋のお嬢さん。たまたま行き倒れていた清次を拾う。最初から清次に好意的で周囲が心配するほど良くなついている。

森田屋幸助……お美代と兄妹同然に育ち、今は許嫁の間柄。最初は気にしないでいたが、次第にお美代と清次の仲が気になってくる。

徹太……伊勢崎屋の人足で最も若い、威勢の良い者。それだけに、自分の男を見せつけようと、島帰りという清次に無闇に突っかかって喧嘩を仕掛ける。

重蔵……かつて清次をお縄にした岡っ引き。清次を目の敵にして、清次が赦されて戻って来た今も散々嫌がらせをしている。

佐吉……堀川屋という袋物屋で働く真面目なお店者だが、わけあって清次を深く恨み、何度も清次の前に姿を現す。

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