第22話
文字数 3,526文字
空になった湯飲みにまた酒を注ぎ、重蔵はやるせない笑みを浮かべて首を振った。
「結局、お奉行さまがおっしゃった通りになっちまったなあ」
何が清次を変えたのか重蔵にも佐吉にもわからぬが、清次は今のところ本気で真面目に生き直そうとしているようだ。
佐吉は湯飲みの中の酒をぐいと飲み干し、溢れる悔し涙をまた拭った。
「伊勢崎屋の親分って人にも言われましたよ。お志津さんって人は気の毒だったが、それで一人の男が心から悔いて立ち直ったのだから、おめえさんの妹さんの命は決して無駄になっちゃねえんだ……ってね」
「そいつはとんだお為ごかしよ。そんな綺麗な口は、てめえの身内を悪党に苛め殺されてから言ってみろ、ってんだ」
「ええ、わたしも聞いているだけで反吐を吐きそうになりましたよ。あんな事をした奴に立ち直って欲しいなんて、思えるわけ無いじゃないですか。お志津やおとっさんと同じだけ苦しんでこの世から消えろ、そう思っちゃ何でいけないんです?」
「わかるぜ。野郎が同じお江戸でのうのうと生きてやがるってだけで、おれだって胸が悪くならあ」
「でも伊勢崎屋の親分だけじゃないんです、わたしはこれまでにもいろんな人に言われましたよ。いつまでも恨んでたって誰も幸せにならない、一日も早く忘れるのがお前の為なんだ……ってね」
佐吉は奥歯を強く噛み締め、箪笥の上の小さな仏壇の中の位牌と、枕屏風の向こうで寝息を立てている源造に目をやった。
「可哀想な妹のことを、どうして忘れなきゃなんないんでしょう。わたしはこの先もずっと、あんな体にされちまったおとっさんを看ながら生きてかなきゃならないのに、どうしたら忘れられるって言うんでしょうね」
「人を憎めばまた別の憎しみを生む、だからおめえが清次の弟分に仕返しされても仕方ねえんだって、伊勢友の野郎がぬかしやがったんだってな?」
「ええ、結局わたしが諦めて我慢すれば丸く収まって、みいんな幸せになれるらしいです」
口元に皮肉な笑みを浮かべ、しかし殆ど泣くような顔で佐吉は俯いた。
「馬鹿ばっかりなのよ、世の中のみいんな」
唸るように言って、重蔵は握り締めた湯飲みの酒をまた呷った。
「生まれてこの方、おめえは一度もぐれもせず真面目に生きてるだろ? だが世の中の奴らは誰もおめえを褒めねえし、それで当たり前と思ってら」
「だって、ほんとに当たり前のことじゃないですか」
「そうかも知れねえ。けどそのくせ清次みてえな野郎が真面目になるってえと……」
重蔵はその後の言葉を呑み込んで、妙に疲れた顔で首を振る。
「それが世の中、ってものなんでしょうね」
頷いた佐吉は、一気に二十も老けたような顔になった。
「この恨み、誰に何と言われたって死ぬまで忘れやしませんよ。けどわたしにはおとっさんがいる。結局わたしはこのまま泣き寝入りするしか無いんでしょうね」
背骨を踏み砕かれて這うしか出来ない上に頭も子供に戻ってしまった源造は、厠にも一人では行けぬ有り様だ。それで堀川屋に住み込みで奉公していた佐吉が、通いで働くことを主の徳兵衛に特別に許して貰って世話をしてきていた。
それでも付いていられるのは夜から朝までで、家を空けている昼間はどうしても隣のお阿佐に頼らざるを得ない。それも短い間のことなら困った時はお互い様で済ませられるが、こう長く続けば隣の夫婦の好意に只で縋り続けるわけにも行かぬ。
だから徳兵衛がくれる僅かな給金のかなりを、佐吉は隣の夫婦への礼に遣っていた。
佐吉の楽しみと言えばたまに少しの酒を嘗めるくらいで、女遊びもしないし博打も嫌いだから、それでも何とかなっていた。
だが佐吉がその堀川屋から暇を出されてしまったことを、重蔵も聞いて知っていた。
「これからどうするよ、堀川屋もまさか只でおめえを追い出したわけじゃあるめえ?」
「ええ、まあ」
佐吉は泣くような笑みを浮かべて、箪笥の底の方から出した小判を一枚、畳に置いて見せた。
「十何年も真面目に勤めたってのに、たったそれだけかい?」
暇を出すにしてもだ、せめて暖簾分けして小さな店の一つも出させてやるのが人情ってもんだろうよ。重蔵は我が事のように憤慨した。
「旦那さまに言わせれば、こうしてお涙金を出すだけでも精一杯の情けなのだそうですよ」
「そりゃあ、どういうこった?」
「押し掛けて来た伊勢崎屋の若い者に店を荒らされた損金を、わたしに払って欲しいくらいなのだそうで」
「そんな馬鹿な話があるかい、あれがおめえのせいだなんて、どこを押せばそんな音が出るってんだ、金が欲しけりゃ伊勢崎屋に言うのが筋だろうがッ」
重蔵は目を吊り上げ唾を飛ばしてまくし立てるが、佐吉は諦め切った顔でただ首を振る。
「仕方ありませんよ、弱い者へ弱い者へとしわ寄せが行くのがこの世の中なんでしょう」
「本当ならおれが徳兵衛をどやしつけて、十両や二十両は出させてやるのだが。加賀町の与吉の野郎の横槍のおかげでお奉行所から睨まれてるもんで、こっちも当分身動き一つとれねえ有り様だ」
済まねえと頭を下げる重蔵に、佐吉は膝を正してより深く頭を下げ返す。
「いえいえ、親分さんには申し訳ないくらいいろいろして頂きました」
そして堀川屋がよこした金を大事そうにまた仕舞って、この金で小間物の行商でも始めてみようと思っていると告げた。
「それなら元手もあまりかかりませんし、好きな時に戻って来ておとっさんの世話も出来ますからね」
それは良いかも知れねえ。重蔵は頷いて佐吉の湯飲みに酒を注ぎ足すと、表情を僅かに和らげた。
「前からちょいと聞いてみてえと思ってたのだが、おめえにゃ誰かいい人はいねえのかい?」
「いえ、とんでもありません」
「何ならおれが、気立ての良い娘を捜して世話してやってもいいんだぜ? 女房が居れば、おめえもとっつぁんも随分楽になるだろうよ」
「わたしは嫁など貰うわけには行かないのですよ」
佐吉は寂しげな笑みを浮かべて首を振る。
「だってわたしが嫁を貰うとすれば、おとっさんの世話をさせる為ってことになるじゃありませんか。ただ惚れ合って一緒になりたい……というんじゃなくってね」
「いや、相手がおめえに心底惚れてりゃ、とっつぁんの世話だって喜んでしてくれるさ」
そうかも知れません。
一度は頷きながら、佐吉はだから好きな娘ほど余計に嫁に貰えなくなるのだと言った。
「相手は大事に思う惚れた娘ですよ、最初から苦労させるとわかってて一緒になろうだなんて、申し訳なさ過ぎて言えるわけ無いじゃないですか」
「まさかおめえ、嫁はずっと貰わねえつもりなのかい?」
「一生そのつもりとまでは言いませんが、当分はお志津の菩提を弔いながら、親子二人でひっそり暮らして行くつもりでございますよ」
言いながら佐吉は、仏壇の中の妹の位牌をまた見上げた。
その視線を追った重蔵のぎょろ目にも、大粒の涙が浮かんでいた。
「十手を預かってもうかなりになるが、おれはこんなに悔しい思いをしたことはねえ。おめえみてえな奴が泣きっ放しで終わるだなんて、こんな事があってなるもんかと思うさ。だがおれには、どうにもできねえんだ」
佐吉はこぼれる涙を拭って無理に笑って見せる。
「いいんですよ親分さん、お志津のことをまだ覚えていて、一緒に怒って下すっただけでもう充分です」
奥歯を噛み締めながら重蔵は何度も頷き、二人の前の湯飲みにまた酒を注ぎ足した。
「とにかく飲もう、今夜はとことんつき合うぜ」
同じ頃、深川の仙台堀沿いの伊勢崎屋でも皆が酒を酌み交わして、清次とお美代の祝言を喜んでいた。
何しろ清次は島帰りの身だし、お美代もどこかへ嫁ぐわけでなく、この先も今まで通り伊勢崎屋で親や兄たちと一緒に暮らすことになっている。だから祝言も伊勢崎屋の座敷でごく内輪で行われたが、その代わり気の置けない本当に親しい人ばかり集まっていた。
そこには加賀町の与吉や河岸の仲間たちはもちろん、清次の二親や兄の善太の顔もあった。さらに妹のお里も、夫の長岡屋惣太郎と共に両国からやって来ている。
祝いの席の末座には徹太も居て既にかなり酔っていて、泣き上戸なのか祝いの膳の料理の上に涙をぽたぽた落としながら、こんなに嬉しいことはねえと男泣きしていた。
娘の祝言の高砂は友五郎が謡うと言い張って聞かず、しかしこれがまたかなり下手なのがご愛嬌だ。
音が外れたり声が裏返ったりの高砂に、並んで畏まっていた羽織袴の清次と白無垢姿のお美代もそっと顔を見合わせて笑い合う。
この場に居る誰もが幸せで心から笑っていて、口々にこう言い合っていた。
「めでたい、とにかくめでたい」
(了)
「結局、お奉行さまがおっしゃった通りになっちまったなあ」
何が清次を変えたのか重蔵にも佐吉にもわからぬが、清次は今のところ本気で真面目に生き直そうとしているようだ。
佐吉は湯飲みの中の酒をぐいと飲み干し、溢れる悔し涙をまた拭った。
「伊勢崎屋の親分って人にも言われましたよ。お志津さんって人は気の毒だったが、それで一人の男が心から悔いて立ち直ったのだから、おめえさんの妹さんの命は決して無駄になっちゃねえんだ……ってね」
「そいつはとんだお為ごかしよ。そんな綺麗な口は、てめえの身内を悪党に苛め殺されてから言ってみろ、ってんだ」
「ええ、わたしも聞いているだけで反吐を吐きそうになりましたよ。あんな事をした奴に立ち直って欲しいなんて、思えるわけ無いじゃないですか。お志津やおとっさんと同じだけ苦しんでこの世から消えろ、そう思っちゃ何でいけないんです?」
「わかるぜ。野郎が同じお江戸でのうのうと生きてやがるってだけで、おれだって胸が悪くならあ」
「でも伊勢崎屋の親分だけじゃないんです、わたしはこれまでにもいろんな人に言われましたよ。いつまでも恨んでたって誰も幸せにならない、一日も早く忘れるのがお前の為なんだ……ってね」
佐吉は奥歯を強く噛み締め、箪笥の上の小さな仏壇の中の位牌と、枕屏風の向こうで寝息を立てている源造に目をやった。
「可哀想な妹のことを、どうして忘れなきゃなんないんでしょう。わたしはこの先もずっと、あんな体にされちまったおとっさんを看ながら生きてかなきゃならないのに、どうしたら忘れられるって言うんでしょうね」
「人を憎めばまた別の憎しみを生む、だからおめえが清次の弟分に仕返しされても仕方ねえんだって、伊勢友の野郎がぬかしやがったんだってな?」
「ええ、結局わたしが諦めて我慢すれば丸く収まって、みいんな幸せになれるらしいです」
口元に皮肉な笑みを浮かべ、しかし殆ど泣くような顔で佐吉は俯いた。
「馬鹿ばっかりなのよ、世の中のみいんな」
唸るように言って、重蔵は握り締めた湯飲みの酒をまた呷った。
「生まれてこの方、おめえは一度もぐれもせず真面目に生きてるだろ? だが世の中の奴らは誰もおめえを褒めねえし、それで当たり前と思ってら」
「だって、ほんとに当たり前のことじゃないですか」
「そうかも知れねえ。けどそのくせ清次みてえな野郎が真面目になるってえと……」
重蔵はその後の言葉を呑み込んで、妙に疲れた顔で首を振る。
「それが世の中、ってものなんでしょうね」
頷いた佐吉は、一気に二十も老けたような顔になった。
「この恨み、誰に何と言われたって死ぬまで忘れやしませんよ。けどわたしにはおとっさんがいる。結局わたしはこのまま泣き寝入りするしか無いんでしょうね」
背骨を踏み砕かれて這うしか出来ない上に頭も子供に戻ってしまった源造は、厠にも一人では行けぬ有り様だ。それで堀川屋に住み込みで奉公していた佐吉が、通いで働くことを主の徳兵衛に特別に許して貰って世話をしてきていた。
それでも付いていられるのは夜から朝までで、家を空けている昼間はどうしても隣のお阿佐に頼らざるを得ない。それも短い間のことなら困った時はお互い様で済ませられるが、こう長く続けば隣の夫婦の好意に只で縋り続けるわけにも行かぬ。
だから徳兵衛がくれる僅かな給金のかなりを、佐吉は隣の夫婦への礼に遣っていた。
佐吉の楽しみと言えばたまに少しの酒を嘗めるくらいで、女遊びもしないし博打も嫌いだから、それでも何とかなっていた。
だが佐吉がその堀川屋から暇を出されてしまったことを、重蔵も聞いて知っていた。
「これからどうするよ、堀川屋もまさか只でおめえを追い出したわけじゃあるめえ?」
「ええ、まあ」
佐吉は泣くような笑みを浮かべて、箪笥の底の方から出した小判を一枚、畳に置いて見せた。
「十何年も真面目に勤めたってのに、たったそれだけかい?」
暇を出すにしてもだ、せめて暖簾分けして小さな店の一つも出させてやるのが人情ってもんだろうよ。重蔵は我が事のように憤慨した。
「旦那さまに言わせれば、こうしてお涙金を出すだけでも精一杯の情けなのだそうですよ」
「そりゃあ、どういうこった?」
「押し掛けて来た伊勢崎屋の若い者に店を荒らされた損金を、わたしに払って欲しいくらいなのだそうで」
「そんな馬鹿な話があるかい、あれがおめえのせいだなんて、どこを押せばそんな音が出るってんだ、金が欲しけりゃ伊勢崎屋に言うのが筋だろうがッ」
重蔵は目を吊り上げ唾を飛ばしてまくし立てるが、佐吉は諦め切った顔でただ首を振る。
「仕方ありませんよ、弱い者へ弱い者へとしわ寄せが行くのがこの世の中なんでしょう」
「本当ならおれが徳兵衛をどやしつけて、十両や二十両は出させてやるのだが。加賀町の与吉の野郎の横槍のおかげでお奉行所から睨まれてるもんで、こっちも当分身動き一つとれねえ有り様だ」
済まねえと頭を下げる重蔵に、佐吉は膝を正してより深く頭を下げ返す。
「いえいえ、親分さんには申し訳ないくらいいろいろして頂きました」
そして堀川屋がよこした金を大事そうにまた仕舞って、この金で小間物の行商でも始めてみようと思っていると告げた。
「それなら元手もあまりかかりませんし、好きな時に戻って来ておとっさんの世話も出来ますからね」
それは良いかも知れねえ。重蔵は頷いて佐吉の湯飲みに酒を注ぎ足すと、表情を僅かに和らげた。
「前からちょいと聞いてみてえと思ってたのだが、おめえにゃ誰かいい人はいねえのかい?」
「いえ、とんでもありません」
「何ならおれが、気立ての良い娘を捜して世話してやってもいいんだぜ? 女房が居れば、おめえもとっつぁんも随分楽になるだろうよ」
「わたしは嫁など貰うわけには行かないのですよ」
佐吉は寂しげな笑みを浮かべて首を振る。
「だってわたしが嫁を貰うとすれば、おとっさんの世話をさせる為ってことになるじゃありませんか。ただ惚れ合って一緒になりたい……というんじゃなくってね」
「いや、相手がおめえに心底惚れてりゃ、とっつぁんの世話だって喜んでしてくれるさ」
そうかも知れません。
一度は頷きながら、佐吉はだから好きな娘ほど余計に嫁に貰えなくなるのだと言った。
「相手は大事に思う惚れた娘ですよ、最初から苦労させるとわかってて一緒になろうだなんて、申し訳なさ過ぎて言えるわけ無いじゃないですか」
「まさかおめえ、嫁はずっと貰わねえつもりなのかい?」
「一生そのつもりとまでは言いませんが、当分はお志津の菩提を弔いながら、親子二人でひっそり暮らして行くつもりでございますよ」
言いながら佐吉は、仏壇の中の妹の位牌をまた見上げた。
その視線を追った重蔵のぎょろ目にも、大粒の涙が浮かんでいた。
「十手を預かってもうかなりになるが、おれはこんなに悔しい思いをしたことはねえ。おめえみてえな奴が泣きっ放しで終わるだなんて、こんな事があってなるもんかと思うさ。だがおれには、どうにもできねえんだ」
佐吉はこぼれる涙を拭って無理に笑って見せる。
「いいんですよ親分さん、お志津のことをまだ覚えていて、一緒に怒って下すっただけでもう充分です」
奥歯を噛み締めながら重蔵は何度も頷き、二人の前の湯飲みにまた酒を注ぎ足した。
「とにかく飲もう、今夜はとことんつき合うぜ」
同じ頃、深川の仙台堀沿いの伊勢崎屋でも皆が酒を酌み交わして、清次とお美代の祝言を喜んでいた。
何しろ清次は島帰りの身だし、お美代もどこかへ嫁ぐわけでなく、この先も今まで通り伊勢崎屋で親や兄たちと一緒に暮らすことになっている。だから祝言も伊勢崎屋の座敷でごく内輪で行われたが、その代わり気の置けない本当に親しい人ばかり集まっていた。
そこには加賀町の与吉や河岸の仲間たちはもちろん、清次の二親や兄の善太の顔もあった。さらに妹のお里も、夫の長岡屋惣太郎と共に両国からやって来ている。
祝いの席の末座には徹太も居て既にかなり酔っていて、泣き上戸なのか祝いの膳の料理の上に涙をぽたぽた落としながら、こんなに嬉しいことはねえと男泣きしていた。
娘の祝言の高砂は友五郎が謡うと言い張って聞かず、しかしこれがまたかなり下手なのがご愛嬌だ。
音が外れたり声が裏返ったりの高砂に、並んで畏まっていた羽織袴の清次と白無垢姿のお美代もそっと顔を見合わせて笑い合う。
この場に居る誰もが幸せで心から笑っていて、口々にこう言い合っていた。
「めでたい、とにかくめでたい」
(了)