第17話

文字数 2,540文字

「ただいま」
 恵美子が帰って来た。
「お帰り」
「はいこれ」
 恵美子が紙袋を差し出す。
「何?」
「スエットよ。着替えがいるでしょ。今着ているの洗濯しちゃうから着替えて」
「分かった」
 隼人は差し出された紙袋を受け取り、スエットに着替えた。
「お腹空いたでしょ。今すぐ作るから待っててね」
 恵美子は隼人の世話をするのが楽しいのか、口調が浮き浮きしている。上着を脱ぎ、エプロンを着けると、まるで主婦のようないで立ちになる。隼人は恵美子のその姿を目を細めて見つめた。
「何ニヤニヤしているの」
「いや、何でもない」
「変な隼人。出来たからテーブルに出すのを手伝って」
「分かった」
 今朝は和食だったが、夕食は洋食だ。大きめの皿に盛られたのは、ポン酢が掛けられた和風ハンバーグだった。横にマッシュポテトが添えてある。小鉢にはサラダが盛られていた。食欲をそそるメニューだ。
「頂きます」
 隼人は大きな口でハンバーグを頬張った。
「美味い」
「良かった」
 食卓は笑顔で包まれていた。食後のお茶を飲みながら、隼人が今日見た夢の話をし始めた。
「その男は僕に似ていた。夢の中で恐怖に震えたよ。ねえ、これも妄想?」
「妄想とも言えるけれど、潜在意識の中でずっと燻っていたものが、夢の中でさも現実のように現れたのかも知れないわね。薬はちゃんと飲んでいる?」
「うん。言われた通り飲んでいるよ」
「今飲んでいる薬は、妄想や幻覚を抑える働きがあるの。忘れずに飲んでね」
「分かった」
 二人は何年も一緒にいるかのように振舞った。隼人は、優里亜の時とは違って、甘えられる気安さに何とも言えぬ安心感を抱いた。自分が女性に甘えている姿を想像出来なかった。恵美子は、年下と感じさせず、甘えて来る隼人に愛おしさを感じずにはいられなかった。この先どうなるか分からなかったが、今を大切にしたいと思う気持ちは、二人共感じていた。それでも、恵美子の心の中には、いつかは自分の元から隼人は消えていくだろうという思いもあった。
「明日クリニックが休みだから、隼人の服でも買いに行こうか」
「うん。そうしよう」
「渋谷に出よう」
「何処で買うかは任せるよ」
 そういう事で、明日は渋谷へ出かける事になった。束の間の休息と言った所か。
 翌日、二人は渋谷へ買い物に出掛けた。
「パルコにしようか」
 恵美子が隼人に尋ねた。
「何処でもいいよ」
「好きなブランドとかある?」
「ブランド何て気にした事無いよ。いつもユニクロかGUだし」
 恵美子が笑う。
「今日は私が洋服代出して上げるから、好きな物を買えばいいわ」
「そうはいかないよ。自分の買い物は自分で払うよ」
「遠慮しなくていいの。ここは私が払うから」
 結局恵美子の言うなりになった。隼人にとっては、それが心地よかったからだ。恵美子の言う通り、パルコへ行く事になった。パルコでは、パンツを二本とアウター二着とインナー三着を買い、最後には仕上げとして靴を一足買った。大きな紙袋を両手に抱えながら、隼人は恵美子の隣を歩いた。
「何処かで昼食にしようか」
「いいね」
「何が食べたい?」
「僕は何でも良いよ」
「分かった。任せて。美味しいイタリアンにしようか」
 二人はスペイン坂にあるイタリアンレストランに入った。休日と言う事もあり、店内は混んでいた。店員に奥の席を案内され、席に着いた。すると、斜め前の席から一人の女性客が立ち上がり、こちらへ向かって来た。優里亜だった。隼人の所へやって来て、いきなり、
「隼人、どういう事?家にも戻らず心配ばかり掛けて置いて、女と一緒にデート?分かるように説明して」
「優里亜。驚いたな、こんな所で一緒になるとは。この人は僕の精神科の主治医さんだよ。病気の相談に乗って貰っている」
「精神科?いつから通っていたの。そんな事聞いていないわよ。それに、精神科の先生って、病院以外でも診察するの?ありえない。見え透いた嘘つくのもいい加減にして。私という女が居ながら、こんな女と随分な事してくれるわね。もう私との事は終わりなのね。いいわ。貴方の思っている通り、これっきりにして上げる。はい、これ貴方のスマホ。いつ貴方から掛かって来てもいいように持ち歩いていたけれど、もうその必要も無いから」
 優里亜は捲し立てながら、乱暴にバックから隼人のスマホを出し、テーブルの上に置いた。
「そう大声を出して怒るな。周りが皆俺達の事を見てるじゃないか」
「構わないじゃない。私に図星を言われてお困りのようね。とにかく、これで私も吹っ切れたわ。さよなら隼人。家は貴方の物だから、私が出て行かなきゃいけないから、一両日中に出るわ。鍵はポストに入れて置く」
 そう言って、優里亜は自分の席で成り行きを見ていた友人と店を出て行った。
「後を追わなくても良いの?」
 恵美子が聞いて来た。
「いいんだ。彼女とはいずれこうなる予感がしてたから」
「お店、出ようか。せっかくだけど、お昼は家で食べよう」
 そう言って、恵美子は店員に注文はしない、帰るからと告げ、隼人を促した。二人は歩きながら、今あった事を話した。
「もう少し彼女を宥めた方が良かったんじゃない?」
「どう宥めれば良かった?」
「そうだねえ。女という生き物は嘘でもいいから自分が一番と思って貰えたらそれで大概の事は許しちゃうものなの。彼女もきっと嘘でもいいから、自分が愛されていると言う言葉を待っていたんじゃない?」
「そういう言葉、僕には思い付かない」
「今ならまだやり直せると思うけどな。あの場面では自分の沸き上がった感情を抑え切れず、ああいう言葉になったけれど、彼女はきっと待っていたと思うの。私ならあの時、店を出た彼女を走って追い駆けてたわ」
「無理だ、そんな事。それとも僕は薄情者なのかな」
「そうねえ。薄情者とは少し違うと思うけど、愛情表現が余り上手くないんじゃない。尤も少なくとも私には充分な愛情表現を見せてくれるけれど」
「それより、彼女にあんなふうに言われて気分害したんじゃない?」
「多少わね。でも大したことないわ。私位の年になると、いろんな事経験してるから」
「強いね」
「強くなんかないわ。貴方達より年齢を重ねただけよ」
 そう言って恵美子は微笑んだ。二人はタクシーに乗り、恵美子のマンションがある中目黒へ戻った。
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