第21話

文字数 3,237文字

 マンションに戻ったが、恵美子はクリニックへ行っていた。弁護士が別れ際、
「再度任意同行を求めて来たら、必ず連絡を下さい。時間は何時になっても良いですから、これは私の携帯の番号が書かれた名刺です」
「気を遣って頂き、ありがとうございます」
「良いんですよ。お礼は晴れて無実となって解決してからで。じゃあ後程」
 弁護士の香坂文雄はそう言ってエレベーターでその場を離れた。
 隼人は、二度目の取り調べが、恵美子の帰って来る前ではなく、後に来てくれないだろうかと思っていた。窓の外が少し暗くなってきている。予報では夜から降るとの事だった。灰色の雲が少しづつ窓の外を覆い隠して行く。時刻はまだ夕方の四時前だ。何だかこれ迄とは違う展開になるような気がする。どう違うのかは今は分からないが、間違いなくこれ迄とは違う空気を感じるのだ。少しづつ外が暗くなる毎に、隼人は自分の体の中心から力が抜けていく感覚になった。
 発作?
 額の汗を手で拭ってみる。ぐっしょりと濡れていた。それも、生まれてこの方、掻いた事のない脂汗だ。鏡で自分の顔を覗いた。てらてらと光った顔があった。本当の油を頭から被ったかのような姿だった。心臓の動悸が怪しい。隼人は深呼吸を何度かゆっくりと試してみた。ソファに横になる。発作の時に起こしていた貧血とは少し違う症状だ。恵美子、早く帰って来てくれ。隼人は願った。
 ふと、意識が飛んだ。意識が戻った場所は、十三年前の我が家。母親が父親にウイスキーの水割りを作っている。僕もリビングで父親の隣にいるのに、母は気付いてくれない。どうしてだ?二人の会話は、いつの間にか僕の話になっている。声が小さくて余り良く聞こえない。
(隼人の事なんだけど)
(どうした。隼人が何か問題でも起こしたか?)
(ええ。もう恥ずかしくて近所を歩けない位なの)
(だから、何をしたんだ?)
(体育の水泳の授業の時に、同じクラスの女の子の服を隠しちゃったって言うの)
(他に悪さはしていないのか)
(やっぱり女の子絡みなんだけど、隼人がラブレターを出した女の子がいて、その子は隼人に断りの返事をしたんだって。そしたら、翌日からその女の子の悪口が一杯書かれたメモとかが教室に貼られちゃったらしいの。その女子のは、それ以来学校へ来てないっていうのよ)
(それは問題だな)
 父親の言葉のトーンは、重大事とは受け取れない軽いニュアンスに聞こえた。母親の方も、表向きは大変だと騒いでいるが、実際の所隼人がどうこうというよりも、近所付き合いが上手くいかなくなる、恥ずかしいと言った事でしか気持ちを表していない。恐らく、被害に遭った少女の親にもまだ謝罪はしていないかも知れない。
 そういう親なんだ。隼人は項垂れながら、そう思い、胸の中で両親を罵った。今、母親が話してた事は、強盗殺人事件の起きる二日前に話題になった事だ。隼人が二階で寝ている間に、こんな具合に好き勝手話しているのだ。第一、僕がいろいろ問題を起こしたとなっているが、僕は何もやっていない。濡れ衣だ。教師にもそう言ったが、果たして信用してくれたかどうかは分からない。
 隼人は思い出した。今、夢のような幻覚を見ているが、これは現実にあった事だ。両親と口論になり隼人は暴れた。それが、レインマンが強盗として押し込んで来る日だった。
 隼人は違和感を感じずにはいられなかった。今、思い出している記憶は、これ迄一度として思い出した事のないものだ。
 何故今頃?
 それも事実かどうか分からない。
 隼人は、今自分の意識がどうなっているのか分からなかった。自分でははっきりとしているが、恵美子の部屋の中とは違う世界に居る。いや、違う。間違いなく恵美子の部屋だ。が、テレビもソファも見当たらない。部屋の隅に行く。突然キッチンが目の前に現れた。母親が、父親に酒のつまみを作っている。隼人は母親に近付いた。キッチンカウンターの上に、包丁があるのが分かった。
 母親は父親に何かを話している。隼人の事は目の前にいるのに、視界に入っていないかのように無視した。隼人の心にどす黒い炎が立ち上がった。キッチンカウンターの上にあった包丁を、隼人は握り、母親の胸へと刃先をめり込ませた。母親は、悲鳴も上げず、キッチンの、隼人の足下でか細い呼吸を続けていたが、それも一分と続かずに母親は息を引き取った。
「はやとーっ!」
 父親は驚いていた。それもそうだ。幾ら高学年とはいえ、まだ小学生の隼人が包丁で実の母親を刺し殺したのである。父親は、何やら喚きながら、隼人に手を掛けようとしていた。
「貴様あ、実の母親に何をする。お前自分が何をやったか分かっているのか」
 隼人は無言で血塗られた包丁の切っ先を父親へ向けた。
「よ、よせ!」
 父親は倒れ込み、四つん這いになって隼人から逃げようと必死に手足をばたつかせた。
「ぐああっ!」
 隼人の包丁が父親の背中に突き立てられた。ゆっくりと切っ先が沈み込む。隼人は一度包丁を抜き、再び刺した。そして、何と隼人はこの動作を何回も繰り返したのである。隼人の両手が血で真っ赤に染まる。無感情な表情のまま、隼人はキッチンで血塗られた両手を洗った。服には意外と血が付かなかった。このまま着て置こう。そう思った隼人は二階へ上がった。自分の部屋に入り、クローゼットを開けた。そして、そこへ入った。暗く狭いクローゼットの中が、まるで母親の腹の中に思えて来た。うつらうつらとしているうちに、知らない場所に飛んでいた。周囲が霧で覆われていて、場所がはっきりと確認出来ない。
「おい。隼人」
「!!……」
 声の主の姿が見えない。
 又、夢か?
 それとも妄想か?
「お前、自分がやった事、分かっているよな?」
 突然、誰もいない中で、問い掛けられたので隼人は焦った。
「自分がやった事?」
「もう忘れてやがる。両親をその手で殺めただろ」
「思い出した。確かに自分は両親を殺めた。でもあれは、両親が僕に関しての噂話を信じて、僕を悪者扱いしたから、懲らしめただけなんだ」
「そんな理由はどうでもいい。事実だけが全てを物語るんだ」
「姿を隠したまま話し掛けるなんて卑怯だぞ。姿を見せろ」
「ふふふ。俺の姿が見えないか?だろうな。だがな、お前が自分の悪行を認めて、罪を償うと言うなら、お前に俺の姿が見えるようになる。但し、俺の姿を見て驚くなよ」
「何を驚くんだい?脅しを言っても僕には効かないよ。深く反省したから、早く姿を見せろ」
「ははは。笑っちゃうな。反省なんて爪の垢ほども感じていないのに。まあいい。俺の姿を見て驚け」
 一時、静かになった。隼人は周囲を何度も見まわし、声の主を探した。
「ここだ。ここだよ」
 声がした方へ歩いて行くが、姿は見えない。隼人は誑かされたかと思い、その場を離れようとした。すると背後から隼人の肩を両手で掴み、振り返らされたその正面に、男が立っていた。
 瞬間的に、隼人は不思議な感覚になった理由が分かった。男は、自分の二十五歳の時、つまり現在の姿をしていたのだ。幻覚を見ているかのような自分は、十三年前に記憶を飛ばしたが、登場している自分は、目の前の男という自分だ。これは、自分の潜在意識を俯瞰して見ているのか?夢に似た感覚と言っていい。
 現在の自分が夢を見ている自分に寄って来る。急に手が伸びてきて、髪の毛を掴んできた。
「悪党。大悪党。お前のような者は、地獄へ堕ちなきゃいけない」
 腹の辺りにちくりと痛みが走った。見ると腹の辺りから血がどくどくと流れ出ていた。傷口を抑える。今度は胸の辺りがちくりとした。
 何か言おうと隼人は思ったが、何も言葉が出て来なかった。床に斃れ、天井が目に入る。と、いい匂いがして来た。恵美子だった。
「大丈夫?」
 隼人は胸と腹を手でまさぐり、傷があるかどうか触ってみた。
「うん。大丈夫」
 傷は当然無かった。
「そう。良かった」
 恵美子が柔らかい笑顔を見せた。隼人はその笑顔を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
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