第7話

文字数 2,705文字

 隼人は試してみようと思った。それは、自ら進んで漆黒の雨の中に身を置く事である。何故わざわざ自分を窮地に陥れようとしているか。自分でもハッキリした事は言えない。だが、試してみる事で、ひょっとしたら事件の大凡が分かるかも知れないと思ったのだ。
 それは、心の底では自分は事件とは関係無いと思い込みたかったからだ。
 隼人は意を決して試してみる事にした。これ迄のように発作が起きるのかどうか。そして、本当に記憶がなくなるのかを。
 定時で上がったその日、雨は風も伴って激しいものだった。傘も差さず外へ出る。まだ外は明るい。暗くなる迄彷徨った。
 それは突然やって来た。激しい頭痛がし、路地端にしゃがみこんだ。雨粒が風に煽られ、顔に当たる。
 ふと見上げると外灯の灯りが目に入った。すると目の前が突然、貧血を起こした時のように真っ白くカーテンが掛ったように何も見えなくなった。意識が飛んだ。
 隼人の意識が戻った時、彼は自分が何処にいるのか分からなくなっていた。自分の体を確かめてみる。前に同じようになった時、腕に擦り傷とかがあったが、今回も両拳に紫色の痣が出来ていた。
 ショックだった。きっと自分は無意識のうちに、誰かを両拳の痣と引き換えに傷を負わせたに違いないと思った。ハッキリと意識が戻ると、隼人はケータイで時刻を確かめた。意識を失ってから一時間は過ぎている。
 隼人は急いでその場を立ち去りたかった。が、足がまだ覚束ない。駅へと足を速めるのだが、何度も躓きそうになる。時折通る車のヘッドライトが眩しい。自分の他に歩いている人間はいない。駅の方角が分からないまま、ただ歩いた。
 もし、事件を起こしていたら……。
 今の状態なら、確実に自分は捕まる……。
 違う。俺じゃない……。
 だが、もし自分が犯人なら……。
 隼人は、そうじゃない事を祈りながら、タクシーに乗っていた。タクシーを使う事は警察の側からすれば早期逮捕に繋がる。それは分かっているが背に腹は抱えられなかった。
 家に着いたのは時計の針が九時を回った頃だった。優里亜がずぶ濡れの隼人を見て驚いた。直ぐに風呂に入らせ、着替えを用意した。
 風呂から上がった隼人に、
「こんな雨の中でも、外で傘も差さずに捜査するの?」
 と、優里亜が尋ねる。
「ああ。仕事だからな」
 そう答える隼人に、優里亜は、
「そんな仕事でも楽しいの?」
 と聞いた。
「楽しい楽しくないじゃない。警察の仕事は犯罪を取り締まる事で国民の生命財産を守っているんだ」
「それで、家庭とか顧みなくてもいいんだ……」
「それを話し出したらキリがない」
「そう。隼人の考えは分かった。でも、家で心配しながら帰りを待っている者がいる事だけは忘れないで」
 食事の用意をしながら、優里亜は肩を落とし、そう言った。
 隼人はテレビのニュース番組に目をやった。発作の時間に、何処かでこれ迄と同様の事件が起きていないかを確認していたのだ。
 事件は起きていた。世田谷区祖師ヶ谷大蔵で高齢者夫婦が住む住宅に何者かが押し入り、怪我を負わせたうえに、金品を強奪したというものだ。これ迄と違って、血は流れたが、死者は出なかった。生きていると言う事は犯人を見ているという事になる。そうすれば、自分が関わっているかどうかが判明する。
 それ以上に、ニュースで報道されていた祖師ヶ谷大蔵という地名だ。記憶が確かな時は、そんな場所に行っていなかった。記憶が無くなってから祖師ヶ谷大蔵へ向かったのか?嫌、世田谷署から帰った道のりでは、そんな所へ行く訳が無い。それとも、意識が無くなってから祖師ヶ谷大蔵へ向かったのか。何の為に?
 もし、記憶が無くなった後に向かったというなら、電車を使ったと言う事になる。それは、少し無理がある話だ。しかし、自分がもし祖師ヶ谷大蔵の事件に関わっているのなら、電車かタクシーを使って行った事になる。しかし、意識が飛んだ状態でそういった行動が出来るのであろうか。隼人は自分の拳に出来た紫色の痣を見た。
 祖師ヶ谷大蔵の事件も、世田谷署の受け持ちとなり、経堂の事件と合わせて捜査本部付けの事件となった。今回の事件のこれ迄と違う点は、犯行時刻だった。これ迄は同じ雨の中でも真夜中の漆黒の闇の中で行われた。今回の事件は、まだ人通りのある夜早い時刻だ。ひょっとしたら目撃者がいるかも知れない。また、被害者も今回は生きているので目撃証言を期待できる。先ずは被害者から聴き込みを始めた。その任に当たったのは、田所と隼人だ。隼人は覚悟を決めた。
「どんな人物だったか、覚えている範囲で構わないので仰って頂けますか?」
 田所の質問に、被害者の夫が、
「マスクをしていたので人相とかは分からないのですが、年齢はそちらの刑事さん位で、背格好も同じかな」
 隼人は胸が高鳴るのを覚えた。
「低い声で、妻を羽交い絞めにしながら、金を出せと言われました」
「奥さんを羽交い絞めという事は、奥さんが最初に応対したのですか?」
 妻がその質問に答える。
「はい。玄関のチャイムが鳴って、私が応対に出てドアを開けた途端に口を押えられ、後ろから羽交い絞めにされました」
「成る程。その時犯人は何か言いましたか?」
「静かにしろ。金を出せと言いました。そして、主人がリビングからやって来て、そこで押し問答になって取っ組み合いになったんです」
 その証となる被害者の顔の痣が、取っ組み合いの様子を感じさせた。
「犯人は凶器を持っていなかったんですね?」
「はい。それで主人を助けたくって私も犯人の後ろから蹴ったりしたんです」
「それは、犯人も予期しなかったでしょうね」
「はい。それで、犯人は主人と離れ、リビングにあった手提げ金庫を手にし、そのまま逃げたんです」
「ご主人、奥さんの供述に間違いないですか?」
「はい」
「最後に同じ事を伺いますが、犯人の特徴や人相で思い出される点はありませんか?」
「先程も言いましたが、そちらの若い刑事さんと背格好がほぼ同じで、人相も似ている事位しか、今は思い出せません」
 隼人は背中に冷や汗が流れるのを感じていた。
「諏訪君、マスクを着けてくれないか」
 もはや万事休すか……。
 マスクをポケットから取り出し、着けた。
「うん。益々似て来ますね」
「ありがとうございます。今日はこれで私達は帰りますが、この後もし何か思い出したら連絡を下さい」
 田所は口を閉ざし、隼人が運転する車に乗った。今日は事件のあった昨日と違って雨は降っていない。突然、田所が隼人に、
「その手、怪我でもしたのか?」
 両拳の痣を見られた。
「ちょっと酔っ払って、手を突いただけです」
「……」
 田所の無言が怖かった。
 
 
 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み