第22話

文字数 2,980文字

 恵美子は、ソファに横たわっている隼人が、心配で仕方が無かった。具合は大丈夫かと問うても、隼人はただ大丈夫と言うだけで、じっと天井を見上げている。その目は余りにも絶望的な程に暗く、悲しい色をしていた。自分が留守をしている間、一体何があったのか。隼人に問い掛けても何も言わない。今夜も警察の取り調べがあると言っていたが、この調子では、良くない結果になりそうな気がする。
 外は、雨が少しづつ強くなってきている。こんな夜に、隼人は発作を起こすと言う。その瞬間に不謹慎な事だが、私も立ち会ってみたい、と恵美子は思った。今夜、隼人に着いて警察へ行こうかなとまで考えた。
「隼人、食事が出来たわよ。警察に任意で取り調べがあるなら、余計食べて置いた方がいいわよ」
 ソファに持たれていた隼人は、返事をする訳ではなく、軽く手を挙げて横に振るだけだった。
「どうしたの?食欲が無いの?なら、おにぎり作っておいてあげるから、お腹が空いた時には食べてね」
 恵美子は悲しさを堪え、隼人の分の食事にラップを掛けた。窓を打ち付ける雨の音が激しくなって来た。隼人の心が少しづつ重くどんよりとして来た。
 来たか……。
「恵美子!」
 隼人が突然大声で恵美子を呼んだ。
「どうしたの?」
 キッチンから慌てて恵美子が飛んで来る。尋常じゃない様子だ。額から脂汗を浮かべ、蹲るように屈んでいる。
「く、来るぞ」
「発作?」
 隼人が頷く。
「今、何をして欲しい?」
「世田谷署の田所係長へ連絡を入れ、間もなく発作が始まりますと、伝えて欲しいんだ」
「分かった」
 恵美子は世田谷署へ電話をしている間に、隼人に変化が起きないかが心配だった。電話がつながり田所係長に隼人の現状を伝えた。
「発作で、本人が言う瞬間移動が起きるかも知れないです」
「そちらのマンションの近くに捜査員を待機させてありますから、間もなく到着する筈です」
 恵美子はそこ迄手筈を整えて、隼人を監視していたのか。ただただ驚きだった。
「連絡は着いたわ。捜査員の人達がもうすぐ来るみたい」
 恵美子が震える隼人の体を抱き、
「取り敢えず、その汗を拭かなくちゃ」
 と言って恵美子はフェイスタオルを持って来て、隼人の顔を拭き、ついでに上着を脱がせて体を拭いてやった。
「もういい。もうすぐここから消えるよ……」
「私も一緒に着いていける?」
 隼人が首を横に振る。
「念の為に、動画撮っておくけど構わないかな?」
「うん」
 と、隼人が返事をしたとほぼ同時に、隼人の体がソファから浮き、リビングの天井に当たる位になった。
「隼人!」
 恵美子の呼び掛けに何も答えず、隼人は消えた。それと同時にインターフォンがなり、世田谷署の捜査員がドアの前に立っていた。
「諏訪はまだいるのか?」
 ドアが開くなり、捜査員が土足で上がりながら怒鳴った。
「残念ながら一足遅かったわ」
 捜査員達は、部屋の何処かに潜んでないかと思いながら探し回った。捜査員の一人が田所に電話を入れた。
「チョーさん、奴はいません。一足遅かったようです」
「なら、手配の通り、自ら隊(自動車警ら隊)を一斉配備させる。機捜(機動捜査隊)も出番だぞ」
「分かりました。自分達は何処を重点的に調べますか?」
「最初の予定を変更して、田園調布周辺に向かってくれ」
「分かりました」
 捜査員達は、恵美子に何を言うでもなく、ドアを閉めずに出て行った。失礼な奴等だなと恵美子は思った。土足で上がられたリビングを雑巾掛けをした。隼人のテレポーテーションは、夢でも妄想でもなかった。隼人が自分に語っていた出来事は全部事実だったのだ。テレポーテーションは、話では聞いたことがあるし、精神科の文献の中には取り上げているものもある。だから、知識としては知っていたが、それらは真実とは思っていなかった。それが、目の前で隼人がテレポーテーションを実際に行っているのを目の当たりにし、自分の考えが否定され事実は自分が信じていなかった事が真実だったのだと思い知ったのである。
 窓の外を見る。漆黒の闇の中を外灯の灯りに照らされた横殴りの雨粒が、建物や道路のアスファルトを叩く。丁度、中目黒商店街を歩いて来た歩行者が、じっとこっちを見た。
 あっ!隼人だ!
 隼人と思われる男が、マンションの地下駐車場へ入って行ったのが見て取れた。
 恵美子は急いで着替え、必要な物を手にし、地下駐車場へ向かった。
「隼人!」
「しっ!声を小さく。まだ周辺に捜査員がいるみたいだから」
「私の車で何処かへ行く?」
「君に迷惑が掛るけど、構わないかい?」
「勿論。貴方の為なら何でも」
 すると、二人が車に乗り込んで、エンジンが掛けられたのと同時に、地下駐車場のあちこちから捜査員達が恵美子の車を囲んだ。
「恵美子、足をどかして。ハンドルも僕が握る」
 助手席から車を操作しようと隼人は考えたのだ。その事を察した恵美子が体をずらし、隼人が車を操作し易いようにした。
 ハンドルを思い切り右へ切り、アクセルを踏んだ。スキッド音が地下駐車場内に響いた。タイヤのゴムが焼ける匂いが充満する。捜査員達はなす術もなく、車に取り付くのが精一杯だった。隼人は車をスピンさせながら、車にへばり付いたままでいる捜査員達を振り下ろして行った。捜査員達が車から零れ落ちるのを確かめると、隼人は駐車場の出入り口へ向かい、猛スピードで目黒通りへと走った。途中、恵美子と座席を交代し、ハンドルを握った。
 隼人の頭の中では、都内のロードマップがページを捲られて行き、此処は検問がきつい。ここは逃げるに余り状況が良くない場所だ。この路線は路地にPC(パトカー)が必ずいる。さて、この先も緊急配備でこの車を待ち受けているだろう。
 隼人は雨の中を濡れながら歩いても良いのだが、雨の中、傘も差さずに歩いていると言うのは不自然過ぎて怪しまれる。第一、恵美子を雨で濡らす訳には行かない。
「隼人。テレポーテーションは、もう終わったの?」
「終わってはいない」
「どういう意味?」
「事件が起きていない」
「起きなきゃ駄目なの?」
「今迄が全部そうだったように、事件が起きてそこで初めて僕の一つのテレポーテーションは、は完結を迎えるんだ」
「じゃあ、今は事件が起きるのを待っているという訳ね」
「ああ。余り感心出来る事ではないけれどね」
「隼人、質問があるんだけど、最近のテレポテーションでは、隼人自身が記憶として、全部自覚しているでしょ?」
「そこなんだ。事件の部分も記憶しているし、今迄はテレポテーションする直前って、肉体的な痛みとかあったんだけど、それが無くなって来てるんだ」
「一度、心電図や、脳波にMRIとかで検査してみたいね」
「やばい」
「どうしたの?」
「機捜の車に囲まれちゃった」
 隼人が指で恵美子に窓越しに機捜の覆面パトカーを指差した。
「いずれ警察の前に出るつもりなんだけど、今はその時じゃないんだがなあ」
 隼人は車のエンジンを切り、路肩へハザードランプを点けて停車した。覆面パトカーからぞろぞろと私服の捜査員達が、隼人と恵美子の所へ近付いて来る。
 少しづつ隼人の顔色が悪くなって来た。同時に頭痛もぶり返して来たが、今迄よりかは楽な方だ。隼人は恵美子に向かって、発作が近いと言った。
「隼人。気をしっかり」
 隼人はゆっくりと頷き、ハンドルに額を付けるかのようにして凭れ掛かった。
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