第4話

文字数 2,753文字

 地取り捜査には根気がいる。警察に協力的な住人もいれば、そうじゃない住人もいる。そういった住人達から何らかの証言を得ようとするには、腰を低くし、警察だという色を消しながら、正しく地道な捜査をしていかなければならない。
 その日、ある一軒の家を訪ねたところ、事件当日の事をはっきりと覚えている主婦から得難い証言を得る事が出来た。
「あの日の夜、見掛けない男性が、雨の中自転車に乗って駅の方向に走って行ったの。傘も差さずによ。雨合羽だけは来ていたと思う。色は黒っぽかったかな」
「時間は何時頃でしたか?」
「それこそニュースでやっていた事件が起きた時刻よ」
「人相とか、特徴はさすがに夜だから覚えてないですよね」
「顔までは覚えていないけれど、背格好なら覚えてる。確かお宅の隣に立っている若い刑事さん位の背格好だったわ」
「成る程。前に刑事が来て同じような事を質問したと思うんですが、何故今になって証言しようと思ったのですか?」
「刑事さんが来たのは貴方達が初めてよ。前というのは多分出掛けていて留守の時に来たんじゃないの」
「成る程。事件に遭われた御家族は、人に恨まれるような事とか、そういう噂を聞いたことはありますか?」
「そういう、恨みとか無縁な御家族でしたよ」
「そうですか。いや、今日は有意義なお話を伺わせて頂いて感謝します。又何かありましたら、お渡しした名刺の所へお電話下さい」
「もう、話す事は全部話したけどね」
 聞き込みを終え、捜査本部の世田谷署へ向かう。隼人は、住人の証言で背格好の話が出た時は、さすがに背中を汗が伝う感覚になった。
「諏訪君。君、下の名前隼人っていうのか 」
 突然田所に声を掛けられた。
「はい、そうですが」
「字はどう書く?」
「薩摩隼人の隼人です」
「同じだな」
「……」
「十三年前の世田谷で起きた強盗殺人事件の唯一生き残った家族……一人息子が隼人という名前だ。事件後、当時の捜査員が事情聴取を行ったが、事件のショックのせいもあってか、一切事件の事は語らなかった。少年は本当に何も見なかったのか、俺はその事が知りたい」
「……」
「何とかして今の住まいが知れたら良いのだが……」
 田所はそう言って、パソコンを開き、今日一日の報告書を作成し始めた。
「係長、手伝いましょうか?」
「いや、これはいいよ。今日はもう上がっていい。明日は夜勤だから今日のうちにたっぷり寝て置け」
「はい。ありがとうございます。ではお言葉に甘えてお先に失礼させて頂きます」
 隼人は、私物の入った鞄を抱え、刑事部屋を後にした。田所が、自分に執着している事を知り、体が強張るような思いに駆られた。もし、自分が海老沼隼人だと知れたら、どういう反応を見せるだろうか。事件に関わりたくないという思いと、例の発作の件がある。もしかしたらという、そういう思いが隼人を縛った。
 防犯カメラの解析を頼んでいた、SSBC(捜査支援分析センター)から、解析結果の報告があった。容疑者と思われる男は、自転車に乗って経堂駅に向かっていて、自転車置き場に自転車を乗り捨て、駅方向へ徒歩で向かったとみられる。身長は百八十センチ近くあり、中肉中背というよりか、逞しい体つきをしている。レインコートのような物を着込んでいたが、自転車を乗り捨てた後は、レインコートのポケットから折り畳みの傘を出し、それを差して駅に向かった。顔までははっきりと映っていなかったが、全体の雰囲気として三十代前後と思われた。
 捜査会議の場で、隼人は冷や汗を搔きながら説明を聞いていた。ただ一点、容疑者とみられる男がレインコートを着ていたという事に一先ず安堵した。何故なら隼人はレインコートを持っていな。それと、隼人は普通の傘を事件当日差していた。これで今回の世田谷の強盗殺人事件には、自分は関与していない事が証明出来る。
「諏訪君、ちょっとこっちへ」
 田所係長に呼ばれた。
「何でしょう?」
「今日は地取りではなく、別に調て貰いたい事があるんだ」
「はい」
「海老沼隼人の消息を役所へ行って調べて欲しいんだ。戸籍謄本から割り出して欲しい」
「……」
「頼むぞ」
「はい」
 はいとしか返事のしようが無かった。
「早速行って来ます」
 その場にいたくなかった隼人は、一刻も早く立ち去りたかった。
 自分の戸籍謄本を、警察手帳を見せて、事件捜査の為ですと言って、手に入れるのは妙な感覚だった。まして、自分の海老沼の戸籍謄本を手にするのは初めてだった。尤も、諏訪になってからの謄本は大学や警察学校入学の際に必要だったから手にしているが、海老沼の謄本は無い。海老沼から安西に養子縁組になった時の謄本は初めて見る。
 見てふと気が付いた。安西に養子になった後が、籍が抜かれてどの籍に入籍になったのかが記されていなかったのだ。平成二十七年に分籍となっていてその後が分からないのだ。隼人はこれなら田所に見せられると思った。
 戸籍謄本の写しを持って、本庁の捜査一課へ戻った。田所がいる席へ向かい、謄本の写しを渡した。
「やはりな。海老沼隼人は籍を変えているんだな。分籍した後が知りたいが、恐らく無理だろう。巧妙に隠しているとしか思えない。きっと、子供だった隼人を世間から守る為に講じた手段だったのだろう。ご苦労さん。今日は特にやる事がないから夜勤明けの時間まで仮眠でも取って置きなさい。何かあったら起こしに行くから」
「はい。ありがとうございます」
 隼人は、田所の好意に甘えた。仮眠室に行き、荷物を置いた隼人は、寝る前にシャワーを浴びた。隼人は、田所が謄本を見て自分の処迄辿り着くかも知れないという気持ちが、まだ微かながらもあった。田所の傍を離れるとそういう不安が、僅かながらにも湧いた。
 夜勤明け迄何事も無かった。楽な夜勤日だったなと、隼人は思った。一課の刑事部屋へ行くと、既に日勤の捜査員達が出勤して来ていた。
「係長。ありがとうございました。お陰でぐっすり眠れました」
「おう。休みは何か予定があるのか?」
「いえ。特に何も」
「そうか。若いんだから休みの日は、出掛けてリフレッシュして置け。今後捜査は難しくなるから、体調を今のうちに整えて置くんだ。いいな」
「ありがとうございます。係長はこの後?」
「俺はもう少しいるよ。世田谷署の本部にも顔を出さなきゃいけないからな」
「それでしたら、車自分が運転しますよ」
「無理すんな。さっきも言ったように、これからの為に体調を万全にして置け。後々幾らでもサービス残業して貰うから」
 田所は隼人の申し出を頑なに拒んだ。引き下がった隼人は、
「それでしたら、もし自分が必要な時があったら、休みとか関係なく何時でも電話を下さい」
 と申し出た。
「ああ。ありがとう。その時にはそうさせて貰うよ」
 隼人は刑事部屋を後にした。
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