第14話

文字数 3,122文字

 隼人は優里亜に連絡するかどうか迷った。ケータイはわざと家へ置いて来た。GPS機能で自分の居場所が分かってしまうからだが、公衆電話からでも、もし家に捜査員がいれば分かってしまう可能性がある。何とか上手く連絡出来ないかどうか考えたが、答えが出ないまま時間ばかりが過ぎて行く。
 優里亜は心配しているだろう。元々心配性な性格をしているから、今回の件で仕事も手に付かない位心配しているだろう。何とか連絡をと考えてみたが、隼人は諦めた。解決するかどうか分からないが、自分の発作と事件との関係が判明するまでは致し方ないかと思った。
 日中は鶴崎の勧めで処置室で休んでいた。時折、鶴崎恵美子が様子を見に来る以外は、誰も入って来ない。一人でいる時間が長いのは、隼人にとってはありがたかった。これ迄の事を思い出し、自分の事を考える事が出来るからだ。
 夕方になって、鶴崎が今夜は家に来て。と、言って来た。
「私は一人住まいだから、誰に気兼ねが無くてゆっくり出来るとおもうわ」
「それは拙いんじゃないですか。一人住まいだから尚更、僕みたいのがお邪魔しちゃ拙いですよ」
「大丈夫。貴方は信用出来るから」
 そう言って鶴崎は、
「あと一時間もしたらクリニックは終わるから、そしたら一緒に帰りましょう」
 と隼人に笑みを見せ、処置室を出た。
 隼人は、しょうがないなという表情をしたが、反面微かに喜びをも感じていた。ただ、その喜びは決して男女のそれではなく、自分を理解してくれる人物が見せた信頼の証しに感じたからだった。
 最後の患者がクリニックを出、診察を終えた鶴崎恵美子が処置室で待っていた隼人を促し、帰り支度を始めた。鶴崎は、スタッフ達に隼人を隼人の自宅迄送るからと言って、二人でクリニックを出た。道へ出るとタクシーが丁度来たので、それに乗り込んだ。
「中目黒迄お願いします」
 車内では、二人共無口になっていた。主治医と患者の会話を、第三者に聞かせるのは余り良い事ではない。二人共その辺は良く分かっていた。
 中目黒の商店街を百メートル程進んだ先に、鶴崎の住む七階建てのマンションがあった。部屋は最上階で、広さは3LDKと、一人住まいにしては広い。
 鶴崎に促されて隼人は部屋へ入った。リビングに通され、ソファに腰を下ろす。少し落ち着かない気分になった。
「お腹空いたでしょ。昨夜はカップ麺しか食べてないし。今夕食作るから待ってて」
 鶴崎はそういうと、上着を脱いでキッチンへ向かった。対面式のキッチンで鶴崎は何かを作り始めた。いい匂いがする。にんにくを炒めているのか?隼人は急に腹が空いて来た。
「先にこれを食べてて」
 先に出されたのは、鶏肉のトマト煮だった。隼人は美味そうにそれを食べた。
「はい、お待たせ」
 メインで出されたのはスパゲティペペロンチーノだった。隼人は貪るように食べた。
「そうとうお腹が空いてたのね」
「はい」
「足りなければ別なのを作るわよ」
「いえ。これで充分です」
 隼人はきれいにトマト煮とペペロンチーノを平らげた。
「諏訪さんは何時もちゃんと食事をしているの?」
「はい。家に帰れば同居人がいますから」
「あら。それは彼女って事?」
「一応先々結婚しようかと思ってて」
「そうだったの。なら余計に今の症状を改善させなければいけないね」
「はい。失礼ですけど先生はどうなんですか?」
「どう思う?」
「彼氏がいてもおかしくないですよね」
「ブー。医者をやっていると自由な時間が取れなくて彼氏を作る暇もないわ」
 隼人は鶴崎の言い方がおかしくて笑った。
「すいません。余りにも切実そうな言い方だったので」
「いいわよ。本当の事だから」
 それから暫くの間は、双方差し障りのない会話が続いた。
「諏訪さん、今の病気、絶対に治そうね」
 徐に鶴崎が言って来た。
「治るものなんですか?」
「冷たい言い方だけど、本人次第よ。定められた薬をきちんと飲んで、規則正しい日常生活を送る事。精神疾患は普通の病気と違って、完治する迄が長いの。場合によっては一生付き合わなければならないケースもあって、ずっと薬に頼る生活を余儀なくされるの。貴方にはそうなって欲しくない」
「先生。どうしてそこ迄僕の事を?」
「病気で苦しんでいる人や、困っている人を助けるのが医者の務め。貴方は今病気で苦しんでいる。だから手を差し伸べるの。それより薬は持って来ている?」
「いえ」
「だろうと思った。持って来ているから食後と寝る前に飲んでね」
 隼人は心から感謝した。精神疾患者と主治医という垣根を超えた関係になっている。現実に鶴崎がいなければ、今もこうして警察に捕まらずにいたかどうか分からない。きっと今頃は警察の留置所の中だ。
「さて、お風呂でも入ろうか。待っててね、今お湯を張って来るから」
「すいません。何から何まで」
「いいのよ。暫くは此処にいて良いから。明日貴方の下着を買って来ようね」
「お金、払います」
「いいわよ。この先何が起こるか分からないから、自分のお金は大事にして」
 隼人は鶴崎の好意に感謝した。医者としてよりも、隼人は人間として鶴崎に尊敬の念を抱くようになった。
 優里亜とは違うタイプの女性だ。優里亜は、どちらかと言うと自分をかまって欲しい、束縛して欲しいと思うタイプだ。鶴崎は違う。職業のせいもあるが、完全に自立したタイプだ。どちらも魅力的だが、現在の隼人には、鶴崎恵美子のような女性が合っている。その事を隼人は考えた。鶴崎は自分をどう見ているんだろう。患者としてしか見ていないのだろうか。恐らくそうなのだろう。それ以外に思う訳が無い。
 鶴崎の好意で、隼人は暫く鶴崎のマンションで寝起きした。日中は自分一人でいるのだが、一人だと落ち着かなかった。外に出てみたいと言う気持ちもあったが、それは鶴崎から固く止められていた。隼人は鶴崎の言いつけを守り、じっとマンションにいた。
 鶴崎は帰って来ても、夜遅くまでカルテの整理やら何やらで遅くまで起きていた。サイドボードをみると、洋酒のボトルが何本かあったが、鶴崎は一回も飲もうとしなかった。恐らく、自分に気を遣って飲まないのだろうと、隼人は思った。隼人が飲んでいる精神安定剤と睡眠薬はアルコールの摂取が禁じられているからだ。一度、鶴崎にその事を言ってみた。
「先生、僕の事は気にしないで、どうぞ飲んで下さって構わないですよ」
「分かっちゃった。いつもナイトキャップ代わりに飲んでいたんだけど。でもいいのよ。特に飲まなきゃいられないというわけじゃないから。それよりも諏訪さんの方が飲みたいんじゃない?」
「僕の方も酒が無ければだめという訳じゃないですから、大丈夫ですよ」
「少しだけなら許してあげる」
 そう言って、鶴崎は冷蔵庫から缶ビールを二本持って来た。
「はい。どうぞ」
「医者が勧めていいのですか?」
「少しなら平気。酔う程に飲んじゃダメだけど軽く飲む分にはそう影響ないわ」
「悪い主治医だ」
「私が飲みたいからなんだけどね。さあ乾杯」
 二人は缶ビールで乾杯した。隼人は久し振りに飲むビールの味に五臓六腑を洗われた気がした。缶ビールは一本で収まらなかった。二本目を開け、三本目を飲もうかと考えていた鶴崎は、サイドボードのブランデーに眼が行った。二つのグラスに氷を入れ、テーブルに置き、サイドボードからカミュのXOを取り出し、グラスに注いだ。
「ロックで大丈夫でしょ?」
「ええ。でもいいんですか。これ以上飲んだら乱れてしまいますよ」
「乱れたらいいじゃない」
 そう言った鶴崎恵美子は、隼人の隣に座り、ブランデーの入ったグラスを渡した。隼人は心臓が高鳴る思いがした。
 そっとグラスを渡した手で、鶴崎恵美子が隼人の手を握った。
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