第15話

文字数 2,987文字

 鶴崎恵美子は、隣で寝ている隼人の顔をじっと見ていた。見れば見る程似ている。その似ている男は、六年前に交通事故で亡くなった。同じ精神科医をしていて、将来を嘱望されていた彼氏だった。名前を敦という彼と、一年余りの同棲生活を経て、その年の春には結婚する約束になっていた。大切な相手を失い、暫くの間は仕事が手に付かなかった。漸く患者に向き合えるようになって、仕事に打ち込んだ。三年前に開業医となって多くの患者を診る事で、恋人を失った悲しみを忘れようとした。隼人が病院へやって来た時には驚いた。余りにも敦にそっくりだった為、気持ちが動転しかけた。何とか悟られないよう接してきたが、それは無駄に終わった。しかし、鶴崎は隼人と男女の関係になった事を悔やんではいない。
 隼人が薄っすらと目を開け鶴崎恵美子の顔を見つめた。
「眠れないの?」
 隼人が聴いて来た。
「ううん。貴方の顔を見ていたかったの」
「悪趣味だな」
 隼人がからかうように言った。軽くキスをする。隼人が怪我をしていない方の腕を回して来た。鶴崎恵美子は枕と頭の間に空間を作り、腕が入りやすいようにした。腕枕をされた格好になった鶴崎恵美子は、自分の頬を隼人の胸に載せた。隼人が、鶴崎の髪の毛をそっと掻き揚げる。二人はゆっくりと瞼を閉じた。
 朝が来た。目が覚めた隼人は、自分の隣に鶴崎恵美子がいない事に気付いた。腕時計で時間を確認した。六時だ。下着を着、隼人はリビングの方へ行ってみた。鶴崎恵美子が朝食を作っていた。
「おはよう」
 鶴崎恵美子が朝食のサラダを盛り付けながら声を掛けて来た。
「先生、おはよう」
「何だか先生って呼ばれると恥ずかしくなるね。私もあなたの事を諏訪さんじゃなく、名前で呼ぶから、貴方も恵美子と呼んでくれる」
「分かった。そうする」
「クリニックへ来た時や、誰か他の人と一緒の時は今迄通りでね」
「うん、分かった」
「よし、出来た。朝食にしよう。トーストは何枚にする?」
「二枚で良いかな」
「OK」
 恵美子は仄かな幸せを感じていた。
「焼けたよ。テーブルに出してくれる」
「分かった」
 朝食はこんがりと焼けたトーストと、スクランブルエッグにサラダ。見るからに美味しそうで、隼人は腹が鳴った。隼人も、この光景を見て、恵美子と同様にささやかな幸福感を味わっていた。向かい合わせでテーブルに着いた。
「隼人の彼女は食事とか作ってくれてた?」
「うん。大したものは作ってくれなかったけど、美味しいって言うと、同じメニューが続くんだ」
「可愛いじゃない」
「まあ、ね」
 隼人は優里亜に対する罪悪感を少し感じながら、トーストに口を付けた。
「それはそうと、隼人の病気を治さなきゃね。一番良いのは規則正しい生活なの。今貴方が勤めている警察はその対極にある仕事だから、本当は辞める事が出来れば一番良いんだけれどね」
「警察の仕事を今直ぐに辞める気は無いよ。それは分かって欲しい」
「でも、今は現実的に警察から逃げなきゃいけないのでしょう?辞めているのと同じだと思うんだけどな」
「事件を解決したら戻るよ」
「そう」
「だから事件解決の為にも、僕を元の自分に戻して欲しいんだ。恵美子が言うように、病気なら病気で構わない。普通の自分に戻りたい」
 話し方は至って普通なのに、恵美子には隼人の切実な願いが感じられた。その姿が愛おしくなって来た。
「任せて。隼人を絶対に普通の世界に戻すから」
 その日から雨が降る日迄、恵美子の部屋に隼人は居続けた。隼人は、もう一度雨の夜に掛けてみようと考えたのだ。その事を恵美子には伝ていない。伝えれば反対されるに決まっているからだ。
 恵美子が処方してくれた薬は、隼人の精神状態を安定させてくれた。ひょっとしたら雨の日が来ても、例の発作にはならないかも知れない。
 一週間が過ぎた。自分で縫った傷口も塞がり、抜糸した。前日からの雨が、いよいよ強くなり、隼人が望む形になりつつあった。夜遅くになってもなかなかベッドに入ろうとしない隼人を見て、恵美子は悪い予感を抱いた。
「雨の強い夜ね。隼人」
「何?」
「行くの?」
「……」
「行くのね」
「はっきりともう一回確かめたいんだ」
「必ず戻って来れる?」
「ああ。戻って来る。約束するよ」
「本当に約束よ」
「うん」
 恵美子は気丈に振舞いながらも、心の中では涙を流していた。ひょっとしたらこれが最後の逢瀬になるかも知れないと思った。
 一方の隼人は、どんな事をしても必ず戻って来ると心に誓っていた。隼人は前回同様、ナイフを用意する事を考えた。ただ、恵美子に頼んだのでは絶対に渡してくれないと思ったので、外で買う事を考えた。
「行って来るよ」
「うん、行ってらっしゃい。お願いだから何もなかった時は真っ直ぐ帰って来てね」
「分かった」
 隼人は恵美子から傘を借り、土砂降りの外へ出た。先ずはナイフを手に入れなければならない。地面を叩く雨の音が辺りに響いた。ナイフを探したが売っていそうな店が無く、隼人は仕方なくコンビニでカッターナイフを買う事にした。カッターナイフを手にした隼人は、中目黒駅から電車に乗り、山勘を頼りに学芸大学で降りた。隼人は、雨の中を鷹番方面に歩いた。人通りが少なく、住宅がある程度密集している場所に来て、隼人は暫し足を止めた。防犯カメラの死角を確かめ、その場所に蹲った。何時でも発作が起きても良いように、カッターナイフを右手に持つ。小一時間そうしていただろうか。眩暈と共に貧血の症状が出た。隼人はカッターナイフで左腕を傷つけた。薄っすらと血が滲み出て来た。不思議と痛みは無い。神経が高ぶって来た。その瞬間、体が浮き始め、何処かを目指して飛び始めた。今回は前回と違い、意識がはっきりしている。よし、いいぞ。と隼人は思った。
 薄暗い闇の中、隼人はマンションの少ない住宅地に降りた。真夜中の静寂の中、隼人は次に起こる事を感じていた。きっと男が現れる筈。
 それは唐突に訪れた。雨合羽のフードを目深に被った男が、一軒の家から出て来て、隼人の方へやって来た。そして手に持っていた包丁を振り翳し、隼人に危害を加えようとして来た。
 男の行動を予期していた隼人は、男の足下にタックルをし、地面に押し倒した。包丁を持っている手を取り、関節技を決めるような形になった。包丁はすぐに落ちた。その包丁を遠くに投げ、足で首を絞めにかかった。警察の警備部で鍛えられた関節技に、男はあっけなく落ちた。
 隼人は、気絶している男を引き摺りながら、男が出て来た家の玄関へ行き、チャイムを鳴らした。出て来たのは、頭から血を流していた家の主人と思われる男性で、隼人の姿を見て、
「警察にしては随分早いな」
「詳しい事は後回しにして、他にご家族で被害に遭われた方は?警察にはもう連絡したのですね?」
「家内と母が包丁で刺されました。警察には今連絡したばかりです」
「救急車は呼びましたか?」
「はい」
「何か取られたものは?」
「現金を十五万程」
 隼人は、強盗に押し入った男を右腕で首を絞めながら、息を吹き返さないようにした。隼人はここでその場を後にしたかったが、強盗の男をこのままにはして置けない。警察に渡す迄はこうしていなければならない。そうすると、ひょっとして田所達と対面する事になるやも知れぬ。そんな事を考えていたら、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえて来た。
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