第18話:偽の標識
文字数 1,968文字
木の枝から下がった網の中で、男が叫び、喚いている。
網にかかった部下の姿を見上げ、カーン船長が言った。
「おいおい、これで五回目だなぁ」
男の一人が仲間を助け出そうと木に登っていくのを眺めつつ、船長は傍らにいたバッツォに顔を向けた。バッツォは頷き、指を折りながら数え上げた。
「落とし穴二回、野良犬退治の罠もあったし、で、網も二回目っしょ。なんかやたらと罠にかかりますね。やっぱり別の川を探して歩いた方がよかったんじゃないすか」
うーむと唸った船長は、手にしている古びた羊皮紙をじっと見つめた。
「地図通りに、罠のないルートを進んでるんだがなあ」
「この地図が書かれた後に作られた罠がいっぱいあるんじゃないすかね」
誰しもが行き着くであろう推察を、バッツォが述べた。
船長はしばらく太い首を傾げていたが、ふと地図に書き込まれている注釈や記号に指て、ごしごしと擦り始めた。ボスは何をしてるんだとバッツォは眉を寄せたが、彼の疑問そうな表情は、みるみるうちに驚きに変わっていった。
「船長、こりゃあ…」
彼の視線の先では、地図の文字が黒くかすんで汚れている。カーン船長は汚れた指先を見つめながら、いつもの調子で言った。
「こりゃ、インクがまだ乾いてなかったみたいだな」
まだ疑問顔をしている部下の肩を叩くと、カーン船長は部下達の顔をぐるりと見回した。
「すまん、道を間違ってたようだ!引き返すぞ!」
*
エンパイア号のクルー達は、崖沿いの道を歩いていた。
地面は緩く上り坂になっており、前方の木々の向こうに山の頂が覗いている。どうやら島の中心部が迫りつつあることを窺わせる風景だが、彼らは一向にはしゃぐ様子もなく、黙々と歩いていた。
再び岩が落ちてくるのではないかと、否が応でも想像させる地形である。ナシームも時々頭上を見上げながら、彼の前方を歩くマリーの背後について歩いていた。
しかし今回の脅威は、頭上からではなく足元からやってきた。
初めに男の一人が悲鳴を上げたことで、皆がそれに気が付いた。男に悲鳴を上げさせたのは、道の脇の茂みから這い出してきた大量の蛇である。ざっと見ても三十匹近くいるそれらが足首に絡み付いてきたことで、男達はパニックに陥った。
きやあああああああ、と甲高い悲鳴を上げて飛び上がったのはマリーである。彼女は蛇を払おうとしたのだろう、足を振り回しながらその場から駆け出した。
「落ち着け、毒蛇じゃない!」
ヴァイオラ船長の制止の声も、混乱した耳には届かない。木々の間に飛び込んだマリーの背を、ナシームは咄嗟に追いかけていた。
「マリー、待つんだ!」
ナシームは木の根を飛び越え枝を避け全速力で彼女を追いかけたが、必死のマリーは恐ろしく速かった。そのあまりの素早さに途中で彼女の足から蛇が剥がれ落ちたが、マリーはそれにも気付かずに走り、とうとう木陰の向こうに飛び込んだ。視界から少女の姿を失い、ナシームは思わず青褪めた。
「マリー!」
しかし彼が声を上げたその時、茂みの向こうでわっというマリーの短い悲鳴が上がると共に、何かが腐葉土の上に落ちるどすんという音が響いた。ナシームは彼女を追い、自身も木陰の向こうへ飛び込んだ。
「大丈夫かい!」
そこには、地面の上に尻餅をついた格好で座りこんでいるマリーがおり、彼女は驚いたように森の奥を見つめている。ナシームは肩で息をつきながら、彼女に駆け寄った。
「転んだのか、怪我はないかい」
マリーはやっとナシームに気が付いたように振り返ると、大丈夫だと言う代わりに首を振った。しかし次の彼女の言葉は、ナシームの動きを止めた。
「男の人とぶつかったよ」
もちろん彼女がぶつかったのは、エンパイア号の乗組員ではないだろう。となれば、問われるまでもなくそれは――
「男の人ってどういう…」
ナシームは立ち上がるマリーに手を貸しつつ尋ねた。マリーは答える。
「ナントカ船長の部下だよ。アンネリーのパパと同じくらいの身長で、金髪で、ちょっと若い感じの…」
そこまで聞いてすぐに、彼の中に答えが閃いた。
「トロイだ。カーン船長の部下のトロイだよ」
彼の脳裏には、この決闘が始まる前、甲板の上でカーン船長に何事か耳打ちしていた会計士の姿が浮かび上がっていた。
「その人、悪い人か」
立ち上がったマリーの瞳に警戒の色が浮かぶ。ナシームは眉を顰めて頷いた。
「ヴァイオラ船長に報告に行こう」
そこにカーン船長の指示があったのかどうかは定かではないが、エンパイア号の面々を狙っていくつもの仕掛けを作動させていたのがトロイであるとしたら、これは明らかにルール違反である。
再び駆け出したマリーの後を、ナシームは追いかけていった。
*
網にかかった部下の姿を見上げ、カーン船長が言った。
「おいおい、これで五回目だなぁ」
男の一人が仲間を助け出そうと木に登っていくのを眺めつつ、船長は傍らにいたバッツォに顔を向けた。バッツォは頷き、指を折りながら数え上げた。
「落とし穴二回、野良犬退治の罠もあったし、で、網も二回目っしょ。なんかやたらと罠にかかりますね。やっぱり別の川を探して歩いた方がよかったんじゃないすか」
うーむと唸った船長は、手にしている古びた羊皮紙をじっと見つめた。
「地図通りに、罠のないルートを進んでるんだがなあ」
「この地図が書かれた後に作られた罠がいっぱいあるんじゃないすかね」
誰しもが行き着くであろう推察を、バッツォが述べた。
船長はしばらく太い首を傾げていたが、ふと地図に書き込まれている注釈や記号に指て、ごしごしと擦り始めた。ボスは何をしてるんだとバッツォは眉を寄せたが、彼の疑問そうな表情は、みるみるうちに驚きに変わっていった。
「船長、こりゃあ…」
彼の視線の先では、地図の文字が黒くかすんで汚れている。カーン船長は汚れた指先を見つめながら、いつもの調子で言った。
「こりゃ、インクがまだ乾いてなかったみたいだな」
まだ疑問顔をしている部下の肩を叩くと、カーン船長は部下達の顔をぐるりと見回した。
「すまん、道を間違ってたようだ!引き返すぞ!」
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エンパイア号のクルー達は、崖沿いの道を歩いていた。
地面は緩く上り坂になっており、前方の木々の向こうに山の頂が覗いている。どうやら島の中心部が迫りつつあることを窺わせる風景だが、彼らは一向にはしゃぐ様子もなく、黙々と歩いていた。
再び岩が落ちてくるのではないかと、否が応でも想像させる地形である。ナシームも時々頭上を見上げながら、彼の前方を歩くマリーの背後について歩いていた。
しかし今回の脅威は、頭上からではなく足元からやってきた。
初めに男の一人が悲鳴を上げたことで、皆がそれに気が付いた。男に悲鳴を上げさせたのは、道の脇の茂みから這い出してきた大量の蛇である。ざっと見ても三十匹近くいるそれらが足首に絡み付いてきたことで、男達はパニックに陥った。
きやあああああああ、と甲高い悲鳴を上げて飛び上がったのはマリーである。彼女は蛇を払おうとしたのだろう、足を振り回しながらその場から駆け出した。
「落ち着け、毒蛇じゃない!」
ヴァイオラ船長の制止の声も、混乱した耳には届かない。木々の間に飛び込んだマリーの背を、ナシームは咄嗟に追いかけていた。
「マリー、待つんだ!」
ナシームは木の根を飛び越え枝を避け全速力で彼女を追いかけたが、必死のマリーは恐ろしく速かった。そのあまりの素早さに途中で彼女の足から蛇が剥がれ落ちたが、マリーはそれにも気付かずに走り、とうとう木陰の向こうに飛び込んだ。視界から少女の姿を失い、ナシームは思わず青褪めた。
「マリー!」
しかし彼が声を上げたその時、茂みの向こうでわっというマリーの短い悲鳴が上がると共に、何かが腐葉土の上に落ちるどすんという音が響いた。ナシームは彼女を追い、自身も木陰の向こうへ飛び込んだ。
「大丈夫かい!」
そこには、地面の上に尻餅をついた格好で座りこんでいるマリーがおり、彼女は驚いたように森の奥を見つめている。ナシームは肩で息をつきながら、彼女に駆け寄った。
「転んだのか、怪我はないかい」
マリーはやっとナシームに気が付いたように振り返ると、大丈夫だと言う代わりに首を振った。しかし次の彼女の言葉は、ナシームの動きを止めた。
「男の人とぶつかったよ」
もちろん彼女がぶつかったのは、エンパイア号の乗組員ではないだろう。となれば、問われるまでもなくそれは――
「男の人ってどういう…」
ナシームは立ち上がるマリーに手を貸しつつ尋ねた。マリーは答える。
「ナントカ船長の部下だよ。アンネリーのパパと同じくらいの身長で、金髪で、ちょっと若い感じの…」
そこまで聞いてすぐに、彼の中に答えが閃いた。
「トロイだ。カーン船長の部下のトロイだよ」
彼の脳裏には、この決闘が始まる前、甲板の上でカーン船長に何事か耳打ちしていた会計士の姿が浮かび上がっていた。
「その人、悪い人か」
立ち上がったマリーの瞳に警戒の色が浮かぶ。ナシームは眉を顰めて頷いた。
「ヴァイオラ船長に報告に行こう」
そこにカーン船長の指示があったのかどうかは定かではないが、エンパイア号の面々を狙っていくつもの仕掛けを作動させていたのがトロイであるとしたら、これは明らかにルール違反である。
再び駆け出したマリーの後を、ナシームは追いかけていった。
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