第1話:血のラディーナ号

文字数 3,124文字

 深い青色の水に囲まれた入り江の港街に、一艘の船が近付きつつあった。
 遥か大西洋を渡ってやってきたその船は名前をラディーナ女王号といい、船に乗る男達を率いているのはカーン船長である。
 カーン船長は自らセイルに昇って、太い腕の片方でロープを、もう片腕で望遠鏡を掴み、前方に広がる町を眺めていた。しかしやがて彼は甲板に降り立つと、彼を気だるげに見上げていた彼の通訳――ナシームに歩み寄りつつ、そちらへ日焼けした顔を向けた。
「いやあ、久し振りに大きな街を見たな!今夜はここで飲んでこうじゃないか!」
 いつも陽気――ナシームは陽気を通り越して病気だと思っているが――なカーン船長の声は、この時も必要以上に大きい。船長は早速部下に号令を出し、船を港へ向けさせた。
 ラディーナ女王号の海賊旗は赤い。赤地に髑髏を描いたその旗は、『血のラディーナ号』の象徴として彼らの地元では恐れられていた。
その海賊旗が降ろされ、代わりに擬装用の国旗が揚げられるのを見届けると、船長は沈黙しているターバン頭の男の肩を叩いた。
「うん?ナシーム、何か言いたいことがありそうじゃあないか。なぜ黙ってる?その顔は『聞いてください』って顔だ」
 船長の、一度ごとに一ミリずつ背の縮みそうな手の平攻撃を肩に受けながら、ナシームはちらりと船長の顔を見上げた。通訳の表情は望み薄だと言いたげだったが、それでも一応、ナシームは口を開いた。
「…船長、昨日も申し上げましたが、この港街はエンペラー・ヴァイオラの根城です。わざわざここに寄港して、揉め事を起こすのはやめませんか?私達がこの入り江を通るのは『宝島』へ行くためであって、エンパイア号とやりあうためじゃありませんよね?」
 そう、彼らがここへ立ち寄ったのは、この南方にある、とある孤島の噂を耳にしたからである。かつてある大海賊団が世界中から集めた財宝をその島に隠していたが、海賊達は内輪揉めを起こし、宝は島の外へ持ち出されてしまった。今ではひとつだけ宝箱だけが残されているとされているが、孤島が近付くにも厄介な海域にあることと、島には争い合った海賊達によって仕掛けられた罠が多く残されている危険から、その宝箱は手付かずのまま残されているという。船長は新天地に様々な目的を見出そうとしており、宝島の物語はそのひとつである。
一方でエンペラー・ヴァイオラという名前を聞いて、カーン船長はますますその顔に精気を漲らせた。
「皇帝とはまた、大層な通り名じゃないか」
 船長の反応に対して、ナシームは溜め息を吐きたくなった。しかし二酸化炭素や窒素をいつもより大目に吐き出したところで、事態が好転するわけでもない。
「私が数年前この付近へ来て同じ名前を聞いた時は、そんな冠詞はついていませんでしたがね。大方、彼らの船のエンパイア号って名前から来てるんだろうとは思いますが、何でも昨年辺り嘘かまことか、あの南インド会社の戦艦を沈めたそうです。今じゃ地元の有力者を手玉に取ってるそうで、この辺ではヴァイオラ船長のことはまともなごろつきなら避けて通るという話です。揉めて得になる相手じゃありませんよ」
 まともな脳みそを持っているごろつき、と言わなかったのは、保身のためであって好意のためではない。もちろんまともな脳みそを持っているとは思われないカーン船長はにやりと笑うと、誇らしげに胸を反らして言った。
「だったらなおのこと会ってみなけりゃならんなあ。そのエンペラー船長とこのカーン船長と、どちらが偉大かやってみなけりゃわからんだろう!」
 それを聞いていた甲板の上の海賊達が、船長の意気に競合するように喚声を上げた。たちどころに騒がしくなった甲板の上で、ナシームはとうとう抑えきれなくなった溜め息を吐いた。
 確かに、カーン船長とラディーナ女王号のメンバーは、相当に強い。海賊にとっての強いということは、少なくともナシームの故郷の海では、腕っ節が強いのはもちろんのこと、生き残るための狡猾さと冷酷さ、運の強さも意味した。彼らは、彼らの地元ではほぼ横に並ぶ者のない強さを誇っており、それがカーン船長が長旅を決意した一つの理由でもあるのだろう。地元には探検すべき未知の領域も、挑戦すべき敵も残っていなかった。
 実際彼らはここに辿り着くまでの間にも、いくつもの船を沈め、言語の通じる敵も通じない敵も、大勢を水の中へ沈めてきた。しかし新天地の海の皇帝は、かつての敵達のように容易に下すことができるとは限らない。
 それでもやはりナシームの忠告になど耳を貸すことなく、海賊旗を降ろした海賊船は、入り江の港町に錨を下した。
ナシームの他に若い会計係を連れて、カーン船長は船から降りた。
そして船を降りて立ち去ろうとした彼らを、呼び止めた者がいる。新たな来訪者に声を掛けたのは、桟橋の管理人だった。
「ボンジョー、ムッシュー」
 この三人組がよそ者だということは一見すれば誰にでも察しがつくだろう。管理人は彼の第一言語とは違う言葉で挨拶してきたが、それもカーン船長の故郷の言葉ではなかった。
 カーン船長は多少言語の食い違いがあっても構わずコミュニケーションを取ろうとし、それが上手くいく場合もあるのだが、細部では誤解を生じていることが多い。返事を返そうとした船長と管理人の間に割って入ったナシームは、すかさずこの土地の言葉で話し始めた。
「何でしょうか、ミスター」
 管理人は通訳がいることにほっとした表情を覗かせつつ、陽気そうだがどう見ても厳つすぎる男とその連れ、そして明らかに人種の違う通訳とを訝るような目つきで見比べた。
「いえ、昨年からこの付近の港では、停泊する船の記録を残すことになっておりまして…安全のためです。海賊や不正な商船の出入りを規制するためにね。…恐れ入りますが、貴方がたはどちらから…?」
 まさに規制対象となっているのが自分達だが、もちろんそんなことを正直に言うために、ナシームは通訳をしているのではない。彼は顔の上に商人らしい柔和な笑顔を作ると、管理人に向かって言った。
「それは全く知りませんで、失礼致しました。ええと、こちらのサンナレホ大佐は、故国の軍役を退かれてから国王陛下の命を授かって、現在只今世界周航に挑戦してらっしゃる最中なんでございます。これから更に南下してインカへ赴き、最後にはインド航路を巡って故国へ戻るという大命を帯びているのです。私は召使いのナセル、彼は会計士のトリジェッテです」
 早口でまくしたてたナシームの言葉の内容を理解しているのかどうかは不明だが、紹介を受けたカーン船長は満面の笑みで管理人に微笑みかけた。とりあえず管理人は曖昧な微笑を船長に返すと、小脇に抱えていたらしい帳面と筆記具とを取り出して、帳面のリストに船長の仮名を書きつけようとした。
「そういうことでしたら…。サン…失礼、スペルをお願いできますかな?」
 ナシームは管理人からペンと帳面を受け取ると、リストの一番下に船長の仮名と、同時に船の仮名とを迷いのない手つきで書き足した。筆記の済んだ帳面とペンとを管理人に返すと、管理人はやはり多少ぎこちない笑顔を三人に向けた。
「良い滞在を」
 早口にそう告げて立ち去った管理人の背後に、カーン船長の「センクサロ!シーヤ!」というカタコトすぎる現地語の挨拶がかかる。
管理人が立ち去ったのち、会計係のトロイ――実際はこれが彼の名前である――を振り返った船長の笑みに、多少の濁りが加わるのを、ナシームは横目に見ていた。船長は嬉しそうに言った。
「それじゃあ荷下しといこうか」




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登場人物紹介

ヴァイオラ船長


入り江の街を根城にする、海賊船エンパイア号の女船長。

自由と海を愛し、無暗な略奪や不要な殺生を避ける変わった海賊。

カーン船長をさっさと倒し、入り江からラディーナ号を追い払わなければと考えている。

カーン船長


海賊船クイーンラディーナ号の船長。

侠気がないことはないが乱暴者で、頭の螺子が足りない(とナシームには思われている)。

ヴァイオラ船長に一目惚れし、彼女を手に入れるために決闘を申し込む。

マーシャ


元巨大商社の支社長で、現在はエンパイア号の航海士。

ビジネス上の敵だった公爵を暗殺し損ねて流刑になっていたところを、ヴァイオラ船長に救われた。

いつも悪だくみばかりしている。

ナシーム


ごく平凡な商人。

乗っていた商戦をカーン船長に襲撃されて以来、通訳として強制的に海賊船に乗船させられている。

本編の主人公。

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