第2話:入り江の街の酒場で

文字数 4,077文字

 荷下し――つまりは略奪品の換金だが、この最も危険な作業が片付くと、ラディーナ女王号の面々は船長から小遣いを受け取り、好き好きに街の中へ散らばってゆく。
 大まかな出港予定日が定められている以外は特に規制も約束事もない、実に気儘というか大雑把な連中だとナシームは思っている。ちなみに出港に間に合わない乗組員がいれば、そいつがよほど船長のお気に入りでない限り、本人の自己責任もしくは自由意志の尊重という形で、置いてきぼりを食うことになる。
 もちろんそんな自由意志が自分にも尊重されれば、ナシームは今すぐにでも街の一角へ行ってラクダ――はここにはいないだろうから馬を買い、とにかく連中のいないどこかへ逃亡する。しかし流石にそのくらいはカーン船長にもわかっているらしく、ナシームには他の乗組員のように自由行動は許されていない。船の停泊中は、ナシームは何時如何なる時も、カーン船長と行動を共にしなければならないのである。まったくもって酷い話だとナシームは嘆いているが、プライバシーの意識が欠如しているのか恥ずかしいという感情を持ち合わせていないのか、船長は、例えば小柄な異人種の中年男を、宿屋の寝室に同伴させることに対しても、大して抵抗を感じないようである。
 その晩のカーン船長は、ナシームと会計係のトロイ、その他にも長年連れ添っているガスポとバッツォという二人の船員を連れて、街の酒場に繰り出していた。
 一軒目には食事のために入り、二軒目には踊り子を見に、三軒目には酒を飲みに入った。もちろん一軒目の店からずっと酒は飲んでいるのだが、三軒目で長時間管を巻くことにしたということである。
 その日の三軒目に選んだのは庶民向けの大きなラウンジバーで、カウンターの横ではヴァイオリン奏者が明るい音色を奏でている。港街だけあって客層は様々で、お客の中には地元の労働者の他に商人風の男や異国人、ところどころに休暇中の海兵らしい姿も見られる。
 何が起ころうと大体陽気なカーン船長だが、この頃は酒が入るとナーバスになることがあった。この時もさっきまでは机を叩いて大笑いしていたのに、店内に流れる音楽がバラード風になった途端、眉を寄せて慟哭し始めた。
「ブラン、ブラン、俺を残してどこへ行ってしまったんだブラン!」
 グラスを片手に今度は泣き喚きながら机を叩き始めた船長が叫んでいるのは、先月北極海沿いを航海中に命を落としてしまった船員の名前である。ブランは乗組員の中でも古参の一人で、生前はよく船長の隣にいた元作家兼、生物学者だった。
 異国語を話す客が少なくないとはいえ、カーン船長の大声は他の客の視線をひきつけた。
 海賊であることを偽って停泊している身の上であるからして、衆目を集めたくないナシームは冷や冷やしながら船長の様子を眺めていたが、ガスポとバッツォの二人は船長を宥めるどころか同じようにブランの名を呼んで思い出語りを始めた。辛うじて会計係のトロイが落ち着いた声で、船長を黙らせるために次の酒を勧めている。
 ところでこの会計係はラディーナ女王号の最年少者で、何と年齢は十七歳である。父なし子だったトロイの母親は詐欺師だったらしく、母親が逮捕され処刑されたあとに残された少年は、十四歳で海賊船の乗組員になった。年齢の割に随分老けて見えるが、トロイは間違いなく美形の部類に入る容姿を持っており、立ち回りが上手い上に金勘定ができるので、その才能を重宝されて何かと船長の側にいることが多い。整った外見というのは交渉において時に――ことに相手が異性であった場合――非常に強い効力を発揮することは、商人であるナシームも認めるところである。
「ああ、ブランがここにいれば、きっとあいつはこの調べに合わせて、俺を最高に感動させる歌を歌ってくれたはずだ。ブランは最高の詩人だった。あんな男は他にいない。あいつは俺と同じくらい海と、自由と、酒と、人生と、海と、自由を愛してた。…あいつがトカゲを好きってのだけは俺は理解できなかったが、俺達は本当に人生のうちでも最高の友達だったんだ。もうあんな男とは出会えないだろうな。ああ、ブラン…」
 とまあ、船長はずっとこんな調子である。
 ナシームは店に入る前からずっと宿に戻って眠りたくて仕方がないのだが、船長は寝ぼけている時でさえ脱走を試みる通訳に対しては反応を示すことは過去に検証済みなので、船長が酒に飽きるまで、彼は会計係の向かいでビールを啜り、つまみのナッツを齧りながら耐え忍ぶほかに道はない。しかしああして人並みに友人の死を悲しむことができるなら、なぜその悲しみをわずかでも赤の他人の死に適用させることができないのだろうかという疑問は、恐らくナシームには解くことのできない永遠の謎である。
 無限にも感じられる長時間の拷問にナシームが苦しんでいたその時、彼らのテーブルに注文した憶えのない酒が運ばれてきた。船長が飲んでいるウィスキーのグラスがひとつに、ビールのジョッキが四つ。誰か追加したのかという疑問を含んだ視線を会計係が四人に巡らせる。返答を得られなかったトロイがウェイターに視線を戻すと、ウェイターは彼らの真後ろのテーブルを目で指した。
「あちらのご婦人から」
 ご婦人という安酒場にはやや不似合いな単語を聞いて、ナシームをはじめとした五人の異邦人はそのご婦人を振り返った。
 ナシームからは死角になっていたために彼は気付いていなかったが、いつの間にか彼らの背後のテーブルには、四人の男女が腰掛けていた。
しかもその四人の男女というのが、少し変わっている。仕事上がりの駆けつけ一杯を飲みに来た労働者階級の寄り集まりといった風情ではなく、もっと落ち着いた、謎めいた品格が彼らにはあった。
 そのうちの女の一人が、ウェイターと彼らの視線を受けて会釈した。女の声は彼女の比較的小柄な体格に対して決して高くなく、どこか威風のある響きを持っていた。
「どこの国からいらっしゃったのか知らないが、船乗りとお見受けしたのでね。私も海と自由を愛している。しかし航海を続ける限り、私達は時に喪失を経験しなきゃならない。…貴方のご友人の冥福を祈るよ」
 五人の男達の誰もが、その女を見つめた。トロイが早々と興味を失って視線を外したのを、ナシームは視界の端に捉えた。一方で船長は口を縫いとめられたように突如静かになって、ただ女の注文してくれたというウィスキーグラスを高々と掲げた。
 ナシーム以外の四人に、女の言葉は半分程度しか伝わっていないはずである。しかし女の同情の籠もった瞳を見て、船長は彼女の意図を理解したのだろう、鼻づまりの大声に故国の言葉を乗せて、「我らが人生と、海と友情に乾杯!」と叫んだ。
 まずい、このまま彼らと共にテーブルを囲むことになれば、我々の素性を一から十まで偽って説明しなければならなくなる――とナシームは青褪めかけたが、それも束の間、どうやら彼らに酒をおごってくれた女の一行は店を出る直前だったらしい。それからすぐに席を立って立ち去ってしまった。
 四人組が去って行くのを見送った彼らは、再びお互いの顔を見合わせた。
「まさか女に酒をおごられるとはなあ。ここら辺じゃよくあることなのか?」
 バッツォが呟いた。その台詞にはナシームも同感である。
「しかし、結構いい女だったな」
 そう言ったのはガスポで、ナシームは心中でそれにも同意した。風変わりには違いないが、確かに美人と呼んでも差し支えない風格と容姿が、彼女にはあった。
「奥のもう一人の方が高そうでしたよ。三万はいったかな」
 淡白な声でそう言ったのはトロイである。この会計係は人を形容する時にいつも金額を使う。ナシームはトロイの台詞にも同意した。確かにはじめの女も印象的に違いなかったが、奥の席にはブロンドの、稀に見るほどの美女が座っており、実はナシームの視線の半分は彼女に釘付けになっていたりもしたのである。
バッツォが再び言った。
「しかし男の方は軍人っぽくかったか?特に黒髪のほう」
 そう、金髪の美女の隣には黒髪をぴっちりと撫で付けた、役人風の男が座っていた。私服を着ていても、男の顔つきと髪型とは明らかに役人のそれである。
「もう一人も軍人かどうかはわかんねえが、どっちにしろ素人にゃ見えなかった」
そう言ったガスポが、とうとうナシームに目で促した。やむなくナシームはウェイターの一人を捕まえると、先ほどまで四人組が座っていたテーブルを指して尋ねた。
「そこに座ってた人達が誰か知ってますか?私達にお酒を奢ってくれたんですよ。ほら、何と五人分も」
 するとウェイターはああ、と言って頷いた。やはり彼らは有名人か、さもなくば店の常連のようである。
「奥に座ってたのが海軍のウェイン提督ですよ。隣の金髪美人がライラ提督夫人、向かいの二人は婦人の友達らしいですよ。提督夫妻よりも彼らのほうが、うちの店にはよく飲みに来ますかね」
 何とまあ海軍提督とそのご婦人とは、会話する羽目にならなくて本当によかったとナシームは胸を撫で下ろした。隣の席のトロイが彼に顔を寄せてきた。
「今何て?気のせいですか、海軍って言ってた気がしたんですが」
 ナシームは自然と声を抑えて頷いた。
「奥の二人、海軍提督とその奥さんだったらしいです」
 それを聞いた会計係も、流石に酒が冷めたようだった。ガスポは「何だよ人妻かよ」などと暢気なことをぼやいたりしていたが、いよいよ会計係は酒を飲み干すと船長に顔を向けた。
 そのカーン船長は、先ほどから奇妙なほどに静まり返って、一人でウイスキーをあおっている。その船長に向かってトロイが言った。
「船長、そろそろ酒代も嵩んできたんで、店出ませんか。宿で飲み直しましょう」
 宿で飲み直そうとはこの場合帰って寝ましょうの意だが、おう、と虚ろに答えたカーン船長の声を合図にして、男達はとりあえず、椅子から立ち上がった。



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登場人物紹介

ヴァイオラ船長


入り江の街を根城にする、海賊船エンパイア号の女船長。

自由と海を愛し、無暗な略奪や不要な殺生を避ける変わった海賊。

カーン船長をさっさと倒し、入り江からラディーナ号を追い払わなければと考えている。

カーン船長


海賊船クイーンラディーナ号の船長。

侠気がないことはないが乱暴者で、頭の螺子が足りない(とナシームには思われている)。

ヴァイオラ船長に一目惚れし、彼女を手に入れるために決闘を申し込む。

マーシャ


元巨大商社の支社長で、現在はエンパイア号の航海士。

ビジネス上の敵だった公爵を暗殺し損ねて流刑になっていたところを、ヴァイオラ船長に救われた。

いつも悪だくみばかりしている。

ナシーム


ごく平凡な商人。

乗っていた商戦をカーン船長に襲撃されて以来、通訳として強制的に海賊船に乗船させられている。

本編の主人公。

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