第3話:海の女神
文字数 2,725文字
ラウンジバーを後にした四人の男女は、アルコールで火照った顔を温い夜風でゆっくりと覚ましながら、宵を過ぎても活気を失わない通りを、のんびりと歩いていた。
「びっくりした。貴女、彼らの会話聞いてたの?」
そう言ったのは金髪の美女――提督婦人のライラである。尋ねられた女は答えた。
「もちろん全部ってわけじゃないが、船乗りらしかったし、あれじゃ仲間が死んだらしいって何となくわかるだろ。…私も経験があるから、ついああしただけだよ」
彼女こそ、その名を近海に知られたヴァイオラ船長である。最も、知られているのは彼女の名前ばかりで、この町の人間もほんの一握りを除いて、まさかその有名人がこの小柄な女性で、こうして市中の安酒場で酒を飲んでいるなどとは全く知らない。
ヴァイオラの斜め後ろを歩いている長身の男が、低い声で言った。
「しかし、素性の知れない男達です。特にウイスキーを飲んでいた男、ただの船乗りには思えませんでしたが」
「アントーニオ、私の名前を呼んでみるか?」
にやりと笑った船長を、アントーニオは困惑を浮かべた瞳で見下ろした。
それを横から見ていたウェイン提督が、穏やかに言った。
「だが、その海賊のおかげで、このところこの入り江は本当に静かだ」
「貴方が仕事を忘れそうなほどにね」と呟いたライラの言葉に、三人の男女は小さく笑いをこぼした。
ヴァイオラ船長は紛れもない海賊だが、彼女は海賊稼業を始めた当初から、捕虜を殺さずに味方に加えることで、自分の海賊団を大いに成長させた。そして、船を降りようとする部下を引き止めることも、彼女はしなかった。ヴァイオラ船長は海賊でありながら殺人を避けており、それでも海賊をしているのは、彼女の性分によるものらしい。彼女は強い闘争心と挑戦心を持ち、海と自由を愛し、陸上に敷かれた権力闘争のルールを嫌っていた。
昨年までこの入り江を含む一帯は、世界中の海に通商ルートを広げている南インド会社の勢力範囲に入ろうとしていた。入り江の使用権を手に入れようとした南インド会社は地元の領主に交渉を持ちかけたが、領主が契約を拒否したために、当の領主が商社の雇った刺客に殺されかけるという事件が起こった。
偶然のなりゆきで、ヴァイオラ船長は領主を暗殺から救い、最後には暗殺事件の立証と、暗殺を企てた商社支社長の逮捕に協力することになった。そういう経緯があったので、ヴァイオラ船長は公式には海軍の敵には違いないが、こうしてプライベートにウェイン提督や以前の船乗り仲間――ライラは半年前に提督婦人になるまでは、彼女の下で航海士をしていた――と酒を飲みに、入り江に上がってくることがある。
彼女が率いるエンパイア号はもともと近海では最強の海賊団として知られていたが、それまで誰も敵う者のいなかった南インド会社の傭兵軍団を倒したことで、今では彼女たちに挑みかかってくる命知らずの数は減りつつあった。彼女がよく出入りしているこの入り江には、海賊はほとんどよりつかなくなってしまったのである。
友人達が平穏に笑って暮らす風景を眺めながら過ごす日々が、不幸なはずはない。しかしヴァイオラ船長には、それがどこか寂しく物足りなく感じることがあるのも、また事実だった。
*
「ナシーム、俺は愛を見つけてしまったのかもしれない」
カーン船長が突然そう言ったのは、彼らが宿屋にチェックインし、ナシームと船長がツインルームに入った直後のことだった。
「…はい?」
耳慣れない単語に思わずそういう返答しか返すことのできなかった通訳を責めることもなく、むしろ船長は相手の反応など意に介さず、続けてウィスキーの溜め息を吐きながら喋り続けた。
「愛だ。俺が長く海以外のものに抱き得なかった情熱が、俺の胸の中に甦ってきたようだ」
そう言った船長は、彼の心中の苦悩を表すかのように胸元に手の平をあてがいながら、二つあるベッドの片方に腰を下ろした。ナシームは鍵を下した時の姿勢のまま戸口に固まって、キッチンに蜘蛛かサソリでも見つけてしまった時のような目つきで、船長を見つめた。
「…愛…を、どこに見つけたっていうんですか」
船長は答える。
「決まってるだろう、酒場で会った女だ。あの黒い髪と黒い瞳の。俺と同じ情熱を宿した黒い瞳の女だ!」
隣室から壁をノックする音が聞こえてくることを恐れつつ、ナシームはそれこそ情熱的に叫んだ船長の、どこか遠くを見ている瞳を恐る恐る覗いた。
――こりゃやばい。早く寝てもらおう。
そう判断したナシームは、ううん、と唸りながら船長に近付いた。
「ああ、あのご婦人ですか。お酒を奢って下さいましたもんね。…しかし彼女には、お連れがいたようじゃありませんか。恐らくあれが旦那さんですよ」
いやいや、と船長は首を振る。
「なら決闘を申し込むまでだな。もちろん俺が勝つだろう。船に女を乗せるのは不吉だとか言うが、あの女は海の女神に違いない。海の女神を船に乗せて不吉なことがあるか?俺は今まで海以上に女を愛することができなかった、だから一人で生きることを選んできたが、同じように海で生きることができる女に俺は出会ったんだ。これは運命じゃないか!」
ああはいはいと呟きながら、ナシームは船長の足元に回り込んで船長の足からブーツを引っぺがすと、船長の肩をぐいぐいと押して、でかい図体をベッドの上に横たえようとした。なぜこんな召使いのような真似をしなければならないのか、という悲しみと屈辱を感じるための感性は、とうの昔に彼の中で摩滅している。
「船長はきっと、ブランさんの死の悲しみで動転してらっしゃるんですよ。だから提督婦人のお友達なんかが魅力的に思えたりしたんです。明日になってお酒が冷めれば、きっと何が夢で何が現実か、見分けられるようになってますよ。そういうわけですから、今日はもう休みましょう」
いや、これはきっとブランの導きに違いない、とさらに動転した台詞を吐き続ける船長の背中をベッドシーツに押し付けることに、ナシームはとうとう成功した。ここまで来れば彼の勝利である。船長はまだごにょごにょと得体の知れない言葉を呟いていたが、やがて静かになったかと思うと、話し声と同じくらいやかましい鼾をかきはじめた。
ナシームは溜め息をついた。どうにも悪い予感がするのである。これは早々にエンパイア号を探して海に出てもらった方が、まだ安全かもしれない。
もと商人の通訳は海賊の一味として絞首台に上る自分の姿を想像し、せり上がってきた吐き気を堪え、それを打ち払おうとするかのように身震いした。
*
「びっくりした。貴女、彼らの会話聞いてたの?」
そう言ったのは金髪の美女――提督婦人のライラである。尋ねられた女は答えた。
「もちろん全部ってわけじゃないが、船乗りらしかったし、あれじゃ仲間が死んだらしいって何となくわかるだろ。…私も経験があるから、ついああしただけだよ」
彼女こそ、その名を近海に知られたヴァイオラ船長である。最も、知られているのは彼女の名前ばかりで、この町の人間もほんの一握りを除いて、まさかその有名人がこの小柄な女性で、こうして市中の安酒場で酒を飲んでいるなどとは全く知らない。
ヴァイオラの斜め後ろを歩いている長身の男が、低い声で言った。
「しかし、素性の知れない男達です。特にウイスキーを飲んでいた男、ただの船乗りには思えませんでしたが」
「アントーニオ、私の名前を呼んでみるか?」
にやりと笑った船長を、アントーニオは困惑を浮かべた瞳で見下ろした。
それを横から見ていたウェイン提督が、穏やかに言った。
「だが、その海賊のおかげで、このところこの入り江は本当に静かだ」
「貴方が仕事を忘れそうなほどにね」と呟いたライラの言葉に、三人の男女は小さく笑いをこぼした。
ヴァイオラ船長は紛れもない海賊だが、彼女は海賊稼業を始めた当初から、捕虜を殺さずに味方に加えることで、自分の海賊団を大いに成長させた。そして、船を降りようとする部下を引き止めることも、彼女はしなかった。ヴァイオラ船長は海賊でありながら殺人を避けており、それでも海賊をしているのは、彼女の性分によるものらしい。彼女は強い闘争心と挑戦心を持ち、海と自由を愛し、陸上に敷かれた権力闘争のルールを嫌っていた。
昨年までこの入り江を含む一帯は、世界中の海に通商ルートを広げている南インド会社の勢力範囲に入ろうとしていた。入り江の使用権を手に入れようとした南インド会社は地元の領主に交渉を持ちかけたが、領主が契約を拒否したために、当の領主が商社の雇った刺客に殺されかけるという事件が起こった。
偶然のなりゆきで、ヴァイオラ船長は領主を暗殺から救い、最後には暗殺事件の立証と、暗殺を企てた商社支社長の逮捕に協力することになった。そういう経緯があったので、ヴァイオラ船長は公式には海軍の敵には違いないが、こうしてプライベートにウェイン提督や以前の船乗り仲間――ライラは半年前に提督婦人になるまでは、彼女の下で航海士をしていた――と酒を飲みに、入り江に上がってくることがある。
彼女が率いるエンパイア号はもともと近海では最強の海賊団として知られていたが、それまで誰も敵う者のいなかった南インド会社の傭兵軍団を倒したことで、今では彼女たちに挑みかかってくる命知らずの数は減りつつあった。彼女がよく出入りしているこの入り江には、海賊はほとんどよりつかなくなってしまったのである。
友人達が平穏に笑って暮らす風景を眺めながら過ごす日々が、不幸なはずはない。しかしヴァイオラ船長には、それがどこか寂しく物足りなく感じることがあるのも、また事実だった。
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「ナシーム、俺は愛を見つけてしまったのかもしれない」
カーン船長が突然そう言ったのは、彼らが宿屋にチェックインし、ナシームと船長がツインルームに入った直後のことだった。
「…はい?」
耳慣れない単語に思わずそういう返答しか返すことのできなかった通訳を責めることもなく、むしろ船長は相手の反応など意に介さず、続けてウィスキーの溜め息を吐きながら喋り続けた。
「愛だ。俺が長く海以外のものに抱き得なかった情熱が、俺の胸の中に甦ってきたようだ」
そう言った船長は、彼の心中の苦悩を表すかのように胸元に手の平をあてがいながら、二つあるベッドの片方に腰を下ろした。ナシームは鍵を下した時の姿勢のまま戸口に固まって、キッチンに蜘蛛かサソリでも見つけてしまった時のような目つきで、船長を見つめた。
「…愛…を、どこに見つけたっていうんですか」
船長は答える。
「決まってるだろう、酒場で会った女だ。あの黒い髪と黒い瞳の。俺と同じ情熱を宿した黒い瞳の女だ!」
隣室から壁をノックする音が聞こえてくることを恐れつつ、ナシームはそれこそ情熱的に叫んだ船長の、どこか遠くを見ている瞳を恐る恐る覗いた。
――こりゃやばい。早く寝てもらおう。
そう判断したナシームは、ううん、と唸りながら船長に近付いた。
「ああ、あのご婦人ですか。お酒を奢って下さいましたもんね。…しかし彼女には、お連れがいたようじゃありませんか。恐らくあれが旦那さんですよ」
いやいや、と船長は首を振る。
「なら決闘を申し込むまでだな。もちろん俺が勝つだろう。船に女を乗せるのは不吉だとか言うが、あの女は海の女神に違いない。海の女神を船に乗せて不吉なことがあるか?俺は今まで海以上に女を愛することができなかった、だから一人で生きることを選んできたが、同じように海で生きることができる女に俺は出会ったんだ。これは運命じゃないか!」
ああはいはいと呟きながら、ナシームは船長の足元に回り込んで船長の足からブーツを引っぺがすと、船長の肩をぐいぐいと押して、でかい図体をベッドの上に横たえようとした。なぜこんな召使いのような真似をしなければならないのか、という悲しみと屈辱を感じるための感性は、とうの昔に彼の中で摩滅している。
「船長はきっと、ブランさんの死の悲しみで動転してらっしゃるんですよ。だから提督婦人のお友達なんかが魅力的に思えたりしたんです。明日になってお酒が冷めれば、きっと何が夢で何が現実か、見分けられるようになってますよ。そういうわけですから、今日はもう休みましょう」
いや、これはきっとブランの導きに違いない、とさらに動転した台詞を吐き続ける船長の背中をベッドシーツに押し付けることに、ナシームはとうとう成功した。ここまで来れば彼の勝利である。船長はまだごにょごにょと得体の知れない言葉を呟いていたが、やがて静かになったかと思うと、話し声と同じくらいやかましい鼾をかきはじめた。
ナシームは溜め息をついた。どうにも悪い予感がするのである。これは早々にエンパイア号を探して海に出てもらった方が、まだ安全かもしれない。
もと商人の通訳は海賊の一味として絞首台に上る自分の姿を想像し、せり上がってきた吐き気を堪え、それを打ち払おうとするかのように身震いした。
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