第21話:鬼の正体

文字数 2,866文字

 海賊達が木々の間にその後ろ姿を捉えた時、会計士のトロイは逃走を諦めたのか、ぴたりと足を止めて追っ手を振り返った。
 どういうことかトロイの十歩ほど先にはエンパイア号の航海士代理もおり、彼はトロイが足を止めた後も止まらず走り続けた。
「マーシャ!」
 航海士代理の名を呼んだヴァイオラ船長も自分の声に効力があると思って叫んだわけではないだろうが、マーシャはどんどん遠ざかり、すぐに茂みの向こうへ消えた。
 一方でカーン船長はいつもの笑みをすっかり消し、闘犬のごとく怒らせた顔を彼の正面に立ったトロイへ向けて、銅鑼のような大声で怒鳴り始めた。
「トロイ、お前はヴァイオラを殺そうとしたのか!」
 声は地面に積もった腐葉土を吹き飛ばす勢いである。それを顔面に受けながら、それでもトロイは顔色を変えない。むしろ苦笑のような表情が、彼の顔に浮かんだ。
「何の話です、船長。俺がヴァイオラ船長を殺そうとしたですって?」
「そうだ、罠を使ってヴァイオラ達を殺そうとしただろう!しかも俺はわかってるぞ、お前は俺に書き換えた地図を渡したな!」
 やっと彼らに追いついてきたナシームは、再び安全地帯を求めて手近な木によじ登った。ちなみにマリーは知らぬ間に、姉の隣に立っている。
 トロイは話し続けている。
「…地図に気付いてしまったんですね。これは航海士殿の怠慢だな。……そうなんです、船長。俺は手を加えた地図を貴方に渡しました。貴方達を遅らせて、その間に敵を潰すためです」
 なに、と唸ったカーン船長の鼻の穴が、怒りで大きく膨らんだ。しかしトロイはまだ喋る。
「でも船長、これは貴方とラディーナのためを思ってしたことなんですよ。あの女を船に乗せるのは俺達にとってマイナスです。そんなものは俺達の航海に相応しくない。だから俺は嘘をついて、貴方を騙してまでこうしたんです。船長はいつも言ってるじゃないですか、」
「黙れ!」
 カーン船長が叫んだ。大きな肺から発された大声は、ジャングルの空気を振動させた。
 今や内輪揉めの様相を呈し始めた現況をヴァイオラ船長は黙って見詰めていたが、彼女の隣にライラが立つと、ぼそりとライラに耳打ちした。ライラは誰の注目を集めることもなく、彼らから離れて一人ジャングルを駆け始めた。
 カーン船長の銅鑼声はまだジャングルを揺るがしている。
「何を考えてしたことだろうが、お前のしたことは命令無視だ。船長命令は絶対だ。お前は俺のルールを破った。残念だが、俺はお前を殺さなきゃならない」
 そう言ってカーン船長は曲刀を振り上げた。そしてその時になって初めて、トロイの顔が明らかに歪んだ。
 彼の顔に浮かんでいたのは、嘲笑の表情だった。
「船長!ここで俺を殺すんですか。俺は今までずっと貴方のために最善を尽くして、誰よりもこの船を支えてきたのに!だってそうでしょう、他の連中は誰も似たり寄ったりの筋肉ダルマで、金勘定もできないバカばっかりじゃないですか!」
 トロイの言葉に、船長を宥める気があるとは思われない。案の定、カーン船長の額は血を集めてますます赤黒くなった。
「お前には俺の部下を侮辱する権限だってないんだぞ、トロイ!仲間をそんなふうに思っている奴は、俺の船には乗せられない」
 は、とトロイは笑声を放った。
「こっちだって願い下げですよ。俺はいつだってベストの方法を示してやってるのに、貴方や連中は俺の話なんか全然聞かない。策があっても採らないしせっかく貯めた金も一晩で飲んじまうし、俺はいい加減あんたらには愛想が尽きてたんですよ。ほんとのことを言いますよ、俺は嘘をついてました。あんたが負ければあっちの船に乗ってくれるって言うから、俺はあっちの航海士と組んで、あんたが抜けた後のラディーナをもらうつもりだった。金勘定もできない海図も引けない猿共がボス猿抜きで、船を流すなんてのは無理な話ですからね!」
 トロイが喋り終わるよりも先に、カーン船長の曲刀が振り下ろされた。次の瞬間には青年の首は胴から離れているはずだった。しかし代わりに切り落とされたのは、ヴァイオラ船長の細剣の先だった。いつの間にか彼らの間に踏み込んでいたヴァイオラ船長が、カーン船長の曲刀を弾き返したのである。
「死でなくても、罰はあるだろう」
 ヴァイオラ船長が唸った。吹っ飛んだ細剣の切っ先が手頃な木の幹に突き立つ。鏡のように見開かれたカーン船長の目だけでなくトロイの目まで、彼女に引き付けられた。しかしその時、マリーが叫んだ。
「あっ、変なおじちゃんだ!」
 その瞬間、何かが空気を裂いた。ヴァイオラ船長の目はマリーの指した茂みの陰に向けられた。そこには髭ぼうぼうで泥だらけの山男が立っており、男は口に小さな木筒をくわえていた。
 同時に、ヴァイオラ船長の前に、カーン船長が飛び出していた。
「うぐおっ」
 むさくるしい悲鳴を上げてカーン船長はそのまま地面に倒れる。その時には山男は茂みの向こうに消え、また彼らの前に立っていたトロイは、金縛りが解けたかのように駆け出していた。
「船長!」
 駆け寄ってきたバッツォがヴァイオラ船長の背後からボスを覗き込む。既にカーン船長の横に屈み込んでいるヴァイオラ船長は、カーン船長の胸板に、長い針が突き立っているのを見つけた。
「大丈夫か!」
 カーン船長の肩を掴んだヴァイオラ船長は、苦しげに瞳を閉じた男の意識を呼び戻そうと肩を揺さぶった。同時に彼女は部下達に向かって、茂みの奥へ消えた男を追うように命令する。数人の男達が茂みの奥へ飛び込んでいった。
「おお…、ヴァイオラ……」
 うっすらと瞳を開いたカーン船長が、彼を覗き込んでいる黒い瞳を見詰める。その様子を樹上から見下ろしているナシームは、反射的に次の展開を予測した。
「?!!!!?」
 案の定、大量の感嘆符と疑問符が、ヴァイオラ船長の頭上から発された。カーン船長が首を伸ばして彼女に口付けしようとしたことは、彼にとって想像に難くない。次の瞬間には固いものがぶつかる音と共に、ヴァイオラ船長は怒りと驚きで青くなった顔を上げていた。カーン船長が今度こそ地面の上で伸びているところを見ると、彼女は頭突きで敵を沈めたようである。
「な、全く、こいつは何を考えてるんだ」
 帽子のつばの下でそこだけ赤くなっている額を押さえつつ、立ち上がったヴァイオラ船長は新種のナメクジでも見るかのような表情でカーン船長を見下ろした。ああやはり脈なしかと悟ったナシームは、のろのろと木の枝から下りてゆくと、ヴァイオラ船長のもとへ歩み寄っていった。
「…あの、船長、すみません。……なかなかお話しする機会がなかったんですが、貴方にお伝えしたほうがよさそうなことがいくつかありまして…。いや、確実に知らなくてはまずいというわけでもないんですけども」
 煮え切らない態度ですり寄ってきたナシームに気付いたヴァイオラ船長は、怪訝そうに彼と地面の上の男とを見比べた。



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登場人物紹介

ヴァイオラ船長


入り江の街を根城にする、海賊船エンパイア号の女船長。

自由と海を愛し、無暗な略奪や不要な殺生を避ける変わった海賊。

カーン船長をさっさと倒し、入り江からラディーナ号を追い払わなければと考えている。

カーン船長


海賊船クイーンラディーナ号の船長。

侠気がないことはないが乱暴者で、頭の螺子が足りない(とナシームには思われている)。

ヴァイオラ船長に一目惚れし、彼女を手に入れるために決闘を申し込む。

マーシャ


元巨大商社の支社長で、現在はエンパイア号の航海士。

ビジネス上の敵だった公爵を暗殺し損ねて流刑になっていたところを、ヴァイオラ船長に救われた。

いつも悪だくみばかりしている。

ナシーム


ごく平凡な商人。

乗っていた商戦をカーン船長に襲撃されて以来、通訳として強制的に海賊船に乗船させられている。

本編の主人公。

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