第4話:死にたくない奴は誰だ

文字数 2,050文字

 青い海と空の間で、ラディーナ女王号は無事に出港した。
 ナシームはあの夜に船長が呟いていた言葉はただの一時的な世迷い言だったらしいと思い、胸を撫で下ろしていた。事実この船の船長はよく、ああしてその場の雰囲気で世迷い言を口にする。
 カーン船長は潮風に髪を弄らせ、水平線の上に浮かぶ白い太陽を見つめて今日も上機嫌である。甲板の船員達も港町で思い思いの休暇を過ごし、十分にエネルギーを充電してきたものと思われる。その船員達に向かって、船長は大声を張り上げた。
「さて、今日の海も最高だ。そこで俺が探してるものが何か、お前らは知ってるか?」
 男達がおおとむさくるしい喚声を上げる。船長は満足そうに頷いた。
「そうだ、エンパイア号だ!俺達は皇帝の船を沈めて、この海でも最強を名乗ろうじゃないか!」
 さらにむさくるしい喚声が、甲板中から沸きあがった。ナシームはその一角で身を縮こまらせているしかない。やはりそういうことになってしまったか、と彼は恐れたが、地元の海軍と関わり合いになるよりはまだましである。こうなったらこの無茶な男達がこの入り江最強の海賊団と争って、勝利を収めてくれることを祈るしかない。
 しかし船長の言葉は続く。
「俺達は最強だ!俺達こそ海の帝王だ!そしてそれを証明した暁には、俺はここで成し遂げたいことがある」
 そこでわずかに、甲板にいる男達の声のトーンが下がった。最強の海の帝王の称号を手にすること以上に、成し遂げたいこととはなんだろうか。そういう疑問と好奇心を含んだ視線が、船長に集まった。
「俺はこの街で、海の女神に出会った。俺は最強の証を手に入れた後は、女神をこの船へ招きたい!」
 船長が肺いっぱいに吸い込んだ潮風を朗々と吐き出すと、船乗り達は大声で囃し立てた。とにかくノリがいいばかりで大雑把な船員達が船長の隠喩に溢れた言葉の意図を理解した上で同意しているかどうかは、果たして怪しいところである。一方でナシームは、甲板の隅で青褪めていた。――船長はまだ世迷い言を言っている。
 当然通訳の顔色など見てもいない船長は、船員達のコールにガッツポーズで応えると、まあとにかく、と切り出した。
「手始めに連中の船を見つけなきゃならん。誰か連中の居所について聞いてないか」
 一人が声を上げた。
「昨晩の日暮れ前、東の沖で件の海賊船を見たって漁師がいましたよ。今頃はどっか近所をうろついてんじゃないすかね」
 それを聞いて、船長は満足そうに頷いた。
「ほう、それじゃ連中の狩場を荒らしてやるとするか。縄張りを守るために、いずれ連中が現れるはずだ」
 連中の狩場を荒らすとは、要はいつも通りに海賊行為をはたらくということである。
こうして、青い海の入り江には、突如赤い海賊旗を翻した海賊船が現れることとなった。







 入り江でクイーンラディーナ号の第一の生贄になったのは、港へ向かおうとしていた商船だった。
 海賊船に乗り始めて間もない頃は、そういった哀れな被害者が水平線の向こうに現れるたびに自分の身に起きた悲劇と重ね合わせて苦悶していたナシームだったが、最近では彼の中にあったその類の感傷も薄れつつある。慣れとは恐ろしいものだと自覚しつつも、彼は騒ぎが始まりそうになると船倉に隠れる。慣れてきたとはいっても、見ずに済むものは見たくはない。
 やがて喚声と怒号、それに混ざって悲鳴までもが彼の耳に届いた。
「死にたくない奴は誰だ!」という船長の雄叫びもナシームは聞いた。これは彼の決まり文句で、彼の台詞を真に受けてそこに跪く者がいれば、カーン船長はその降伏者から先に切り捨ててゆくのである。ナシームは騒ぎが収まるまでの間、薄暗い船倉で見る必要のない地図を睨んでいた。
 騒ぎが収まると、次は渡り板から突き落とされる無辜の人々の哀願とすすり泣きが聞こえるようになる。そのうちそれも収まると、船倉の扉が開き、甲板でのパーティーを解散した海賊達が各々の持ち場へ戻ってくるのである。ナシームの隣へ、会計係のトロイが帳面を取りにやってきた。
「意外といい仕事でしたよ。荷物に絹が多くて」
 トロイは言う。ナシームは仕事柄彼と行動を共にすることが多いが、彼はどうもこの青年に馴染む事ができない。軽やかな微笑の裏側にあるのは、船長とはまた違った類の病人の顔ではないかとナシームは恐れているからである。
「…生存者は?」
 それでも尋ねたナシームに対して、トロイは筆記具を棚から取り出しつつ答えた。
「一万の召使いが一人に、六千のご婦人が一人…いや五千かな。大砲も積まずにのろのろ進んでる商船だったんで楽勝でしたよ」
 ナシームは黙って頷いた。この辺りはエンパイア号を恐れて他の海賊達が寄り付かなくなっているそうだから、商船にも無用心なものが多いのかもしれない。ラディーナ女王号にとってはいい漁場というわけである。
 さて、生簀を荒らされたエンパイア号は、現れるだろうか。




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登場人物紹介

ヴァイオラ船長


入り江の街を根城にする、海賊船エンパイア号の女船長。

自由と海を愛し、無暗な略奪や不要な殺生を避ける変わった海賊。

カーン船長をさっさと倒し、入り江からラディーナ号を追い払わなければと考えている。

カーン船長


海賊船クイーンラディーナ号の船長。

侠気がないことはないが乱暴者で、頭の螺子が足りない(とナシームには思われている)。

ヴァイオラ船長に一目惚れし、彼女を手に入れるために決闘を申し込む。

マーシャ


元巨大商社の支社長で、現在はエンパイア号の航海士。

ビジネス上の敵だった公爵を暗殺し損ねて流刑になっていたところを、ヴァイオラ船長に救われた。

いつも悪だくみばかりしている。

ナシーム


ごく平凡な商人。

乗っていた商戦をカーン船長に襲撃されて以来、通訳として強制的に海賊船に乗船させられている。

本編の主人公。

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